Agnus Dei4

2

 民家に入ると少しほこりっぽかった。
「掃除はしてもらえると聞いたからそのままだけれど、窓は開けて置いたよ」
 風が埃を吹き上げているようで、隅っこの方に埃の塊が沢山合った。
「あ、僕、掃除してるよ。掃除道具も持ってきたから」
 智は資料を整頓にきたわけではないので、掃除を買って出る。
「頼む。下も荷物降ろしてきたら使うし」
「うん」
 ゼミの五人は資料室を見るために二階の方へと上がっていく。
 それを見送ってから智は持ってきた掃除道具で掃除を始めた。
 上から順に埃を落とし、床を掃く。そしてバケツと雑巾で床をもっと綺麗にする。
 ただ一人で二十畳ほどある空間を掃除するのは大変で、時間は一時間ほどかかってしまった。
 けれど直人を含むゼミの人たちは二階から降りてくる様子はなかったので、智は黙々と掃除をした。
 すると開け放った窓のすぐ近くに、さっき遠目でみた犬がいた。
「……犬だ」
 普通の犬なら柴犬サイズを思い浮かべていたけれど、それはウルフハウンドくらいの大きさで見た目はハスキーよりオオカミに近い姿をしていた。
(凄く大きいけど……綺麗だ)
 犬の大きさに驚きながらも智は見つめたまま動けなくなった。
 その犬はオオカミに似ていて美しかったし、大きいからこその貫禄も凄かった。
 もし野良犬のリーダーだった場合、監視の意味で近づいてきた可能性もあった。
 そして見つめたままでいると、二階から人の声がした。
「それじゃ、後は気をつけてくださいね。僕は宿泊所に顔を出したら帰りますので」
「ありがとうございます」
 その声がして振り返った瞬間、あの犬は消えてしまっていた。
 人の気配には敏いのか、あの犬をはっきりと見てしまったのは智だけであった。
「あ、君、露天風呂の場所教えるから、ちょっと来てくれる?」
 二階から降りてきた高見という人がそう言うので智は掃除を一旦終わらせた。ほぼ拭き掃除も終わっていたし、埃も取れているから大丈夫だろうと高見の後を追って家を出た。
 すると入り口で高見が舌打ちをする。
「また、野良犬どもか。本当に気味が悪い」
 そう言われてしまい、智は言っていた。
「野良犬がいるんですね、随分大きなのがいるようですが、大丈夫ですか?」
 智が聞き返すと高見が驚いた顔をしていた。
「君、まさかボスを見たのか?」
「ボス、ですか? オオカミみたいに大きいのですよね。ウルフハウンドっていう犬くらい大きくて白い……」
 そう智が言うと、高見は周りを見回して声を潜めてから言った。
「君がボスを見ているなら話は早いな。たぶん君はボスに気に入られている。だからここにいる間は何もされないと思うが……」
 高見が言うには、ここの村にはオオカミに似た野良犬の集団がいて、村の中に時々出没するらしい。けれど村を根城にはしておらず、周辺の山が縄張りだという。
 そのボスがいる集団から危険を感じたことはないらしいが、それでも気味が悪いのは仕方ないことだった。
 常に村に出入りする人間を監視しているかのように動き、人間の行動をのぞき見している野犬というのは怖いものだ。
「危害は無いだろうけど、一応気をつけてな」
「はい……」
 野良犬では人間に感染する何かを持ってるかもしれないので容易に関わるべきではないけれど、あのボスは綺麗で野良犬にしては痩せ衰えもしていなかったのが不思議だった。
 露天風呂のある施設は宿泊所から三分ほど歩いた場所にある。
 入り口には脱衣所などが建っていて、そこで衣類を置いたりできる。
 中は綺麗にしてあって元村人がよく来るらしい。
「ここはとてもいい温泉でね、村の人がよく使っていたんだ。今でも街から人が来たりするから、もし君たちがいる間に誰か来ることがあっても邪魔はいけないよ?」
「あ、分かってます。僕等は夕方くらいに使うことにしているのでそれなら被らないと思います」
 最初に日中は他の客が露天風呂を使う可能性があると言われたので、夕方のみに使うことにしようと決めてあったのだ。
「なら大丈夫ですね。内鍵も閉まるようになっているから、使う時は鍵を閉めてね。たまーに泥棒がいるらしくて開けっぱなしにしてると財布とか抜かれてしまうなんてこともあるみたいで」
「そう、なんですね……」
 こんなところまできて泥棒をする人がいるのかと呆然としてしまった。
 廃村などの空き家になっている家から家財を持ち出す泥棒がいると聞く。窓や窓枠などは売れるらしくて根こそぎ持って行くらしい。幸いこの村は人の出入りが以外に多いのかそういう被害には遭ってないようだった。それはまだ救いかもしれない。
「とてもいいところなのに、もったいないですね」
「へえ、お客さんはこういう限界集落にはご理解があるわけで?」
 高見がそう言うので智は自分の祖父母もそうだったと答えた。
「なので夏休みや冬休みはそこで暮らしていたから、楽しかった記憶しか無いんですよ。実際はもっと大変だと思うけれど、ここは道路もちゃんとしているみたいだし、車に乗れればなんとかなりそうだなって。あ、でも宅急便とか郵便の配達は大変そうだな」
 そう智が笑って言うと高見はなるほどと頷いていた。
「今は仕事もリモートワークとかもありますしね、案外新しい人の方が住めるかもしれませんね。郵便物などは下の町の営業所に自分で取りに行く形にすれば、周りにも迷惑は掛からないでしょうしね」
 高見は気分を良くしたのか智に親切に露天風呂の使い方やルールを教えてくれた。
 それらをメモしてしっかりと覚えてから智は宿泊所の民家に戻った。
「それじゃ私はそろそろ街に帰るので、もし何かありましたらここに電話を。電話は宿泊所の玄関にあるやつで。携帯は電波が届いてないので、有線でないとね」
「ありがとうございます、お世話になります」
 結局高見が帰る時には智だけが見送りをする形になってしまったが、高見はそれを気にした様子はなかった。
去って行く高見を見送った後、智は掃除道具を取りに資料の民家に戻ろうとすると、民家で荷物運びを担当していた二人が智の側にやってきた。
「管理人の人帰った?」
「今、帰りましたよ? もしかして用事ですか?」
「え、いや、帰ったかな~って思って聞いただけ」
ヘラヘラと笑っている二人は渡辺と片岡という人だった。
 渡辺はアウトドアが趣味だという人で、ゼミの白井という人の知り合いだ。片岡はサッカーが趣味のアウトドア大好き人間らしい。そして片岡はゼミの山下や福田との知り合いだという。残りの料理をまだ作っているのが袁藤と高梨だった。
 この四人とは智は一切繋がりがないので、そこまで話は弾まない。
「そう、ですか。それじゃ、僕は資料の民家の掃除が途中だったので失礼します」
 智がそう言って民家を出た。
 ひそひそと話す二人の様子に何だか気味が悪いものを感じて智は急いで資料の民家に戻った。
 その途中、やはりあのオオカミの野犬が智の近くに現れてきた。
歩いている方ではなく山の方に続く道に立っていて智をじっと見ているのが分かった。
 智はあのボスはきっと人を観察しているのだと思い、気にしないようにして資料の民家に入った。
 まだ二階では資料を漁っているのか、ガタガタと音がして話し声がよく聞こえた。
 それらを邪魔しないように一階の掃除を終え、ついでに少し汚かったキッチンを綺麗にした。水は井戸水をくみ上げる形らしいが使えたので洗い物はできそうだった。けれどガスはもちろんないので智は掃除道具を持って宿泊民家に戻り、持ち込んだコンロとガスボンベ、キャンプ用のコップやコーヒーセットなどが入った一式を持って資料の民家に戻り、コーヒーを淹れた。
「少し休憩どうですか?」
 とコーヒーを入り口に置いてみると、中から少し埃塗れの五人が出てきた。
「ああ、暖かいコーヒーか、ありがたいな」
 直人が素直にそう言った。
 白井や山下、福田もそれを受け取った。
 金子はコーヒーに砂糖をぶち込んでから甘ったるくなったコーヒーを飲んでホッとしている。
「暖まるわ~」
「ほんと、栗花落くん気が利くなあ。この中にコーヒーを仲間のために淹れるやつなんていないもんな」
 白井がそう言うので全員が頷いた。
「確かに。直人、よく栗花落くんを選んでくれたな」
「何言ってやがる。お前らだって料理や掃除してくれる相手選んだくせに。今夜の食事だってそいつらが作ってくれてるんだろう?」
 直人がそう言うと直人以外がふうっと溜息を吐いた。
「作ってねーよ。出来合の冷凍弁当をレンジで温めるだけなんだよ。それを一週間分持ってきたから大荷物なわけで……他は果物とかだよ」
 そうネタばらしをされて直人が呆れた。
「マジで?」
「マジだよ。あいつらアウトドア得意だって言ってたけど、大人数の料理を作る術を知らないとか言って、冷食持ち込んだわけ。ここ、地下に大きな冷蔵庫があるって聞いているから冷食を持ち込むことにしたらしいよ。それにあんまり火を使ってくれるなって言われてるし」
 どうやら火事を起こされるよりはということで冷凍食品の会社を高見たちに紹介されたらしいのだ。
「へえ、じゃあ本格的に暖かいのって飲み物くらいってことか……まあ贅沢は言えないよな」
「俺等、見事に誰も自分で飯作れないしな。でもアウトドアできるやつが作れないっておかしいよな」
「普通、腕の見せ所だろ?」
 そんなアウトドア大好き人間を連れてきたはずが当てが外れたと思ったのか文句と言われた白井と山下、福田は少し罰が悪そうに言った。
「実はさ、あんま渡辺と親しくないんだよね」
 そう白状する白井に、同じように山下と福田も言った。
「俺も、片岡とかそこまで親しくないというか、夏にバーベキューやった程度。それも知り合いの知り合いみたいな感じでさ。今回飯作れるって言うから選んだんだけどさ」
 どうやらアウトドアが得意で料理任せろと言ってきた知り合いを選んだら、どっちも外れだったわけだ。アウトドアとはいえ、グランピングという、全てが揃っていて宿泊所もあるキャンプもどきをしたことがあるだけだったようだ。
「まさかさ、一週間前にそう言われるとは思わなかったし、食事は弁当冷食一週間分を格安で仕入れてくれたから、まあ、そこはチャラかなと」
「そうそう、代わりに掃除とかはしてくれるみたいだし……まあ今回は仕方ないなって旅行参加費はもう払ってたし、バスもチャーターしてたしな」
 そう言われてしまい、ゼミの人たちは深く溜息を吐いてしまった。
 智は自分で自炊をしているので料理も材料があれば手伝えると思っていたから、まさか全部冷凍食品とは思いもしなかったので呆れたのである。
「だからレンジを二台追加で持ってきたんだ……」
 荷物にレンジが二台載っているのには荷物運びをしている時に気付いた金子がそう言い始めて、やっと納得ができたようだった。
 宿泊民家にもレンジはあるが、一台では全員の食事を温めるのに時間がかかるので二台持ち込んだのである。そこまでして作りたくないとは思わなかったのである。
「今更文句言っても仕方ないよ。なるべく文句を言わないようにしよう。食事があるだけでもマシだろう」
 直人は事情を知ってから全員にそう言った。
「分かってるよ、俺等が悪いから謝っておくな」
 そう白井が言うので山下も福田も一緒に謝ったのである。
 しかしそこまでしてこの旅行に参加したい二人のことが分からなかった。
 ちなみに金子が呼んだ友人、袁藤と高梨はゼミの人たちとも交流がある御祭騒ぎが好きな人間だ。付き合いがないのは智だけで、それぞれ見知っているから気兼ねない旅になるとよく一緒に来てくれて、荷物持ちなどしてくれるらしい。
今回も掃除を買って出てくれたらしく、民宿の掃除と露天風呂の掃除は任せている。
 そういうわけで役目の分からない二人、渡辺と片岡のことは問題としながらもそれでもこれ以上文句を言っても始まらないのでこの話はここでやめることにした。
 これから一週間、ここで作業をして暮らすのだからあまり心配事は増やしたくない。
 そこでの作業は夕方の暗くなる前に終わらせ、持てる資料は先に民宿に運んだ。
 その間に夕飯は案の定冷凍食品のおかずセットが並び、ご飯だけは辛うじて炊いたようだった。
 味噌汁なども即席のものだから実質暖めてお湯入れ、ご飯を炊いただけだった。
 これなら智にも出来る内容だっただけに直人まで含めてゼミの人たちは顔をひっそりと見合わせたほどだ。
おかわりもできないのかと残念がっているところに、野菜が余っていると聞いた智は野菜炒めを多めに作って出した。
 それで少しは腹の足しになったようで、ゼミの人たちだけで食べ終わった。
 電子レンジの稼働の時間のせいでご飯を作っている人たちが後で食べると言ったため、時間をズラして食べたのだが、その時に智の手伝いをしてくれると言った渡辺と片岡が何だかヒソヒソとしているのに智は気付いた。
 じっと眺められて言われているのが分り、居心地が悪い気分になり、直人の隣にすぐに戻った。
 その後、部屋割りを決める時には渡辺と片岡のことは白井と山下、福田が責任を取ると言ってくれて同室になった。
 智は直人と一緒で、ゼミの金子と金子の知り合いである袁藤、高梨が同室になった。
「白井、そっちの部屋から風呂に入ってくれ、戻ってきたら俺たちがいくから」
 資料を置きっぱなしで無人の民宿を作るわけにはいかないと直人が言ってグループを分けた。それに従って全員が動いている。
 智は、それでも何だか不安だったのでなるべく直人と一緒にいることを選んだ。
 その不安は的中することになった。

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