Agnus Dei3

9

 匡季が葉山と会った次の日から、匡季のスマホには何度も無言電話がかかってくるようになった。
でないでいると十回で切れる電話だった。
 けれど日に日に掛かってくる回数は増え、とうとう三十分に一回二十回は鳴らすほどに掛かってくるようになった。
 電話が五月蠅いので完全にサイレントにしてバイブで分かる様にしておいたが、あまりになるのでスマホを持たないようになるほどだった。
「様子を見てこよう」
 その日陽大が言った。
「見てくるって、住所でも分かったの?」
「大体のところだ。葉山に協力させて探ってる。さすがに仕事にいけないのは困っているだろう?」
 陽大としては些細な問題だったけれど、匡季にとっては元カレのストーカーな行動には辟易という感じである。
「いいけど……僕は家にいるね」
「ああ、下手に動き回るよりはそれでいい」
そう言うと陽大は出かけていった。
 あっさりと出かける様子に匡季は呆れたけれど、それから一時間もしないうちに匡季が家にいる時に部屋のチャイムが鳴った。
「……誰だろ?」
 玄関のチャイムがなったのでインターホンに出てみると、そこには一人の男が立っているのが見えた。
 坊主頭で目つきの悪い、青い顔をした男だった。
「秋澄……?」
 匡季はインターホンに応えず、映っている秋澄らしい男をジッと見た。
 一年前に見た秋澄は子供っぽさが抜けない青年で、まだ少年に近い無邪気な表情があった。我が儘で一人っ子らしい傲慢さが顔に出ているところがあった。
 それが今カメラに映っている秋澄はすっかり頬も痩け、目も鋭くなり、睨み付けるようにカメラを見ていた。
 表情は薄笑いを浮かべていてまるで別人だった。
 うっかりしていたらそのまま返答しそうなくらいに別人に見えたけれど、それでも怪しい人からの電話に警戒していたので応対にでないで正解だった。
 インターホンに映っている秋澄は何も言わずにカメラの前に立っているだけだ。
 何か言うわけでもなく、怒鳴りもせず、ドアを叩いたりと暴れたりもしない。
 ただじっとカメラを睨んでいる。
 それはこちらに匡季がいることを確信した上でのことなのだろう。
 見張っていたなら陽大が出かけたことは見ただろうから、いないことを確信した上での行動だ。
 根負けした方が危ない。
 そう思っていると、秋澄はすっと動き出して壁に何かを貼り付けているのが分かった。
「え、なに?」
 カメラの向こう側で動いている様子を見ていると、壁一面に貼っているらしいのが分かった。
 気味の悪い行動を取り始めた秋澄に驚いていたが、もっと驚くことが起こった。
「ほう、ここに我々を閉じ込める作戦らしい」
 急に匡季の耳元で陽大の声がして匡季が悲鳴を上げそうになった声を一生懸命飲み込んだ。
「……っ な、んで……いる?」
 振り返るとそこには陽大が普通に出て行った時のスーツにコートを着た姿で立っている。
「いくらここが四十階だとはいえ、バルコニーの鍵を閉め忘れは不用心だぞ?」
 どうやら飛んでここに戻ってきたようで、靴は履いたままであるのに気付いた。
「なんで?」
「俺の結界に触れたやつがいる。それが分かったから帰ってきた」
「結界?」
「この家には結界を張っている。お前を一人で無防備に置いていくと思っているのか?」
 陽大にそう言われてしまい、だからあっさりと出かけたのかと妙に納得できた。
「だからか……心配してないのかと思っていた……」
 そう匡季が言うけれど、陽大はフッと笑う。
「我の妻を心配しないわけがない。これでもお前を愛しているんだぞ?」
 陽大は甘い言葉を口にして、匡季の額にキスをしてきた。
 この世界の愛の印を勉強した陽大は、本当にその全ての愛情表現を使って匡季を堕としに掛かっていた。
 体が結ばれたけれど人間には心というものがあり、その心と体が同一ではないことがあるというのを真に受けたらしいのだ。
 確かに匡季としては体の相性は圧倒的に陽大と合うけれど、それがイコール愛しているかと問われたら違うと言ってしまう。そうした心がないことがどういうわけか陽大には問題が大きいらしく、体を重ねること以外でも甘く匡季にしてくるようになった。
 あの夏から一年以上が過ぎ、冬になっている。
 その一年半をただ愛を囁かれ続け大事にされ続ければ、愛情だって生まれる。
「うん、分かってるよ。僕だって、愛してるよ陽大」
 匡季がそう答えると陽大はそれに微笑んだ。
「さて、あの結界に触れる御札だが、結構効果があってだな」
 なんでもないことのように重大なことを口走る陽大である。
「は? うそ……効果あるの!?」
「ある。さすがにあの宗教施設を運営していただけのことはある。俺に効くものは分かっているようだ」
「え、それじゃ、結界解いて入ってくるってこと?」
 秋澄が玄関先のインターホンの前に佇んでいたのは、結界のせいで中に入れないことを悟ったから、御札で効果をなくそうとしているのだと気付いた。
「結界を何重にも張り巡らせたから、あの札が一万枚あったとしても入ることはできないだろうな。だがそれでも俺の結界に触れることが出来るものがあることは不快だ」
 この世界に来てから何でも受け入れてきた陽大が初めて不快という言葉を使った。
 何があっても人はそういうものだとか、世の中はそういう風に動いているのだと納得できなくてもそういうものだと受け入れてきたのに、さすがに秋澄たちの攻撃手段はお気に召さないようだった。
「どう、するの?」
 消耗戦なら今日のところは勝ちであろうが、この先も秋澄によって巣を攻撃され続けるのが分かっていて結界だけ張っているという悠長なことをしている場合でもない。
 恐らく引っ越しても付いてくるだろうし、探偵を使われてしまったら匡季を見つけることは可能だろう。そしたら同じことの繰り返しになる。
「来い、あいつらの巣にある俺に関する情報を全部消しに行く」
 陽大はそう言うと、匡季を抱き上げて片腕に腰を乗せ持ち上げると部屋のバルコニーから飛び出て結界を出た。
「いやあああああああああああ!!」
 さすがに空を飛んだことはないので匡季が悲鳴を上げるけれど、陽大は気にした様子も無く空に浮かんでいる。
 まだ秋澄は入り口の効力に時間が掛かっているようなので、気付いていないだろう。
 陽大が空を飛び部屋を抜け出した後、一瞬で目の前の景色が変わる。
 都会のビル街から森一色の山の中へと移動をした。
「え……瞬間移動?」
 目を閉じて開いて景色が違っていたらそれしかない。
 あまりに非現実的なことが目の前で連続して起こってしまい、匡季はもう考えることをやめた。
 陽大は何でもできる神であり、匡季の理解の範疇を超えることも出来る。
 けれどその力を極力使わないように最初に匡季が言ったので、どうしても必要な時以外は使わないできたのだ。
 この一年間はその妖術に頼ったことはなかったし、匡季も見た覚えも無かった。
 けれど陽大はやはり神と呼ばれる存在であり、匡季とは違う生き物であるのはこういう時にはっきりと分かる。
「ここに俺の気配が残っている。どうやら村の連中は、あの物の怪を地下に閉じ込めることに成功しているようだ」
「え、身代わりに置いてきたっていうやつ?」
 前にそういう話をしていたことを思い出した。
 物の怪の一種で、陽大の一部でもあるけれど融合していたのを解放しておいたと言っていた。
 山に降りるとあのハイキングコースの外れにある洞窟に辿り着く。しかしそこは完全に封鎖されていて、コンクリートで固められていた。
 そのコンクリートの塊に陽大が手を当てるとそこにはコンクリートが存在しないように壁をすり抜けて洞窟に入ることができた。
「え……え?」
「この地域では俺の力も強くなる。どんな障害も俺には無効になるということだ」
 陽大はそう言い、先を歩いて行く。
 遅れないように手を繋がれていたので匡季はそのあとを歩いた。
 真っ暗なはずの洞窟内は、元々あったランタンが勝手に火が入って光り、明るい中を歩くことができた。
 歩いて五分ほどで異様な匂いが漂ってきたけれど、それを感じた陽大が匂いがしないように結界を張ってくれた。
「どうやら祭りは大失敗したようだ」
 そう言われて洞窟の空洞に入ったとたん、そこは地獄絵図だった。
 飛び散った人間の血飛沫が壁などに張り付いて真っ黒な塊になっている。けれどその元の体はどこにも見当たらない。服や靴は沢山転がっているのに人の形をしたものは何も残っていなかった。
「どういう、こと?」
「喰ったんだよ、人を。贄を喰って人の味を覚えたということだな」
 まるで人を襲ったクマのような言い草であるが、人の肉を知らない物の怪が興奮して人を食ったらもっと喰いたくなって暴走することはあるらしい。
 匡季の足が震えてしまったが、それを陽大が支えるようにして抱えてくれた。
 そのまま社に入るとその物の怪はすでに地下の更に深いところに戻っているようだった。明らかにおかしい気配のする井戸のような空間に陽大は手を当てて何かを唱えた。
 とたんに地下から悲鳴のような声が聞こえてきて耳を劈くように響いてきたが、それも十秒ほどで途絶えた。
「なるほど。やはり贄を喰って暴走し、ここに残った人間をさらに喰っていたようだ。しかしこの空間に閉じ込められて出るに出られる力も無く……ということのようだ」
「……どうしたのその物の怪は……」
 そう匡季が陽大に聞くと陽大は言った。
「俺の一部だったんだから、また吸収して元に戻した。かなり弱っていたから従順に戻っていたので融合も前より簡単だった」
大したことではないように陽大は言い、匡季はここでも陽大が人ではないのだと実感する。
 神として下々の者を束ねる者として、君臨する不可思議様。
 これまで匡季に見せてきた部分とは違う、明らかな異質に匡季は少し怖いと感じたけれど、それでもこれまでに陽大が見せてきた部分は決して嘘ではないと分かっているから匡季はしっかりと陽大に抱きついた。
「早く、ここから帰ろうよ……」
 ここにいる限り、何かに引き摺られるように陽大は神として戻っている気がした。
 この場所はきっとそういう場所なのだ。
 そんな気がして匡季が言うと、陽大はフッと笑い匡季に頬を手で撫でてきた。
「一瞬で済む」
 そう言うと陽大が何か呪文を唱えた。
 言葉はこちらの世界の言葉ではないような不思議な響きの言葉で、匡季にはなんと発音しているのかどんな意味があるのかは分からなかった。
 その言葉が途切れたとたん、ゴオンッと大きな音がして何かが崩れている音がした。
「さあ、いくぞ」
 陽大がそう言うと洞窟の天井から日の光が差し込んできた。
 どうやら上が崩れ、空が覗いている。
 降り注ぐはずの土砂は振ってこなかったけれど、その理由はすぐに分かった。
 そのまま陽大が空に浮かび、開いたところから抜けたところ、その空洞の社の上には宗教施設が建っていたようでそれが丸々地下へと崩れ落ちていた。
 匡季と陽大が抜けるだけの隙間には土砂が振らずに外へと抜け出せただけだった。
 そして崩れ落ちた施設は燃えている。
 山の中腹にあるハイキングコースまで戻って地面に降りると、陽大は抱えていた匡季を地面に降ろした。
「……は……人は?」
 あの施設の中に人がいたのではないかと心配をしたのだが、陽大は言った。
「誰もいなかったぞ。無人だ。さすがにあの物の怪のいる地下の真上に居座る村人はいなかったようだ。村の方には被害も出していないから、村外は施設のみだ」
「なんで、施設?」
「俺の記録が残っているものは全部燃やしただけだ。幾つか施設から持ち出されたものがあったようだが、それも処分はできている」
 村の二軒ほど家が燃えているのが見えた。
 けれど陽大が言うように被害は家だけで人は死んでいないのだろう。
「さあ、ここの用事は済んだ、家に戻ろう」
 そう陽大が匡季を抱き寄せた瞬間、景色が代わり瞬きの間に匡季は自分たちのマンションまで戻っていることに気付いた。
「は……も、なんかついていけない……」
 頭が混乱する。さっきのは夢だったのではないかと思っていたが、付きっぱなしのインターホンの前で札を貼っていた秋澄が慌てた様子で去って行くのが見えた。
 たぶん、村で起こった崩落事故のことを知らされたのだろう。
「ああ、そうだ。不快なものを処分だ」
 陽大がそう言うと、玄関先が青く光り、遠くから男の叫び声が聞こえた。
「陽大?」
 怖くなり陽大に抱きついた匡季であるが、陽大は言った。
「札を燃やしただけだ。その炎に驚いて叫んでいる。あれには手を出してないよ」
 秋澄に何かをしたわけではなく、結界を壊す札だけを燃やしたのだと陽大は言う。
 匡季が気になって玄関を見に行ったけれど、そこには倒れている秋澄などいなくて、人の気配すらしなかった。
 玄関にはチリ一つもなく、傷ついた様子もなかった。
「もったいないが、ここも引っ越そう。匡季、持てる荷物をスーツケースに詰めろ」
 陽大がそう言うので匡季は頷いた。
 ここは秋澄が知っているから何か報復される前に姿をくらますのだろう。
持てる荷物を持ってそのままマンションを出て、タクシーを拾ってすぐに東京を出た。
 引越し先は大阪のタワーマンションで、四時間後には新居に辿り着いていた。
「暫くはここにいよう。あのマンションも残しておくから荷物は瞬間移動で取りに戻れるようにしておく」
 簡単に陽大が言った。
 どうやらマンションを出て移動をしたという人の目に怪しまれない行動をしただけで、移動自体は瞬間移動でも問題はないようだった。しかも前の部屋と空間が繋がっているから必要な荷物を取りに戻るという面倒なことはない。
「色々頭がパンクしそう……神様って何でも出来るんだね」
 そう匡季が言うけれど、少しだけそれは違うと陽大は言った。
「いや、死んだ命までは自由にはならないさ。こればかりはな」
 陽大は手を開いて自由にならないものもあると言うので、匡季はそれで気付いた。
「だから僕の体を作り替えた?」
 どうして同じ者になれと何度も言い、抱いてきたのか理由がまさかそれではないだろうかとやっと行き着いたのだ。
「そうだ。俺と同じ者なら、俺の理屈が通用する。俺は何をされても死なない。だからお前も死なないように作り替えた。だが、俺の力が足りないから何度もお前の体は俺に近づけるように毎回作り替えている。俺の番はずっと俺といるのだから俺と同じでなければ、お前が先に朽ちるなどあってはならないのだ」
 陽大はそう言って匡季を抱きしめる。
 それは本当にそう願っているようで、本当に匡季を失いたくないという陽大の心がはっきりと見えるものだった。
ずっと匡季だけを求めてくれ、決して匡季を裏切らないでいてくれた。
 だから匡季は恐ろしい神だと分かっていても、その手を拒むことはない。
「僕も……ずっと一緒にいたいよ」
 陽大の体を抱きしめて匡季は同じように思っているのだと返した。
 そんな匡季を陽大は抱きしめ返してくれた。

感想



選択式


メッセージは文字まで、同一IPアドレスからの送信は一日回まで