Agnus Dei3

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 匡季が止まるキャンプロッジは、村の入り口になる山頂付近から村に降りてくる道沿いにある。
 山の中腹なので深い山が見渡せるとても景色のいいところだった。
 村からは二十分ほど歩いた距離にある。車でも五分ほどで村に着くけれど、その村への滞在はできない。
 というのは、村にはある有名な植物を育てていて、その植物は他の土地から持ち込まれた種子などでやられてしまうことがあるらしい。
 雑菌や新種の何か、それを靴などに付けて持ち込まれれば瞬く間に村の財源が死ぬわけだ。なので村人でも外へ出てしまったらロッジで一週間、村の空気に馴染んで貰うのが習わしだった。
 匡季が泊まるロッジは一般客が使うキャンプ地とは少し離れたところにある。
 なのでキャンプの管理人が用意した部屋で消毒を沢山受けた後、そこで一週間泊まった後に泊めて貰えるロッジに案内されるほどである。
 秋澄も同じ扱いを受けてから、村に戻ることになった。
「こっちのロッジは村に入っても消毒とか要らないから、怒られはしないけど、祭りの時は少し敏感になってるだろうから、匡季はこのロッジから村には来ない方がいいかもしれない……」
 キャンプロッジでの村人の厳重な態度を見ていたらとてもじゃないが、気軽に村に来てとは言えない感じだったのだ。
 秋澄もそれをひしひしと感じて、まずは実家に帰って判断を仰ぎたいと思ったのだろう。
「うん、大丈夫だよ。キャンプロッジの人に通っていい散歩道の案内も貰えたし、それに論文仕上げたいから、村に寄って云々は今回は勘弁してほしい。じゃあ、また何かあれば」
 匡季はそう告げて、早速荷物から論文の資料を取り出した。
 早々にリビングの隣にある部屋にそれらを並べ、調べやすいように広げてしまうと秋澄も本気で匡季が論文を仕上げるつもりなのだと思ったのか、諦めたようにロッジから出て行った。
「何を言っても無駄だって悟ってくれればいいのに……」
 匡季はそう思わず呟いた。
 今回も村には別に来なくてもよかったけれど、村長から直々に誘われたから断れなかっただけだ。もし秋澄が誘ってきたなら絶対断っていた。
 それくらいにこの村に来ることは匡季にとってメリットはほぼない。
 それでも最後に秋澄の気の済むようにさせてやるのも罪悪感が少しは埋まるかと思ったのもある。
 村から帰ったら別れる。
 それだけははっきりと決めていたことだからだ。
 それから結局秋澄は一週間が過ぎても匡季のところに戻ってくることはなかった。
恐らく村で親に止められているのだろうと匡季には予想ができた。祭り時である、やることが沢山あることくらいは予想できたことだ。
 それをいいことに匡季は一気に論文を仕上げた。
 誰にも邪魔されない空間というのは、匡季にとってちょうどよく初めてここに来てテレビもラジオも付けない、車や人の物音さえしない、自分だけの空間でいられたメリットを感じたほどだ。
 論文を仕上げた後は、運動不足になるのを恐れて散歩に出た。
 幸いその散歩道でも誰にも会わず、舗装された道をただ歩いた。山の少し上の方まで上がり、そこから村が一望できる場所に出た。
 前にロッジに来たときは療養だったのでここまで散歩には来なかったから知らなかったが、村はかなり大きい方だった。
 立派な家が結構並び、古い家がほぼないのだ。
 最近立て直したばかりのような家が並び、そしてこの山の麓らしいところには大きな建物がある。それは寺や神社のような佇まいで、恐らくそこがこの村の唯一の宗教である不可思議様のいるところなのだろうと匡季は思った。
「不可思議様か。なんだかよく分からないけど、八百年以上前から祭ってある神様か。けど何の神様なのか秋澄も知らないんだよな……」
 秋澄はこの村出身ではあるが宗教関係とは繋がりないらしく、村の子供もその宗教関係に住んでいる子供が二人くらいしかいないと秋澄は言っていた。
 秋澄は。
「何だか分からないんだよね、あの宗教も不可思議様も。姿を偶像化することは禁止されているから銅像や絵画みたいなものは一切なくて、ただシンボルマークが円の中に楕円の模様がある、猫の目みたいな感じのマークがあるだけなんだ。それに向かって皆が不可思議様~って祈ってる感じ」
 秋澄が見たことあるのはそれだけで、彼らが何に祈っているのかは正直分かっていない。
「その不可思議様って何?」
 純粋にその名前が気になって聞くと、秋澄は言った。
「名前を神から聞き出せなかったから、何の神様なのか分からないけれど、こんな山奥にある村が現在までしっかりと皆が幸福に暮らせているのは不可思議だねというところから、その神様を不可思議様と呼んで村で祭ってるわけ。で、宗教として認知した方が税金問題も解決するからって宗教法人化してるわけ。結構俗物よ。でも教祖一族は村のために古くなった公共事業に関わるものはお金を出したし、村人の家が古くなったら立て替えている。毎年何処かの家が建っているから、村の中で築三十年以上のものは不可思議様の施設だけって感じになってる」
 秋澄がそう説明するので匡季は、その宗教と村はお互いの存在をこういう形で繋げて、村の存続に関わってきたのだろうと思えた。
 いわゆる共存関係だ。
 そうすることで村は豊かになり、それは宗教法人の奉仕のお陰であるという部分もあるわけだ。
 もちろん村長と教祖一族が結託することでできることだ。
 なのでそれが分かった時、秋澄は一人っ子で村長の息子だったなら秋澄が村を出て行くことはきっとできないのだろうと分かった。
 一年前にそれが分かった後、匡季は秋澄と離れる決意をした。
 そしてそこから秋澄が別れを察したのか、酷く匡季に執着を見せるようになったのだ。関係はもちろん悪化の一途をたどっている。
 こんなことを思い出してから、匡季は日が暮れ始めているのに気付いて慌てて来た道を戻り始めた。 
 整備された道を下っていたはずなのに、どうやらハイキングコースに入り込んでしまったようだった。
「しまった、近道だと思ったけど、想像以上に遠いかも……来た道戻った方が近かった……」
 どうやらハイキングコースの地図表記が近くに見えたが、坂道が結構キツくて辛い道のりだった。
 しくじったと気付いた時にはすでに日は完全に暮れてしまっていた。
 道のりに歩くしか無いと思い、歩いていると見えなくなった道が崩れているところに出くわし、匡季はそれが目に見えなかったために足を取られて崖下に滑り落ちてしまった。
「……っ!」
 悲鳴を上げる暇もなく、そのまま崖下の草むらを滑り落ち、匡季は体が宙に浮いたと思ったら地面に叩き付けられた。
「……っ!」
 あまりの衝撃に息が詰まるのと足に激痛が走る。
 絶対に足が折れたと思ったほどに痛みが脳天まで突き抜けて、匡季は声にならない悲鳴を上げていた。
「――――――!!」
 ああ、痛い。
 なんでどうしてこんなことに。
 誰か誰か、助けて。
 痛いよ……痛いよ。
 声にならない声が頭の中に溢れるけれど、口からはその言葉は漏れなかった。
 ゼエゼエっと激しい息遣いだけがして、それが耳まで届いて響いている。
 口は閉ざせず、涙も涎も流してただただ無残な自分の姿さえ、その目に映ることはなかった。
 暗かったのだ。灯りも見えない新月の夜だった。
 悲鳴に似た絶望が闇夜に響いた時、匡季の意識が途絶えそうな瞬間、そんな匡季を宥めるように撫でる何かがいた。
 とても大きな手が体中を触り、匡季を慰め、そして全身に走る痛みを癒やしてくれる。
 さっきまで死ぬほど痛かったはずの足や体の痛みが消えて、息の上がっていた体が楽になっている。
「……ああ、ありがとう……」
 意識がなくなる瞬間に匡季はそうその手の主に言っていた。
 誰か分からないけれど、誰でもいい。助けてくれたお礼を言わなければと口に出た言葉だった。
 そしてそこで匡季の意識は途絶えた。


 それから匡季が目を覚ましたのは、ヒンヤリとした空気に触れた瞬間だった。
「……あ、れ?」
 目を覚ましたら森の中に寝転がっている自分に気付いたのだ。
 ゆっくりと体を起こしてみると、服があちこち破れ、そして足には血が付いていた。
 服も血まみれと言ってよいほどだったし、泥や草の汁まで付いている。
 けれどこれだけの損傷なのに匡季の体は何処も怪我をしていなかったのである。
「いや、待って、確か、僕は……」
 ゾッとする感覚が蘇った。
 痛みと暗い闇と息苦しさで死の恐怖を味わったたった数時間前の記憶を思い出して、匡季はその場で吐いた。
 そしてゆっくりと立ち上がってみると、足は折れてはおらず、崖を登っていくと舗装されたハイキングコースに出た。
 ちょうど反対側のコースが半分以上崩れていて、そこを誰かが滑り落ちたような跡があった。
「ああ、ここから落ちたんだ……僕が……」
 暗闇で足下が見えなかったので端にある欄干代わりの木の柵を手で触りながら歩いていたから、その先が崩れていたことに気づけなかったのだ。
 そして落ちて怪我をして死ぬところだった。
 それを思い出してゾッとして、足早に崩れていない右側を慎重に通り、ロッジまで三十分かけて戻った。
 誰もいないロッジなのですぐに服を脱いで風呂に入った。
 風呂でシャワーを浴びて体中を調べたけれど、泥や血が流れた体は何処にも傷は付いていなかった。
 足にも張り付くように血が付いていたのに、そこには傷跡一つない綺麗なままの肌をしていた。
「どういう、こと」
 理解が追いつかない。
 匡季は必死に考えようとしてみたが、分からないままだった。
 とにかく疲れていたのでベッドに潜り込み眠った。
 夢は見ずに眠りこけ、そして秋澄に起こされるまで匡季は眠り続けた。


「匡季、起きて。珍しいなこんな時間まで眠りこけているの」
 急に聞こえてきた声で匡季は眠りから意識が浮上した。
 目を開くと目の前にいるのは秋澄だった。
「あ……秋澄か……玄関の鍵」
「開いていたよ。幾ら人がいないからって不用心だよ」
 秋澄にそう言われて、匡季はふと朝のことを思い出す。
 今はすでに夜の六時を回っていたが、朝に帰ってきた時間は六時くらいだった。それから風呂に入ったので七時くらいには寝ていたはずだ。たっぷりと十一時間寝ていたのに気付いて匡季はふっと溜め息を漏らした。
「そうか。これからは気をつける」
「そうして。悪いんだけど、祭りが終わるまで俺もここに来られないんだ」
 秋澄はそう言い、はあっと溜め息を漏らしてそう言った。
「手伝いがあるのか」
 匡季は察してそう言った。
「そう、あれこれやれって全然暇が無い。村中を走り回って櫓作ったりとかしてる。だから祭りが終わって片付けも終わらないと俺には夏休みらしいものはないって言われてさ。それじゃ匡季にその話だけはしてくるって言ってやっと抜け出せたんだ」
「そうだったのか。まあ、祭りも一週間後だろ? それくらい一人でいても別に構わないよ。食料は届けて貰えているし、テレビも見ないしラジオも聴かないけど、そのお陰で論文も終わったから暫くのんびりしたいし」
 秋澄がいなくても大丈夫だと匡季が言うと秋澄が拗ねたような顔をしてベッドに座っている匡季を押し倒してきた。
「……秋澄?」
「俺がいなくても寂しくないとか酷い」
 そう言いながら秋澄は匡季の服を脱がしていく。
 匡季はああなるほどと秋澄の機嫌がどういうことなのか察した。
今はまだ恋人同士であるから応じないのはないのだろうが、匡季はもう秋澄とそういうことをしても熱くなれない気分だった。
(やだな……触られるのも、あんまりな気分)
 昨日まで別にそこまで秋澄を拒否する気はなかったはずだ。なのに今は秋澄に触れられることすら不快だと思うくらいになっている。
 どうしてそんなことを思うのか分からないままであったが、少しだけ匡季は抵抗をした。
「ちょっと待て、今は体調がよくない……だから」
 勘弁してくれと腕で押し返したとたん、秋澄に腕を取られてベッドに押しつけられた。
「俺だってお預け三週間も食らっているんだ、やらせろよ!」
 秋澄がそう叫んで無理矢理匡季の体を開こうとした瞬間だった。
 ドン!と大きな音と共に地面が揺れた。
「わあ……地震!」
 ガタガタと大きな揺れが襲い、ロッジもかなり揺れたがすぐに治まった。
 慌てた秋澄が匡季を押さえるのをやめたので、匡季はベッドから起き出した。
 すでに揺れは治まっていたので、リビングに入りテレビを付けた。
 地震速報が放送で流れ、震度五の地震がこの付近で起きたことが放送されている。被害状況は分からないけれど、震源はほぼこの村の近くだったと言っている。
「秋澄、震源はこの村だ! 村中のことは分からないけど、被害が出ているかもしれない!」
 匡季はそう叫んでベッドルームに戻ると秋澄も匡季の言葉に反応をした。
 秋澄は慌ててロッジの中を確認して大した被害がないのを見てから村に戻ることになった。
「匡季、何かあればスマホで知らせて。村で配られているスマホだけど、俺二台持っているから」
「うん、分かったから、早く」
「ああ、また後で」
 秋澄はそう言って匡季にスマホを渡した後、車で村に戻っていった。
 村への道がちゃんと繋がっているといいのだがと思いながら、匡季はリビングのソファに座った。
 村の放送では余震にも気をつけるようにと言われていたので、匡季は風呂に水を溜め、食料品も持ち出せるものは纏めた。
 ちょうどお腹が空いていたがガスなどが大丈夫なのか分からないので使わないでおいた。幸い電気は付いたままだったので電線が切れたりもしていないようだ。
 スマホが使えるようだったので登録されていたキャンプロッジに連絡を入れて、ガスの話をすると明日ガス屋を呼ぶと言ってくれてガスは使わないようにと言われた。
 やることをやってしまうとお腹が鳴ったので、電気ポットでお湯を沸かして、カップラーメンを用意して食べた。
 その日は結局深夜まで起きていたが、何も起こりそうもないので匡季はそのまま眠ることにした。

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