Agnus Dei3

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「おーい、那由他(なゆた)」
 大学の門を出ようとした時に友人の葉山に呼ばれて那由他匡季(なゆた こうき)は声のした方を振り返った。
「なに、葉山。お前、飲み会に行ったんじゃなかったのか?」
 匡季がそう言って立ち止まるとそこに葉山が走ってくる。
「それは夜の話、まだ飲み会まで三時間あるよ。ちょっとその辺で時間潰し付き合って」
 葉山がそう言うので、匡季は渋々というように頷いた。
「仕方ないな。まあ明日から夏休みだし、葉山と会うのも二ヶ月後だしな」
 そう匡季が言うと葉山はキョトンとした。
「その話もしよう。そこ、飯が美味いところ。昼は学生でごった返してるからな」
 葉山が誘ってきたのは昼食時には満席が二時間も続く有名喫茶店。三時には一旦閉店して、そこから夕方五時に再開する。仕込みと職員の休み時間を取っているらしい。
 ちょうど五時になっていたので店に行くと、昼間の喧噪とは別に凄く静かな時間になっていた。
「この時間に来るのが正解なんだよな」
 葉山はそう言い、昼間に食べられなかったステーキセットを頼んでいる。
 匡季はオムライスセットにして、ハンバーグも付けた。
「飲み会なのにそんなに食べていいのか?」
「いいの、今日は春山なんだよ。あそこ飯は美味くないからな」
 そう言われて匡季はその店を思い出す。
「ああ、酒しか安くない店か。そりゃ食事していかないと地獄を見る」
 一度は誰でも経験する、居酒屋の春山は飯がとにかく不味かった。なので飲み放題を頼んだ時に付いてくる食事以外、誰も注文をしないのが正解と言われている学生街の安い居酒屋の代表だった。
「それでなんか話あったんだっけ?」
 食事を注文してから匡季が尋ねると、葉山は言った。
「夏休みどっか行くのか?」
「うん、秋澄の実家のある村。近くにロッジとかできて避暑に便利になってるんだ。去年に熱中症で倒れてから療養に秋澄が薦めてくれてね。それで今年も暑いだろうからおいでって誘われてて、しつこく来いって言うから行くことにしたんだ」
 匡季がそう説明すると、葉山はその話は聞いたことなかったので驚いている。
「え、マジで去年やばかったんだ?」
「そう。葉山は去年は留学していて夏休みはいなかったからね」
「ああ、そっか。そうだった」
 そう話しているうちに食事がきて、二人が食べ始めるとそこに話に出た阿僧祇秋澄(あそうぎ あきすみ)が店に入ってきた。
「やっぱり、匡季だった。葉山も久しぶりじゃん」
 ニコリと笑って秋澄が席までやってきた。
「秋澄、まだ大学にいたんだ?」
「教授に呼ばれて手伝いをしていた。匡季はもう帰ったと思ってたのに、飯食ってるのが見えたからさ」
「そうなんだ。なんなら秋澄も食べていく? 今日は僕が奢るよ?」
 匡季がそう言うと秋澄はさらに微笑んで匡季の隣に座った。
「ラッキー、今月医学書買ったから金欠だったんだよね~」
 秋澄は素直に喜んで、葉山と同じステーキセットを頼んでいる。
 葉山は少しだけ秋澄がきた事に驚いて何も言わなくなってしまったが、三人はそのまま教授の話になって普通に会話をした。
「そういや、明日から阿僧祇の村に那由他が行くんだって?」
 そう葉山が食事終わりに秋澄に聞くと、秋澄は頷いた。
「うちの両親が、匡季のこと気に入っててね。熱中症で倒れたって聞いてからずっと可哀想だって言って色々構ってたもんだから、今年もまた匡季が倒れるんじゃないかって心配してるんだよね。なんなら二ヶ月、ロッジに滞在して避暑したらって言うんだ」
「ていっても毎年そうするわけにはいかなくなるのにね」
 匡季は村の人に気に入って貰えたのか、悪くはない気分だったが、葉山は少し心配をしているようだった。
「それって、お前らが親友同士だから友好なだけで、本当は恋人同士だって聞いたら危ないんじゃないか?」
 葉山は根本的なことを二人に告げた。
 するとそれに秋澄が葉山を睨み言った。
「それは今する話じゃないよね。トイレ行ってくる」
 秋澄は都合が悪くなると怒る癖があり、今葉山に図星を付かれて逃げたのだ。
 それが分かって匡季は少し溜息を吐いた。
「そうなんだよね。それは分かってるんだ。だから大学を卒業したら別れようと思ってる。これは秋澄に秘密な」
 匡季がそう言い、葉山は驚く。
「なんでだ?」
「だって村のお父さんやお母さんたちを見ていたらな。それに秋澄って一人っ子なんだよね。だからその両親に孫は見せてあげたいじゃん。とても良い人だったからね」
 匡季がもうそういう決心をしていると葉山に告げると葉山は少し意外そうに呟いた。
「でもこういうのって、秋澄の方が隠したがっていると思っていたけど……」
「秋澄は自分がゲイだって認めて周りの見方が変わるのが怖いから、絶対に誰にも言わないんだよ。だから葉山にだってバレてないはずだったのにって思ってるから、逃げちゃったんだよね」
 秋澄の悪いところが出てしまっている今であるが、匡季はそれすらももう諦めているようだった。
「最後の夏にしようと思っててね。向こうのご両親と仲良くなれれば、別れるとき、きっと秋澄の思いに加担はしないはず。僕が別れたがっていれば、秋澄は両親に説得されるだろうし、きっとご両親に刃向かったら援助も打ち切られるだろうし秋澄は東京からいなくなると思う」
 匡季は村に滞在していて分かったことがあった。
 秋澄の家は裕福で、どんな仕事をしているのか分からないがお金に困ったことはなかった。
 だから血迷ったと思われる行動を秋澄が取ったとしたら、きっと村に連れ戻すはずだ。
 また秋澄は生粋のお坊ちゃんである。お金や地位を捨ててまで匡季と一緒にいることを選んだとしても、その後の貧乏や偏見にはきっと耐えられなさそうだった。
 それが去年の段階で分かってしまったので、匡季は秋澄と大学で別れることを決めたのだった。
「そのつもりならいいけどさ……村とか厄介そうだし、気をつけた方がいいよ?」
「よく分からない宗教とかもあったし、なるべくロッジから出ないように気をつけるよ。今回は療養じゃないし、課題の論文を仕上げるつもりだから」
「分かった、じゃ次会えるのは九月過ぎくらいか」
「そうだね、中旬くらいには帰ってくるよ」
「分かった。じゃ、今日は会えて良かったよ。時間も潰せたし」
「うん、じゃまた九月過ぎに」
「じゃな、また」
 葉山はまだ言いたいことがありそうだったが、あまり人の恋沙汰に口を突っ込んでも仕方ないと思ったのか、それ以上は何も言わなかった。
 匡季も葉山の言いたいことは分かったし、何を言われても仕方ないと思えた。
 最近、秋澄の束縛が酷くなり、匡季は少し辟易していた。
 その気持ちが余計に秋澄への気持ちを無くしていき、別れる決意にまで到達してしまったのだ。
「匡季、帰ろう」
「うん、会計済ませたから」
「ほんと、葉山のやつ、匡季に集るハエみたいだ」
 店を出て歩き始めると、秋澄が葉山の悪口を言い始めた。
 それを最近は匡季もやめるように抗議するようになった。
「それ以上、葉山の悪口は聞きたくないよ。今日だって邪魔をしたでしょ? いい加減、適度な距離を取ってよ。結局葉山には言い負かされるんだから」
 そう言われて納得できないのか秋澄がムスッとした顔をしている。
 最初は葉山への悪口を聞き流していたが、最近は他の人にも見下したような発言に変わり始めたので、匡季もさすがに聞くに堪えないほどになってしまったからだ。
 まだ葉山本人にはっきりと言ってくれれば葉山が反撃してくれるので面倒臭くないのだが、秋澄は葉山に口で勝てたことがないせいか、今日のように都合が悪くなるとトイレに逃げ、そして葉山が去ってから戻ってきてこっそりと悪口を言うのだ。
「だって、あいついっつも匡季ばかり誘ってきてさ」
「当たり前だろ、葉山とは幼なじみなんだから話もするに決まってる」
 匡季がそうはっきりと告げるのにまだ秋澄はブツブツと文句を言っている。
 気に入ったおもちゃを他人と共有する気が無い子供のような発言は、最初こそ大事に思われていると思っていたが、最近は思い通りに他人を動かすために束縛するための言葉だと匡季は気付いてしまった。
 匡季は束縛されるのは好きではない。
 多少の強さで引っ張って貰えると助かる程度であるが、それでもこれまでに二人ほど付き合った男はどの人も最終的に束縛から軟禁をしてくるようなDV気質のストーカーに変貌を遂げた。
 そのせいで匡季は誰かと付き合うことに尻込みをしていたが、秋澄に慰められているうちにほだされてしまったのだ。
 そして秋澄は今までの男と同じように束縛する男に成長してしまった。
 一人っ子で何でも両親が与えてきたのだろう。何でも思い通りになっていたからか、匡季すらも思い通りにできると思い込んでいる。
 それが透けて見えてきたのが葉山への態度だった。
 葉山はわざと秋澄の前に現れては秋澄を煽っているようであるが、それは匡季に結局は前の男と変わらないことを教えてくれただけだった。
 そして恋の盲目なところは去年、村に滞在してから目が覚めてきてしまった。
 一人っ子で何不自由なく育ち、金持ちの家だから将来も別に仕事らしいことをしなくても生きていける人種であると分かったら、余計に匡季の気持ちが冷めたのだ。
 匡季にはもう両親はいない。
 保育園くらいの時、母親が病死して血の繋がっていない父親が匡季を育ててくれた。
 それなりに苦労もしたし貧乏だったけれど、やっと親孝行ができるかもしれない時期が近づいた時に父親も病死した。
 会社を立ち上げて何とか上手く起動に乗り始めたところだったのに、毎年の健康診断ですら見逃された癌が末期で余命一ヶ月と告げられた。何もかも手遅れで、父親は何とか身の整理だけはして死んだ。
 その父親の遺産を相続したことで皮肉にも匡季は大学に通うのに必要なお金が手に入った。
 悲しかったがそれでも父親に大学だけは出るようにと言われたのでそうした。
 そして悲しいことに匡季はゲイであることも知った。
将来を夢見ていただけに、自分の本質がそれからズレていることは長く匡季を苦しめたけれど、それでも好きに生きていいと言ってくれた父親の言葉通りに生きることを選んだ。
 しかし最初に付き合った男は結局匡季を軟禁してそれが大家にバレて警察沙汰になった。けれど結局和解したことで相手の親から迷惑料を受け取って、付き合った男は田舎に連れ戻された。
 これで終わりならまだしも、二人目の男も同じように段々と狂い、そして警察沙汰になる前に付き合った男の両親が示談に応じてくれた。
 結果、双方が遠方に引っ越してくれたお陰で二次被害は免れていた。
 匡季はそれでなんとか無事に別れられたので秋澄に言い寄られた時も気をつけた。
警戒するのは当然で、ゲイだからという理由で相手を簡単には信用できなかった。
 けれど匡季の耳に入る秋澄のウワサはどれも普通の学生のウワサばかりで、到底DVな男になる要素はなかった。
 だから油断をした。
 秋澄と付き合ってみたら段々と一人っ子の我が儘が増え、様々なことに口出しするようになって行動を束縛するようになった。
 今日のように誰かと話していると割り込んできては邪魔をするなど、とにかく匡季を誰とも接触させないで孤立させるようなことを平気でするようになった。
 だがそれも葉山には通用はしなかった。
 葉山は匡季の小学校からの幼なじみだ。
 中学も高校も同じだったけれど、よく話すようになったのは大学生になってからだった。それまでは友達の友達という関係で、幼なじみではあるが二人っきりで遊んだ記憶はない。けれどお互いに事情を知り尽くしているから、話はとても合う人だった。
 なのであまり干渉はしてこない葉山の存在は匡季には有り難かった。
葉山は様々な事件に巻き込まれている匡季のことを心配してくれて、邪魔にならない範囲で助けてくれるよい友人になっていた。
 今日だって話を聞いて貰えて、やっと秋澄と完全に別れる決意も新たにできた。
 村から帰ってきたら別れるという気持ちを持ったまま、匡季は避暑のために秋澄の故郷である赤司(あかし)村を訪れることになった。

 一年ぶりにやってきた赤司村は、少し様相が変わっていた。
 村の入り口には警備がいて、人の出入りを気にしているようだった。
 その警備は秋澄の知り合いだったようで、和やかに話しかけてきた。
「阿僧祇さんとこの坊ちゃん、お久しぶりです」
「名森さんもお久しぶり、警備してるんですね」
「そうさな。今年は祭りもあるけん、人の出入りをチェックとかせんと、不可思議様に粗相があってはいかんのでな」
 警備の名森がそう言い、どうやら今年は去年とは違った村が見られそうだった。
「そっちの人は去年の?」
 名森は匡季を見てから思い出したように匡季を上から下まで見てから言った。
「そうだよ。今年は避暑休養ね。大学も最後の年だから論文仕上げにね」
「そうかね。大学生も大変ですな。坊ちゃんは大学が終わったらお戻りになられると聞きましたが?」
 名森がそう続けて言うので秋澄は少し匡季を見た後に言った。
「ああ、そういう話になっているけれど……俺はもう少し外の世界で色々してみたいと思っているんだ」
 秋澄がどう思っているのかを名森に言うのだが、その時名森の表情がすっと冷めたような顔をしたのを匡季は見逃さなかった。
「若い人は分かってない……外の世界なんざ所詮、見栄えのいいことばかりで村で暮らす幸福感なんてきっと分かりはしないんですよ。坊ちゃんは甘えたこと言ってないで、ご両親の仕事を支えてやるべきですよ。阿僧祇の跡取りは坊ちゃんしかいないんですから」
 阿僧祇の村での役割は村長という政治的な役割を担っている。
 代々阿僧祇の家の物が村長になり、仕切っているらしい。
 そして秋澄が村から出られたのも将来村長としての経歴が必要だったからだと思われる。実際秋澄は経済学部で経営を学んでいるから、村長として村の発展のために必要な学力を身につけるために大学へ行くことができているのだろう。
「……あの、ロッジまで通っても大丈夫ですか?」
 急に名森による秋澄への説教が始まりそうだったので匡季はそれを遮って、村に入っても大丈夫なのかを尋ねた。
 下手すればとんぼ返りもあり得る。
 そうなるなら早く行動をしないとホテルがある町まで戻るにも一苦労する場所だ。
「ああ、悪かった。構わないよ、村長から話は聞いているからね。けんど、村はお祭りの準備で忙しいから、ロッジのある別荘地からは出んとってください」
「はい、分かりました」
 匡季は名森の言う通りに素直に頷いてから少し機嫌の悪くなった秋澄を連れて村への山道を下った。
 その村の祭りは百年に一回の大きな祭りだったことを知ったのは後のことだった。

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