Escape sequence

7

 律はその日、荷物を取りにアパートに戻った。
 二階堂には絶対に近づくなと言われたけれど、どうしても取りに行きたいものがあった。
 小槙とはいつも通りに二階堂の事務所の前で別れたけれど、律はそのままアパートに向かって歩き始めた。
 アパートは二階堂の紹介で引っ越したので二階堂の事務所からは近い。
 けれど支払える家賃の関係で、少し古いアパートだった。
 二階の部屋に階段で上がり、一番奥の角部屋に入る。
 この部屋に来るのは久しぶりで、大学に入った時に一度荷物を取りに来て以来だった。 住んでいるようにするために、日用雑貨は残してあるし、使わないものはそのまま置いていった。
 玄関に入って鍵をすぐに閉め、靴を脱いで部屋に入った。
 小さなキッチンと、八畳の部屋であるが、時々掃除をしてもらっていた。
 部屋の電気を付けて、ベッドの下を漁ると箱が一つある。
 その中を探っているといつの間にか玄関から人が入ってくるのに気付いた。
 律が物音でそっちを見ると、そこには坂本佳泰が立っていた。
「……坂本……」
 ここに来るとは思っていたけれど、目の前にすると律は意外に恐怖を覚えなかった。
 律が虐めに遭ってから二年、時間が過ぎたせいでずっと坂本を怖いと思っていたけれど、そうではないことに気付いたのだ。
「……律?」
 部屋にいる律を見て坂本は少し驚いたように律を見た後にそう言った。
 とても意外そうに言う声に、律はその違和感の正体に気付いた。
「うん、そう。久しぶり、そっち座って」
 律は箱を仕舞ってから、目の前にあるテーブルを挟んで座った。
「ごめんね、飲み物とかそういうのは出せないけれど、遠くからきたんでしょ?」
 律が気持ちが悪いほど冷静に坂本に対応するのを見て、坂本も少し毒気を抜かれたように静かに座布団に座った。
 まさか坂本も律にこうして出迎えられるとは思っていなかったようで、戸惑いの顔をしている。
「僕はね……ずっとどうしていじめられていたのだろうって考えていたけれど、結局わからなかった。もう何を信じていいのかも、何を思っていいのかも分からなかった。だから生きているのも辛かった」
 律はそう静かに話し始めた。
「だから死のうとした」
 律がその事実を告げると、さすがに坂本も動揺した。
「し、のうと?」
「うん、飛び降りようと思ってビルに上って、さああと一歩だってところで怖じ気づいてできなかった……そこを人に見つかって助けられた」
 律がそう言って少し笑った。
「僕が死のうと思うくらいに追い詰めて、坂本は何がしたかったの? 僕が苦しんでいるのは楽しかった? 僕を殺したかったの?」
 律の質問は、そこまで追い詰めてやりたかった目的を聞いてきたわけだ。
 それに坂本ははっと息を吐いた。
「お、俺は……お前が……頼ってくるのを待っていた……」
 坂本はそう言い始めると止まらなかった。
「お前が俺だけを頼ってくれるのが嬉しかった……ずっと俺だけ見ていればいいって思った……律は、俺のものだ……そう思った」
 坂本が一気にそう言うので、律は少し驚いた。
 これは二階堂が言っていた見解と同じ言葉だったからだ。
坂本は律を自分の思い通りにしたくて、いじめを起こしたのだ。
「でも僕は僕で、誰かのものってわけではないよ。僕は僕で考えてちゃんと対等でありたいと思っていた。坂本はずっと疑っていたよ。僕がいじめられているのに、坂本は決して教師への直談判を無駄だって言って止めたから」
 律は教師への直談判に坂本が付いてきてくれなかったことを恨んでいた。
 あのとき、教師の信用も厚かった坂本が一言言ってくれたなら、きっと状況は変わっていた。けれどそれをしないと言った時に、律は坂本のことを敵認定をした。
 いじめてくる人よりも、庇ってくれる人が味方ではなかった時の方が、恨みは強くなるのだ。律もそうだったから、もう坂本を最後は信じていなかった。
「だから死のうとしたよ。君が裏切ったと思ったから」
 律がそう言うと、坂本はそこまで律が思い詰めていると思っていなかったようで、顔には汗をかいていた。
 本当に人の痛みが分からない人なのだろう。
 そうでなければ、あんないじめを主導しないだろう。
 律はそこでにこりと笑った。
「恨み言はこれでおしまい。君を恨んだことはあるけれど、今はそこまで恨んでいるわけではないんだ」
 律はそう言って少し笑った。
 この辛い思いをしたお陰で、律は二階堂と出会えた。
 だから、この辛いことがなければ二階堂に出会わない人生だったと思うと、それはもっと辛いので律はその未来を望んでいなかったことになる。
 穏やかに律が笑うせいで、坂本は律をじっと眺めた後、青い顔をしてから言った。
「本当に、お前、律?」
「……え?」
 さすがに本人を目の前にして疑われるとは思わず、律はそこでさっき坂本が困惑した顔をして律を見ていたことを思い出す。
「確かに僕は西園寺律だけど? 何故?」
 そう言われて坂本は苛立ったように言った。
「だ、だって、律はもっと小さかった……体も……声だって、もっと高くて……それでもっと細くて……そんな男の人みたいな姿をしてなかったっ!」
 そう坂本が叫んで言ったことで律はやっと何に坂本が混乱をしているのか理解をした。
 坂本とは二年も対面したことがない。
 律はその二年間で、身長が七センチ伸び百七十センチになり、変声期がきたのだ。
 中学の頃に来るはずの変声期はこなかったけれど、高校になって急にきた理由は、精神的に安定をしたことで体が大きくなろう、大人になろうとしているということだろうと医者は言った。
 律はあの頃よりも男性になり、少年から青年になったのだ。
そして律は二階堂たちと暮らすことで思考も言葉もその頃とは比べものにならないほど大人びたと思う。
 坂本が待ち望んでいたのは二年前の律であり、今の成長した律ではなかった。
 その違和感が強く、坂本は混乱をしたのだ。
「う、うそだ……そんな……律は……俺の律は……」
「僕が西園寺律だよ。変わりなく人であるから成長もするし、環境が変われば思考も変わるよ。だから君がどんなに暴れても、泣き叫んでも、あの頃の西園寺律はもうこの世にはいないんだ」
 律は丁寧に自分が変わったことを知らせた。
 呆然とする坂本は納得ができないのか、すぐに座布団から立ち上がるとフラフラと玄関に向かって歩き始めた。
けれど来た時の興奮したような坂本ではなく、弱り切ってしまった坂本だった。
 しかし玄関先には既に到着した警察が待っていて、ドアを開けた時にはすぐに坂本は刑事によって連行された。
 抵抗は一際せず、抜け殻のようになって出ていった。
 一度中を振り返って律を見たけれど、律は何も言わなかった。
 きっと坂本が見た先には、幼い西園寺律は見えなかっただろう。


 車で坂本が連れて行かれてから、律は迎えに来た二階堂に部屋から連れ出された。
 あまりに緊張していたのもあり、座ってから立てなくなっていたから、抱きかかえられて車に乗せてもらった。
「よく頑張ったね、律」
 二階堂にそう言われて律はホッとしたように微笑んだ。
「これで、終わったんですよね」
「終わったな。坂本はやっと理解したと思うよ」
 大人しく連れて行かれた坂本はきっと洗い浚い喋るだろう。
 もうどんなに嘘を吐いても、二度と坂本が待っていた西園寺律は戻ってこない。
「二階堂さんが、僕を坂本に会わせると言った時、こんなことして大丈夫なのかって思ったんですけど……意外に本人を目の前にしたら怖くなかったんです」
 律はそう言って坂本を目の前にして怖さは感じなかった。
 ただ話をしてみたいと思った。
 その後は、ただ怒らせないように、そして本質を知らせるように、気をつけて喋った。人と会話をするのにここまで緊張をしたことはない。
 だから全部終わったとたん、足が立たなくなったのは緊張のせいだ。
「僕は坂本のことをもっと怖いと思っていたし、大きな人だと思ってました。でも違った。僕は七センチも大きくなって坂本と変わらなくなっていたし、体格もきっと同じくらいだと思います。だからなのか、坂本が小さく見えました」
 二階堂たちと会っているとモデルなどの身長の高い人たちとも出会う。そうしていると背の高い人たちを怖いと思わなくなって、自然と接するようになった。
「二階堂さんがどうして直接会わせようと思ったかは分かりません。でも僕が成長した姿で会う必要があるのは分かりました。坂本の僕への記憶は二年前で止まっていたんですね。僕は成長して、昔とは違う。だからそれを見せることでもう二年前ではないことを坂本に教えることだったんですね」
 律は変わったと知らせることで坂本の思っていることがどうなるかは分からない。
 けれど坂本を捕捉するためには律を囮にして早急に捕まえる必要があった。
 それらを叶えるために警察と協力して坂本をアパートに入れるようにした。
 もちろんアパートの中の風呂場には刑事が二人ほど隠れていて、中で何があってもいいように待機していた。
 なので律は気をつけて怒らせないようにするだけでよかったのだ。
 すると二階堂が言った。
「律が俺の隣でちゃんと大人になっているのを感じたのもあるし、坂本の最後の脅迫の手紙についている写真が、最近の写真じゃないことに気付いたからね。二年前の写真を使うのは、最近の写真がないからかと思っていたけれど、俺の最近の写真はあるけれど、律の最近の写真がないなと気付いて、まさかと全部の脅迫文の使われていた写真を見たら、律だけ昔の写真だった。だからもしかして最近の姿を目に入れないようにしているんじゃないかと思えてな」 
 二年前の律を手に入れたい坂本の歪んだ部分がやっと見えた瞬間だった。
 そしてその通り、坂本は今の律を見て混乱し、暴れることすらできないくらいに律に言いくるめられた。
 強くたくましくなった律、それは坂本が欲しい律ではない。
 だからそれがもうないのだと知った坂本はあそこまで落胆したのだろう。
 それから律は警察に行き、事情聴取をした。
 簡単な確認ばかりであったが、二時間ほどかかった。
 取調べの客間から出てくる時に坂本が全部罪を認めて、大人しくやってきたことを話し始めたらしい。
 やはり律への相当の執着が見え、狂ったように律を欲しかったと言うけれど、今の律を欲しいわけではないから、もうどうでもいいというような感じらしい。
 脅迫にストーカー、洗脳させて犯罪に関わらせた人への賠償など色々あるようであるが、律の事件はあっという間に送検されて、裁判も簡単に進んだ。
 律への迷惑行為の慰謝料もしっかりと坂本の親が払ってくれたが、坂本は少年院ではなく、あまりにも悪質だったことや長期間の犯行だったことで、少年刑務所に送られることになった。
 殺人は行っていないけれど、犯行内容があまりにも計画的なものだったことが心証を悪くしたらしい。反省しているけれど、それでも余り有る刑と、開き直りのようになっていることで反省はしているわけではないと取られたようだった。
 その裁判だけでも一年を要して判決まで時間がかかったけれど、ギリギリ少年として扱われていた坂本は実名報道されないところで刑に服した。
 そうした方が刑期も短いと坂本側の弁護士が判断したようだった。
 精神的な障害も疑われて医療少年院が相当としていたようだったが、病名は付いたけれど、生活に支障のない犯罪も計画的だったことでもっと重くなったらしい。  
 また素直に刑を受けたので、裁判開始から一年後には少年刑務所に入って更生をするらしい。その刑も更生をする間なので、二、三年ほどで出てこられるから、懲役三年程度の扱いだ。
 坂本が出てきた時、二十二、三歳くらいである。
 まだやり直しはできる年齢だ。
 そこから先は坂本の気持ち次第で、未来はまだ開けている。
そして律はやっと二十歳になった。

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