Escape sequence
3
「靴がない」
律は帰り際、下駄箱の蓋を開けたとたん、靴がなくなっているのに気付いた。
靴は学校側が弁償だとして用意してくれた革靴だ。それがないのだ。
「は!? なんで!」
小槙が大慌てで靴箱を見る。
たしかに靴はなかったし、靴箱の中は墨のようなもので汚されていた。
「何これ! ざけんなくそがっ!」
小槙が切れ、そしてすぐに周りにもそれが広がった。
「いい加減にしてくれよ……たく、くだらないことをするやつがまだいるのかよ」
「さすがにないわ……マジ誰がやってんだよ」
「あいつの他にまだいんのかよ……最悪」
他の生徒もさすがに律がまだターゲットにされていることにはうんざりしているようだった。
律も全部終わったと思っていた。けれど終わっていないというのだ。
視線を感じて振り返ると、そこには元クラスメイトで友人だった坂本佳泰が立っていた。身長は百七十ほどで細身の優等生タイプの坂本は、クラスではまとめ役として活躍している人だった。
あのクラスで唯一律を庇ってくれていた人だった。
でも今律を見るその視線は律を睨み付けるものだった。
そこで律は察した。
ああそうか。
あのクラスメイトたちを操っていたのは坂本だったのだ。
律はそれに気付いてゾッとした。
けれど、その時に坂本がやっていたとして、今も坂本がやっているのかと言われたらそうとは言えなかった。
結局、また律がターゲットにされているのかは分からず、誰かの悪戯という可能性があるとされた。
調べようにも生徒がよく使う下駄箱である。誰が捨てていたのかなど分かりようもなかった。
「二階堂さんがきてくれるって」
小槙が連絡をとってくれたのか、身元引受人家族として二階堂が車で来てくれ、小槙も乗せてすぐに学校を後にした。
「大変だったな。まさか、主犯が別にもいるとは……」
まさか磯野とクラスメイトの共犯関係がないとは思わなかったようで、これには二階堂も警戒はできていなかった。
「僕も、まさかクラスメイトが自発的に僕をいじめていたなんて思わなくて……ただ磯野に命令されてやってるとばかり……」
磯野がいなくなってくれればそれで解決すると思って裁判をしたのに、実は一番厄介なクラスメイトが全員本当に敵だったなんて思いもしなかったのだ。
そしてその首謀者が唯一庇ってくれていた坂本佳泰かもしれないことが何よりもショックだった。
「ずっと庇ってくれていると思ってた人がそうじゃなかったかもしれない……」
ぽつりと律が零すと、それに驚いた二階堂が車を止められる駐車場に入った。
そこは立体駐車場で屋上まで上がってしまったら止まっている車もいない場所だ。
暗くなった屋上で、律は話し出した。
「ずっと仲が良かったんです。中学からの親友だと思ってて」
坂本佳泰は優しい人だった。
律にはいつも手本になるような人で、クラスでも人気者で人格者だった。
磯野にさえ口答えしても、磯野がたじろぐことがあるほどで、それでよく助けられたものだった。
けれど律の両親が離婚し、父親が死んでしまった後からクラスメイトによるいじめが始まった。
「恐らく後ろ盾がないってことが、いいターゲットだったんだろうな」
二階堂がそう言うので小槙が不思議がる。
「なんで?」
「そういう奴の思考はさ。俺だけを頼ってくれるのが嬉しいんだよ。でもクラスメイトが全員構ってくるのは邪魔なんだ。だから裏でクラスメイトに噂を流したり、嫌みとか言うわけ。そうして負の感情を植え付けるのは簡単だ。坂本くんは良い人なのに、律は我が儘言って困らせている悪い奴。磯野に脅し取られたお金も、実は使い込んだだけで碌でもない奴だとか……まあ言い方が色々あるな」
どうやら二階堂はそういう人種を見たことがあるようで、詳しく知っていた。
「何それ、うさんくさいじゃん!」
「そうだよ、そういう奴なんだよ」
「じゃあ、なんでもう関わりなくなったし、前の罪は全部磯野が被ってくれたのに、なんでまたやるわけ?」
小槙は納得がいかないと言う。
それは律も同じ気持ちだ。
「僕はこんなことをされ続けるんですか? 僕はあいつに何をしたんですか?」
坂本に何をしたのか。
確かにいじめられている間、ずっと支えてもらって助かっていた。
いじめが酷くなって学校へ行かなくなっても、ずっと坂本が迎えに来てくれた。
だから辛くてもう学校に行かないから来なくていいと言った。
そうして坂本は来なくなった。
それでもう坂本との関係は終わったはずだ。
「そうだな。いじめのことに関して、律はクラスメイトのいじめを後回しにしただろう? 磯野一人に絞ったからそうなったわけだけど。それが律がそのいじめは大したことではなかったと捉えていると思われたのかもな」
二階堂がそう言うので律も小槙もキョトンとする。
「二階堂さん、意味わかんない」
「僕も……」
小槙が文句を言い、律もそうだと言った。
「そうだな。小槙と律は仲良くなっている」
急にそう言われて小槙が頷いた。それに律も頷く。
「もう新しく友達ができて楽しそうで、いじめのことなんてもう終わったと実にすっきりしている」
「……はい、確かに。元クラスメイトのことはもう考えることはないかなと思っています」
「それだよ。律はもう坂本を必要としていないし、クラスメイトも切り捨てられた。それが坂本の逆鱗に触れたわけだ。自分という友人をしてやっているやつをないがしろにして、新しく友達を作り仲よさそうにクラスに馴染んでいる。ああ、ムカつくわっていう」
二階堂がそう言うので、小槙はそれに怒る。
「何それ、マジでそう思ってんならムカつくんだけど。何が友人をしてやってるだよ、何様だよそいつ、本気で苛つく!」
小槙の怒りの横で律は呆然としていた。
「そんなことなんですか? 僕がクラスメイトにいじめられていたのは、僕が何か悪いことをしたのじゃなくて、そんな坂本の勝手な思い込みで僕があんな目に遭っていたんですか?」
あんなに苦しい日々を送る羽目になり、唯一助けてくれる坂本を頼っていたけれど、それさえも坂本の思いのままだったなんて、律には理解ができない。
「そうだ、律は最初から何も悪くはない。ただ坂本という人間に出会ったというだけのことだ。そして相手は歪んだ心を持っていて、律をいじめて喜ぶような人間だった。それだけだよ」
二階堂はそう言い、律は顔を覆った。
「酷い……あんまりだ……」
何の非もないのに、あんなに苦しい時間を過ごしていた。
そしてそれは坂本の手によるモノで、坂本はそれを助ける振りをしてずっと裏で笑っていたのだ。
いじめられても辛かったけれど、悲しくなったことはなかった。
あまりに陰湿で、想像を超えてきた恐怖は泣くことすら許してくれなかった。
けれど、今心に余裕があるからか、あの仕打ちの理由に納得できなくて泣けた。
「恐らく、今日のは宣戦布告だろうな。靴も物がなくなるいじめは全部そいつの仕業だったわけだ。クラスメイトをそいつが完全に掌握していて全員言いなりなんだろうな」
「えええええ、なんでそんな不利なことするわけ?」
小槙には納得できない。
いじめなんて関わっていたら、大学だって推薦はもらえないし、内申書に響く。受験をするならまあ分かるが、いじめのあった学校というだけで面接は絶望的だ。
それでもまだ律に何かするなら社会的にも終わるだろう。
「それすら状況が分からないらしいから、そこの辺を突いてもらおう。弁護士に協力するつもりのないものは、加害者と見なすとすれば案外洗脳が溶けるやつもいるだろう」
二階堂はそう言い、千石にまだ終わっていない旨を伝えた。
千石はそれは予想していたようで。
「実は、一部のクラスメイトからクラスの中に首謀者がいるという話が上がっていたんですよ。まあそれはクラスが変われば、公にする必要もないかもしれないので密告者の手前隠していたのですが。バレていないと高をくくったんですかね?」
千石は既に坂本佳泰のことは調べ上げていた。
クラスメイトとの関係性も分かっているのだが厄介なのは。
「坂本自体は何もしていないってことなんですよね」
「……なるほど、全員が庇ったら坂本が無罪放免にされるというわけか」
「そうです。確かに他の生徒は悪いことから抜け出したいけれど、その場のノリでやらされた子も多いんです。首謀者の周りに強固な坂本信者がいて依田紅緒と和田松之輔という二人がいて、その二人が坂本から指示を受けて実行をしているようなのです」
このことを聞いた律はあの二人は確かに坂本とは親しかったけれど、積極的にいじめをするクラスメイトだった。
「いじめ教唆というものがあるとすれば、坂本はそれに該当しますが、依田と和田が庇うかもしれないんですよね。できれば、坂本が何かしでかさない限りは、こちらとしては逃げ切られる可能性もあります。坂本の親は隣の県の県議員で、あちこちの学校関係者とも繋がっているので、何かあれば坂本は転校して終わりというところかと」
どうやら千石としては坂本も首謀者として制裁を加えたいところらしいが、そう簡単にいかないのが学校内の出来事である。
とにかく律に被害が出ている以上、二階堂は律をアパートに置いておくわけにはいかなくなった。
二階堂のマンションに当面住むことにし、律は申し訳ないと思いながらも荷物を少し運んだ。アパートには防犯のセンサーを付け、誰かが侵入したら分かるように仕掛けた。
「まだ終わってないんですね……」
「そうだな。どうやら想像以上に腹黒いやつらしい」
「……そうは見えなかったから……本当に人間は分からないんですね……二階堂さんはこんなに良い人なのに……」
律がそう言うと、二階堂は笑う。
「俺が良い人なのは、お前の体、もらったからだ。まあ今は未成年だし、成人するまでに縁があればもらうよ」
そう笑って言われたら律は顔が赤くなった。
そういえばそういう約束で自殺をしようとしていたところを救われたのだ。
だからまだ二階堂には一番初めに約束したものを渡していないことになる。
「あ、あ、あの……それ、本気ですか?」
「本気に決まっている。冗談でここまでできないよ」
二階堂がそう言いながらも部屋に入るときに言った。
「全部終わってからな。それまで何もしないさ」
そう言われて少しだけホッとする部分と、残念だなと思う部分があったのは顔にでていたかもしれない。
部屋に入って買ってきた惣菜などを取り出して二人で食べた。
律も二階堂も料理は得意ではないので、買ってきたものかデリバリーになってしまう。 律はそれに気付いて、料理くらいできた方がいいのかと思った。
やってやれないことではないけれど、明日時間があれば本屋で料理の本を買うのもありかもしれない。
そう思っていると、二階堂が言った。
「律の財産を管理している弁護士に当たってみたんだが、何だか派手なやつだったんで、こちらから律の代理人に関して問い合わせをした」
「そうなんですか?」
「ああ、ちゃんと手順を踏んでな。律が必要以上にお金をもらっていないことも大問題なんだ」
「……?」
「つまりな、財産があるならそこから生活費や雑費がでていないとそもそもおかしいんだ。親戚が無知だったからそこから出ているけれど、本来は財産があるなら律がもらっているお金から出るのは筋なんだ。そこがおかしいと思って弁護士自体を訴えてみたら、案の定使い込んでた」
「……え、本当に?」
「半分はもう既に使い込んでたよ。びっくりした。恐らく律が代理人が必要ではなくなった時にはスッカラカンになっていただろうな。それくらい金額が大きくて、使い込みも大きかった」
律の父親の生命保険は一億、遺産は合計二億だったという。
会社経営をしていたから死んだ時に会社のためにも残していたらしいが、会社は生前に何とか売ることができたので、その売った代金も入っている。そして事故死だったので、相手からの示談金なども入っていたから二億あってもおかしくはなかったらしい。
だから母親はそれがあるのを知っていたので、それで律は暮らしていると思っていたらしい。しかし母親も無知だったので代理人にお金の制限をされていると聞いて、そういうものだと思ったらしい。アメリカにも未成年の代理人制度があるのでそういうものだと思うのは仕方なかった。
そして律が困っているということに関心がなかったので、弁護士の嘘方便を信じてしまったのが原因だ。
その弁護士は使い込みを認めた。
明らかに素行がおかしいのが事務所にも分かっていたらしく、使い込みに関しては弁護士は自宅を売り、土地を売り、それでも足りない分を事務所が補ってくれるということで示談とした。
「まあ、八割しか戻ってこないが、訴えて開き直られて全然戻ってこない状況よりはマシにはなっている。千石が元の通帳にそれらのお金が戻ってきたのを確認して、千石の事務所で代理人を付けようと思うんだが、どうだ?」
「お願いします。千石さんなら大丈夫だと思います……でも、取られたことは残念ですが、下手にお金をもらっていなくてよかったかもしれません。どうせもらっていても磯野に取られていたと思うし……」
「そうなんだよな。磯野の親からの賠償金は全額、親戚に返しておいた。千石から毎月、今持っている通帳に必要な生活費を振り込んでもらうことにした。あと母親の方にもこういうことがあって金銭問題が起きていたことを伝えた。だが、これからも仕送りはするし大学費用も出すそうだ。事件が大きくなっていて、母親が手を引いたらさすがに世間体が悪いらしい。あとアメリカはそういうことに厳しくて、既に会社関連に知られているからのようだ」
「大変ですね、世間体って」
「大人は大人の役割があるわけだ。その辺はちゃんとしないとな」
二階堂がそう言うので、律はそれで納得することになった。
きっと二階堂が子供の頃はそういうことをしてもらえなかったのだろう。だからこそ助けた子供を助けたいのだ。
律がアパートを抜け出した後、その日のうちに律のアパートには誰かが侵入しようとしたことが分かった。
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