Escape sequence

1

 足をあと一歩踏み出せば全てが終わる。
 それが分かっているのに、光の洪水の中に一歩を踏み出せない。
 震える足、吹き上げてくる風。
 それらの冷たい空気に、西園寺律(さいおんじ りつ)は もう一時間もその場所に立ち続けていた。
 日が暮れ、街の明かりが灯り始め、煌々と照り出すまでたった一時間。
 長く立っていると自分が本当に死にたいのかさえ分からなくなる。
 きっと一歩踏み出せばこの苦しみから逃れられるけれど、それによって誰かを巻き込むことだってあるかもしれない。
 それでも死にたいほど律は苦しかった。
「なあ、飛び降りしないんだ?」
 急に後ろから声をかけられて、律はハッとして振り返った。
 通用口のドアが開いていて、そこには男が一人立っていた。
「ここは俺のビルじゃないから、飛び降りられてもまあ困りはしないんだけどさ。どうすんの? 飛ぶの飛ばないの?」
 人が自殺するのなんてどうでもいいと言う言葉で言われて、律はハッとした。
 そうなのだ。世の中の家族以外の人は律が死んだところでどうでもいいのだ。
 ああまた人が飛び降りて人を巻き込んだんだという程度。一時期少し憤ってそしてそれっきりだ。綺麗に忘れて日常に戻る。
 そして律を苦しめた相手もまた、なんだ死んだんだ?程度できっと何とも思わないはずだ。律は遺書を書いていないから、あいつらは野放しのまま他の誰かを標的にするだけだ。
 面白半分でまた繰り返す。
「死んでもお前はすっきりするんだろうけど、周りはどうかな? そこからお前が飛び降りて死んだとしよう。家族は巻き込んだ相手の家族に賠償金やビルの持ち主からは迷惑だったと訴えられて更なる地獄だ」
 そう言われても律は静かに返していた。
「家族はいません。親戚もきっと関係ないと言い張って払わないでしょうね」
 律の言葉に怒りが籠もっているのを男は感じたのか、ふーんと頷いた。
「相手が生き残って、半身不随、寝たきりになったら誰を恨めばいい? お前が死に損なって寝たきりになったらもっと地獄が待っていることになるわけだが、そこらへんは考えているか?」
 つまり自業自得で寝たきりになったらきっと行政の世話になるだろうが、身寄りがいないということは、寝たきり中に何があっても、これよりも辛いことがあっても死ねないということなのだ。
「寝たきりって自分で動けないからな。こうやって死ぬのもできないし、きっと見舞いにくるのはお前に傷つけられた家族たちが恨みを毎日言いに来るくらいだ。なかなかに地獄だぞ? 毎日呪詛を聞かされて耳も塞げないのは」
 その男の言葉に律は言葉を失った。
 それは例えばの話ではなく、本当にそれを見たことがあると言っているように聞こえたからだ。
「そして最後は泣きながら言うんだよ。殺してくれって。でもそれもしてもらえないから狂うしか方法がなくなるんだ」
 そんなことを言う男の言葉に律は聞いていた。
「それはあなたの家族に起こったことなの?」
「そうだ。自殺した父親が自殺に失敗、相手を巻き込んで半身不随にし、父親は寝たきりだ。今の医療は生かす能力が高くてな、蘇生させちまうんだよ。そうして寝たきりの父親は毎日同じ病院にいる半身不随の車椅子の相手から呪詛を何時間も聞かされるわけ。一週間で殺してくれと泣きわめき、一ヶ月で頭が真っ白になり、そのあとすぐに狂ったよ。母親はそんな父親を世話しながら何とか賠償金を示談で払い、すっからかんになった家族は親類にたらい回しにされ、親族に酷い虐待を受けながら生きたわけ。で、当の本人の父親はそのまま呆けてしまって母親はそこで首を吊っていた。なかなか壮絶だろう?」
 男がそう言うので、律は言っていた。
「でも自殺するくらい辛いことがあったんでしょ?」
「親父は不倫相手に振られたからとか、それが会社にバレて首になったからって理由らしい。わりとくだらないだろう? お前は学校でいじめに遭ってるから死んだ方がマシってやつだよな」
 当たっていたので何も律は言えなかった。
 その理由がくだらないと言うように、男は続けた。
「お前が死んだら死人に口なしだ。いじめた奴らは反省もしないし、新たな被害者が生まれるだけ。お前は何も戦ってないし、遺書すら残していない。結局負けなんだ。死に損なったらそれこそお前が加害者だ。そして責任も取らないなら、お前はそのいじめた奴より最低のやつになる。それになれるか?」
 そこまでして飛び降り、誰かを巻き込んで死ぬつもりはあるのか。そして生き残ってしまった時、巻き込んだ相手に対してしっかりと保証など責任を取れるのかと言われているのだ。
 いじめっ子なんて可愛いものだ。
 原因がいじめであっても、彼らは泣きながら反省しましたと言って反省した振りをして学校を転校するだけで、その先はきっと何も変わらない。十年経てば結婚して子供を産んで平和に生きていくのだ。もちろん、自分が殺したいじめた子のことなんて綺麗にさっぱり忘れて、時々あのときやばかったわ~っと笑って終わるのだ。
「あいつらは反省もしないし、もし罪になっても精々恐喝程度、少年院なんていくほどでもないから保護観察で終わって、後は遠い学校に転入してやり直したらそれで人生安泰だ、何も困ったことにならないまま幸せを掴むんだ」
 男の言うことは律も考えたことだ。
 あいつらはきっと反省もしないだろう。
 そういう奴らなのだ。
「このまま仕返しもしないでお前だけが死んで終わるのか?」
 男はそういうけれど仕返しなんてできない。
「無理だ……あいつらは権力者の子供なんだ……何でももみ消せる」
 そう律が言い始めると、男は言った。
「そうでもない。相手が権力者ならもっと簡単だ。その権力によって雁字搦めにして世間に暴露できる」
 男の言葉に律はそんなことが可能なのだろうかと考える。
 地獄を味わってきたという男の言葉は何だか妙な説得感がある。
 彼はきっと地べたを這いずった生活から生き残ってここにいるのだろう。
 律には失うモノは何もない。
 地べたを這いずってでも彼らに復讐をしたい。
「や、やり返せるの? 復讐をしろってことだよね?」
 律がそう聞き返すと、男は言った。
「さあ、この手を取れ。悪魔の手だ。此の手を取れば、お前の復讐は叶ったも同然」
「そうしても、僕は何を対価にすればいい?」
 律はそんなことがただで済む訳もないことは知っている。
「お前の捨てようとしているその体でいい。それを俺にくれ。どうせ捨てようとしていたんだから、もらってもいいだろう?」
 男がそう言うので律はこんなものでいいのかと何だか急にホッとした。
 けれどホッとしたことで気が抜けてしまい、手すりを掴んでいた力が緩んでビルから落ちそうになった。
 ああ、こんな簡単に死ぬのかと思ったが、目の前に男がいつの間にか寄ってきていて律の腕を掴んできた。
「お前は今この身体を放棄した。だから拾った俺のものだ」
 男の声がはっきりと聞こえて、律はビルの屋上から引き上げられてビル内に連れて行かれた。
 寒い中、一時間以上も寒風に晒されていたせいで、体の自由がきかなかったから、男に抱きかかえられて連れて行かれた。
 もうどうでもよかったので律はそのまま男の好きにさせた。
 酷い目に遭ったとしても、もうそれすら自業自得だと思えたのだ。
 しかし男は律を連れて会社のドアをくぐると、そのまま奥の社長室に入っていった。そこは暖かな暖房の効いていた部屋で、すぐにソファに座らされると男は一旦部屋を出て行き、戻ってきた時は桶のようなものを持ち、ポットのお湯を持ってきた。
「冷えているからな。足湯で暖まった方が早い」
 そう言われて靴を脱がされて靴下も脱がされ、パンツは膝まで折ってもらい、少し厚めの足湯に足を入れてもらった。
「……足の感覚がない……」
「だろうな。冷えすぎると感覚が戻るのにも時間がかかる。そのまま浸ってな。食べ物を取ってくる」
 男はそう言ってまた部屋から出て行った後、五分ほどで戻ってきた。
 その時には律は体まで温まり始めていて、やっと体の感覚も戻ってきていた。
 男が持ってきたのはコンビニのおにぎりだったけれど、味の付いた混ぜ御飯ばかりで、鮭やわかめなど五つほど入っていた。
「好きなの食え、白ご飯よりはこの方が食べやすいだろう」
 男は袋から味噌汁のカップを取り出し、それをお湯で作ってくれて手渡してくれた。
「ありがとうございます……いただきます」
 その行為を無駄にすることができず、律は思い切って食べることにした。
 お味噌汁を飲んで、更に中から暖まるとホッとした気分になれた。
 そしておにぎりを口に運んだら、何だか泣きたくなった。
 おにぎりを美味しいと思っている自分が何だか悲しくて、こんなことで幸せを感じられることが嬉しかった。
 ずっと苦しかった。
 逃げる場所なんてなかった。
 だから、こんな気分で食事をすることになることはないと思っていた。
 でも今、ただこれだけで幸せだと思ったのだ。
 律は泣きながらおにぎりを貪り、味噌汁を飲み、二個目のおにぎりも食べた。
「美味しい……」
「そうか、良かったな」
 男は同じく味噌汁を飲みながら、自分用に買ったおにぎりを食べている。
 同じく夕食用にしたのだろう。
二人で黙々とご飯を食べ、そして満足したら律は何だか泣けてきた。
 色んな気持ちが湧いて、律はただ一人で泣いていると、男がタオルをくれた。
 それで顔を覆って泣いた。
 暖まったところで足湯を終わり、足まで拭いてもらったのは泣きやめなかったからだった。
 そこまでしてもらって律は言っていた。
「ありがとうございます……でも本当に復讐できるんですか?」
 律はやっといじめっ子たちに仕返しをする方法を教えて欲しいと言っていた。
 さっきは嘘で、自殺を止めるためだろうとは思っていたけれど、男の言葉は真に迫っていたから、何か方法があるのかもしれないと思ったのだ。
「お前がどういういじめをされているかで、こっちの出方も変わる。詳しく教えてくれ」
 男がそう言うので、律は詳しくその内容を話した。


 律は高校に入った時に両親が離婚した。
 引き取ってくれた父親がある日事故で死去。
 離婚した母親に引き取られるはずが、母親は引き取りをしたくないと言った。再婚をしていて既に一歳の子供がいたからだ。
 そのせいで律は父親の親戚に預けられるも、律と一緒に暮らすつもりはないと言われて一人暮らしになった。
 アパートに部屋を用意され、僅かなお金でやっと生活ができる金額しか渡されなかった。また父親の保険金は遺産を管理する弁護士に管理されているので、自由に使うことができなかった。どうしても大きな買い物をしたい時だけ申し出て、必要であると判断されないと一銭も渡されなかった。
 噂では親戚がそのお金の管理を自分たちですると言ってきていて、取り上げようという魂胆が見えていたのでその辺は律も自分で管理するよりは弁護士に任せた方がいいと納得している。
 そのお金に関してのことで、学内で不良グループにそのことが知れ、金を持っていると勘違いされてカツアゲされることになった。
 けれど、その日暮らしをしている律が財布に入れているお金を取られたら、生活が成り行かない。教師に訴えるも、教師は不良が怖いのでなあなあにして調査をしてくれない。
 教師に言いつけたとして殴られるようになり、制服で見えない部分を殴られるようになった。
 すると不良がいじめているからとクラスメイトが急に律に対して教科書を破ったり、大事なものを捨てたりとするようになった。体育のジャージは捨てられ、靴も捨てられた。裸足で帰ることだって何度かあった。
 弁護士には一応伝えたけれど、お金が欲しいための嘘はいけないと言われて、信じてもらえなかった。律はとうとう道具がすべて捨てられてしまったので、高校に行けなくなった。
いじめられているから学校にいけないといっても、学校側は嘘は吐くなといい律に自主退学をするように勧めてくるようになった。
 味方は誰もいないのだと律は分かって、生きている意味もないと思えてきたから、今日に至ったと言った。
「僕はきっとこの世界に必要じゃないんだ」
 律がそう言うと、男はそれらをメモして、まず弁護士の名前や所属、親戚の名前などを詳細に聞き出した。
 そしてそれらを少し調べたいといい、その日は律をその事務所に泊めてくれた。
 事務所の社長室の奥にはベッドルームがあり、そこで寝起きをしていると男が言った。忙しいときは帰るのが面倒らしい。
 風呂は近所のスーパー銭湯に行き、すっきりしたら男の部下らしい人が着替えを用意してくれていた。
「適当にサイズみて選んだから、合うかどうか分からないけれど」
 そう言われたけれどぴったりだったのでびっくりしていたら、男はどうやらアパレル関係のデザイナーで、その辺は得意だと知った。
 そこで律は男に自分が名乗っていないことを知って、慌てて名乗った。
「あの、僕、西園寺律といいます」
「うん、分かってる。鞄を放っておいただろ? あれから身元だけは調べた。俺は、この会社の社長でデザイナーの二階堂藤樹(とうき)だ」
 二人はそこで始めて握手をした。
 これから律の復讐のために手を組んだ相手、それが二階堂藤樹という悪魔だ。
 律はその悪魔の手をとったことを絶対に後悔しないだろうと思えた。

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