twist of fate

2

 それから事件は何も進展せずに、警察も現場検証を終えたようだった。
 自宅捜索から一月もすると保存の義務がなくなった部屋は内装が入ったらしく、部屋の物が持ち出されて捨てられている。
 どうやら女性の家族にも連絡が行ったのか、部屋の荷物は重要なもの以外は捨ててしまい、解約をしたらしい。なので大家はすぐにリフォームに出したのだ。
 そんな荷物が回収業者に引き取られていくのをたまたま見かけて、それを見ていた近所の人がコソコソと話している。
「ああいうのもリサイクルに出回っているのかしらね……怖いわ」
「そうね……」
 そういう話を聞いてから、梛音はあの事件から二ヶ月が過ぎていることにホッとした。
 ここまで誰にも怪しまれていないのなら、犯人からもきっと見えていなかったのだろう。
 そう思って歩いていると、家の近所で見知らぬ人に話しかけられた。
「あの、君」
「……?」
 急に呼ばれて梛音は驚き、離れたところで立ち止まった。
 まだ明るい時間だったから、人通りもあったので呼ばれた人を振り返る。
「そう、君。よかった」
「な、んですか?」
ビクビクとしながらも話しかけてきた人はスーツに革製の鞄を持っているサラリーマン風の男だった。
 ただ着ている服は異様に良い物だと分かったし、綺麗なワイシャツと靴を見れば、住む世界が違う人だというのだけは読み取れた。
 それは決して梛音が働いているスーパーに来るような一般人ではない。
店員をやっていたら人を見る目が付いてきたのか、そういうのが分かってしまう。
 取りあえず、警戒をしたままで立ち止まるとその人は優しく笑った。
「申し訳ない、怪しいものではない。こういうもので……」
 そう言われて差し出されたのは、弁護士の名刺だった。
 そこには小野崎泰嗣と書かれていた。
「弁護士さん?」
「そう、聞きたいことがあって、ここら辺りの住人を訪ねているのだけれど」
 そう言われて梛音は男のスーツの襟に、弁護士のバッジであるひまわりの形の中にはかりがある記章を付けていた。
 この身分を詐称する人は犯罪になるらしく、早々こういうものを身につけている人はいないだろう。
まして名刺を見せてくれたということは、信用はしていいのかもしれない。
 まっすぐな瞳で、しっかりと梛音を見てくる弁護士は、とてもいい男だった。
 彫りの深い綺麗な顔で、イケメンと言っていいほどの美貌を持っている。体つきも大きくスーツが既製品ではないのだろうと思えた。
「それで、何か?」
 周りの住人との関わりはほぼない生活をしているので、梛音がそう言うと弁護士の男は続けた。
「実は、そこのマンションであった事件を調べていてね」
「……え、マンションの?」
 ドキリとして心臓が痛かった。
「そう、殺人事件があったのは知っているよね?」
「あ、はい、それは知ってます」
 指さされたマンションは梛音が事件を目撃したマンションだった。
 もちろんあれだけの騒ぎを知らないでは通らないし、気にしていた事実もあるのでそこは素直に答えた。
「私はそこに住んでいた女性を探しているんだけれど、あの事件の夜、二ヶ月前の午後八時くらいに、君はそこを通った?」
 急にそう言われるので、梛音は心臓が止まりそうになった。
 背中を汗がスーッと落ちてくのを感じて、梛音は首を傾げた。
「えーと、何日くらいですか?」
「……八日、八時過ぎから九時の間。その日だと言われている。君、毎日この時間、この道を通っていると他の住人から聞いてね」
なんで時間まで特定ができたのかと、梛音は驚いた。
 遺体は海に沈んでいたのではないか。正確な時間は遺体の損傷によって日程は前後し、死亡時刻は判明しないはずだ。死後一ヶ月くらいで海の中で小魚に食べられていたという遺体からそんな正確な情報が得られるわけもない。
「……マンションの近くは通りましたけど……その日って確か、近所で殺人未遂事件があって……それで帰ってきた時は大騒ぎで、びっくりしたのを覚えてます」
 梛音がそう告げると、弁護士はふっと息を吐いてしまった。
「ああ、やっぱりそっちの方を皆覚えているんだね……だろうね。殺人が行われているのかいないのか見えもしない事件よりはそっちだよね……」
 どうやらその日のことを聞いて回っても、梛音と同じように皆が答えたらしい。
 それに梛音はホッとした。
 どうやら出した情報に間違いはなかったらしい。
 そして梛音はここでシラを切ったことで、ずっとこの秘密を抱えて生きていくのだと思った。
「この人を見たことはない?」
 そう言われて写真を見せられると、あの殺された人が写っている。
「……んー、お店に来ていたことはあるかもですが……覚えはないですね」
「お店って?」
「あの、この先にあるスーパー、あそこで店員をやっているんです。普段は裏方で、品出しがほとんどなので……レジだったらお客さんとして覚えていたかもしれないですが……」
 そう梛音が言うと、弁護士はああっと言った。
「あったね、めちゃくちゃ野菜が安い店。帰りに寄ろうと思っていたんだ」
 弁護士はそう言い笑う。
「あの、弁護士って……こういう事件とか、歩いて調べるんですか?」
 てっきり裁判で異議ありと言ったりする人くらいの認識しかなかった梛音がそう聞くと、弁護士は言った。
「色々あるね。まず私はこの事件に関わりがあると言われる女性の両親から雇われている。女性を探すために女性が犯人でないという証拠を探してる。何れ裁判にもなる事象だから自らの足で証言者や警察が見逃した証拠を探すんだよ」
弁護士は実に真剣にそう言うので、梛音の心が少し痛んだ。
「そう、なんですね……」
だって梛音は女性が犯人ではないことを知っている。
 あの男を殺したのは別の男だ。鬼のような形相をしていて、左目の下にホクロ、分厚い唇に角刈りの髪。それはしっかりと覚えている。
 一瞬、見たことを言おうとしたが、すぐに言葉は飲み込まれていった。
 だって怖い。
 この弁護士が本当に弁護士だとしても、もしかしたら犯人の弁護士で証拠を消しに来たのかもしれない。証人がいるなんて分かったら、犯人なら何が何でも消しに来るだろう。
 そして犯人は、誰かが犯行を偶然見たことを知っているはずだ。
 そう思ったら絶対に口が裂けても言えなかった。
「あの、もういいですか?」
 震える手で名刺を返したところ、弁護士は言った。
「また何か思い出したり、誰かに聞いたとかでもいいので、情報が入ったら連絡を入れてもらえると有り難いので、名刺はそのまま持っていて」
 冷えて震えている手を弁護士が少しだけ抑えて、名刺をそのままにしてから目の前から去って行く。
 そして遠くで歩いていた人に追いつくと、その人に話しかけて、何か楽しそうにしている。
 梛音はすぐに踵を返してアパートに飛び込んだ。
 鍵を閉めて、部屋の中央に座った。
 事件と関わりたくないのに、事件の関係者がここまで出回っているとなると、犯人側も証人は何が何でも消しにくるだろう。
 そう思い、気を紛らわすためにテレビを付けるとテレビではニュースバラエティがやっていた。
『それで、この殺された松山さん、実は大麻所持で何度も逮捕されていて、売人と繋がっているという噂あって、彼女の家に逃げ込んでいたようですね。そのことで闇の組織から狙われたということなんでしょうか?』
 リポーターがそう言いながらマンションの写真を背景に取材をしている風に言っている。どうやら取材が午前中にやってきていて、周辺の家に聞き込みをしたらしい。
 そこにあの弁護士の人も遠くに写っていたけれど、取材はされていなかったらしい。 恐らく弁護士相手に無理矢理な取材はできなかったのだろう。
 けれどこれであの弁護士の男がテレビに映っていても気にしない人間なら、恐らく弁護士であることは本当なのだろうと、少しだけ梛音はホッとした。
 犯人はまだ捕まらないけれど、梛音は自分が知っていることを話さなくても何れは、犯人に辿り着くのではないかと思えた。


「遠田、梛音か……」
 梛音がアパートに飛び込んでから、たったの数分。
 小野崎泰嗣は、梛音の名前をメモに書くと、すぐにその場を離れた。
 近くで待っている白の車に乗り込むと、運転席にいる男が言った。
「小野崎、あの子がどうかしたのか?」
 わざわざ名前を確かめに行くようなことでもないと、浅井和人が言うと小野崎が笑う。
「そうもいかないんだよ、あの子、きっと犯人を知ってる」
 小野崎は薄らと笑みを浮かべてそう言うと、浅井はまさかと声を上げる。
「うっそだろ! あいつ何も言ってなかっただろう?」
 遠くではあるが見ていたので分かるし、声も小野崎が持っている盗聴器で聞こえていたのだ。だから遠田梛音が怪しいことを言っている素振りすらなかったと驚く。
「言ってはいないが、言葉を何度も飲み込んでる。言いたいが言えない。そういう態度だった」
「はあ? そんなの警察に言えば犯人が捕まって終わりじゃん、何で言わない?」
 浅井の言葉に小野崎は少し笑う。
「浅井、お前が一人暮らしで周りに誰も守ってもらえない状況で、犯人に気付かれていないのにわざわざ警察に駆け込むか?」
「……え、いや、どうだろ、多分行くと思うが……?」
「それはお前が強くて、犯人を撃退できるし、警察を信じているからだろう? けれど、警察を信じても、警察は四六時中どこに潜んでいるか分からない犯人からは守ってくれないと分かった上で、自分に力がなく、経済力もない状況でこの場所から逃げることすらできないのに、通報してこれで安心だと暮らせるか?」
 小野崎の言葉に浅井は少し考える。
 自分が弱い立場で警察を無条件に信じることができないまま、犯人はこの人ですとは言えない。相手は人殺しで、平然と二人くらい殺していて、人を殺すことに何の躊躇もない人間だと分かっていたら、迂闊なことを口にはできない。
 自分が弱いと分かっているからこそ、身を守るためにできないこともあるのだ。
「……あーやー、弱いってそういうことだよな……誰も信じてないなら……言えないか……」
「まあ、赤の他人のために親切に名乗り出られる人間なんて早々いない。まして危険になるだけだ。そしてそんなことは私たちが一番分かっているだろう」
 見ず知らずのヤクの売人が殺され、その彼女が行方不明の事件、普通の人ならその関係者が犯人であろうことが分かる以上、危険を冒してまで犯人を捕まえて貰う意味がないのだ。
 見ない振りが一番安全に過ごせる。
 それを責める権利は小野崎にもなかった。
 小野崎も仕事じゃなければ、犯人を見つけようとか犯罪を立証しようとか女性のために何かしようなど思いもしないのだ。
 テレビで流れた時に思った通り、またチンピラ同士がやりあっただけか、そう思っただけで終わっている。
 小野崎は実際そう思ったので、遠田梛音を責める気は一切なかった。
 何より、まだあの子は葛藤していた。
「で、それで諦めるわけ?」
「いや、諦めるわけないだろう? 言えないなら言いたくなるようになればいい」
小野崎はそう言い、ニヤリとする。
「どうやって?」
「こちらとしては、頼まれた女性は生存している可能性がない以上、なるべく長く遺体が見つからないままでいてくれる方が仕事としては実入りの良い仕事だ。あの子には危険もまだ近付いていないようだから、こちらとして気長に接触を増やして安心して貰うほかはないだろう」
小野崎としてはこの美味しい仕事は長引いて欲しかったし、遺体が出てもそれなりに稼ぎはできそうだった。
 いなくなった女性、松山将の恋人だった森川蘭子の親は、地方の金持ちの娘だ。どうやら都会に行ってから悪いやつらと連むようになり、何度も言っても別れないのだという。
 それでも親が仕送りをして生活を支えてやっているほど、娘を可愛がっていたから、もし死んでいたとしても遺体でもいいから連れ帰りたいのだ。
 けれど警察は殺しの一味に捕まっているとは思えないと恐らく連れ去られて殺害されているだろうと思っているらしく、必死には遺体探しをしてくれない。
 だから弁護士に頼ってきたわけであるが、頼った先が小野崎というどうしようもない守銭奴の弁護士である。
 ただ小野崎は守銭奴ではあるが、金を積めば積むだけ能力を発揮するタイプで、仕事で失敗したことはない。どんな悪党も法律を駆使して無罪まではいかなくても減刑させるほどの力を持っている。
「また、小野崎のえげつないところが出てる……でも、今回に関しては同情しようもないからな」
 箱入り娘なら地元から出さずにおけばいいものを、娘の言いなりになり都会に出し、案の定、碌でもないのに捕まってしまっても甘やかし続けた結果がこの事件だ。娘も娘なら、親も親である。
「それでどこから手を付ける?」
 浅井の言葉に小野崎はまたニヤリと笑った。
 その伝はある。

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