twist of fate

1

 遠田梛音(えんだ なおと)の人生最悪の日は、二十歳の誕生日に訪れた。
 ずっと病気で入院をしていた父親が、息を引き取ったのだ。
 長く難病指定の病気だったから、いつか死ぬことはわかっていたけれど、それでも梛音は長く生きてほしいと願っていた。
 昨日だって見舞いにいったばかりで、元気に見送られて帰った。
 なのに、その十時間後には父親は息をしていなかった。
 心肺停止をしたら蘇生はしないでほしいと父親が言っていたから、急なことではあったが、父親の元に駆けつけた時には、まだ生命維持装置の警告が鳴り響いていた。
 亡くなっていることを確認させられ、それらが止められて、梛音はそこから父親がずっと手配をしていた手順通りに葬儀までを行った。
「準備だけはいいんだから……」
 梛音の父親が手際よく用意していたことを知ると、近所に住んでいた人たちは皆、それを褒めてそして泣いてくれた。
 だが、梛音の試練はそこからだった。
 まず父親の病気が難病指定をされるまでに積み重ねてしまった借金のおかげで、実家だった家を手放すことになった。
 土地代や家などで何とか借金は返せたけれど、梛音は親戚の弁護士から紹介されたアパートに引っ越すことになった。
 一人になって地元を離れ、古いアパートに引っ越しただけで、もう既にへとへとになっていたけれど、何とか大学は出られるくらいには預金は残っていた。
 父親は大学を出るようにといってくれたけれど、梛音は大学受験は受けたし合格もしたけれど、実は大学には通わずに入学を辞退していた。
 大学にいかなかったのはお金が今すぐ必要だったからだ。
 高卒で働けるところなんて限られているけれど、正社員として近所の大きなスーパーで働いていたから、自分一人の生活費は捻出できる環境にはなっていた。
 一人になるための準備をたくさんしてきたけれど、いざ一人になった時、さすがに梛音は怖かった。
 親戚はいるけれど、どの親戚も父親の保険金目当てで近寄ってきたようで、それもほぼ借金返済で消えたと伝えたら誰もが差し伸べた手を引っ込めてしまった。
 そして葬式が終わると早々に去ってしまい、どの人からも援助の申し出は出ず、保証人すら得られなかった。
 リスクを恐れたのと、そこまで親戚付き合いがなかったことが原因だ。父親が難病指定になった時ですら、誰も手を貸してくれなかった。それが現実だ。
 唯一、親類だった弁護士の先生だけは良心の呵責に耐えかねたのか、アパートの保証人になってくれてアパートを借りられたけれど、基本的には迷惑をかけないでほしいと念を押された。
「君が悪いんじゃないよ。私の方に経済的に支えられるほどの余裕がないんだ。家庭を崩壊させてまで君を救うことはできない」
 はっきりとそう言われたので、恐らくアパートの保証人も相当奥さんあたりに渋られたのだろう。だから梛音はそれらをすべて素直に受けた。
「大丈夫です、もしもの時は行政を頼ります……」
 そうなった場合、親類にまで梛音を助ける義務は発生しない。
 梛音はそう覚悟をして生活を進めた。
 

 新しいアパートは値段を優先したせいで、かなり条件が悪い。
 部屋はワンルーム、五畳の部屋と玄関にキッチンがあるようなもので、ユニットバス付き。古いアパートであるから家賃は安め、それでもスーパーだけで働いて、貯金もしていくならばこのへんが妥協点だった。
 広かった自宅のようなものは望んではいけなかったけれど、部屋は一階で部屋の外は区切られた庭付きで、その庭には先住の人が置いていった新しい目の納屋があった。
 そこに部屋に持ち込めない荷物を入れ、ゆっくりと処分をしていくことにした。
 弁護士の親類は一生懸命探してくれたようで、管理費は弁護士の知り合いだからという理由で大家から免除してもらった。独り身になった梛音の境遇を哀れんでくれたのだろうが、梛音はそれを有り難く受けた。
「ありがとうございます……」
「大変だものね……いいのよ、こちらとしては部屋を埋めてくれるだけで有り難いのよ」
 築年数が経ち過ぎてしまうとアパートの家賃を下げたり、条件を甘くしなければならないらしいが、そうすると治安が悪化することがある。だから最低限下げてくれた上で、管理費をなくしてでも梛音に入って貰いたかったらしい。
 素行の悪い人を入れてのちのちもめるくらいなら、明らかに素行は悪くなさそうな方を選んだという感じである。
そのおかげで何とか生活も安定して、前よりも勤務先のスーパーに近づいたから、徒歩で職場に通えた。
 アパート暮らしもそれなりに大変であるが、ほぼ高校自体から一人で家事などをこなしてきた梛音にとって、それはそれで慣れたことでもあった。
 部屋が一部屋になったおかげで掃除が楽になったことが唯一の利点くらいだ。
狭くなった部屋に物を置くのは狭くなるだけなので、小さな座椅子とラグに小さいこたつテーブルを置いて、そこで食事なども済ませる。
部屋が狭すぎるのでベッドは置かずに布団は毎日上げ下げをしている。
 それも大変であるが慣れてくれば、当たり前に行動できるようになった。
 ゆっくりと父親の持ち物を片付け、処分するのも一苦労であったが、一月かかってやっとゴミ出しにできた。
 悲しいけれど、親の記念品も何もかも一人暮らしのスペースを埋めてしまうものは、たとえ大事なものと分かっていても捨てなければならないのが、梛音には辛かった。
 それでも日々が毎日二四時間でやってきて、暮れていく。
 悲しいという感情をいつまでも引き摺っているわけにはいかなかった。
 梛音は、一人で生きていくために必死に毎日を過ごした。 


一人暮らしを始めて、二ヶ月が過ぎた。
 安定した生活は、やっと梛音の心も穏やかにしていった時だ。
 その日も梛音は勤務先のスーパーの仕事をしてから夜八時に家に帰り着く予定で仕事場を出た。
 他の社員たちと交差点で分かれ、歩いて住宅街に入る。
 そこからは入り組んだ道を歩き、近道を抜ける。
 その道は最近見つけた近道で、自宅まで直線で抜けられる裏道だった。そこを通らないでいくと、大きなマンションを二つ回り込んでいかないといけない。それが結構面倒だったから、その細道を知った時は嬉しかった。
 その道を通り始めて三日目くらいだった。
 細道に入る前の大きな通りで、急発進してきた高級車を見かけた。
「危ないな~」
 その細道に入るところはカーブになっていて、知っていても車がよく事故を起こしている場所だと聞いていた。だからあの高級車も突っ込んできたと思ったが、運良く曲がって去って行った。
「マンションの人だろうな。あんな危ない運転するの」
 文句を言いながら細道を通っている途中、いつもは迂回していたマンション一階の部屋のカーテンが開いているのに気づいた。
 何となくその部屋を見てしまったのは、真っ暗でもなく、はっきりとした明かりがついているわけでもなかったからだ。
 ぼんやりとした明かりで、今思えばあれは常夜灯だけがついていたから気になったのであろう。
「……なんだろ……」
 いつもなら気にもしないで通り過ぎるはずの道で、梛音は立ち止まってしまった。
 そちらを見ていると薄闇の中で誰かが誰かに首を絞められているのが見えた。
「……え? ……え?」
 見間違いか何かと思い、じっくりとその窓を見た。
 確かに誰かが人の首を絞めている。
 身動きもできずに梛音は目が離せずに人が殺されているのを最後まで見た。
 首を絞められた人が力をなくして崩れ落ち、そして絞め殺したであろう犯人が荒い息をしている。
 そんな時に、遠くから警察車両のサイレンが聞こえてきた。
 部屋の中で犯人が慌て、窓の方に近づいてきた。
 梛音は慌てて身を屈めたが犯人と目が合ったと思う。
「うそうそ、そんな馬鹿な……人、殺してた?」
 信じられないけれど、それを見た。
 男の顔には大きなホクロが左目の横にあった。そして分厚い唇と角刈りの頭。もう一度会ったらきっとすぐに犯人と分かるくらいには犯人の顔が見えた。
 梛音は腰が抜けたように恐怖でそこから動けなくなっていたけれど、サイレンの音がだんだんと近づいてきて、さらにはこの近所にきていることがわかった。
 そのことで梛音はゆっくりと這うようにして細道を出た。
 幸いなのは、さっきの犯人がいるマンションの入り口からはここまで来るには遠回りになる。すぐには梛音が抜けた道には出られないことだ。
 そこでやっと梛音は立ち上がり、塀から見えないようにして家に向かって走った。
 警察のサイレンの音は更に大きく響き、それは梛音がアパートのたどり着くと同時に隣のアパートで何かあったように警察車両が止まった。
 外には人が大勢出てきており、梛音はちょうどその輪の中に入ることができた。
もし犯人が追ってきても、この人集りでは梛音を見つけることはできないだろう。
「あら、梛音くん、今帰り?」
 アパートの隣に自宅を持つ大家さんが、梛音を見つけて声をかけてくれたので梛音は聞いた。
「あの、何かあったんですか?」
「それがね、どうやら殺人未遂らしいの。恋愛の縺れみたいで、それで大きな声で言い合いをしていたかと思ったら、ぐさっとね」
 どうやら大家はその現場にいたらしく、それらを見たようだった。
 他の野次馬もその現場の壮絶さに様子を見に出てきた人ばかりらしい。
「……そう、ですか……」
「まあ、見てた人も多いし、犯人は捕まっているから大丈夫よ」
 真っ青な顔をしている梛音を心配した大家がそう言いながら、梛音に自宅に戻るように言ってくれた。
 そこにテレビ局や報道のカメラが入ってきたため、梛音も大人しく自宅に戻った。
 部屋に入って鍵を閉めて、そして部屋の明かりをつけてから、部屋の真ん中に座り込んでしまった。
「僕が見たもの……何だったの?」
 人が人の首を絞めていた。それは見た。
 そして犯人と目が合ったと思う。
 絶対にあれは幻ではない。
 けれど、警察に言っても信じてもらえるかわからなかったし、何より事件である可能性があるかさえもわからない。
 あれがふざけていてそう見えたのか、演技とかしていたとか、色々な可能性がある以上、進んで報告する勇気はさすがに今の梛音にはなかった。
 というのも、このまま犯人が捕まればいいけれど、もし犯人がわからないままだった場合、誰も守ってくれない天涯孤独である梛音はその危険な犯人に命を狙われることになる。
「……大丈夫、こっちは暗かった、見えてない」
 梛音は自分がたまたまあっちの人が見えていたのは、間接照明と常夜灯のおかげで、明かりがない道にいた梛音のことは犯人から見えているとは到底思えなかった。
 犯人に見られていないなら、黙っていた方がいい。
 もし犯人が捕まって、何か進展があれば警察にいくのもありであるが、この時の梛音の立場としては、何も見なかったことにするのが一番の安全策だった。
 卑怯ではあるが、自分の身を自分で守れない以上、余計なことはしない方がいい。それが一人で生きていくために必要な最低限の身を守る術だった。


 翌日から梛音は普通に仕事に通ったけれど、あのマンションの裏手の道は使わなくなった。
 遠回りであっても関係ないという立場を使っている方が、もしあの時犯人に顔を見られていたとするなら、危ない場所は避けるべきだ。引っ越しも自力でできるような経済力もない今の状態ではどうこうすることもできなかった。
 けれど新聞だけは仕事場で読み、事件欄を確認したけれど、関係がありそうな事件は見つからなかった。
 きっとあれは演技か何かをしていた人で、事件なんか起きてはいなかったのだと思った。
 一週間は気になって真剣に調べたが、二週間を過ぎると事件なんて起きていないかのように振る舞えた。
 そして一ヶ月経っても、特に何の変化もなく、梛音はそれを忘れていった。
 だが、一ヶ月後の事件欄に、死後一ヶ月ほどの男の死体が港で発見され、事件は明るみに出たのだ。
 梛音が仕事に向かっている時に、あのマンションに通じる道にパトカーがたくさん止まっていた。
 この街はよく警察が来る街で、治安は余りよくないのか、サイレンの音は二日に一回くらいはしていた。けれどその日はサイレンは鳴らさないでやってきていた警察によって、道は封鎖されている。
 ちょっと気になって止まると、周りの人が別の人に説明している話が耳に入った。
「あそこの一階の住人らしいよ。何か港で浮いているのが見つかった死体」
「マジで? あの人ってゴミ捨ての時にいつももめていた人じゃん」
「そう。最近、全然もめないし、丁寧にやってくれているのかと思ってたら、死んでたかららしい」
「こう言っちゃあ何だけど、いなくなってくれて清々した。あいついっつも人の邪魔ばかりするし、通路は塞ぐしトラブルメーカーだったし」
「誰も惜しんでないっていうね。本当、どうせ誰かに恨みでも買ってたんじゃない? ああいう態度ばかりだったし」
「でもあそこに一緒に住んでた女だっけ? その女が住人で、あの男はその彼氏じゃなかったっけ?」
「ああ、そうだったな。越してきてすぐに同棲し始めたから忘れてた」
 そう住人たちが話しているのを聞きながら、警察の様子を見る。
 どうやら部屋には鑑識が入り、部屋中を調べ回っているようだった。
「殺害現場が部屋らしいから、あの部屋どうなるんだか」
「どうせ入居者ロンダリングして、何も知らないやつが住むよ。まあ値段も下がるだろうし、碌な奴が住むとは思えないし、そろそろ俺も引っ越そうかな」
 その言葉を聞いて、梛音はすぐにその場を去った。
 やはりあの部屋では殺人事件が起きていて、自分が見たのはきっとその殺人の真っ最中だったのだ。
 おぞましい物を見てしまったけれど、梛音はそれを警察には言わなかった。
 まずは職場で新聞を調べて、あの部屋で殺された人が松山将という人であることは見つけた。
 同じ部屋に住んでいるはずの女性は見つかっておらず、一緒に死んではいなかった。
「どうしたの? 事件欄にらみつけて」
 店長がそう言って寄ってきて、真剣に事件を眺めている梛音の新聞をのぞき込んできた。
恰幅のよい人の良さそうな笑顔を浮かべている店長は、四十歳でこの店を親から引き継いだ。昨今の大型店に潰されていく小型の店であるが、それでも低所得の人に人気の店になって生き残っているやり手の店長兼社長である。
「ああ、この事件ね。どうしたの?」
「あの……どうやら近所のマンションの住人らしくて、朝から警察がきてて、住人の人の話が聞こえてきたから……気になって」
「なるほど。それは気になるね……私もそれとなくお客さんに聞いてみるよ。さすがに殺人事件じゃ遠田くんも怖いよね」
「あ、はい」
 とにかく、余り興味を示していても怪しまれると梛音は事件のことは二、三聞き込んでから、それ以上はニュースサイトを眺めた。
 情報として梛音が知ったことは、松山将が部屋で殺され、その遺体が港に捨てられた。一ヶ月も見つからなかったのは、遺体に重しがついていたかららしい。けれどその重しにつないでいた紐が切れ遺体が浮き上がったので見つかったということだ。
「つまり、僕が見た時に本当に殺されていて……一ヶ月見つからなかった……けれど見つかった……一緒に住んでいた女性は見つかっておらず、事情を知っているか事件に巻き込まれたかわからないが警察は捜している……最近、松山はトラブルに巻き込まれたと友人知人に話しており、その関係で殺しに発展した可能性もある……」
 そう言う話を読んでから梛音は思い出した。
「あれ、この顔……知ってる……」
 松山将の顔写真がネットの記事に付いていた。
 それまではまだ被害者が名前しか分かってなかったので顔写真は付いていなかったのだが、その日の夕方には被害者の写真が手に入ったのか、しっかりと悪そうな不良のイメージ写真が使われている。
 見ようによっては、松山将が対立している誰かに殺されたと言われたら、松山将の写真を見た人の九割は納得するような悪い顔である。
 その顔を見て梛音が知っていることを思い出した。
 それは二ヶ月も前のことだ。
 スーパーの裏口で梛音が段ボールを潰している時に、駐車スペースで殺された松山ともめている男がおり、女性が間に入って止めていたことがあった。
 殺されている時の松山の形相が恐ろしかったので見覚えがないと思っていたけれど、顔写真を見てやっと一致した。同じ人である。
 ただあのときは駐車スペースで何かあったのかくらいに思っていたけれど、もしかしてもめていた相手が犯人である可能性もあるわけだ。
 ただ松山ともめている時に見た後ろ姿の人間を詳しく見ようとはしなかったので、あの時の殺人犯と同じかどうかはわからない。
「……関係しているとは限らないし……そもそも二ヶ月も前だし……」
 そこまでわかっても、梛音は警察にはいかなかった。
 犯人がまだ誰なのかさえわからない状態で、現場を見て犯人を見たともいえない。
 顔写真を作ってもきっと、犯人に結びつく何かが見つかるとも思えなかった。
 というのも、近所に張られている殺人犯や重大犯人が未だに見つかっていないのである。これだけ派手に全国に指名手配されても捕まる人が少ないのだ。
 だから顔さえ見ていない後ろ姿だけの男と揉めていたという情報以外、梛音が言えることは何もなかった。

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