Outer world

6

 慧琉はすぐに北郷に言われた通りに荷造りを簡単にした。
 まず、携帯電話は置いていく。そして金銭類も持ち出さない。
 足が付くようなものは全部置いていってもいいが、肩から掛けるバッグに入るものなら持ち出してもよかった。
 その通りにしてから、携帯はお風呂の湯船に付けた。
 記録媒体も持ち出して、SIMカードは途中の川に投げ捨てた。
 本体が壊れてSIMカードもなければ、個人が通話記録を調べることはできない。警察に縋るなんて教団は絶対にしないだろうから、これだけで慧琉に何があったのかは分からないだろう。
 ただ言えることは慧琉が一人で教団から逃げたことくらいだ。
 慧琉は隣に住む宮代に見つからないように部屋を抜け出し、部屋の鍵も郵便受けに入れた。
 息を殺してエレベーターを避けて階段を降り、一階まで静かに降りてから周りを気にして、いつもの駅とは反対の駅に向かって走った。
 息が上がり苦しかったけれど、それでも足を止めて見つかることの方が恐ろしく、とてもじゃないが振り返ったりはしなかった。
 ただ北郷が言った通りにしたわけではない。
 慧琉は自分の意思であの場所を抜け出し、自分の足で待ち合わせ場所に向かう。
 誰のせいでもない。自分の考えだ。
 そう思うだけで慧琉は足が止まらなかったし、もっと早く走った。
 人通りの多い道路に出て、歩行者を避けながら駅に向かった。
 やっとの思いで駅まで着くと、慧琉はすぐに駅前の駐車場を探した。
 待ち合わせに使ったのは立体駐車場だ。
 駅前では信者に見られる可能性もあるということで、立体駐車場ならさすがに相手もそこまで見張っているわけもないだろう。
 慧琉は階段を登り、待ち合わせの二階に上がる。
 すると、車の前で待っていた北郷がいた。
「ああ、北郷さん……」
 すぐに慧琉は駆け寄って北郷に抱きついた。
 完全に息が上がっていたから、抱きついた瞬間に足から力が抜けた。
「大丈夫か、慧琉。よくここまで来てくれた」
 北郷がそう言いながら、慧琉を素早く車に乗せた。
「いいかい、都心を離れるまでは後ろで伏せているように」
 後部座席に乗せて伏せているように言ってから、北郷はすぐに車に乗ると、既に車の助手席には一人慧琉の知らない人が乗っている。
「こんにちは、平井といいます。弁護士をしています。今から私が準備した場所で北郷と共に避難してもらいます。いろいろを手続きもあるので、当分隠れた生活になるかと思いますが、必ず助けます」
 平井がそう言い、慧琉は心配そうに北郷を見ると、北郷が言った。
「義理の兄の友人で弁護士だ。慧琉のために動いてくれている、大丈夫だ」
 北郷が安心するように告げると、慧琉ははっと息を吐いた。
 本来なら北郷すら信用できるかどうか分からないのに、教団を飛び出してきてしまったのは、北郷が立原雅彦の義理の弟だからだ。
 立原は義理の弟が弁護士で優秀であることは話してくれていたし、弁護士仲間だった人とは入信した時に袂を分かってしまったと言っていた。
 その話が嘘ではないだろうから、北郷が説明した通りだと、立原が仲違いをした弁護士仲間はきっと平井のことだ。
「立原さんはずっと、弁護士仲間のことを懐かしんでいました。最後に会った時も、仲間を頼るって……そう言って出かけたまま帰ってきませんでした」
 慧琉がそう告げると平井は目を見開いて動揺したようだった。
「そ、そうか……立原は……俺のところに来ようとして……」
 当然不審な行動をする立原は目に付いていただろうが、頼る先が被害者の会で弁護士をしている平井だったのなら、立原が消される理由も見つかったも同然だった。
 立原は慧琉や詠芽が児童虐待をされている証拠を持っており、いつでも教団を窮地に追いやれる立場だったのだ。だから見張られていて、行き先が平井の事務所であることが分かった時に拉致されて殺されたのだろう。
 北郷が言う通り、慧琉たちを救いたいと言っていた立原なら海で自殺なんてことはあり得ないことになる。そして慧琉の証言から、立原が弁護士に会いに行こうとしていた事実まで分かれば、あの自殺で片付きそうな立原の事件も殺人に変わる。
「これは……北郷、本気で逃げないといけない。もちろん、本気で逃げるために用意したけれど、もっとだ。当麻慧琉くんは、生き神という存在だけの問題じゃない。殺人事件の重要な証言者だ。そして児童虐待が本物とすれば、政治家や業界に人間の告発もできてしまう立場だ」
 平井はすぐに車を出すように言い、都心をすぐに抜け、高速で信者が少ないと言われている九州へ向かった。
 途中のサービスエリアで何度も休憩するも、出歩くのは北郷だけで買物を済ませるとトイレすらも北郷が付き添った。なるべく人がいない時間帯を選んだので、深夜のトイレに観光客は少なくて誰にも会わなかったけれど、長旅はかなり堪えた。
 けれどその道中、ずっと平井は状況を話し、慧琉からの話を聞き出すことに集中をした。
 教団内の状況を唯一知り得る慧琉の情報は、ずっと平井が知れなかったことばかりだった。
「小さい頃からと言っても、ずっと準備のようにあれこれされてましたけど、セックスは十二歳の時です。今はもう来ない人なのですが、名前は原永様と言われてました。十五くらいまでは……毎週のように。声変わりをした辺りから来る人も変わりました。僕は知らなかったけれど、ショタコンとか年齢が重要な人がいるんですよね。僕らはあまり成長はしなかったので、生き神としては長く同じ人と続いたみたいです」
 代々地元の偉い人の相手をしてきたのもあるだろうが、当麻家はそうした生き神と称し、特殊性癖がある人間の相手をすることで、教祖として教団を維持してきたという。
「僕が調べた感じでは、成人を迎えたら生き神は次の生き神と変わっていくみたいで……僕らもそうなのだと思います。ただまだ次の生き神が赤ちゃんだから、準備まで延長されるみたいな話は受けました」
 そう言い慧琉は教団内の見取図を大体描き出してくれた。
 衛星写真でしか知らない教団の内部がはっきりと分かる形にはなった。
「さすがにここから先の信者の住まいは分からないけれど、教祖の部屋はここで、僕らはその奥で、山に近い場所の建物に囲まれている中心にあるところが、僕らがセックスをさせられている部屋です。外から見られる可能性がないようにしてあるらしくて。教団内に入ることも難しいのですが、奥の間へ行くのもかなり難しくて、更にそこからその中央の部屋にいけるのはごく一部の人です。掃除や清掃などの人も内部に住んでいる信者で、その人たちは屋敷から出たことがないみたいです」
 慧琉の説明を聞いていくと、平井は目眩を覚えながらも詳細に書き留めていく。
 慧琉はセックス自体は恥ずかしいこととは思っていないが、児童虐待の事実についてはちゃんと認識していた。
「はい、知ってます。児童虐待というのでしょう、これは。僕らはそうした被害者。けど、僕はセックスは嫌いではないんです。そういう風に育ったから、もう否定してしまったらきっと僕は生きていけない。だって嫌いじゃないから。ただ、北郷さん以外とするのが嫌になっただけで……」
 慧琉はそうした認識があると平井に告げると、平井がニコリとして言った。
「北郷をよろしく」
「はい、こちらこそ」
 そう言い合ってしまった。
 慧琉は基本、生き神の姿として着飾って信者の前に出ることはない。
 生き神は見られる人はほぼおらず、信者でも慧琉や詠芽の姿を知っている人は側近以外にいない。顔は隠され、姿は見せずに、簾越しに年に一回、影を見せるだけだ。
 そして詠芽が一言、挨拶をして終わりだ。
 慧琉は発言をしたことはなかったし、一年に一回、人前に出るだけだ。
「小学校も中学校も行ってません。けれど、特殊環境であるという認識をして貰えたので、私立の高校からは普通に通えましたし、大学も行けました。けど、僕らが生き神であることを知ってる人はいなかったと思います。メディアもさすがに僕らのことを表立って写すこともなかったので……」
「今まではその必要性もなかったのだろうが、これからはどうなるか……君と詠芽という子は似てるのか?」
 平井は双子で通っている慧琉と詠芽の容姿の違いを尋ねた。
「似ていると思います。黙って動かないでいるとそう言われます。ただ喋ると、詠芽の方がよく喋って、動き回るので分かってしまうんです。それが?」
 慧琉と詠芽が似ていることが問題なのかと尋ねると、平井はそれにホッとしたようだった。
 北郷もそれに頷く。
「似ているのなら、都合が良い。あっちとしても捜索には側近しか使えないし、下手に慧琉の顔写真をばらまいたら詠芽の方も危険になる。そうなると捜索範囲も広がらない。後はこちらの足跡を消し、完全に隔離できれば、書類の準備さえ整えば、君らを海外に一旦移すこともできる」
 平井がそう言い、とりあえず遠くにいけば向こうも捜索しようがないと思う可能性が高い。
 慧琉一人で脱出できるはずもないのはすぐに分かってしまうだろうが、誰が手を貸したのかまではさすがに予想もできないだろう。
 たった一日、ただ瞬間だけ繋がった二人が逃走を企てる暇さえない人間ができることではないからだ。
「あちらとしても大々的に動くことはできない。その隙を突こう」
 平井はそう言うと、九州に入ってすぐのサービスエリアで北郷と慧琉を下ろした。
「新しい車はそこにある。持ち主は援助してくれている人たちの中に月々レンタルで車を貸している人がいて、今回は無料で貸してくれている。怪しまれることはない」
 ちゃんとした熊本ナンバーだった。どうやら都会からは離れた場所を選ぶことが分かる。
 これで東京ナンバーの車で彷徨いているよりは、怪しまれることもない。
二人は平井と別れ、北郷と慧琉は車に乗って阿蘇山を目指した。
「とりあえず家を借り、人通りが少ない場所を選んだ。阿蘇の麓なら、古民家も多いらしくて、避難するには十分らしい」
 地元にきちんとした協力者がおり、その人が上手く周りの民家との距離を取り持ってくれるという。買い物や必要品はその人たちが揃えてくれるようだ。
 慧琉は初めて来る九州も珍しかったし、阿蘇山までの道も楽しかった。
 途中の麓の道に車を止めて、公園らしい広場で買い込んだお弁当を広げて食べた。
 それは慧琉にとって初めてのことで、外でモノを食べたことがなかった。
「何だか不思議です。お弁当は普通なのに、もっと美味しい気がします」
 慧琉が遠足なんて経験もしたことないことに北郷は気付いて、少し微笑んだ。
「これからは天気のいい日は外で食べるのもありだ。縁側でご飯を食べるのもありだ」
「あ、それは楽しそう。料理したことないけど、できるかな?」
 慧琉は言って様々な体験をしたがった。
 北郷はそんな慧琉に微笑んでそんな僅かなことにも楽しみを見出せる慧琉に沢山のことを教えてあげようとした。
 二人はその日の夜にやっと阿蘇の麓にある家に到着した。
 周辺民家は遠く、見渡しのいい畑の真ん中にある家だ。周りの畑はこの家の所有者の持ち物で遠くの村人は近づかない。車で三分くらい離れているから、大きな声を出しても聞こえないくらいに遠い。
「家の案内は断った。時間も時間だから挨拶も明日にして貰った。今日は布団も敷いてあるし、風呂も沸かして貰っているからさっさと寝よう」
 小さな民家に到着してすぐに家に上がると、部屋の中は綺麗にモノが揃えられていて、人が住めるようになっていた。
「元々去年まで人が住んでいたらしい。布団はレンタルしてもらったけど、他のものは流用していく感じかな。当面の間だから工夫していこう」
「はい!」
 北郷の言葉に慧琉はわくわくとした感覚を覚え、これからの生活が楽しみだった。
 初めて教団から抜け出し、一切監視の居ない生活が輝いて見えた。
 風呂も変わっていたし、最新のものではないけれど、慧琉はどれに触れる時も大学で始めて自分で選んだことができた時の気持ちを思いだした。
 風呂に入って用意された着替えをして、北郷も着替えて部屋に並べられた布団に一緒に入ってから慧琉は新しい生活の始まりに感謝をした。
「北郷さん、ありがとう。まだ色々始まったばかりですが、宜しくお願いします」
 そう慧琉が言うと、北郷が言った。
「名字じゃなく、蒔人と呼んでくれ。その方がいい」
 北郷の言葉に慧琉は北郷の名前を初めて知って嬉しくなる。
「はい、蒔人さん……」
「よろしく、慧琉」
 暗闇で伸ばされた北郷の手が慧琉の頬に触れて、慧琉はそれに頬ずりをした。
 不安になっていた気持ちもそれだけで飛んでいく。
 まだ知り合って二日と経ってないのに、ずっと一緒にいるような気がするほど、慧琉は北郷に心を許していた。
 それが運命の出会いであるという事実に気付くのはもっと後の話だった。

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