モノポリーシリーズ ブルー・ラグーン

2

 藍音が去って行ってから、立夏は戸賀とともにまずバイト先の仕事を教えて貰うことになった。
「まず、ここがロッカールーム。ここに荷物を入れてロッカーには鍵をすること。なくなって困るような貴重品は持ち込むな。ロッカーの中に小さな金庫もついているから、財布なんかはそっちにいれておいてくれ。鍵はなくすと業者に頼んで開けて貰うまで一日かかるので、なくさないように首に駆けている身分証明書の裏にでも入れて置いたらいい」
 そう言われて鞄から財布を取り出して金庫に入れ、そして荷物をロッカーに入れて鍵をする。身分証明書の裏には鍵が入るスペースがあり、そこに鍵を仕舞った。
 立夏の身分証明書にはバイト研修中の文字が入っていて、まだ写真や名前は書かれていない。
「部屋で着替えを置いたりして、エプロンを着けて、隣の部屋でタイムカードを押す。帰る時もタイムカードを押してからロッカールームに入ること」
「はい」
 そこで立夏は用意されていた自分のタイムカードを押した。
 ここからバイトの始まりである。
 それから仕事部屋になる机と椅子がある部屋に案内された。
「ここが宮凪の机で、奧にあるのが俺の机。基本、二人で当面は作業していく。他のバイトは別の部屋だから入らないように。あと、他のバイトをこの部屋には入れないように。基本的にここは俺の統括部屋なんで」
「はい」
 どうやら当面は戸賀の指示で動き、それで使えるようになったら移動する形なのだろう。
 庶務の隣にバイトの部屋があり、そこには庶務からの引き継ぎできる仕事を受けてバイトが色々と動いている。
 戸賀が立夏を紹介してバイトと顔合わせするけれど、皆忙しそうなので早々に部屋を出た。
 バイトは四人ほどいたが、全員が何かしら作業をしている。
「備品の部屋はこっち」
 そう言ってエレベーターで地下に行き、そこで備品がある部屋を見せられる。
「鍵は入り口のさっきの警備員か、俺が持っているから、それを借りて開ける。鍵は終わったらすぐ返すこと。持ち出しは禁止だ」
「はい」
 恐らく備品を持ち出し、それを売って生活費にしたりする人もいるようで、トイレのトイレットペーパーもその備品に入っている。
 そうしたものを見せられた後に部屋に戻った。
「今日はここで書類の整理だ。明日の会議用の資料をまとめてホッチキスで留める。それだけで五十部を二十種類ほどあるから時間は結構かかる。それじゃ頼む」
簡単な説明だけ受けて、立夏は書類を十枚拾ってまとめてホッチキスで留めていく。そしてまた同じ作業で五十部の別の資料をまとめる。その作業を二十回もやっているうちに二時間が過ぎていた。
「それが終わったら、バイト上がりだ」
 そう言われてハッとすると、もう八時になっている。
「早いですね……時間が過ぎるの」
 立夏がそう呟くと、戸賀は少しだけ笑っている。
「そうだな、真剣にやっていたようだからそう感じるんだろう」
 どうやら真面目に立夏が仕事をしていたことを感心しているようで、ちょっと立夏はむくれる。
 容姿から真面目に仕事をしないんじゃないかとか、あの話した内容から仕事をしなくてトラブルばかり抱えているイメージが付いてしまったのがちょっと悔しかった。
 自分が何かしたわけでもなかったのに、そういう現実しかないことはかなり辛いのだが、それはきっと理解はされないのだろう。
 立夏の知り合いで理解を示してくれたのは壱伽くらいだ。
 だからそれは特殊なことで、一般的ではない。一般の人には分からないのだと立夏は思い直して最後の資料をまとめてホッチキスで留めた。
 資料を全部まとめたところで、それを箱に入れて、戸賀と一緒に会社の会議室に順番に置いて行く。
 これで朝一番に会議に必要な書類を手配する手間が省けるわけだ。
「普通は社員がやっている作業なんだそうだが、無駄な作業で社員の意欲を削るのは良くないということから、資料作りの指示だけ貰ってこちらで整え、こうやって会議用に仕上げるまでがバイトの仕事になった。とはいえ、この書類に触れるのは、将来的にこの会社に推薦されるバイトのみで、他のバイトは触れない」
 そう戸賀に言われて立夏はふと気付く。
 それは戸賀はもちろん、藍音もまた立夏を信用して仕事を任せてくれている証拠なのだ。
 それが分かって立夏は少し嬉しくなった。
 まだバイトの初日であるが、立夏はこのバイトはやりがいがあると思えた。
 他のバイトが既に帰った後で立夏は戸賀と一緒にロッカールームに戻り、着替えていると藍音がやってきて立夏のバイト用のセキュリティーカードとバイトであることを示す身分証明書を持ってきてくれた。
「はい、これ。身分証明書は入れ替えて、はい。で、セキュリティーカードは入り口の警備に提出して機械に通して貰って、それから指紋も。帰りに入り口で警備に指紋も登録してね。戸賀、あとはお願いね」
 藍音は忙しそうに部屋を出て行ったので、立夏が戸賀を見ると、戸賀は言う。
「荷物を持って、指紋を登録しよう」
 そう言って一階の警備室に戸賀と一緒に立夏は向かい、警備員に指示された通りに指紋登録とセキュリティーカードの登録を連動させた。
 これを入り口でカードを通しても、そのカード主である立夏が指紋で解除しないと中に入ることができない。
 様々な開発や営業をしている比湖グループは世界的な規模で活動をしている企業なので、社員どころかバイトの一つでも厳重に管理しているというわけだ。
「明日からはここからカードを出して入ってくれ」
「はい」
 そう言ってから会社から出ると、周りはもうサラリーマンもあまり歩いていない。
 最近の残業が廃止されたり、禁止されたりしている現状から、皆五時六時で上がってしまうので、人通りも減ったようだった。
 道路にはタクシーが通っている程度で、駅までは五分の距離であるが人通りがないのは少しだけ怖い。
 けれど戸賀がそんな立夏の隣に立ってくれて、駅まで一緒に移動をした。
「何処行き?」
 駅で切符を買おうとしている立夏に戸賀が問う。
「えっと、駅は五つ先です」
「ああ、もしかして市原?」
 それは立夏の住んでいる家の近くにある駅である。
「あ、はい」
「へえ、じゃあ宮凪って、駅から左方向にある昔バラ園だった?」
「はい、そうですが?」
 何で知っているんだと立夏が警戒すると、戸賀が言った。
「昔、その奧の古い日本庭園の家に住んでた」
 そう言われて立夏は思い出す。
「あ……知ってる。でも老朽化とかで最近洋館に変わった気が……」
 確かに立夏の家の近くと言って良い場所にある、ちょっと奧の小山の麓にある大きな屋敷であるが、誰が住んでいるのかは気にしたこともなかった。
 というのも、その辺には大きな屋敷が沢山ある街並みで、立夏の家も大きな庭を持つ家だったからだ。住んでいる人は時々変わっていたし、その日本庭園の家は戸賀ではなかった気がする。
「昔は、近岡(ちかおか)という祖父さんが住んでた。そこに俺も住んでた。母親が再婚して出て行って、祖父さんが死んだから俺がその家を相続して、洋館に建て替えた」
 戸賀が意外なことを言ったので、立夏はその偶然に驚く。
「へえ、こんな偶然ってあるんですね……」
「らしいな。だが、これで帰り道の危険の回避はできるわけだ」
 戸賀がそう言うので、立夏がキョトンとすると戸賀が言う。
「何かあっても、俺がいるから手出しはできないって意味」
 その言葉にああっと立夏は納得をする。
 もしもの時に立夏が危険な目に遭わないためには、その護衛が必要である。
「藍音から頼まれている。何かあったら俺が何とかするようにって」
 戸賀は立夏の所謂護衛も兼ねた仕事も、仕事の一部として入っていると言った。
「すみません……何だか面倒なことで」
「いや、それは構わない。むしろ帰り道が同じなら面倒なことは何もないことになる。それより定期券を購入しよう。バイトは週六で入るなら、定期の方が得だし交通費は会社から支給されるから藍音から買っておくように言われている」
 そう言って戸賀は定期券を購入してきた。
「これで交通費削減できるだろ」
 定期券を渡されて立夏はホッとする。
 交通費が出る話は聞いていなかったので、これが出る出ないではちょっと違う。
「ありがとうございます」
「じゃあ、帰ろう」
 電車に乗り、立夏は戸賀の隣に座る。
 こういう一緒に帰るのに安心する環境を用意してくれたのは有り難かったが、これで戸賀が今までの人のように変貌したとしたら、立夏はもうバイトはしないでいようと思えた。
 今度は家も近く、何かトラブルが起きたら今度こそ家に住めなくなる。そういう環境であったが、戸賀は立夏を門先まで送ってくれ立夏が中に入るまでしっかりと見届けてから、本当に先の小山の洋館に向かって歩いて去って行った。
 立夏はそれを監視カメラで見てから、使用人の比志島に聞いた。
「あの小山の洋館、昔大きな日本庭園があったところ」
「はい、確かに洋館に変わりましたね。たしか立夏様がマンションへ引っ越された後かと。戻ってこられた時には洋館が完成してました」
 本当にその通りだったようで、立夏は聞く。
「そこに今誰が住んでいるのか知ってる?」
 そう尋ねると比志島は答えた。
「はい、近岡様のお孫様に当たります、明柊坊ちゃんですね。今は戸賀姓になられているかと……引っ越しの時にご挨拶においでになられてました」
「え……何で?」
 あの家からはかなり離れているので、近所付き合いがあるわけではない。
 だから不思議だと立夏が言うと、比志島は少し笑った。
「覚えておられないのは無理はないです。立夏様がまだ物心も付いていない時に、少しだけ母親同士が知り合って家を行き来するようになっていたのです。その後あちら様が、再婚で引っ越しをされてからは戸賀様とは疎遠になりましたし、こちらもまた色々ありましたから、あちらも時々はおいでになられていたようですが、遠慮されていたのでしょう」
 どうやら立夏が覚えていない時に交流があり、それなりに仲良くやってきたけれど、再婚で引っ越しをしてからは疎遠になって、その後は立夏の母親が立夏の誘拐後におかしくなってしまったので尋ねる訳にもいかなかったのだろう。
 家の様子を見ていれば誰でもそんな決断をしたかもしれない。
 昔はバラが育って家中を覆うくらいに庭が華やかだったのに、今や壁は高く、更に鉄骨による返しが付き、監視カメラ塗れで玄関は電子ロックとまでなれば、事情を知っている人は関わり合いになると面倒ごとになると察する。
 まして立夏と関われば、母親が激高しやすくなっていたのも近所の人は知っているので、近寄らないように言われていたはずだ。
「そっか、昔ね」
「明柊坊ちゃん、ご立派になられてましたね。去年まで留学をされていたようで、最近戻っていらしたとおっしゃってました。それが?」
 どうして急に戸賀の家のことを聞くのだと言われたので、立夏は素直に言った。
「バイト先が一緒なんだ。それでバラの家のことを覚えていたと言ったから。向こうも僕のことは今の顔も知らないみたいだったようで、名前と住んでいるところでやっと分かったみたい」
 立夏がそう言うと、比志島もなるほどと頷く。
「そうですか、立夏様は赤ん坊の頃しか知らないでしょうし、それはさぞ驚かれたでしょう……それにしてもあれからもう十八年も経っているなんて。私も年を取るわけだ」
 そう言いながら比志島が笑っている。
 比志島は立夏が生まれる前からこの家で使用人をしてきて、立夏の父親が高校生の時からずっとこの家と家族とで暮らしてきた。それからもう二十五年くらい経っているから、昔のことも懐かしい記憶も色々と思うことがあるようだった。
「ご夕飯をご用意しますので、食堂へ」
 懐かしい話をした後に比志島は言って立夏にご飯を用意してくれた。
 食事を食べている立夏の側に、手紙が幾つか届く。
 一つは普通にダイレクトメールのようなものだったが、もう一つは父親からの手紙だった。
「何だろ?」
 珍しく手紙で連絡を寄越すということはメールでは済まない出来事のはずだ。
 それを開いてから、一通り手紙を読み終えて、立夏は呟いた。
「……え、家の売却をする……?」
 それは立夏にとって、何の相談もなしに行われてしまった、父親による事後報告だった。
 立夏の家は、父親の実家でその家を父親は売ってしまったというのだ。
 もう契約は決まっていて、立ち退きは来年の春。つまり後、あと一年しかこの家に住めないし、住むところを別途探すしかないというのだ。
 更に比志島との契約が解除されるため、比志島には別途これまでの労力に対する感謝の印として郊外に一軒家を用意したという。
 それは比志島にも寝耳に水な出来事だったらしく、比志島に立夏が告げると確認のために比志島は父親に電話をかけてくれたけれど、手紙に書いた通りだと言われて、今更契約をなかったことにはできないとまで言われたようだった。
「旦那様、あまりに酷い仕打ちでございます……私どもは構いませんが……立夏様には……ここが砦なのです……」
 そう言ってくれたけれど、父親はもう立夏もいい歳なのだから自立して貰うと言っているけれど、どうやら父親はアメリカで誰かいい人ができたらしいのだ。
 入院している母親はいつの間にか協議離婚が成立していて、立夏は母親があの状態なので父親が親権を持っていたという。
 立夏への影響がなかったせいで、まさか裏で父親がそんなことをしていると思わず、立夏はそれに対して何もできなかった。
 精神を病んだ母親も寝たきりになり、最近では意識もない状態が続いている。
 けれど、そんな父親を責めることは立夏にはできなかった。
 立夏もまた、母親に対して見舞いをしたりもしていなかったし、最後に会った時の錯乱を知っているから怖くて尋ねてすらいなかった。
 ずっと十年以上、会ってもいないのに、父親に母親を捨てるのかとは言えない。
 離婚するまではちゃんと面倒を見ていたし、手続きも何もかも手配もした。
 十年経ったのだから自分の幸せが欲しいと言われたら、立夏に止めることはできない。だって母親があそこまで狂ったのは、立夏のせいだからだ。
 立夏は、ここで駄々をこねてもきっと父親はもう立夏のことで悩みたくもないのだと知った。
 確かにこれから先、成人をした息子がどう生きるのかなんて、きっとそこまで興味があることではないのだ。
 最初から壊れた家族の行き着く先を引き延ばして、そしてやっと訪れた離散は、立夏の成長を待ってのことだったのだ。
 父親にとって、もう十年近く戻っていない家はきっと精算したい過去でしかないのだ。
 立夏は父親を批判する比志島を宥めて、決定を受け入れることにした。
「仕方ないよ。僕らはもう生きる道が何一つ一緒じゃないんだよ」
 立夏がそう言うと、比志島は悔しそうにしたけれど、立夏の説得で父親からの感謝の印である家は受け取って貰うことにした。
 そうすることでしか、立夏からは何も感謝の気持ちすら送れないことを理解していたからだ。
 それは比志島にも分かったのだろう、一年後に来る別れに比志島はしっかり勤めますと答えたのだった。

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