モノポリーシリーズ
アイネクライネ
1
その夜は特に何かあったわけでもなかった。
比湖藍音(ひこ あいね)はいつものバーに乗り込んで仲間たちと酒を飲んだ。
その日はただ仲間と飲みだけだったのに、気付いたら坪倉優成という男と二人っきりにされていた。
「あれ、皆は?」
トイレから戻ってくると仲間たちは既に店を出た後のようで何処にもおらず、飲み直すと聞いていたから藍音は坪倉に尋ねた。
「なんか、解散するってさ。あ、もうちょっと飲んでいかない?」
ニコリとする坪倉は、最高に優しい顔をしている。
話を聞くになしに聞いていたところによると、モデルとして最近ちょっとした雑誌に載ったらしい。それでそれを自慢していてプライドも高そうだった。
なるべく藍音はそうした人とは離れたところにいたのだが、どういうわけか仲間に裏切られたらしい。
「へえ、じゃ僕は帰るね」
藍音はさっとそう言って入り口で踵を返した。
「待って、俺と飲んでいこう?」
甘えるように言う坪倉が勢いよく立ち上がって藍音を追ってくるが、藍音はそれを無視して店を出た。
「おい、待てよ!」
最初こそ優しい声を出していたけれど、藍音が無視をしたことによって坪倉は苛立ったようだった。
藍音は坪倉に腕を捕まれて店前で壁に押しつけられた。
「……った……何……?」
酔っていたから足下が少しおぼつかなかったので捕まってしまったが、藍音は坪倉を睨んだ。
「俺を、無視するなっ!」
「無視はしてない。断ったからもう用がないだけ」
藍音がそう淡々と返すと、坪倉は叫ぶ。
「お前は俺と飲み直して、ホテルに行くんだよっ!」
「飲み直しもしないし、ホテルに行く義理もない。そもそも約束すらしてない勝手な予定を押しつけるな!」
藍音はそう叫んで返し、決して坪倉には従わないと言い切ると、坪倉が更に苛立った。
「男に股を開くような淫乱なヤツが、何選り好みしてんだよ。俺が寝てやると言っているんだ、素直に股を開け」
平然とそういうことを言う坪倉に、藍音は最高に苛立った。
どうやら置いていった友人たちはこの坪倉の表面の顔に騙されて藍音を置いていったらしいが、この本性を知っていたら絶対に藍音と二人きりになんてしないだろう。
最初から坪倉は藍音の体が目当てでグループに入り込んでいたようで、その目的を達成するためには暴力すら使うことを厭わないようだった。
そして藍音が怒りにまかせて叫ぼうとした瞬間だった。
「なあ、その子、俺と待ち合わせしてた子なんだけど。あんた誰?」
急に坪倉の肩を掴んで男がそう行ってきた。
「あ……」
藍音はその人物のことを知っていた。
坪倉はそのまま男を振り返って叫ぶ。
「はあ? 何嘘吐いてんだよ。こいつは俺と、予定してるんだよ。誰だよ貴様」
坪倉の怒声に全く怯みもせずに男が言う。
「ああ、水偉志朗(みずい しろう)って言うんだけど。大学は別だけど、サークルが同じだったんだよ。久しぶりに会えるって言うから二次会は俺とする予定だったわけ、分かる?」
志朗がそう言い、それに坪倉は志朗を睨み付ける。
「はあ、嘘吐くんじゃねーよ」
「嘘じゃないけど? むしろ何でお前に嘘だと言われなきゃいけないわけ? お前との予定の方があり得ないんだけど?」
志朗はケラケラ笑いながら坪倉を煽り、坪倉の苛立ちをどんどん増やしていく。
「いやだなあ。ちょっと顔が良いくらいで雑誌に載ったからって、世の中全部自分を中心に回っているなんて勘違い、どうしてできるのか不思議で仕方がない。あ、そういうこと?」
急に志朗が納得したように携帯を取り出してパシャリと写真を撮った。
「な、何してやがるっ!」
「はい、暴行の現行犯! 同級生の男のことに性的なことを要求する雑誌モデル。これからデビューしたばっかで色々あるだろうに、こんなことでその将来を棒に振るんでしょ? いいよ、俺が雑誌社にこれ売り込んでやるから」
とんでもないことを言い出して坪倉どころか藍音まで驚いた。
「はあ? 何だよそれっ!」
「あーでも、君まだ有名じゃないんだよね? それじゃ出版社は買い取ってくれないから、SNSとかに流す方が有効かな?」
「貴様っ何言って!」
「君が雑誌一冊に載った程度のモデルでも、ネットの人たちはきっと身元まで突き止めてくるだろうね? もちろん大学も問題にするだろうし、事務所の知るところになったらきっと首だろうし……ねえやってみる?」
志朗の言葉は嘘じゃないのか、既にツイートするために写真と文句を打ち込んでいる。あとは指先一つでそれがネットに投稿される。
「写真一つじゃなんだから、さっきの恫喝部分の動画も一緒にアップしておくよ。君は何にも困らないなら、別にいいよねこれくらい」
そう言う志朗が本気でボタンを押してしまった。
「ああああー! 貴様っふざけるなっ! くそっくそっ!」
そう叫んだ坪倉であるが、それに志朗が言う。
「ああ、これまだ鍵垢なんだよね。もちろん壁打ち用の。でも鍵開けたらどうなるかな?」
「や、やめろっ!」
坪倉が必死になって叫ぶも志朗が続けて言う。
「でも君はさっき藍音のことこうやって脅してたでしょ? 自分の行いに対して、世間の反応ももちろん甘んじて受けるってことだよね? 俺はいいよ、こうやって君を脅しているけれど、君が藍音に危害を加える可能性があったという免罪符は貰えるから君よりもマシ。さあ、どうする?」
そう言って鍵垢を明けるボタンを押す真似をすると、坪倉が喚きながら藍音の腕を放して走り去っていった。
その逃げ方は本気で怯えていたようで、もう藍音のことにも関心が向かないほどだった。
「たくっ、しょうもない」
そう言うと志朗はさっさとさっきのツイートを消した。
もちろん鍵アカウントであることは間違いないようで、それも何も呟いていないさっき急に作ったアカウントだったようだ。
そのアカウントも削除してしまい、記録はアプリ会社の中にのみになった。
「……あ、ありがとう……」
まさかこんな解決をされるとは思わずに藍音が素直に礼を志朗に言うのだが、志朗は大して藍音に関心がないように言う。
「取りあえず、ホテルに部屋取ったから、そこに移動をしよう。あいつが逃げたとはいえ、正気に戻ったら調べに戻ってくるかもしれない。その時にまた何かあったら、もう誰も助けてはくれない」
志朗はふうっと息を吐いてから、藍音を引き連れて大通りまで連れて行き、一緒にタクシーに乗った。
「悪いけど、お代はそっち持ちで」
志朗の抜け目ない言い方に藍音はちょっと腹が立ってきたけれど、自分が上手く坪倉を撒けなかったせいでこうなっているのだと分かっているから、志朗には逆らえなかった。
「分かってる」
「説教はしたくないけど、ああいうのは店の中であしらっておくべきだったな」
志朗がそう藍音に言うので、藍音はぐうの音も出ない。
その通りで、店の中なら証言者や店の人が庇ってくれたし、もし無理矢理連れ去られそうなら警察さえ呼んで貰える。
けれど店を出てしまったら、もう親切な通行人しか助けてはくれない。
店には騒動は聞こえないからだ。
「次からは気をつける」
「そうして……」
志朗にそう言われて藍音は悔しい思いをした。
藍音は志朗のことは顔は見知っている程度である。
ただ何処の誰なのかは嫌というほど知っている。
藍音の友人である時合壱伽(ときあい いちか)という後輩がいる。その友人とは元彼に三股をされた関係で親しくなっていて、時々飲みにも行く。そんな時に壱伽から大学が違う先輩である志朗の話は聞いていた。写真も見たことがある。
名前とどういう人なのかは把握しているつもりだ。
それから時々大学内で見るようになった。
壱伽は知らないらしいが、藍音は志朗を見かけることはあっても会話をする仲でもなかったので挨拶もしていない。
だから、今日のもめ事を助けてくれるとは思っていなくて、藍音は少し警戒をしていた。けれど、志朗には坪倉から感じたような変な雰囲気は一切ない。藍音に興味がなさそうだった。
ホテルに入るとそのまま志朗が手続きをしてくれて部屋まで行く。
そして鍵を開けて志朗が入り、藍音に手を差し出してから言う。
「入って」
「え、いや、さすがに部屋は別で……」
「そういうわけにもいかなくなってる。あいつ、後を付けてきていた。気付かなかった? 鍵が一個なのかどうかまで眺めていたよ?」
そう志朗が言い、藍音に手を伸ばしてから言う。
「え、付けてきてる?」
「うん、だからここから先は藍音の自由。この手を取るか取らないか」
「……えっと同じ部屋に泊まるだけ?」
「できればそうしたいが、藍音は嘘が吐けないだろ? うっかり俺とセックスしていないって言ってしまいそうだ。だからここに一緒に泊まることは、俺と本気でセックスをしてもらうことになる」
志朗がそう言うので藍音は警戒をした。
まさか一切の色気もその気も見せない相手と寝る羽目になるとは思いもせずに、藍音はその手を取れない。
「そうか。じゃ俺は帰るから、藍音は一人で泊まって」
志朗は部屋から出て藍音と入れ違いになる。
あっさりと志朗が諦めて部屋をでてしまったことに藍音が驚きながら志朗を見ると、志朗は藍音に耳打ちするように言う。
「まあ、この先、藍音がどうなろうと、俺の知ったことではないから、あいつに部屋に突撃されても後は自分で何とかして? もちろん家に帰るのも自由だ。まああいつがそれで諦めてくれるとは思えないけど」
志朗はそれだけを耳打ちするから、藍音は一気に不安になった。
志朗は藍音を助けてくれるのはただそこに偶然にいたからだ。だからこの先を志朗に委ねてまた助けて貰うことはできない。
そして志朗はこの先を助けてほしいなら、それなりの辻褄は合わせて欲しいと言う。
それがセックスをするということであり、藍音は志朗と寝ないといけない。
セックスをすることに抵抗感は一切ないけれど、志朗とするということが少しだけ戸惑うのだ。
水偉志朗という人間を藍音は壱伽の知り合いだという以外で知っていることが一つしかない。
やけに明るく、誰とでも上手く合わせられるのに、誰とも深く付き合わない人。周りはそれなりに志朗とは楽しくしていても、完全に自分のテリトリーには人を入れない。
だからそれなりに距離があり、上手く離れている人が多くなる。
壱伽すらもその距離を恋人の時に感じてしまい、志朗を信用できずに別れてしまったというから、志朗という人間が厄介なのは分かっている。
だが、今はそれすら考える時間がない。
部屋の階数はきっとバレているだろう。あとは一個一個の部屋をノックして回るだけで突き止められる。
うっかり開けたりはしないけれど、ホテルを出たところで捕まる可能性はある。
あとは大学で見かけたらあれは嘘だったと難癖をつけられる可能性もある。
それら全てを解決するために、嘘を本当にすることが必要だと藍音は思った。
セックスに嘘があったとしても、体を重ねたとなればセックスしたこと自体は嘘ではなくなる。
そうすればきっと話の辻褄は合うはずだ。
藍音は少しだけ迷ってから、志朗の腕を掴んで部屋に連れ込んだ。
オートロックのドアがゆっくりと閉まっていく。
引っ張られた志朗は少しだけ驚いた後に藍音の耳に囁いた。
「じゃあ、いい?」
「好きにすればいい……あんなヤツにやられるくらいなら、お前の方がマシだ」
藍音がそう言うと志朗が吹き出して笑う。
「それじゃ一晩、しっかりと抱かせて貰うよ」
そういう台詞を志朗が言った時は、もう真面目な声色で言っていた。
知っている志朗とは違う、何か開けてはいけない蓋を開けてしまったような気がした藍音だった。
ドアが閉まると当時に、その部屋の前には二人を付けていた人がやってくる。
だがドアを睨み付けた後、すぐにエレベーターに乗って去っていった。
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