モノポリーシリーズ
彼方のエレジー
3
散々だった三日間が、やがて一ヶ月前のことになった頃だった。
一ノ関陽琉は、教授に呼び出されて大学に行くことになった。
あの日から、陽琉は大学には一切近づいておらず、もちろん獅來からの接触はない。
たぶんあの時だけだと思っていたから大学にさえ近づかなければ害はない。二度と会わなければそれでいいと思っていたから、教授に呼び出されるのは正直に言うと厄介だった。
しかも教授はただ来てくれと言い、どういう用事があるのかは言ってくれない。
断る理由がなく、お世話になったのもあるから断れなかった。
あの三日間のことは、陽琉には半分も記憶がないようなものだった。
何を考えていたのかも、何を思ったのかも曖昧なままで、ただ気持ちが良いという心しか残っていない。
悍ましいと思う気持ちと、ただあれは二度とないことだと思う気持ちがせめぎ合って、陽琉の中に残っているのは、結局、自分はただの被害者ではないという気持ちだった。
別に襲われたのは自分のせいとは思っていないけれど、回避できた行動を取らずに迂闊に近寄ったのは陽琉だった。
きっとあそこで無視をしていたら、こうはなってはいない。
「くそ……っ」
思い出しても悍ましい。
自分が快楽に弱く、そして屈した事実。
それだけは残っている。
だから陽琉は恋人に自然と連絡を取ることをやめた。
そもそもだが、恋人との連絡はほぼ陽琉からの話しかけでしか成立していなかったから、陽琉が接触をやめた段階で、恋人との連絡は一切が止まった。
一ヶ月だ。恋人は陽琉が何も言わなくなったのにも心配の一言もなく、何の反応もしなくなった。
だから余計に陽琉はショックを受けた。
もうこの関係も終わっていて、自分だけが必死になっていたのだろうか。そう思う時もあったけれど、やっぱりそうだったのかと思い知らされた。
傷付いて塞ぎ込んでいるのに、誰もそんな陽琉には気付かなかった。
携帯のメッセージが鳴るのは、陽琉の高校時代の友人である宮辻滉毅からの定期的な雑談だけだ。
滉毅は彼女に振られた翌日には、好きな人ができたと連絡をしてきて、それに陽琉は呆れた。けれど、宮辻はその惚れた相手にすっかり執着をしている。可愛がって甘やかして、そして抱いている。
セフレ扱いではあるが、これは相手が堕ちるのも時間の問題だろうと思ってしまったくらいに宮辻は真剣に向き合って、相手を堕とすつもりでいた。
そんな話を聞いていて、陽琉はふと考えるのだ。
一目惚れがあるとすれば、あの恵西獅來もまたそれだったのだろうかと。暴走した結果、あんなことを仕出かすくらいに思い詰めていたのか。
理解したくはないが、獅來がどういうつもりだったのかも正直分かっていない。
半分以上の記憶が曖昧で、もしその時に何か話して事情が分かっていたとすれば、陽琉は覚えていないことになる。
さすがに自宅がバレたら怖いので、元いたマンションは引き払って別の警備がいるマンションに引っ越したから、忍び込まれることはないだろうが、接点がないだけで相手はこっちを探している可能性もあるのだ。
だから大学には行きたくなかった。
そう思いながらも、陽琉は支度をして家を出た。
大学に行き、ゼミの時間が始まる前に教授のところに行くと、用事は前に教授に貸した本が二冊とそのお礼に出張土産である菓子だった。
「すまないね、これだけじゃないんだ」
教授はそう言うと、陽琉にある書類を見せてくる。
「これが恵西くんが作った研究内容なのだが、とても君の分野であるから感想を聞こうと思って」
そう行ってみせられたのは、あるアプリを作りそれを使用する人の行動記録だ。どうやら恵西獅來は相当優秀であるようで、そのアプリはカラオケなどに使われる楽曲を統計するもので、起業から委託されて許可を貰っているデータで詳細な行動記録を打ち出していた。
つまり、何歳の人が何を歌い、人気があるのかという単純な記録と共に、飲食などを注文したかという記録でもある。だから年齢によって飲食の傾向まで計算されている。
「これ……起業案件では?」
明らかに内部で使うものであるのだが、教授は言う。
「その恵西くんは、そのアプリを作ったらしくて、融通で更にアプリを改善するための研究として許可を得ているんだ。もちろん、他の人がこれを読むことはできないけれど、教授の私と、恵西くんが一ノ関くんの感想も聞きたいと言うので見せている」
「はあ、……まあうちもカラオケ経営もしてますし、恐らくこのアプリも採用されているかと思うけれど……僕はまだ経営には関わってないので……」
「暫定的な感想でいいよ。私もそこまで口を挟める案件ではないとおもっているので」
教授がそう言うので、どうやら論文のための研究材料として使われる資料の一つと考えるべきらしい。カラオケアプリの使用傾向というものなのだろう。
「まあ、これなら論文も面白いことにはなりそうですね。でも今から論文のテーマを決めてデータを集めるなんて、ゼミの研究の方は大丈夫なんですか?」
簡単な感想を言ってからとりあえずゼミのことを心配する。
「それがねえ、ほぼ恵西くんがやってくれちゃって、プログラムなら恵西くんに任せたら完璧で、その結果大学の通販サイトアプリが半年も早くできて、実用可能にまで追いついたよ」
「へえ、それはすごい……」
それには素直に陽琉は驚いた。
そこまで凄い技術を持っているなら、きっと研究室なんて入らなくても十分起業できるレベルに達しているはずだ。それなのに獅來はそれを選ばずにゼミで研究をしている。
何が目的なのか分からないが、とにかく目指す物があるのだろう。
「恵西くん、かなり凄い子なんだけど、高校時代から有名なプログラマーで企業でも採用されているアプリを沢山作っているらしいんだけど、たぶん私のゼミなんて入る必要もないくらいに十分活躍できる子なんだが……どういうわけかここがいいと言ってくれて……ただ……」
「ただ? なんですか?」
「その、どうしてここに興味があるのかと聞いたら、君に、一ノ関くんに興味があると言って……その、理解はあるのだけれど、その……」
教授がそう言い出してしまい、陽琉はやっと教授に呼び出された理由を察した。
どうやら恵西獅來がこのゼミに入る理由が、陽琉目当てであることを問題としているのだ。けれど教授としては優秀である獅來がいてくれた方が、ここ出身であるという箔が付く。それくらいに獅來は優秀だったのだ。
陽琉が迷惑を掛けられる可能性が高くても、教授は獅來がここにいる理由をなるべく無視したかったのだ。
それもそうで、獅來が入っても入れ違いに出て行く陽琉である。陽琉が出て行くことがもう決まっている以上、教授としては陽琉に気を遣って獅來を追い出すことはできないのだ。
「……大丈夫です。何もないですし、僕はこのままここには寄らないことにします。それでいいですか?」
獅來を選んだ教授を恨んだりはしないが、もう既に被害に会っている現場に戻ってくるのも陽琉としては理由を付けて寄りたくもなかったところだった。
これでゼミに顔を出さなくてもいい理由ができた。
「すまない……君がいい学生なのも分かっている。だがゼミとしてはどちらかを選ばなくてはならなくて……」
教授は辛そうにしているけれど、それすら陽琉は見ているのも辛かった。
「気にしないでください。それじゃ、用事がこれだけでしたら僕は失礼します」
すっと冷めていく気がして、それを態度に出すのも失礼だと陽琉はすぐに退去を願った。
「ああ、すまない。ありがとう」
教授はそう言ってホッとしたように息を吐いてから陽琉の退去を許可した。
陽琉は入り口で礼をしてから部屋を出て、裏口へと逃げた。
腸が煮えくり返るくらいに悔しかった。
四年間かけて築き上げてきた教授との信頼関係すら、あの獅來に奪われた。
これで教授は陽琉に気を遣って、今までの親しい関係には戻れない。陽琉より獅來を選んでおいて、これまで通りになんてありもしない。
あと少し、あと少しだった。
何の関わり合いにもならずに済んだ関係なのに、たった一つの苛立ちで全部の歯車が陽琉にとって最悪に変わっていく。
獅來によって全てが塗り替えられてしまい、居所は何処にもなかった。
陽琉は親との仲はあまりよくはない。
一家団欒なんてなかったし、兄弟仲も良くはない。
お互いに干渉をしない。親もお金を好きなだけ渡してくるが、何をやっても気にしなかった。それくらいに絆はなく、陽琉は友人である宮辻以外は信用ができないと思って生きてきた。
大学生になって教授とはそれこそ親子と言われてもおかしくはないくらいに、陽琉は教授に懐いていた。
けれどそれも陽琉がそう思っていただけで、所詮陽琉は学生の一人に過ぎなかった。
まただ。
陽琉は唇を噛んだ。
獅來によって陽琉は自分の思い込みを全て覆されていっている。
恋人のこともそう。教授のこともそうだ。
悔しくて悔しくて、本当に陽琉は何も知りもしない恵西獅來が憎くて仕方なかった。
それから更に一ヶ月。
陽琉は一切外に出ない生活を続けた。
大学はもういかなくてもよかったし、唯一残っていたゼミすらも何もしなくてよくなった。
何もかもやる気を奪われてしまった陽琉のところに久しぶりに友人の宮辻から連絡が入った。
それはメッセージであったが、驚愕の内容だった。
宮辻からは、恵西獅來という男に会って欲しいと友人に頼まれていると言われ、さらには獅來が陽琉が引っ越したことを知って探りを入れていることや、これ以上見つからない場合はもっとマズイ手段を使って調べ上げてくると言っているというのだ。
あれで終わったはずだと思っていた。
もうあれから二ヶ月だ。
一度大学に行ったことで、特に噂にもなっていないことを確認したから、あれで満足したのだと思っていた。
けれど、獅來は使える手は使って陽琉の前の住所を探し出し、そこにいない、引っ越したことまで知っていた。
たまたま陽琉が出不精で、行き付けもないような暮らしだったから、幸い見つかっていなかっただけで、獅來はずっと探していたというのだ。
しかも会いたいと言い、会ってくれないなら最終手段で探し出して押し入るとまで言い切っているのだという。
宮辻は居場所を聞かないでおくと言っているが、どうやら宮辻が恋人関係になった元セフレの子が獅來と親友でそこから情報が漏れるのを宮辻は気にしているらしい。
それはイヤというほど伝わってくるように、宮辻は居場所は教えなくていいと何度も念押しをしてくる。
ただ会わない選択をしても少なくとも三日以内には玄関先に獅來が立っている可能性があるとまで言われた。
宮辻の恋人が言うには、恵西獅來という人間は調べ物に関しては天才的に見つけるのが上手く、絶対に何処にでも現れることができるくらいに金銭に余裕がある生活をしているらしい。
つまり逃げても絶対に追いついてくるというわけだ。
それを信用する訳にはいかないが、海外旅行をしている友人に会いたいがために旅行先を調べて突撃したことがあるくらいに行動力があるらしい。
それを言われたら、逃げ切れる気がせず、大げさに言っているとしても探偵を使われたらきっと見つかるくらいの痕跡は残してしまっている。
だから仕方なく陽琉は獅來に会うことにした。
けれどそれは一人で会う訳にはいかないので、宮辻たちが一緒にいてくれるなら会うという条件を付けた。
普通、いざこざに巻き込まれるのはイヤな物なのに、宮辻は即答でいいよと言い、宮辻の恋人も今回は間に誰かいないと無理だろうと納得してくれた。
奇しくも陽琉は憎々しい相手に会わないといけない理由もある。
きっぱりと断って二度と自分の前に現れないようにしなければ、外も歩けなくなるかもしれない。
「……くそ……」
まただ。
獅來は直接ではないけれど、陽琉から友人まで奪っていった。
恋人の知り合いじゃなければ、友人だってこんなことは言わなかっただろう。
けれど、それで宮辻を責めることはできない。だって宮辻は陽琉と獅來の間に何があったのかは知らないし、獅來もそれを言ってないらしい。
さすがに犯罪行為を言いふらすような性格ではないらしいのに、犯罪行為をしてまでも陽琉の居所を調べようとしてくる獅來の行動が、少しも陽琉は理解できない。
それでも獅來は陽琉に会いたいと言ってきている。
悔しいけれど、それが妙に嬉しい自分がいる。
ずっと求められることもなく、必要とされていると思っていたのに、ずっと誰の一番でもなかった。
恋人だって、教授だって、いつでも自分以外を選んだ。
なのに、あんな酷いことをしてまで、獅來はまだ追ってくる。
その理由を知りたいと思っているのはきっと陽琉だけだろう。
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