眩いばかり
1
深浦佳鈴(ふかうら かりん)の目の前には、スーツケースがある。
五年前、家出をした時に持ってきた、家族で海外旅行に行った時に使ってから使うことがなかったものだった。
二度の使用しかしていないものが再度その使用を待っていた。
「え?」
佳鈴は、スーツケースを眺めてから、それを目の前に置いた人を見上げた。
相手は赤峰崇志という十歳も年上の恋人のはずの男だ。
「出てって」
そう赤峰が言い、佳鈴は更に尋ねた。
「どうして……? 何で? 何で急にそんな」
昨日まで赤峰はそんな態度を取っていなかったと思う。
普通に会話をして、セックスをして寝た。今朝だってご飯を一緒に食べて送り出したのだ。
それなのに会社から帰ってきたとたん、赤峰は佳鈴を風呂に入らせている間に荷物をまとめてスーツケースに入れたらしい。
「え、だって、お前今日で二十歳だろ? 俺、大人は駄目なんだわ」
そう赤峰が言い出して、佳鈴は驚く。
「そ、そんな、出て行けって……行くところなんてないのに!」
そう佳鈴が言うのだが、赤峰はスーツケースを持って玄関を出ると、スーツケースをエレベーターにまで持って行ってしまう。
「やだっ行くところなんてないんだって知ってるくせに!」
佳鈴がそう言うのだが、赤峰はそんなことは知っているけれど、どうでもいいとばかりに佳鈴も部屋から引き摺りだしてエレベーター前に捨てた。
「その身体でも使って、居場所作れば? お前得意じゃんそれ。戻ってきても入れないし、引っ越すし、戻ってきても鍵も変わるから入れないぞ」
「え? 何で?」
「もうお前、うざいし、邪魔なだけなんだよ、マンションの管理人には不審者ってことにしてもらうから、出ていかないと警察を呼ばれるぞ」
「そんな! だったらあんたのこと警察に言うからな!」
佳鈴がそう言うけれど、赤峰ははっきりと言った。
「お前がここに隠れ住んでいるの、誰も知らないから別にいいけど? どっちが信用あると思う? 家出して職もなく、ただのホームレスになってるお前の言葉と、エリートの俺の言葉。どっちが信用あると思ってんだ?」
赤峰は有名な会社に勤めているエリートで、かなり優秀らしく、出張も頻繁にしていた。ここ最近も出張が多い一年で出世も間違いなしだった。けれど、その出張から帰ってきて一週間で急に赤峰が態度を変えたことが、佳鈴には信じられなかった。
「じゃあな、さっさと出て行けよ」
そう赤峰が言うと赤峰の方が先にマンションを出て行った。
どうやら引っ越すというのは本当のようで、赤峰はそのままタクシーでマンションを去っていくのが見えた。
「ど、どうしたらいいんだ……赤峰にも嫌われたし……行くところなんてないし」
佳鈴はその場で途方に暮れた。
深浦佳鈴は、十五歳で家出をした。
しかし家庭には何の問題もなく、優しい父親と母親に育てられた。
弟が生まれたのを境に、佳鈴は両親の愛情一切合切が弟に向かったことから、自分の中に家庭での居場所がないと思うようになった。
そのうち、高校受験で県外の有名な宿舎がある高校に進学をするように言われ、とうとう家から追い出されるのだと悟った。
とはいえ、両親は教育熱心と世間には見えていたから、まさかそこに愛情がないとは思いもしなかっただろう。
家庭教師を付けて貰い、勉強なども頑張った、試験も受けたし受かった。
けれど佳鈴は高校への入学金などをすべて振り込まずに懐に入れ、そして引っ越す日に家出をした。
当時、ニューハーフの店にこっそりと通っていた時に赤峰と知り合い、赤峰に家出を勧められて、赤峰の家に転がり込んだのだ。
それっきり家には帰っていなかった。
赤峰との生活は、ただ自堕落な生活であった。
佳鈴は赤峰の家から一歩もでることもなく暮らし、赤峰以外の人と会わずに生きてきた。
しかし、途中で不安になって佳鈴は家に戻ってみた。
けれど、そのたった一年後に両親たちは交通事故で死んだ。
佳鈴はたまたま出会った近所の人からそれを聞いた。
葬式は近所の人たちで行ってくれていた。親戚はいなかったから、家などのことが問題になっていたようだった。
佳鈴は手続きを近所の人に助けて貰いながら行い、両親も両親のお金でお墓を建てて遺骨も納めた。家は売ってしまい、貯金や遺産などは全部使う気がしなかったので、佳鈴はそれを銀行の貸金庫に預けてから、家出先であった赤峰のところに戻った。
赤峰はその時は少し機嫌が悪かったが、佳鈴が親が死んだことや色んな手続きがあったと言うと、赤峰はそれ以上追求はせずに、いつも通りの生活に戻った。
そして四年が過ぎた。
その五年目の日にいきなり赤峰に捨てられた。
「うーん、どうしよう……家ないんだよなー」
問題は山積みだった。
まず家がなくなった。
しかし二十歳二なったとはいえ、佳鈴には親類も知り合いもいない。
そして保証人がいないと家が借りられない。
佳鈴には知識がなかった。
こういう場合は、役所に相談すれば一時的な避難所になる場所を教えてくれるので、ホームレスになる前に何とかなる。また赤峰のことに関しても、今警察に駆け込めば、赤峰が未成年者を監禁していたことになり、赤峰の勝手が通らないのであるが、佳鈴にはそれが犯罪になるということをあまり認識していなかったのだ。
警察に言うと言ったのはただの脅しの意味で言っただけで、本当に警察で解決すると思っていなかった。
「んーんー、どうしよう。靴もないし、歩けない……」
佳鈴はあれから五年経っている。
一度も外に出なかったせいで、靴は一足持っていた十五の時の靴しかなかった。
もちろんその靴はとっくに汚れたと言って赤峰が捨ててしまったために残っていない。
よく考えれば、服のサイズはほとんど変わってなかったので履けたのではないかと思った。
今の佳鈴は裸足だ。
靴下も履いておらず、冷たいコンクリートの上では、足先のぬくもりは失われていて傷みさえ感じるほどだった。
季節は冬、二月の寒さも一番辛い時期に、ぬくぬくとした暖房のある部屋から放り出されたわけで、上着ももちろん着ていなかった。
とりあえずスーツケースを開けるけれど、中には半袖や長袖も薄着のモノしか入っていなかった。
コートも軽く羽織るカーディガンのようなものさえない。
「足、痛いな……」
そう思いながらも、二時間ほどそこに座っていたが赤峰は帰ってこなかった。
本当に引っ越すつもりのようで、元の部屋の鍵もいつの間にか変えられていて鍵は回らなかった。
「いつの間に……」
昨日帰ってきて玄関でごそごそして誰かと話していると思っていたが、それが鍵の交換だったのだろう。
どうやら出張から帰ってきてから佳鈴とは別れるつもりだったようで、置いてある荷物は持ち出しもしないでスーツケース一つで引っ越してしまったようだった。
「困ったな」
お腹も空いてきた。
ご飯はいつも赤峰が用意した宅配で届いたもので料理をしていたから、今日も作る予定で準備だけはしておいたが、それも無駄になっている。
赤峰が戻ってきてから調理をしていく算段だったから、夕飯すら食べ損ねている。
仕方なく佳鈴はエレベーターで一階に下りた。
そのドアが開いた時に、目の前に人が立っていた。
「あ、すみません」
どうやら乗る人が立っていたようで、驚いたけれど寄ってくれたので慌てて降りたが、その人が急に声を出した。
「……佳鈴?」
そう呼ばれて佳鈴は振り返る、エレベーターに乗る住人が乗らずに佳鈴を呼んだ。
誰だろうと佳鈴はゆっくりと振り返る。
そこに立っていた人は男の人で、高級なスーツの上にきっちりとしたコートを着ていて、足の先まで磨かれたような姿の人だ。
赤峰と同じ人種であるとすぐさま気付いたが、そんな人種に知り合いはいないと思って男の顔を見つめた。
きりっとした細い目が大きく見開かれていて、そこでやっと佳鈴はその人物が誰なのか分かった。
「……理一、せんせ?」
佳鈴がそう相手を認識すると、理一と呼ばれた男は佳鈴に寄ってきた。
「ああ、本当に佳鈴だ。よかった、生きてた……ああ、ご両親が亡くなられたのは聞いていたが……佳鈴が家出していなくなっていたのは、その時に……何があったんだ?」
理一は、瀬良理一といい、佳鈴の中学時代の家庭教師だった人である。
三年間、みっちりと勉強を教えてくれ、佳鈴のために色々としてくれた人でもある。
自宅で佳鈴が浮いていることは理一も分かっていたのか、色々と勉強の合間に色んなところに連れて行ってくれた。
それは楽しかったけれど、そのせいで両親が理一を悪く言い始めるのが辛かった。
理一が有名大学の首席だったのと、佳鈴が成績を下げなかったので解雇にはならなかったけれど、両親は理一の経歴以外は嫌いだったと思う。
高校の受験に合格した時は報告したけれど、その時にお守りを貰って以来、理一には会っていなかった。
理一はすぐに論文や就活に入ってしまったし、佳鈴はそのまま家出をしたからだ。
五年経った今、こんなところで再会をしてしまった。
「ああ、佳鈴、佳鈴、よかった……いや、何て格好でこんなところで……」
理一は混乱しているようだったが、佳鈴がスーツケース一つ持った状態で、裸足に薄着の姿でいることを訝しんだ。
「えっと……住んでいたところ、追い出されて……」
「え? こんな格好のまま?」
理一は信じられないというように目を見開いて佳鈴を見た。
佳鈴の肩に触れた手が、佳鈴の身体の冷たさに気付いたらしく、理一は慌ててコートを脱いで佳鈴の肩に掛けた。
「何で、裸足!? どういうこと……いや、その前に私の部屋にきなさい……話はそれからだ……」
そう言うと理一は佳鈴を抱え上げて戻ってきたエレベーターに乗り込んだ。
「わ、わ、ええ?」
何か分からないうちに再度エレベーターに乗って向かったのは、赤峰の部屋よりも二階上にある部屋だった。
そこは高級マンションの更に高い値段の部屋で、大きさも違うと佳鈴は赤峰に聞いていた。部屋数も違い、もちろんエレベーターは専用の鍵がないとその階に止まらない仕様だった。
そのまま抱えられて部屋まで上げられてしまい、佳鈴は玄関で玄関マットの上に下ろされた。それからすぐに理一は靴を脱いだりしながら、上着を脱いで足を捲り上げてから、また佳鈴を抱えてバスルームに向かった。
「あの、理一せんせ、僕、歩けるけど」
「汚れるから」
「……あー、はい」
理一の言い分が正しかった。
そのまま佳鈴はバスルームに運ばれて、風呂場に連れ込まれる。
「佳鈴、そこに腰掛けて。足が死んでるみたいに冷たいから暖めよう。このままお湯に浸かると心臓が驚くから危ない……」
そう言いながら理一は佳鈴の足を温めるようにシャワーを出した。
ぬるま湯から始め、だんだんと熱くしていく。
その足を理一はしっかりと揉んでくれて、佳鈴は血が通い始めるのが分かった。
氷のように冷えていた足は、お湯を掛けて貰ったお陰で何とか生き返った。
足はさっきまで本当に冷えてちゃんと動かず、引き摺っていたくらいで困っていたからこれで歩くことはできそうだった。
そして血液が循環をしているから、身体も自然と温まり始める。
「これくらいでいいだろう。お湯が溜まっているから、湯船に入って暖まって。身体も温まらないとね」
理一がそう言う。
足を温めて貰ったお陰で身体中の先まで冷たかった部分がじんわりと感覚を取り戻していた。
「あ、ありがとう……理一先生」
「うん、話はできるか?」
「あーうん」
服をさっと脱いで湯船に飛び込むと、全身が一気に温まる。
そんな佳鈴の側を理一は離れずに風呂場に一緒に居る。目を離すといなくなると思われているのか、出ていってはくれなかった。
佳鈴ももうそれはどうでもいいかと思い、風呂でゆったりと暖まっていると、その湯船に理一が腰を掛けてから言い始める。
「それで、今まで何処で何をしていた?」
そう言われて、佳鈴は少しだけ言い淀んだが、助けてくれるのは理一しかいないと思って口にした。
「知り合いのところ……」
「そこにはいつから?」
「……家出してから、ずっと」
そう佳鈴が言うので、理一はふっと息を吐いた。
「ご両親のことは?」
「知ってる。僕、一回、帰ったんだ。そしたら死んだって言われた。ちょうど葬式が終わった後で、手続きとかして、家も手放してまた知り合いのところに戻った」
佳鈴の言葉に理一はふっと息を吐いた。
「葬式に行ったら、佳鈴と連絡が付かないと言われた。高校に電話をしたら、そもそも通っていないって言われて混乱した……」
理一がそう言うので佳鈴は言う。
「うん、入学に必要なお金を払わなかったから」
「つまり、家出をしたことはご両親は気付いていたけれど、ご近所の手前言っていなかったってことか」
「そうだと思う。いなくなってくれてせいせいしていたんじゃないかな? 高校からお金が払われてないって連絡はあっただろうし、それなのに問題になってないなら、僕が家出をしたと気付いて入学を断ったんだと思う」
佳鈴がそう言うと理一はそうなのだろうと頷いた。
「佳鈴の家がおかしいことは知っていたけれど……まさか捜索願いも出さないような人たちだとは思わなかったよ……亡くなった人のことはあれこれ言いたくはないが、窮屈だったんだな、佳鈴は……」
理一は家出をした佳鈴を責めはしなかった。
仕方がないと言ってくれ、佳鈴が家出をするほど思い詰めていた事実に当時ちゃんと気付いてやれなかったことを悔やんでいるようだった。
「あとは、ずっと引きこもって生活していたんで……追い出されて行く場所がなくて」
そう佳鈴が話を飛ばしてしまうと、理一が言った。
「その知り合いとは、このマンションに住んでいる輩なんだな? それで誰のことだ? その変態という輩は」
どうやら、知り合いが誰なのか話さない訳はいかないらしい。
「あーえーっと……言わないと駄目? もう関係ない人になっちゃったからさ。あんまりもめたくないんだけど……」
赤峰のことを話して、ややこしく揉めるのはさすがに佳鈴も嫌だった。
理一を信用しているけれど、それとこれは違う。
「揉めはしない。やっと佳鈴と切れてくれたんだ。だが何処の誰か知ってないと、マンション内が危なくて仕方ない」
理一は冷たくそう言い放ち、佳鈴をずっと監禁していた相手を探し出そうとしている。
「……いや、たぶんマンション内は大丈夫だと思うよ。引っ越すって言っていたから」
そう佳鈴が口を滑らせると、理一の顔色が一気にどす黒く変わる。
「……なんだと……」
地の底から這い出るような声でそう言われて、佳鈴は何処が地雷だったのか分からずに聞き返していた。
「……え、だから、もういなくなるから大丈夫だって」
そう佳鈴が言うと、理一が言った。
「赤峰崇志のところに居たのか……佳鈴」
ドンピシャでフルネームで相手のことがバレてしまい、何故バレたのか佳鈴は分からず、理一の機嫌だけが地を這うように悪くなっていることだけ、暖かい湯船の中で妙な寒さを感じて佳鈴は震えたのだった。
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