Humansystem

5

 過呼吸を起こし、倒れてしまった嘉那を何とか部屋で寝かせてから、章吾は弁護士の安藤に会った。
「どういうことなんだ? あいつ、俺のことを……」
 章吾は言い淀んでしまうのだが、それを安藤が続ける。
「異常なまでにあなたを愛しているのか、ということですか?」
 安藤は大して驚いた様子もなくそう言ってくる。
 それに章吾は戸惑いながらも尋ねた。
「……その、何というか。おかしくないか?」
 章吾がそう言うと、安藤はふっと息を吐いた。
「それくらいに未来に希望すらないってことじゃないですか? 郁夫さんですら、癒やすことができなかったくらいの闇を抱えた子に、あなたという希望ができた。それだけのようなことだと思います」
 安藤の言葉に章吾は分からないと首を振る。
「あなたは幸いにも、虐待をされていません。親が離婚しただけで、両親の仲が悪かったわけでもなかった。父親は義務を果たし、母親はきちんとあなたを育てた。あなたは真っ当に育っただけ。でも、私たちはそうではなかった。郁夫さんも、そして嘉那くんも。到底わかり合うことはできないと思います」
 人として生きてきた道が違いすぎると安藤は言う。
 つまり、生涯章吾が嘉那の闇を理解して癒やすことはできないということなのだ。
「けれど」
 そう安藤が続けて言う。
「理解はしなくていいんです。それに説教をしたり正論を吐いたり、そうしたことはしないでいいんです。闇は闇なんです、消えないんです。でも、そこから光を見ることはできる。私たちはそうしたものを目指して生きている。郁夫さんには仕事、私にはそれなりのもの。そして嘉那くんは、あなたに光を見た。ただそれだけなんです」
 安藤はさらに続ける。
「あの屋敷に居た人たちは郁夫さんに拾われた。未来なんてなかったけれど、郁夫さんも救えなかったけれど、平穏を郁夫さんは与えてくれる。けれど、そこから光を見つけて先に進むかどうかは、自分の心次第なんです。もちろん、そのまま闇を見つめたまま闇に向かっていくことも……あります」
 安藤はそう言いながら、思い当たることがあるようだった。
 しかしそれには章吾は気付かずに、普通に質問をした。
「闇に向かったとして、どうなるんだ?」
 闇の果てに闇を見たとして何処へ向かうのか。
 それはさすがの安藤も首を振っている。
「……さあ、分かりかねます。私は光を見た。だからここにいる。闇を見た人はもうここにはいない。そういうことです。嘉那くんがあなたに光を見たけれど、あなたがそれをどうするのかは、自由です。嫌なら捨ててくれてもいい、構わないで生きていくのも好きにすればいい。それはあなたの自由です」
 安藤の言葉に章吾は苛立ち言った。
「見捨てろって……できるわけないだろう……あんな姿見せられたら」
 それを聞いて安藤は少しだけホッとしたように息を吐いた。
章吾が嘉那を捨てられるはずもないことは、安藤にすら分かることだから、郁夫が気付いていないわけもない。最初から郁夫は章吾に嘉那をやるために育てていたのかもしれないという気さえ安藤はしてきたほどだ。
「それを世間では刷り込みといいます。郁夫さんがそれを狙ったのかは、もう分からないことですが、あなたのよいところばかりを話して聞かせて、生きていく上であなたが絶対に必要だと教え込んだとしましょう。嘉那くんは、そう思い込まされている可能性もあるということです」
「……っ、それは確かに、そんな感じで思い込んでいるんだろうけど……」
 章吾がそう言いながらも、嘉那を突き放せない。
 それくらい安藤にも分かる。だから言うのだ。
「思い込みや刷り込みでも、やがてそれが消える時もある。あなたがあなたらしく嘉那くんに接していれば、郁夫さんの刷り込みによって得られたものが、いつか本当のあなたへの思いに変わることもある。私はそれに期待したいと思うので、あなたと嘉那くんの同居を進めました」
 安藤の言葉に章吾は反論できなかった。
 郁夫が何を言ったにせよ、嘉那が興味を示したのは章吾、ただ一人。
 この世の何よりも、絶対的な親よりも、助けてくれた郁夫でもない。
郁夫は確かに嘉那にとってよい人であったし、助けてくれたいい人であったが、あくまでお父さんの代わりだった。だから郁夫がいなくても嘉那は生きていける。
 けれど、嘉那は章吾に光を見た。
 黒田章吾という人間に、瀬口嘉那は執着して生きているというのだ。
 あんなに必死に郁夫を信じて、ただ章吾に会うために生きてきたと言う嘉那の姿を見た章吾は、とてもじゃないが嘉那を切り離してしまうことはできなかった。
 それはきっと郁夫もそうだったに違いない。
 あんなに生きることに対して、何も感じない子が、章吾だけを求めている。
 それを無碍にして殺してやれるほど、章吾は強くもなかった。


瀬口嘉那は基本的に、自分の事情には冷静沈着である。
 開いた記者会見は写真はNGで、インタビュー形式の質問を受け付け、それに淡々と答えている。
 両親の反撃は、弟の証言以降、誘拐犯の捜査があっという間に地裁で判決が確定してしまうとトーンダウンをした。
 というのも、彼らは嘉那に訴えられたことで発覚した、使い込みによる生活費の捻出ができなくなってしまったからだ。
 金がないという単純な問題が発生し、日常生活が上手くいかなくなってしまった。
もちろん私的な弁護士はあっという間に費用が払えない可能性が高くなると、弁護士は両親の弁護を下りてしまった。
 必死になってテレビで訴えているのは弟の悠人で、両親は無実であることや自分が虐待をされていないことを全面に押し出して、兄は騙されていると言った。
「兄さんはきっと犯人の弁護士に脅されている。じゃないと両親を貶めるなんてあり得ない。あんなにずっと八年も探し続けられるわけもない!」
 そうワイドショーに出ているのだが、それを報道している報道局は、その見出しに「何も知らないのは弟だけか。虐待を受けていたのは兄だけ!」と書かれている。
 基本、虐待は兄弟全体に及ぶことは少ない。大抵、ターゲットである一人を見極めると、その子だけを狙う。
 そして嘉那は瀬名浩正とは血のつながりはあるが、完全な親子ではない可能性があるということまで暴露される。
 どうやら瀬口裕正の兄と、幸が関係を持っていたこともあり、浩正が嘉那を執拗に虐待をしたのは、そのことと関係があるようだった。
 それが報道されて囁かれるようになると、嘉那はインタビューで。
「そんな気がしました」
 と平然と言ったらしい。
章吾に向かって、嘉那はさらに冷酷に言った。
「じゃないと自分の子を犯すなんて、子供を虐待して喜ぶことしか能がなさそうな男にできるわけもない」
その時の嘉那は、酷く冷酷である。
 両親に関して、それが普通だと思って生きてきたらしいが、その後に普通の家庭、それでもちょっとは違うけれど章吾と郁夫の関係を見て、普通ではないと気付いたらしい。
「うちもちょっと特殊なんだけどなあ」
 章吾はそれに苦笑する。
 それでも嘉那には十分普通の域であり、基本その関係しか知らない。
 あの屋敷に勤めていた人間で、章吾より真面な人生を歩んできた人は一人もいなかった。
 全員が虐待は当然のように受けていたし、さらにその流れでDVの夫から逃げていたメイドなどと未来も厳しい人が多かった。
彼らは身柄を拘束されるも、地裁によって裁判が開かれ、共犯ではあるが事情が事情であることを考慮され、さらには嘉那に危害を加えずにいたことや、郁夫と嘉那の意思に従ったことが考慮されて、執行猶予二年で刑が下りた。
 皆がそれを受けて上告はしなかった。
 そしてそんな彼らを野に放つわけにはいかなかったので、章吾があの屋敷の維持をしてくれるならそのまま雇い続けると言うと、全員が残ってくれたのである。
再就職は難しそうであるし、まだあの屋敷を処分するかどうにかするには、捜査の行方次第であるが、処分は相当先のことになりそうだった。
 嘉那と暮らし始めてから、その冷静さや冷酷さは見え隠れはするものの、章吾の前ではほぼ両親などに向けた発言をする時に限ったものでしかなかった。


「章吾さん、章吾さん、僕、ご飯作ってみたんです。いつも飯島さんに習って作ってみたりしたけど、飯島さんみたいにはまだなれてないんですけど」
 ホテルを転々としてから、章吾が郁夫から譲り受けたマンションを転々とする生活に移ると、嘉那は急に料理を始めた。
「お、今日は肉じゃがか。美味しそうだ。ひじきにちくわの磯辺揚げ……また俺の好物だな」
 章吾はそう言いながら椅子に座り、さっそく嘉那が差し出すご飯の入った茶碗を受け取って食べ始める。
「うん、美味しい。本当に嘉那は料理上手だな」
「本当? よかった。聞いてた通りだった」
 嘉那はそれを聞いてから自分も食べ始める。
 毎回、料理に関しての感想を求められ、章吾がそれに答えるまで嘉那は食事を食べ始めない。
 誰にそう躾けられたのかと聞くと、料理人の飯島が毎回そうしていたのでと答えられてしまった。
 食卓に章吾の好きなモノばかりが並ぶ理由は一つだった。
「また、棚橋から聞き出したのか」
章吾に聞くと、何でも好きなので何でもいいと言ってしまうせいで、特に食事を一緒にする機会が多かった棚橋から何を好んで食べているかという調査まで嘉那はしていた。
もちろん郁夫にも聞いていただろうが、何せ普通に食事をするにしても郁夫の行く店は高級が付く店なので何でも上手くて、苦手なものはなかった。そのせいで参考にはならなかったらしいので、嘉那は飯島に色んな料理を習い何でもできるようにしてもらったという。
 飯島は手に職を持てばなんとかなると思って、そのつもりで教えたらしいが、嘉那は章吾にだけ作ってあげたかったと言う。
「うん、会社に電話をかけたら、秘書の人、棚橋さんが出てそれでまた聞きました」
 嘉那はニコリとして答える。
 章吾が仕事に出ている間は、一人になってしまうため何かあったときにすぐに駆けつけられる場所のマンションに居て貰っている。
 会社はマスコミに張られているので、嘉那を連れて行くわけにもいかず、結局セキュリティがしっかりしているマンションに置いておく方が安全だった。
 さすがに章吾をつけ回して嘉那の姿を撮影するマスコミはおらず、犯罪者ではない嘉那を追い回すメリットはなかった。
 嘉那は安藤の弁護士事務所から受け取った質問にはちゃんと文章で答えているので追いかけて、視聴者からの不評を買うようなことはしないらしい。
 本当ならばあの屋敷に居てくれた方が、守る人も多いのでいいのだが、嘉那は念願の章吾と暮らせるなら多少のデメリットは受け入れるつもりでいるようだった。
 けれど、かなり平和に物事は進んでいて、テレビでは嘉那のニュースもだんだんと縮小されていき、嘉那への両親による虐待捜査だけが続いている。
 黒田郁夫は誘拐犯として被疑者死亡で不起訴処分となり、嘉那の誘拐に関しては全ての裁判が終わった。
晴れてこの事件について嘉那の望む通りに解決をしたのが、事件発覚から半年後だった。かなり早い解決である。
 嘉那の父親は虐待や性的虐待を否認しているが、母親は自らが手を下したわけではないことと、国選弁護士から夫によるDVに遭っていたせいであると情状酌量を求める流れになって、犯行を全て行った父親に罪をなすりつけている。
 そのお陰でお互いにお互いがやったことを克明に供述していく流れになり、さらにはその裁判が開始されると、罪のなすりつけあいは加速し、裁判はお互いに証言をしては怒鳴り合っているらしい。
嘉那はそれを別室で聞き、供述をし、両親に会わずに裁判に参加した。
 裁判はそのまま裁判員制度の対象となり、父親には懲役六年の実刑、母親には懲役三年の実刑が下った。
 もちろん両親は即日控訴し、これから最高裁まで争うだろうが、郁夫が残していた証拠や周辺近隣からの証言が覆らないことや、さらにはそれが終わっても募金詐欺の方でさらに罪が加算される。
もはや嘉那がどうこう言うよりは、確実な証拠によって追い詰められて終わりそうだった。
 そして世間の関心がだんだんと低くなっているお陰で、嘉那の日常はだんだんと平穏になってきている。
七ヶ月が過ぎると、世間の関心も他に移ってしまい、小さな記事が出る程度になっていった。
 マスコミが消え、嘉那が外に出られるようになるのに一年が掛かってしまったが、それを嘉那は苦にもしなかった。
 そして嘉那は二十一歳になっていた。

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