Word Leaf 寒雷

5

 引っ越しは日曜の朝に終わり、荷ほどきは日用品と洋服のみに限定して、後は箱に入れた一つの部屋に押し込んだ。
 京田と別れ、襲われた事件の日から二週間が過ぎていた。
 まさか京田との同棲で引っ越すことになるかもしれないと準備していたのに、その京田から逃げるために引っ越す羽目になるとは、詢も想像すらしていなかった。
 けれど、ここからもいつか引っ越す日がくるかもしれないから、使わないものは荷ほどきをせずにおいた。
 それでも運び込んだダイニング用品やリビングなどにはあっという間に生活感溢れる荷物が沢山置かれた。
 自分で料理をしてきたのもあり、キッチンはとにかく物が多かったのだが、それらが広いキッチンにしっかりと収まっても尚、あまりある広さだった。
「ああ、住む人で本当に部屋の中は変わるんだな」
 高内がそう言い、希も頷いている。
「さすが、編集者の部屋だね。本がメインとかもあるからね」
「一つの部屋に本棚入れて書庫を作るのもありかもしれない」
 八畳の部屋が二つ余っているから、そうすればいいのにと言われて詢は苦笑する。
「いつかね」
 書庫にするには本棚も必要だ。引っ越し費用はさすがに詢が出したので費用が今のところない。これからのことを考えたら貯金をそれに使うわけにもいかなかった。
 前のマンションは今月いっぱいまで詢の部屋になり、急な引っ越しだったけれど、事情を話したら違約金もなしで引っ越しさせてくれた。
 どうやら片付けた部屋を見た管理人が、リフォームしなくても現状維持で使えることや、クリーニングを入れるだけで済むことと、大家の知り合いがにそのマンションに入りたいと言っている人がいて、その人とタイミングよく入れ替われるお陰で、大家からも礼を言われたくらいだった。
 新しい部屋は広すぎるくらいであるが、今の詢には環境が変わったことで心が落ち着いたのもある。
 隣には鴻上がいるし、下の階には希もいる。
 そのお陰で不安はなかった。
 部屋が別になったお陰で、気を使わなくても良くなったことで更に心に余裕はできた。
 詢は一人でいる時間が好きである。
 もちろん人といるのも好きであるが、ずっと隣に人がいると急に孤独になりたくなるのだ。
 孤独の時間は本を読み、それに浸る。そうして暮らしてきたから、その時間が減ってしまうことは辛く苦しいと感じるのだ。
 希との暮らしが辛くなってきたのは、そのせいだった。
もちろん、その理由は希にも話した。希はそういう人もいると理解を示してくれた。
 引っ越しが完全に終わり、鴻上が引越祝いだと言って食事を用意してくれて、それらを全員で食べてから、鴻上が先に部屋から去り、高内が詢に話があると言って希が先に部屋を出た。
「どうかしました? お話って?」
 高内から何か話があると言われてしまったが、何の話なのか分からない。
 詢がそう言うと、高内は少し顔を赤らめた後に言った。
「こういう時に言うのは、駄目だと思うんだけど……それでも抑えきれないから、もう言ってしまった方がいいかと。俺、詢くんに一目惚れした」
 高内がそう言い出してしまい、詢はそれは思いも寄らないことだったので呆然とした。
「あ、の、すみません。僕は、高内さんは良い人だと思ってます。けれど、恋愛対象としては見られないです……すみません」
 そう言い詢が高内を振ってしまうと、高内ははあっと息を吐いて座り込んでしまった。
「そっかー、だよなー。まあ、玉砕覚悟だったし、仕方ないかー」
 どうやら分かっていても告白をして、気持ちの整理を付けたかったらしい。
 そんな高内を眺めてもう一度謝った。
「すみません」
「あーいや、俺こそごめん、こんな時に言うことじゃないとは思っていたんだけど……何か友達からとかでも駄目かな?」
 そう高内が言う。その時、詢の頭にはずっと鴻上の顔が浮かんでいた。
 高内には悪いが、高内がこの短い期間に詢に好意を抱いたように、詢もまた鴻上に好意を抱いてしまっていたのだ。
 けれどこれを口にすればきっと、ここに住むことになった理由すらそこと結びついてしまい、最終的に鴻上に迷惑がかかるだろうと思った。
だから理由を言わずに、ただ気持ちがないことを伝えるしかない。
「……すみません……それもないです」
 詢は高内と付き合うことには決してならないと言えた。
 だって高内のことを好きな希のことを知っているし、それに気付いてたきつけたほどである。なのに、そこを許したらきっと希には嫌われる。
 希を大事にしたい気持ちがあるから、それなら高内に嫌われる方が詢にはマシだった。だから絶対に一線を越える関係には慣れないことだけははっきりと告げなければならなかった。
上から高内に見下ろされ、明らかに好意を向けてみている男である高内を言葉で激高させないように諦めて貰わないといけない。
 自分に気持ちがないのに、必死に堕とそうとしてくる高内が詢には今は怖かった。
お願いだから、諦めて欲しいと思っていると。
「高内、いい加減に諦めろ」
 さっき部屋に帰ったはずの鴻上がいつの間にか詢の部屋に戻ってきていた。
「希くんと出てこないからおかしいと思えば……」
 鴻上はすぐに高内との間に入ってくれて、距離を取ってくれた。
 それに詢はホッとする。
 大きな体の人に見下ろされて、しかも付き合いたいと好意を向けられて、それを断っている状況は、あの時の京田の件を思い出してしまった。
震えている体を何とか押さえ込んでいると、高内はそれに気付いたのか謝ってきた。
「あー悪い。何でもはっきりさせないと気が済まなくて」
 高内はそう言い軽やかに笑っているけれど、詢は少しそれが怖かった。
 良い人であることも知っているし、希が惚れるくらいには素敵な人なのだろう。
 けれど、このタイミングで言われた詢には、高内の雑な部分は京田に通じている部分としか見えなかった。
 恐らく詢のことを考えてはいないのだろう。自分の望むままにしか行動をしていないところはそっくりなのだ。
「お前は振られた、以上だ。それ以上は望むな」
 鴻上がそう告げると、高内は残念そうにしながら部屋を出て行った。
 その先には希も待っていたようで、どうやら鴻上と希は高内がしでかすかもしれないと危惧していたらしく、様子を伺っていたようだった。
 高内は希に連れられて先に帰っていったけれど、鴻上は少しだけ詢の側にいてくれた。
「すまない。少し気を許してしまった。高内があんな行動にでるとは思ってもいなかった。私の失態だ」
 高内の行動を誰よりも知っていると思っていた鴻上であるが、そんな信頼を抜けてまで高内が行動を起こすことを読めなかったのは、自分の警戒心のなさであると打ち明けてきた。
「いえ……それは鴻上さんのせいではないです!」
 少し落ち込んでいるような鴻上にしがみついて、詢は鴻上には責任がないと言った。
「これは僕と高内さんの問題で、鴻上さんは何も悪くはないんです……ただ僕が、そういうことが多くて……きっと僕が悪いんです」
 詢はそう言い、落ち込んだ。
 親切にして勘違いをされて揉め事になることがある。
 大抵、相手が好意を持って接してくれていると、その好意に甘えている形になってしまい、受け入れているように思われてしまうのだ。
「僕は好意を無駄にしてはいけないと思って、それで受けた方がいいと言われて、甘えてしまって……いつも相手の方に勘違いをさせてしまう……僕はいつも対等に付き合えるのは、僕に興味がない人と同じネコの人だけ……」
 詢はそう鴻上に泣き言を言った。
 だから気をつけていたのだけれど、京田のことで鴻上や高内に甘える形になっている状態が、またよくなかったらしい。
 詢の泣き言は鴻上にも伝わったらしく、鴻上はそんな詢の涙を指で拭いてくれた。
「泣くことはない。きっと君の素直なところが皆好きなんだと思うよ。だから君はいつも通りでいい。けれど私には遠慮をしなくていい。これでも社員を抱える立場だ。そういう人もいるのは知っている。だから何もかも秘密にしなくていい。私には全部話してしまっていい」
 鴻上はそう言い、詢の泣き言も受け入れてくれた。
 こんなことを言われてしまったら、詢は鴻上に今まであったことを全部話してしまっていた。
 新しい家の部屋に鴻上を招いて、長く昔から勘違いをされてしまう環境から逃げ出し、やっと東京に来て大学を出て出版社に入り、人並みになったのはそれからだ。
 新人で難物である小説家、三浦悟琉の担当にされ、彼には気に入られて何とか業績を伸ばすことに成功して、やっと三年目である。
 そんな足跡を鴻上は静かに時には質問をしてくれて、洗いざらい詢から聞き出していた。詢も誰も聞いてはくれなかった口にはできなかった事情を全部話せたことで、心が軽くなった。
「僕にとって地元は地獄でした。僕はそうではないのに、周りはそうだってそうすればいいって……勝手に決めて、僕が好きではないと言うと、身勝手すぎる、あんなに好きになって貰っているのにって、僕の気持ちなんて一つも届かなかった。僕だって好みはあるし、好きな人だっていた。でもその人でさえ、僕のことは物みたいに扱ってくる。僕は何処ででも失敗して、何処ででも本当の僕は受け入れられない……やっと、京田とは上手くいくと思っていたのに……でも違った。僕は愛が何なのかもう分からない」
 詢がそう嘆くと、鴻上はそんな詢の肩を撫でてくれる。
 もう言葉すら見つからないのか、それとも言葉で慰めるのは無粋だと思っているのか、詢が話し終わるまで鴻上は言葉を挟まずに最期まで詢の愚痴を聞いてくれた。
 生きてきてずっと勘違いと勝手な思いを押しつけられ、思い通りに生きると酷い人と扱われてきた詢であるが、それでも鴻上はこんなことがあっても尚、詢がちゃんとした人として感情を保っていることに感動していた。
「詢くんが好意を受け入れるのは悪いことではない。君は何も悪くはないんだよ。ただ周りもまた君の何も言い返さない性格に甘えて、自分たちの思い違いを正当化するために君を責めたのだよ」
 そう言われて詢は驚く。
「僕が悪いんじゃないんですか?」
「いや、これは周りが悪いんだよ。本人の意思をまず確認もせずに周りだけで勝手にそうだと君の気持ちを代弁し、私物化した結果だからね。そして君がそうじゃないと指摘したことで、間違いには気付いている。しかしその間違いを謝りたくないし、理想の詢はそんなことを言わないという勝手な思考から、詢を責めた。結局誰も本当の君には関心がなかったんだな」
 鴻上がそう言うので、詢は更に驚いた。
 目の前にいる人間の理想を作りあげ、その理想から外れる目の前にいる本人を責めるなんて、狂ったことが起こるのだろうか。
「そんなことあるんですか?」
詢の泣きはらした瞳からポロリと零れた涙を鴻上が拭いてやってから言う。
「ある種の密集した地域ではよくあることだよ。例えば、アイドルなんかもそう。こうあるべき、こうあるはずという思いから外れると、責められるのと同じだ。君はきっと彼らにとってアイドルと同じだったんだろう。そして彼らの中でその妄想は広がり、共有され、君だけがそれを知らなかった。そういうことなんだと思うよ」
「それじゃ僕が何を言っても駄目ってことですよね……」
「そうだね。だから地元を離れて良かったんだよ。こっちの大学では、皆自分のことばかりだ。だから今まで親しくなる人を増やしていなかったから、問題も起きてはいなかったんだろうね」
「それじゃどうして、そこまで親しくもない高内さんが……?」
どうやら詢は上手く立ち回りはしていて、今も失敗はしていないようだった。
 それなのに、高内には急に距離を縮められた。それはどうしてか。
 真剣に詢が聞くと、鴻上はそれをクスリと笑って言った。
「高内は惚れっぽくてね、可愛いと思った子にはどうもすぐに告白する癖がある。けどね、付き合ってみたら深くを知らないから、あれ何か違うって言って長続きをしないで終わってしまうことが多々あって。それはそれで問題なんだけどね」
今回は詢に関係なく、高内の問題なんだと鴻上が告げると詢はホッとして息を吐いた。
「そういう、ことだったんですね。僕じゃなくても高内さんは告白していたってことですよね?」
「そうなるね」
 それを聞いて、詢は更にホッとした。
 自分が好かれるほど、高内とは接していないのにどうしてと混乱していたから、それが分かって余計にホッとした。
 それと同時に、希にも言い訳ができる。希はそんな高内のことは当然知っているだろうから、詢が高内に何か特別なことをして好かれたわけではないことは理解してくれるだろう。
「良かった、希に勘違いされないで済む……」
 心底ホッとして詢がそう言うと、鴻上はふっと笑った。
「まだあの子は高内が好きなんだね、懲りないでいいとは思うが。正直何処がいいのか理解ができない」
 鴻上は詢が借りるこの部屋がどれだけ汚され、それをクリーニングでは補うことが出来ずに更にリフォームする羽目になったことを思い出したのか、その恨みも込めた地から吹き出るような低い声でそう言った。
「……もの凄く、嫌だったんですね」
「私は地獄を見たと思ったよ。本当に」
 少しだけ鴻上の目が遠くなる。
 この部屋をここまで綺麗にするには、相当な時間とお金がかかっているはずだ。それでも鴻上が高内との付き合いを辞めていないし、未だに行動を共にするくらいには高内はいい奴らしい。
 それが分かってちょっとだけ怖かった高内のことが分かってきてちょっと気分がよくなってきた。
「……良かった、僕の考えすぎで……」
 詢がそうホッとすると、鴻上はそんな詢の背中を撫でてからソファから立ち上がった。「これで安心して眠れるかい?」
「はい、ありがとうございます……鴻上さん、本当に。今までこんな愚痴、誰にも言えなかったことでした。でも吐き出せて何だかすっきりしました」
 詢は本当にそう思っていたからそうお礼を言うと、鴻上は優しく微笑んだ。
「それは良かった。お礼はいいよ、君がこれから少しでも嫌な思いをしないことを祈るし、助けるよ。それじゃおやすみ」
「はい、おやすみなさい」
 鴻上は役目を終えると、すぐに部屋を去って行った。
 それを見送ってから、詢は暫く放心してから風呂に入った。
 大きな部屋であるが、暮らしやすいように作られていて、住んでみて初めて詢はここの居心地の良さに気付き始めた。
 ロフトには元々鴻上が置いていた大きなベッドがあるのだが、それを使ってくれた方がいいと言われたので、そのベッドに眠る。
 大きいけれど、真ん中で寝転がっていると、寝心地がよかったのですぐに深い眠りに入り込んでいたのだった。

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