Word Leaf
寒雷
4
倉永詢(まこと)が会社に自分の状況を説明し、仕事を引き継いで貰ってから一週間も経っていなかっただろうか。
「何か変なメールが届くようになったんだけど……」
そう言われたのは隣の席の編集仲間からだった。
言われて見せて貰うと、そのメールは「倉永詢は淫乱」というストレートな嫌がらせのメールだった。
もちろん中身は詢の写真であるが、それはさすがに合成と分かるようなAVか何かを切り抜いたであろう写真と無理矢理に詢の顔をくっつけた雑なコラージュ写真だった。
「雑なんだけどさ。これで十分、あんたのこと恨んでるって分かる内容だよね」
そう言われてしまい、その送ってきたメールにそのまま返送してみても、メーラーデーモンと返ってきてしまった。いわゆるメール送信先がない場合に届くメールのことだ。
それが返ってくるということは、このメールを送った相手はメールアドレスを削除してしまっているということらしい。
それでもそれが一週間も続くと、だんだんと使っているメールアドレスを扱っている会社に対して捜査の依頼を出したくなってきた。
その相談を鴻上にすると、鴻上が弁護士を用意してくれ、このいたずらをする目的でメールを取得している人のメールアドレスから情報を聞き出してくれた。
どうやらその人物は相当怪しい行動をしていたらしく、メールを転送しているだけの会社としてはいたずら事件に巻き込まれては面倒なので、さっさと個人情報を出してくれたわけだ。
「普通は裁判で開示命令を出すまで出さないものですが、どうやらやましいことがある会社のようで、事情を説明したところすぐに提供してくれました」
弁護士がそう言い、個人情報を持ってきた。
もちろんそれは、メールアドレスとメールを登録した時の個人情報であるが、メールアドレス以外はでたらめな名前と住所である。
しかししっかりとそれに使ったドメインが証拠になっていた。
「このドメインは、葉山商事の社員用ドメインだな。取引の時に見たことがある」
そう鴻上が言い出し、その言葉に詢はハッとする。
「京田の……会社がそこです。僕はそこからメールを貰ったことはないので個人的に割り当てられているアドレスかどうかまでは……」
分からないと言うと弁護士は言った。
「ここから先は弁護士として問合せをします。まだ訴える前であることを考慮すれば、相手も悪い返事はしないはずです」
そう弁護士が言い、葉山商事に連絡を入れ、アポを取り直接調べてくれた。
鴻上商事の弁護士からおかしな問合せであるが、仕事内容のことはなく別件だった。けれど、それは何れ事件となり得るものだったから葉山商事は早速調べてくれ、一日でそのメールアドレスを使っていた社員を調べてくれた。
「やはり京田創一だそうです。ですが、本人は既に退職しており、勝手にメールアドレスを使っているそうで、問題のメールアドレス自体をシステムから削除したそうです」
そう言われてしまい、これ以上は葉山商事から情報は、その京田創一の自宅住所と携帯番号と電話番号のみである。だがこれだけでも十分な収穫だった。
「会社を辞めてる? 何で?」
詢はそれが信じられなかった。
京田はエリートであることに拘る人間で、詢に復讐をするために会社を辞めるような人ではない。エリートでない自分に価値があるとは思わないだろうし、葉山商事ほどの大手エリートの職を簡単に京田が捨てるはずもない。
だから退職したこと自体が信じられない事実だった。
「それが、二週間前に社内で揉め事があり、そのことで謹慎をさせられていたらしいのです」
「謹慎中……だった?」
弁護士は京田の事情は全部聞いたらしく、葉山商事としても自分の会社に問題があるわけではないとはっきりと言って説明をしてきたという。
「二週間前に同僚社員と喧嘩になり、相手を殴ったんだそうです。理由は転勤の話だったそうです」
「転勤は本当に言われていたんですか?」
どうやら本当に転勤の話があり、あの時、京田の話が突拍子もなかったのは転勤の内示を受けたのが別れ話の二日前のことだったかららしい。
しかしそれだけではなかった。
「ええ、それも左遷です」
「え! 左遷ですか? どうして……」
京田の環境が著しく変わっている事態に、詢は慌てた。
京田は常に自信満々でそうした左遷させられるなんて事態を感じさせないくらいに余裕だった。
左遷させられるようなヘマをする性格ではなかったし、誰かを陥れることはあっても填められることはなさそうな性格だった。
だが根本的なところで京田はどうしようもない人間だったらしい。
「何でも取引先の女性にセクハラをしたそうで、それで担当を外されただけではなく、地方へ左遷が決まったのだとか。それについて京田が左遷されるお陰で昇進した社員と口論になり殴り合いになったそうです」
さすがに京田が調子に乗ってやらかしたことだけは分かる。
エリートである自分が何でも出来ると思ったのか、恋人がいてもこういうことをやってしまうような人間だったのだ。
聞けば聞くだけ、別れてよかったんだと思えた。
もしタイミングが悪かったら、何も知らずに京田に付いていく羽目になっていた。
「その謹慎が二週間前……それを黙ってたんだ……」
できれば話して貰いたかったけれど、京田という見栄っ張りな人がこんな恥ずかしいことを言えるはずもない。しかも訴えられる寸前だったのだ。
「言えるなら、君を襲う羽目になっていない」
鴻上がそう言い切った。
非情ではあるが、京田に同情の余地はない。
事実を知って更に詢が失望するのは当然で、それを批難する人は恐らく一人もいないのではないだろうか。
「結局保身のため、見栄のため、怒りにまかせた行動だったりと、情緒不安定で起こした事件ということだ。こういうエリートでここまで挫折を知らない奴は後が面倒だ」
鴻上の言葉は確かにそうだと思えた。
挫折を知らないからエリートだったわけで、そこから滑り落ちてもう這い上がれないほどに堕ちた状態で、京田がそれを反省しやり直しをするとは到底思えない。
こんな幼稚なメールを送り続けているくらいに、自暴自棄にもなっている。
この事実を知っていない状態で、暴力を振るわれてしまった詢が京田を捨てたとしても誰も文句は言えまい。
これで京田の味方になる輩がいるなら、その人と京田がくっつけばいいと覆うくらいに詢の心も変わっていった。
もう同情なんて余地は一切ない京田の行動に、やり直すなんて危険なこと、できるわけもなかった。
幾ら愛情があっても、少しの罪悪感があっても、京田はきっとこれから先、這い上がろうとはしてくれない。
もしその気があるなら、そもそも会社で殴り合いの喧嘩はしていないし、怒りにまかせて詢を試し失敗したからと殴り強姦したりしていないはずだ。
「やはり、京田に周りをうろつかれるのは厄介だな。下手な方にやる気を出されても困る。詢くん、やはり被害届は出そう」
そう鴻上が言い出し、詢はここで決心をした。
殴られて襲われたことを言わなければいけないが、それでも他の人に被害や迷惑がかかる前に対処をしなければいけなかった。
次の日に警察で被害届を出した。
殴られ襲われた事実を告げ、元は恋人であったがそれでも医者が診断書を出すようなことをした事実は暴行にあたり、強姦の方は証拠がないけれど証人が二人いて、その時の服などを証拠として取ってあると鴻上が提出してくれたお陰で、京田の精液が取れたのもあり、これを強姦の証拠として提出できると言われた。
しかし京田は家には戻っておらず何処にいるのか分からないままだ。
警察でも捜してはくれるが、詢に護衛を付けたりはできないと言われた。
「人手も足りないんですよ。いつ現れるか分からないし、捜索にも人手がいるから」
とにかく、詢以外の人に危害を加えたわけではないからか、警察では重要な事件として扱ってはくれないという。
というのも、その数時間前に発生した警察官が殺害された強盗事件の方に、人手を取られているらしく、一般人同士の痴話喧嘩の末のストーカー事件はそこまで重要ではないというのが本音だろう。
「とにかく、知り合いのところにでも避難して、何かあればご連絡を」
警察ではそう言われて追い出された。
警察前には報道陣が沢山いて、警察の発表を待っているらしい。
その裏から抜けて外へ出て、詢は鴻上に送られて希の部屋に戻った。
希とは仕事時間が違うので、あまり会うこともないけれど、だんだんと希の生活を邪魔しているのだと気付いて、詢は希の部屋から自分の部屋に戻ることを鴻上に言った。
「希は確かにいてくれていいとは言ってくれる。でも僕が迷惑をかけているのが分かっているから……心苦しくて」
生活の邪魔というのは最初のうちは気を使い合っているから、気になるけれど我慢はできる。けれど、段々とお互いの生活スタイルの違いが段々とストレスになる。
希がどうこうという問題ではない。
こんな状況だからこそ、詢の方にストレスが出てきてしまったのだ。
それを素直に鴻上に打ち明けると、鴻上は言った。
「それじゃ、同居相手を変えてみるのはどうだろうか?」
「変えるって? どういうことですか?」
詢がキョトンとしていると、鴻上が希の部屋まで送るのをやめて、最上階の鴻上の部屋に連れて行った。
そして鴻上の部屋に入るように言われて入ると、そこは少し変わった作りをしていた。
「下の階と違って、二世帯住宅にしたのだけど、入る予定の住人が海外に引っ越してしまったので私が仕方なく住んでいる。中で一つの扉で繋がってはいるが、私側からしか開かない設定になっている」
「……」
玄関先のすぐ横にもう一つの部屋にもあるが、そこは荷物が積んであり、扉は開かないようにされている。
「玄関は同じにして、生活スペースは別になる部屋を事件が解決するまで君のスペースにして貰って構わない」
鴻上がそう言い出してしまい、詢は焦る。
「え、あの、でもこんな部屋、とてもじゃないけれど、お金は出せないです」
「お金はいい。事件が解決するまで詢くんが無事であることは、最初に助けた時から私が願っていることだ。君が無事でいないといけない。希くんの生活を壊したくないし、君がストレスを感じるのも分かる。一人暮らしの人が急に意気投合もしていない人と暮らしていけるとは思えないからね。だから提案をしている。部屋代はいらない。元々私の家の余っているエリアだ。もしどうしてもと言うなら、今払っているマンションの家賃で手を打つ。そうした場合は、すぐに出て行かなくてもいいし、居たいだけいてくれて構わない」
鴻上の提案は正直言うと、詢には喉から手が出るほど美味しく欲しい提案だった。
高級マンションの一部とはいえ、ドア一枚で繋がっている以外は生活スペースは完全に別に出来る。
そのドアも、直接繋がっているドアではなく、四角のスペースが中央にあり、お互いにチャイムを鳴らして玄関を通さずに入ることが出来るドアだった。
ただ今は、鴻上の都合で鴻上側からしか開けられないけれど、この事件が終わってまだ詢が住むなら、自分側のドアだけは詢の方から鍵がかけられるようにしてくれるという。
今回は、詢の安全のために鴻上側からしか開かない設定にしているけれど、それでも鴻上が無断で詢の部屋に入るなんてことをするわけもない。
部屋は玄関を入ってすぐに風呂とトイレ、横に六畳の部屋。更にもう二つの八畳の部屋が左右にあり、リビングダイニングで二十畳、ロフトがあってそこを寝室にしているのは希も同じであった。
これだけの部屋が、今の部屋と同じ値段で借りられるという特権はきっと一生訪れない。
鴻上がこうして親切に進めてくれているうちに、引っ越した方がいいのは明らかだった。
「……と、とても魅力的です……僕の我が儘ですみません」
「いいんだよ。空いている部屋を貸してるだけだから。詢くんがそれで健康でいられるなら、私も嬉しい」
鴻上がそう言うので、詢の冷えていた心が動き始める。
京田のせいで死んでいた心が鴻上に見つめられるだけで、熱くなってくるのだ。
こんな時に駄目だと思うけれど、それでも芽生えた熱い気持ちは消えない。
これを知られるわけにはいかないけれど、鴻上との繋がりが消えない今こそ、もっと鴻上を知りたいと詢は思った。
「それじゃ……家賃を払って、それでここに住まわせて貰います」
「そう、よかった。それじゃ早速だけれど、引っ越しをしよう」
鴻上がそう言う。ちょうど今日が土曜日だったので、そのまま鴻上と共に詢の家に行き、二人で引っ越しの荷物を箱に詰めた。
すると話を聞いた希がやってきて手伝ってくれ、さらには高内もやってきた。
「そっか、あの部屋に引っ越すのか。それはいいな。一時期俺も住んでたんだ」
そう高内が言ってきて、鴻上が言う。
「確か海外出張から帰ってきて、まだ家が決まってなかった時だな。一年くらい住んでいたっけ?」
「そうそう。で、やっとマンションを見つけて引っ越したわけ」
高内がそう言うので詢が不思議そうに言う。
「え、ここにいたらタダなのに? 何で?」
「だって、あの部屋が鴻上と繋がっているって言うのが俺には無理だったからかな。あと部屋が大きすぎて掃除が大変だった。使ってない部屋も掃除しないと傷むし、かといってハウスキーパーを呼べるほどの余裕もないしね。それで一年でギブアップ」
高内はそう言って手を上げた。
「高内は元々掃除しない、汚部屋人間で、一年で部屋が腐ると思ったほどだった。出ていった後リフォームで床張り換え、壁も張り替えたくらい。家賃は取るべきだったと思ったな」
鴻上がそう高内を追い打ちした。
それには詢も慌てた。
「ぼ、僕は掃除は嫌いじゃないので、大丈夫です。現状維持とはいいませんが、汚さないように頑張ります」
慌てている詢に鴻上が言う。
「分かっているよ。この部屋を見ても綺麗に使っているのが分かるから、その辺は心配はしていないよ」
鴻上の笑いに、希も頷いている。
「でも何でここまで綺麗にできるんだ……ゴミもちゃんとしてるし、溢れてないし」
高内がそう言うと希が笑う。どうやら彼らの中ではそういう人らしい。
「普通ですよ、高内さんがズボラなんです」
「あーそうかぁ」
高内が落ち込むも、荷物は三時間ほどでほぼまとまった。
元々荷物が少ないのと、近々引っ越しでもしようかと本をまとめて段ボールに入れていたから、その分楽だったのだ。
「まとめてあるけれど、引っ越しを考えていた?」
鴻上にそう聞かれて、詢は頷いた。
「あ、はい。実は、京田との同棲をしようかと賃貸の一軒家を借りようかって話し合っていたところで……でもその話もここ一ヶ月くらいで頓挫していたんですよね。よくよく考えたら、京田はその頃に仕事で左遷させられることが決まっていて……それどころじゃなかったんでしょうけど……よく考えたらおかしなことが沢山あったなって。それを全部僕は見逃してきたんだって気付いたら……情けなくなりました」
京田とのいいところばかりを見るようにして、嫌なところは見ない振りをした。
そうして京田の異変に気付きながらも、京田にどうしたのかと問いもしなかった。
お互いにそうした話合いが出来ないせいで、二人の関係は一月前にはもう絡まった状態になってしまっていたのだ。
お互いが自分のことばかりで、もう付き合っているのもきっと意地だったのだ。
今回は京田の方が先に壊れたけれど、もしかしたら詢の方が壊れていた可能性もあったかもしれない。
「君たちはお互いにお互いを知ることをしなかったのかもしれないね。知ると不利になったり怖くなったり、この関係が終わってしまうかもしれないと考えたりと、恋愛中はそういう面倒なことは見ないことにする。結果それが原因で関係は壊れる。そういうふうに出来ているのさ。人間関係なんて、察してでは駄目で話し合わなければいけない。そういうことだよ」
鴻上にそう言われて、詢はその通りだと思った。
上辺だけで中身のない関係だったと言われたら、そうだったのかもしれない。
どっちが悪いということではなく、お互いに悪かったのだ。
けれど、別れに至っている現状では、もう詢だけが悪いことではない。
恋人関係だったからこそ許されないことを京田は詢にした。
そしてそのことで詢の心が離れ、他の人を向いたとしても京田の自業自得である。
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