Word Leaf
寒雷
3
一週間分ほどの荷物を段ボールに詰めて、詢は希の家に行った。
希の家は大きなマンションで、何でも祖父によって生前贈与された家らしい。
「前にそういう話を聞いていたけど、大きすぎない?」
部屋は三つ、リビングダイニングが二十畳くらいあって、それにリビングのロフトにベッドがあるらしい。
「仕方ないよ、爺さんもこんなところだって知らずに、進められたまま購入して持てあましてたのを貰ったから」
希はあっけらかんとして言うけれど、希はこのせいで何度か恋人と破局をしている。
希を金持ちの子供だと思って近付いて恋人になるも、生活は至って普通で家が大きいだけで優雅な生活とはいかないのだ。
希はジャーナリストをしているけれど、その給料だって芳しくない。
もちろんプレゼントを強請られても、恋人にお金をかけられるわけでもないため、すぐに破局をするという。
そのため最近は、色々と思い直して事情がちゃんと分かっている人と付き合いたいと本気で思い始めたという。
その中で知り合ったのが詢たちで、詢と希は同じ出版社に勤めていると分かってからは会社でもよく食事をする仲になっていた。
そういうわけで、裏事情は知っているけれど、それでもこれは騙されるのも仕方ないと思えた。
というのも生活費は貰ってないと言うけれど、結局甘やかして育てられていたから、祖父からは沢山の贈り物として服はブランドのいい生地のものが沢山揃っていた。だから勘違いもされるわけだ。
詢のように純粋に一般家庭で育った身からすると、希の生活は一般的ではない。
けれどそれで希に不快感も持たないし、ずるいとも思わない。
それが希にとっての普通であるから、仕方ないのだ。
生まれが違い育ちも違えば、それがにじみ出てしまうものなのである。
「部屋、こっちでいい。玄関から遠い部屋にしておいた。ベッドは簡易なものになるけど、一応あるし。布団はレンタルになるから今日だけはソファベッドで我慢してね」
そう言われて案内されると、ソファに落ち着いた。
ここまで付いてきた鴻上と高内は二人を家まで送り届けると帰っていく。
「暫く様子を見に来るから、何かあれば知らせて」
鴻上がそう言ってくれた上に、名刺をくれた。
そこには鴻上商事専務取締役と書いている。
「……何だかとても偉い人ですね」
思わずそう漏らしてしまうと、鴻上はクスリと笑った。
今日初めて見た鴻上の笑顔である。
「偉いのだろうね。私の上にいるのは代表取締役社長だけだよ」
「はあ、そうなんですね。鴻上商事って世界規模の会社ですもんね……へえ、なんか名刺にも価値ありそう」
面白そうに笑う詢は、恐らくこんなことでもない限り、一生知り合いことがない雲の上の存在であると分かって何だかホッとした。
これだけの身分を持つ人が、暢気にあの公園の側を歩いていたのは奇跡だろうし、それで助かったのはまた奇跡だったのだ。
だからこれは一生使わなくてもいいお守りにしたかった。
大事に名刺入れに仕舞い、お礼を言ったら、鴻上はエレベーターで上の階に上がっていった。
「え……」
「ああ、鴻上さん、最上階の人だから」
希がそう言うので驚くばかりである。
希の家から見える反対側の低いマンション類が、さっきまで詢が住んでいた街だ。
ここから見下ろせるところに詢は住んでいる。高内もそこの地域でも大きなマンションだったから、全員がそれなりにいいところの坊ちゃんだったらしい。
「鴻上さんと高内さんは友達?」
そう希に訪ねると希が言った。
「小学校からの友人らしいよ。大学は別だったらしいけど、しょっちゅう会ってたみたいだし、僕は高内さんとは街で知り合ってよく飲みに行くけど、鴻上さんとは同じマンションだったことで顔見知りではあるけど、個人的に繋がりはないかな」
希と高内は一緒に食事にも行く仲らしいが、鴻上とは繋がりはないようだった。
まあ、鴻上も希には興味はなさそうだったので、そういうことかなと詢は思った。
「何というか、明るい高内さんと冷静沈着な鴻上さんの仲がいいのが不思議なくらい。同じ会社で地位も違うのにね。まあ、高内さんが嫉妬するなんてことはないからだろうけど」
希の言葉からは、詢は希が鴻上が苦手であることが分かった。
「あ、もしかして、希は高内さんのこと好き? 高内さんと仲がいい鴻上さんに嫉妬してる?」
やたらと鴻上に対して何だかよくない感情がある気がしたのだ。
高内のことは褒めているのに、高内と仲がいい鴻上に嫉妬しているのだろうと思えるくらいに分かりやすかった。
「……え、あ、……えーっと……」
否定が簡単にできないほどに返答に困っている希を見てから、ふっと詢は笑った。
「別に言いふらしたりしないよ。好きなんでしょ?」
「あー、うん、ちょっと前から良い人だなって思ってて。ほら、僕の彼氏とか最悪なことばかりだったじゃん。それで励まされてるうちにね」
顔を真っ赤にして希がそう言うと、詢はにこりと笑って言う。
「うん、いいんじゃない。高内さん、良い人みたいだし」
「でも高内さん、僕のことは意識してないんだよね……二人っきりでも全然だし」
希がそう言うので詢はそうかと残念そうに言った。
「こればかりは、相手の気持ち次第だもんね……世の中、そう上手くはいかない」
「だよね……詢も災難だったし」
「そうだね……本当にね」
一気に疲れがきてしまい、二人はそのまま布団に入った。
ソファベッドに横たわっていたらあっという間に詢は寝てしまった。
安堵したのも大きかったし、希の家にいるから京田に襲撃されることもないだろうと思ったのもある。
寝てしまったと思ったら、ふっと目が覚めた。
部屋の中でふっとどこにいるか思い出せずにいると、やっと現実を認識する。
「そっか……」
恋人だった京田に襲われ、助けられて友人の希の家にいるのだと分かると、ホッと息を吐いてから起き上がった。
暫くしてからトイレに行き、洗面所で顔を洗って持ってきたタオルで顔を拭いた。
鏡を見ると、京田に殴られた頬は赤黒くなっていて、とてもじゃないがそのままでは駄目だった。
病院で貰った大きな絆創膏を貼り、それを隠した。
そしてリビングにいくと希がまだ寝ていた。
けれどテーブルの上には食事が置いてあり、メモがそこにあった。
「鴻上さんからです……わざわざ朝早くに持ってきてくれたんだ……」
朝の食事にとクロワッサンと目玉焼きとベーコンとソーセージなどが入っているトレイに入ったレンジで温めるだけの朝食セットだ。
「有り難いなあ……素直にお礼が言いたい」
これを理由に会うなんてことはできないので、詢はそれを有り難く食べた。
そして希を起こさないように仕事の荷物を用意してから玄関に向かった。すると玄関には希が用意していたであろう手紙があった。
『鍵がないと入れないだろうから、合い鍵使って。オートロックの解除は……』
と暗証番号が書いてあった。
「教えていいのかよ……」
不安になるくらいであるが、詢のことをここまで信用して貰っているなら、それはそれで嬉しいくらいだ。
その紙の裏にお礼を書いてから会社に出勤をした。
玄関を出てエレベーターに乗って一階に降りると、そこには出勤前なのか鴻上と高内がいた。
「おはよう」
高内が真っ先に笑って声をかけてきて、詢はホッとしたように駆け寄った。
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
すぐに礼を言い、それから鴻上を見て朝食の礼を言った。
「朝食をありがとうございます。美味しかったです」
「そうか、それはよかった」
鴻上はニコリとして詢の礼を受け入れる。
その彫刻のように整った綺麗な顔である鴻上に、詢はちょっと顔を赤らめる。
美形を間近で見ると結構照れるものである。
これは感情がどうこうという物ではない。
「電車じゃ大変だろうから、鴻上が送っていくって」
「え、わざわざ……ですか?」
「一応怪我をしているんだ。満員電車では辛いだろう。勤務先の出版社なら途中で下ろしてあげられるから、素直に送らせてくれ」
鴻上はそう言うと、マンションの入り口にあるところまで車を呼んで、それに詢を乗せた。
隣にすぐに鴻上が乗り込んで、前の席には高内が乗り込んだ。
運転手がいて、その人は鴻上に合図を貰ってから出発をした。
「ありがとうございます。助かります」
正直、歩いていくのがちょっと辛かったので送って貰えるのは有り難かった。
すると鴻上はそんな詢の腕を少し眺めてからそこに触れた。
「少し痕が残っている」
「あ、はい……そうですね」
京田に縛られた痕であるが、必死に暴れたせいで傷が付いてしまったのだ。
それでも真っ赤になっていた痕は、少し黒くなっていて弱い部分だけに痕が付いている状態だった。
スーツの袖に隠れているけれど、それでも腕を折ったりすればはみ出て見えてしまうのだ。かといって包帯は大げさであるし、絆創膏では隠しきれない。
そこに鴻上は肌色のテーピングを取り出して、すぐに詢の手首に巻いてくれた。二周ほど巻いてしまえば、ぱっと見は分からない。
「これを持っていなさい」
「あ、ありがとうございます……あのお金を」
「お金のことは気にしないでいい」
「でも……」
そう言って昨日から甘えてばかりいる気がしたのだが、それでも鴻上はきっと受け取らないだろう。
「分かりました、今回だけは有り難く頂戴します」
「そうか」
鴻上は詢が渋々受け取るとニコリと笑った。
きっとこのテーピングはこのために買ってきたはずだ。
その好意を無碍にすることも出来ずに受けたけれど、詢はこの流れが悪いことを知っている。
詢ははっきりと断り切れずに流されるがままに、相手の好意を受けてしまうことがあるのだ。それは素直に受ければいいと人は言うのだけれど、そうするとある問題に直面するのだ。
そう、勘違いをされるのだ。
何度も好意を受けて、それに感謝していると、相手は詢がこうするのは自分に気があるからだと思い込んでしまうのだ。そしてそうではないから断ると、どうして最初から断らないのかと揉める羽目になる。
そして友人には酷いと言われる。相談したときは素直に受け取れと言っておいて、さすがに困って断ると薄情だと言って批難する側に回るのだ。
だからこの悲劇を続けたくはないので、相手からの好意を断るしかないのだが、詢は現在京田に脅威を感じていて、できれば味方が多い方がいい状況だ。
ここで新たな敵を増やすことはしたくないから、鴻上の好意を断り切ることができない。
優柔不断で判断をいつも間違えてしまう詢は、人と付き合う上で見極めるのが下手で、京田とも勢いで喧嘩をしてしまって、こんなことになっている。
こういう時でなければ、鴻上の好意は素直に嬉しいのにと詢は思ってしまった。
やがて車は出版社の前の道路で止まり、そこで詢はお礼を言って降りた。
「ありがとうございます。助かりました」
「夜は心配だから、迎えに来る。電話番号は北橋くんに教えて貰うけれどよいか?」
「え、あの、でも」
「それじゃ後で電話をする」
そう言うとさっとドアが閉まり、鴻上と高内を乗せた車が走り去っていく。
「ええ……何て強引に……」
詢が押しに弱いのは鴻上も分かっているのか、さっさと自分の用件だけを伝えてくるから困る。
それでも昨日、京田と別れ、喧嘩をしてあんな目に遭ったのに、詢は不義理なことに鴻上に対して好意を抱いていることに気付いた。
心が久々にときめいているのだ。
長く京田といて幸福感はあまり感じていなかったのか、心がどんどん弱っていたのか、こうも鴻上と比べてしまって京田の言葉の酷さと詢への心遣いが一切ないことが露天していくのが分かった。
恋は盲目とはよく言ったもので、詢はやっと京田の支配から抜け出して、気分がよい気がしていた。
会社では怪我をしたことと、さらには恋人と揉めてしまった事実を上司に次げ、もし警察沙汰になってしまったら、担当している三浦悟琉の評判にも影響する可能性があると懸念を告げた。
「そうか……でもな、三浦先生はお前の言うことしか信用してないんだよな」
「それで、幼なじみだって言っていた藤原に後をお願いしようかと思っています。彼なら三浦先生のことはよく知っているでしょうし、私から事情を先生にお話しして承諾を得てきますので……ご迷惑をおかけします、急なトラブルで申し訳ありません」
そう詢が告げたら上司も仕方ないと納得した。
早速タクシーで三浦の自宅に行き、今回の事情を話してみた。
「え、それじゃ倉永さん、担当じゃなくなるの……?」
「取りあえずは、です。色々と障害がなくなれば、その時でも三浦先生が戻ってきて欲しいとおっしゃるなら、戻ってはきますけれど。それで引継ぎは、三浦先生と幼なじみだとおっしゃっていた、藤原に頼もうかと思っているのですが」
そう三浦に言うと、三浦は小さな体をソファから起こして驚いている。
「藤原って……大輝?」
「そうです」
「マジでか、あいつ編集者になってたんだ?」
三浦は驚いたようにそう言うのだが、幼なじみだと聞いていたが違うのだろうかと詢は聞き直した。
「もしかして、もうお付き合いのない幼なじみですか?」
そう聞くと、三浦はちょっと考えてから言う。
「えっと、ほら年が十も離れているからさ。僕が大学で家を出てからほぼ会ってなくて、彼が大学へ入った時には僕が作家になってて、全然会ってないんだよね」
「え、じゃ……」
「大学で家を出るまで隣同士だったから、もちろん家では会ってたよ? よくうちにきて本を読んでたし、僕の小説の最初の読者は大輝だったから……でももう七年くらい会ってないけど……そっか、まだ幼なじみだって言ってくれているんだ……よかった」
どうやら三浦は藤原に対して印象は悪くないようだった。
「それでは、引継ぎを藤原にお願いしても構いませんか?」
「うん、多分大丈夫……。それに今は新しいのに取りかかっているし、映画の宣伝も終わったし、打ち合わせに会うまでに倉永さんが戻ってこられるかもしれないから」
「そう言っていただけると有り難いです」
「うん、色々頑張ってくださいね」
三浦に正直に事情を話したら、三浦は詢の提案を受け入れてくれた。
それによって詢は会社に戻り、藤原大輝に三浦悟琉の編集の受け継ぎをした。
この判断は、実にいいタイミングで行われた。
詢はこの後、会社に出られないほどの、とんでもないことに巻き込まれるからだ。
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