Word Leaf
寒雷
2
二人の男に助けられた倉永詢は、彼らの家でシャワーを借りた。
体を綺麗にしてから、真っ先に駆けつけてくれた鴻上嘉章(こうがみ よしあき)という男性と、高内知基(たかうち ともき)に付き添われて病院に行った。
転んで頭を打ったと医者に説明をした詢であるが。
「転んでねえ……」
医者はそれだけではないだろうと思ったらしい。
「警察に言う言わないは君の自由だから、正直に話してごらん。診断書、出しておくし、もし後で何かあれば、これも証拠になるんだよ」
医者にはそう言われてしまい、意外に隠し通すのは難しいのだと詢は気付いた。
「別れ損ねたせいなので……訴える気はないんです」
こう言うと医者は痴話喧嘩が行きすぎた結果かと納得してくれた。
頭を殴られているので検査をしたが、幸い異常はなかった。
医者は診断書を書いてくれて、体の状況、特に暴力で負った頭の怪我と殴られた頬についてはしっかりと診断書を書くと言ってくれた。
ただ詢は強姦されたという話はしなかったので、それは調べられていない。
「大丈夫だったかい?」
夜の病院に急患で入ったから、病院内はシンとしているかと思っていたが、意外に急患が多く、色んな人がベッドに横たわっている。
その中で一応の血液検査をして貰って出てくると、鴻上と高内が待合で座って待っていてくれた。
「すみません、血液検査の結果が出たら、診断書を出してくれるそうです」
やっと頭がはっきりとしてきて、打たれた頭も痛みでたんこぶのようになっているけれど、それ以上に吐き気もしないから大丈夫だろうと医者に言われた詢が、そう鴻上たちに言うと、高内が言った。
「よかった、大丈夫そうで。座って座って」
高内はニコリと笑って詢に席を勧めてくる。
「ありがとうございます」
詢が座ると鴻上が聞いてくる。
「診断書は怪我の部分だけか?」
「……はい。さすがに誤魔化せなかったので、喧嘩の末ってことで」
「そうか、それなら後で何かがあっても警察にも訴えやすいな」
「……でも訴えはしません」
詢はそう言うので鴻上は少し眉を顰める。
あの惨劇を見た後ではどうして相手のことを気遣っているのか理解出来ないのは当然だろう。
高内も同じ気持ちなので言う。
「何で? 庇っても良いことないし、今なら警察にも言いやすいよ? 俺ら証人になれるから」
そう言われても詢は頷かなかった。
「どうしてだ?」
鴻上はここまで知った以上理由を知りたいのだろう。
そう言うから、詢も話す必要があると思って言った。
「彼のことを庇っているのではないです……僕の立場が、こういうことで世間に知られると、方々に迷惑がかかってしまうんです。ですから、出来れば引継ぎをして離れる間までは、問題を公にするわけにはいかないんです」
詢はそう言った。
いきなり担当している自分が犯罪に巻き込まれたと言って消えたら、誰が自分の仕事の引継ぎをするというのか。できるわけがない。
何より自分の担当している三浦悟琉(みうら さとる)という作家は人見知りが激しく、詢の出版社からは詢が窓口にならないといけない。
それでも三浦との幼なじみが出版社にいたので彼に後を引き継いで貰うために、三浦に話を付けに行かないといけない。
ここを疎かにするわけにはいかない。
「警察は待ってはくれないでしょ? こっちの都合なんて」
詢がそう言うとそれに鴻上は理解を示した。
「確かにそうだな。犯人が分かっているのなら、深追いもしたくないところだ」
鴻上がそう言うと高内は不思議そうに問い返す。
「どうしてだい? 高飛びはしないって計算かい?」
「いや、逃げ隠れはするかもしれないが、あんなところでこんな罪を犯すような自己中心的な相手だ。悪いとは思っていない可能性もある。だが、お前には見つかっている。どう言い訳しようと私たちが被害者の助けを求める声を聞いて助けに入ったという状況を上手く誤魔化せると考えられるほど馬鹿でもないはずだ」
「つまり、向こうも警察がくるかもしれないと思っているってことだよな? だったら捕まえても」
「これ以上刺激することで、関係ない人を巻き込みそうな性格をしていると予想ができる。つまり、追い詰めても碌なことにならない可能性がある。相手が訴え出ないで警察もいかない。ラッキーとは思っても、詢くんの前に再度姿を現して元通りとなるわけもないことくらいは馬鹿でも分かってるはずだ。大人しく引き下がったなら、警察に捕まることもないとなると、これ以上の接触をせずに離れてくれるはずだ。詢くんとしては別れられればそれでいい。相手がこれ以上接触を図ってこないなら、このままフェイドアウトしたいところってことだ」
鴻上は詢が思っていることを読み取って高内に説明をしてくれた。
その通りで、詢はこのことで怯えてくれた京田が二度とこちらに接触をしてこないでくれるなら、このことを事件にすることはしたくない。
確かに京田は憎いけれど、色々と詢としても探られたくない部分もある。
ゲイであることやネコであることで、警察から真面な扱いをされない事件も沢山知っている。だから無条件で警察を信じることもできないのだ。
そうした複雑な事情があるならと鴻上は訴え出るのは最終手段でいいだろうと理解してくれた。
「でもさ」
納得できない高内は良い人なのだろうと詢は思った。
「納得できない気持ちは分かる。けれど訴えたからといってこちらも無傷とはいかない。相手に下手な弁護士が付いてみろ。マスコミを巻き込んで馬鹿騒ぎをされる。そうならないように、詢くんは一旦会社に迷惑のかからない距離を取っておきたいと言っているんだ。その時間だってそう長くはない。その間に相手がこのまま消えてくれるなら、わざわざこちらから大騒ぎをする必要もないんだ」
「すみません、高内さん。鴻上さんのおっしゃる通り、こちらは騒がれると困るんです。立場上、不利になるだけでいいことは何もないんですよ。ですから、別れた元恋人に少しの同情で訴えられないままという立場でいる方が、相手も余計なことはしないんじゃないかって打算もあるんです。あの人は仕事では一応エリートなので」
詢は詢が騒がない事情があるように、京田にも騒ぐわけにはいかない理由もあるという。
騒いでも両方がダメージを負う今の環境を壊すとしよう。京田にもう怖いものがなくなったとしたら、きっと京田は暴走をし続けるだろう。そういうしつこい性格をしている。
できれば、このまま接触をなくして別れたことにして、さっさと京田には別の恋人を作って貰う方がいい。そうすれば、詢のことなど一瞬で忘れてしまうだろう。
「ああ、エリート人生を潰してまで君を貶めたいかと冷静に考えられたら、絶対にしないタイプってことか。なるほど、それなら鴻上と詢くんの言う通り、何もしないが正解か……悔しいけど」
目の前で別れの痴話喧嘩で強姦するような男を許せない高内の気持ちを詢は有り難いと思ったが、同時にそれを実行していたらきっともっとややこしい事態になっていただろうと思えたので鴻上が理解を示してくれて助かった。
「しかし、今日はさすがに君を自宅に帰すわけにはいかない。一人にして置くわけもだ。分かるね?」
そう鴻上に言われ、詢はそれには苦笑するしかなかった。
その通りで、詢は一人になってもきっとどんどん落ち込んだだろうし、このまま京田が暴走を続けていたら自宅を襲撃される可能性もあるわけだ。
「君は頭を殴られていて、今は異常がないけれど後に異常が出る可能性もある。だから一人にしておくわけにはいかない」
そう鴻上が言うと高内が言った。
「じゃあ俺の家で預かるよ。部屋もあるし」
高内がそう言うけれど、それはそれで詢は不安だった。
知らない男と二人っきりになるのはさすがに怖かったのだ。
元恋人で好きでいた相手に犯されたばかりだ、それなのにさっき知り合ったばかりの人の家に泊まれるほど、詢も気を強く持てなかった。
寧ろさっきも自宅にシャワーを借りに行き、服も借りているがこれだって危険なことだったのだ。
この人たちは幸い良い人だったけれど、もし裏の顔があったとしたら、今頃詢はもっと酷い目に遭っていたかもしれないのだ。
「馬鹿を言うな。バイでタチのお前の部屋にほいほい泊まれるほど、詢くんは馬鹿じゃない。お前の友人に詢くんと同じ年でネコの子がいただろう?」
「ああ、希(のぞみ)? いるけど、どうだろ。仕事中だったら、家にいないことが多いから……」
そう高内が言うので、詢はあれと考え込んでしまった。
「あの、希ってもしかして、北橋希ですか?」
詢がそう聞き返すと、高内と鴻上が驚いている。
「え、まさか、そっちとも知り合い? そう北橋希、政治ジャーナリストの」
「同じ出版社の部署違いですが、友達で同期です」
「マジか、そりゃ話も手っ取り早い」
高内はそう言うと早速電話をかけるためにロビーに向かった。
「共通の知り合いがいてよかった。これで君の今後の様子もちゃんと知ることができる」
鴻上はそう言うと、詢の肩を撫でた。
「君にとって今日は最大に悪い日だったかもしれない。けれど、こうしてちゃんと助かっている。これから悪い方にはいかないと、君が踏ん張ってくれるなら、私たちも力を貸してあげられる。だから、明日からでいいから心を強く持ってくれ」
鴻上の言葉はとても励みになる言葉だった。
今は悔しいし、恥ずかしいし、そして怒りもある。
けれどそれらを飲み込んで、京田とは完全に切れることを選んだのだ。
辛いし、後悔するかもしれないけれど、詢は穏便を選んだ。それに向かって努力することを明日からでいいと言われたので、ホッとしてしまい詢は少しだけ泣いてしまった。
「すみません……」
「いいんだよ、君の心が軽くなりたいと願っている涙だからね、思いっきり泣いても許されるさ」
鴻上の言葉に頷いて詢は暫く静かにそこで泣いた。
気を使ったのか高内はそのままロビーから帰ってこなかった。
そして血液検査の結果を受け、やっと診断書を書いて貰ったら、病院から解放された。
二時間以上も病院にいたので、深夜を回っている。
そんなところに急に呼び出されたのが北橋希だ。
事情を聞いて駆けつけてきた希は、すぐに詢を抱きしめた。
「詢~」
「……希、ごめん」
「いいよ、僕は暇していたからさ。でも、やっぱりあいつとは碌な終わり方しなかったね……皆心配していたよ。ちゃんと詢があいつに殴られたから、詢たちは別れたらしいって、仲間内には広めておいたよ」
「……あんまり、広めては欲しくなかったけど」
こちらとしてこのまま縁が切れると有り難かったが、そうはいかないようだった。
「仲間内に、詢と喧嘩して口を利いて貰えない。仲介してくれって話が出回ってる」
「え……うそ」
京田がそこまで別れたがらない理由が分からず、詢は混乱した。
とにかく病院前の椅子に座ってから希は言い始める。
「一時間前にそういう話が回ってきたってあちこちからどうなってるって連絡がきた。お前に連絡を取ろうとしたけど皆連絡が付かなくて、何かあったんじゃないかって騒ぎになってたんだよ」
「あ……スマホ電源切ってるから……」
「やっぱり、京田が詢を完全に怒らせて連絡手段を絶ったんだなって皆は予想していたけど、それでも仲を取り持とうとするお節介が出始めたところに高内さんから連絡あって、それで僕から情報を回した。案の定皆納得の事情で、お節介もどん引きよ。詢は病院にいたと言ったからね」
さすがに詢を怪我させた後に連絡が付かないと言いながら仲介を頼む京田の凶行には驚き、京田との連絡を取る人はいなくなったらしい。
ただ一人だけ、京田と完全に切れると京田が何するか分からないからと京田を説得するために残ってくれている人がいる。
京田も詢が病院に行ったことや、診断書を取ったことまで知ると、幾ら痴話げんかとはいえ暴力を振るった記憶が鮮明にある状態では、仲を取り持つことはできないと忠告されてしまい、大人しくなったという。
「散々エリートを捨ててまで恋人との裁判でもするの?とか、この世の中意外に厳しいから、再就職先も多分見つからないよとか。脅すだけ脅したら大人しくなったみたいで、冷や水浴びせられたんだろうなって」
希はその人と繋がっているので逐一京田の情報が入ってくるらしいが、それは詢も予想した通りだった。
「京田はそういうところがあるからね。一旦暴れ、後で冷静になって自分の保身に走るんだよね。でもきっと自分が悪いとは一ミリも思ってないとは思うけど……」
「そこなんだよな。京田はそういうところが嫌われる要因だって気付いてないし。でもエリート街道を捨ててまではさすがにないんじゃない? 何か転勤の話があるらしくて、受けたみたいよ?」
そう希に言われて、詢は苦笑した。
「だからあんな話になったのか」
「えーと、付いてきてくれって話になったの?」
「そう。でもちゃんとした理由は言われていない。転勤になったから別れたいって言われて、それでじゃあ分かったと答えたら怒り出して、付いてくるのが当然だろうとか、色々言われたっけ……それで僕は一気に心が冷めて、別れるって怒鳴ってタクシーで逃げたんだ」
詢がそう言うと、希はああそういうことと渋い顔をしたし、鴻上や高内もそういう流れでああなったのかと呆れた顔をしている。
「試されたってところに引っかかって、しかも僕の仕事が大したことないって言われて、僕も頭に来て、売り言葉に買い言葉をしていたら、もう駄目で。これはどう言っても、京田の言う通りにしないと収まらない流れだって。それが僕は嫌で、僕の意見なんて最初からないし、仕事を軽く見られたことも腹が立った。僕のことなんて何一つも見てないんだなって察してしまったから、もう京田に心が動かないんだ」
冷たいけれどそうなってしまったら、心がもう京田を許さない。
まして追い打ちで暴力を振るわれて強姦されたら、絶対によりを戻すなんてあり得ないことだった。
「積み重なった重みで地雷が爆発なんてよくあることだ。君は言葉を飲み込み過ぎるんだろうね。悪いことではないけれど、そこまでため込んで爆発されたら修復は不可能だろうな」
鴻上がそう言うので、それには希も頷いている。
「そう、詢は時々愚痴でも何でもいいから言葉で鬱憤を晴らさないとね。溜め込んで爆発したら、京田みたいなやつには理解できないから、急に怒り出して急に別れを言われたと思い込んで、更に納得ができないんだろうね」
鴻上や希にそう言われてしまい、詢は自分の性格も悪いんだなと溜め息を吐いてしまった。
もう少し京田と内心を話し合っていたら、この事態は回避できたのかもしれない。
詢も酔っていたし、京田も酔っていたのだ。
けれどそれが冷めてしまい、別れてしまうのは恋愛ではよくあることである。
「けど、話合いが上手くいかないのは飲み込んでしまう環境を作った原因があるわけで、それは何も詢くんだけのせいじゃないよ。恋愛は二人でするものだから、別れる時は二人のせい。でも今回は違う、暴力は絶対に容認されない」
高内がそう言い切り、それに鴻上も頷く。
「これは喧嘩とは言わない。暴力であり卑怯な行為だ。その京田というやつには二度と近付かないように警告をしておかないといけない」
鴻上がそう言うので、希は京田と繋がっている人から京田に向けて、二度と近付かないなら訴え出ないと伝えたところ、京田も詢が許せない気持ちを抱えていて、それを周りの人たちがその通りだと思っていることを知ったのか、そのまま近付かない約束をして大人しくなった。
「とにかく、僕のところに暫く泊まって。必要な荷物取りに行く?」
「うん、お願いできるかな?」
「よし行こう」
そうしてやっと深夜の病院から四人はタクシーで詢の家に向かった。
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