Echo

2

「……え……でも」
 さすがに別れろと言われて斐都は焦った。
 叔父である清秋に会うのは十五年ぶりくらいだ。その人にいきなり結城との付き合いをやめるように言われたら誰でも違和感が湧く。
 結城のいいところも知っている斐都であるから、これで別れることになるのはおかしいと思えたのだ。
 しかし清秋は続けた。
「いいかい。これは俺の経験からなのだが、こういう支配型の男は大抵DVをする」
「でも、結城は殴ったりしない……」
清秋に向かって斐都が真剣に言うと、清秋は言った。
「こういうのは最近は、精神的DVと言って、恋人や家族に対して暴言や態度でやるDVの方だ。医者の俺が言うんだから、間違いないぞ。これは恋人に対するDVに当たる」
 そう言われてもなかなか信じ切れないで斐都が困っていると、清秋は更にメッセージアプリのメッセージをさかのぼってみている。
「例えば、こういうのもそう。斐都には無理だと分かっている大学へ行かせるために勉強を強要するのもだ。人には人に合わせたところにいけばいい。恋人なら同じ大学へ行くことを目標にするのはいいとは思うが、これはこいつがそうしたいから斐都に無理を押しつけているだけにしか見えない」
「で、でも、僕も結城と同じところにいきたい……」
 斐都がそう縋る。
 結城と一緒のところに行きたいのは本当にそう思っていた。
 けれど自分の頭の悪さでなかなか受かるラインにいかないだけなのだと。
「いいかい、斐都。悪いが斐都の成績では、滑り止めの私立に行く方がいい。もしこの大学に受かったとしてもその後も理解しきれない講義に、卒論を抱えて大学を卒業できるかい?」
「……や、やってみるしかない……」
「悪いが、俺の意見を言うと、斐都はきっと大学にギリギリ補欠で入れても卒業は無理だと思う。大学は入るのが難しいが出るのはもっと難しい。今の時点で大学に入るための学力がない人間が四年も過酷な講義についていくのは絶対に無理だ」
 清秋が厳しくそう言ってきて、斐都はショックを受けるよりも納得をしてしまった。
 ずっと自分でもそう思っていたことが、清秋によってはっきりと言葉で知らしめられた。
 清秋は十五年前とはいえ、医大を出ている。あの狭き門を抜けて研修医もして、医者になっている人だ。頭はもちろんいいし、そう断言できるだけの人生も歩んできているのだろう。
 だからそこに嘘は一切なかったのだ。
「それに斐都の勉強も見ていると言っているけれど、見ていたならこそ実力がそこまでだって見抜けないといけない。それでも一緒に大学に行きたいなら、頭の良い方がランクを落とすしかない。斐都の模試の成果だとな」
 模試の結果もメッセージアプリに流しているのでそれを見た結果を清秋は言っているのだ。
 そこまで断言できるくらいに斐都の成績は駄目なのだと言う。
「それに斐都、俺はこいつのこの偉そうな態度がまず気に入らない。恋人をやってやってるという上からの態度。確かに成績ではこいつの方が上なのだろうが、これが恋人に対する態度か? 今だって既読が付くからか暴言の嵐だ。こいつは自分の思い通りに斐都を手懐けていい奴隷に仕上げようとしている。正にDV野郎の手口と一緒だ」
 ポンポンッと携帯からはアプリが鳴る音がしているけれど、その回数が尋常ではない。
 暴言だと言われている内容はよほど酷いのか、絶対に清秋は斐都に見せようとはしなかった。
 言葉に詰まっている斐都であるが、そこでホテルの従業員がやってきて食事を運んできてくれた。
 それらを清秋が指示を出している。
 そうしている間も斐都は頭の中で清秋に言われたことを考えた。
 清秋に言われたことを信じたくはないけれど、それでもDVであると医者の立場から言われたら、そうなのかもしれないと思えたのだ。
 それは最近感じる、結城への思いの変化だ。
 斐都は結城の厳しい言葉に段々と苛立ちを覚えていたし、ストレスにもなっている。
 例えば、結城に言いたくないことを隠していると結城はそれを根掘り葉掘り聞き出してから斐都に駄目出しをする。
 その言葉はいつも上からの押しつけるような言葉で、斐都にとってそれが怖くて言いたくないことも増えていくばかりだ。
 付き合い始めた頃の甘さはもう今はなく、ただ結城にいつも自分を否定されていた気がする。思い当たることがありすぎて、清秋の言う通り、自分は結城に洗脳されていっているのではないかと思えた。そして自分でそれはおかしいと抵抗を始めているのかもしれない。
 それが最近の苛立ちなのだと思ったら、何だかすっと心が納得した。
 ホテルの従業員が部屋から出て行くと、清秋がソファに戻ってきた。
「斐都、このメッセージに一言書き足してもいいか?」
「……え、なんて?」
「俺が見ていること。保護者としてこの罵詈雑言は決して許さないこと。そして付き合いは今後辞めて貰うこと」
「……え、でも……」
「こいつは、人が見ていないところではこういう態度をするが、見ている人がいると多分態度を一変する。優等生なんだろ? こいつ。坊ちゃんが奴隷を手に入れて粋がっているだけだ。そこに冷や水である大人を介入させる」
 そういうと清秋はあっという間にメッセージを書き込んだ。
【結城くんと言ったかな? いつも斐都がお世話になっているようで。私は斐都の叔父です。申し訳ないですが、君のあまりの罵詈雑言はDVに当たると判断しました。とても健全な付き合いをされているようでもなく、ただ頭ごなしに罵詈雑言を投げつけられて斐都は泣いている。君がしたいことはそんなつまらない八つ当たりなのかな? この関係が続いてもきっと良いことはないと判断して、君との付き合いは斐都には辞めさせることにした。こちらは保護者として今後君が斐都に近付くことをしないのであれば、学校側にも報告はしないが、もしまた近付いてこのようなことをしてくるのであれば、しかるべきところに出ることにする。反論やいきなりで言いたいことがあると思う、もし何か反論することがあるなら、どうぞ】
 と、斐都では決してあり得ない言葉遣いと長い文章で一気にたたみかける清秋に対して、既読は付いたがその後の反論は十分経ってもなかった。
 それどころか、暴言を吐いたであろうメッセージがどんどん取り消されていくのだ。
 そこに清秋は追い打ちをかける。
【スクリーンショットはしたので、消しても言わなかったことにはならない。君の態度で君という人間をよく理解した。人に罵詈雑言をぶつけておいて、いざ立場が悪くなるとなかったことにしようとする人間だということが。残念だ。真っ当な理由が聞けると思ったのだが、そんなことは一切なかったようだね】
そう清秋が返したとたん、結城は斐都のメッセージをブロックしてきた。
「相当慌てて逃げ出したようだよ。メッセージアプリをブロックで逃げ切れると思える辺り、本当に子供でどうしようもないな。……斐都、これのどこが賢くていいところもある彼氏なんだ?」
 清秋によってブロックされたことが分かるメッセージが出ているのを斐都は見せられ、さらにはそれまでに書き込まれていた百にも及ぶ罵詈雑言のメッセージはすべて消されていたから、唖然とするしかなかった。
「子供なんだよ、何処までも。年齢相応のな」
 その言葉に久々に教師以外の大人と接した斐都は、ふとその事実に気付いた。
 斐都と結城は同じ年で、どちらが偉いという関係ではないこと。ただ大学へ行くための偏差値などが斐都に足りないだけで、それだけで結城が偉いわけではない。
しかもまだ高校生だ。
 そのことをしっかりと噛み締めたら、自然と斐都は泣いてしまっていた。
「僕、悔しかった……何でここまで言われないといけないのって……」
「そうだな。理不尽だよな。勉強が少しできないだけで。斐都が滑り止めだと言っている私立だって、他人からすれば本命でもあるいい学校だぞ。斐都のお父さん、清春も奨学金でそこに通っていたんだから」
 清秋がそう言い、斐都はその事実に驚く。
「本当に?」
「ああ、本当さ。俺たちはな、親に見捨てられて育ってきたんだけど、勉強はそれなりに頑張ったもんだ。兄さんは自分のことをよく分かっていたから、大学は通って出られるところを選んで、返済義務のない奨学金を得て通ってた。大学は楽しかったって言っていたのを覚えている。今でも変わってないっぽいから、斐都にもいい大学だと思うよ。あのマンションからも近いしね。どうしたって無理して上を目指さなくてもいい環境なんだよ」
清秋の言葉に斐都はやっと自分の中で思ってきた真っ当な考えと同じ考えに出会えて嬉しかった。
「ぼ、僕も、そう思ってた。家から通えて……僕の成績にも合ってる大学だって。それなのに、結城はそれを馬鹿にしてあんなところって……」
「辛かったな、斐都。斐都は何も間違ってないよ。大丈夫、これからは叔父さんに相談をしなさい。義姉さんには俺から話を通しておくし、叔父さんも日本に腰を据えることにしたから、住むところが決まるまではこのホテルにいる。安心しなさい」
 清秋にそう言われて抱きしめられたら斐都はそれまでの不安が一気に吹きだして余計に泣いた。
 散々泣いてしまったら、お腹が空いていることを思い出して、お腹がグーッと鳴った。
 それがとても恥ずかしくて斐都がうつむいていると、清秋はふっと笑ってから言った。
「腹も減るだろうな。泣くのって割と力を使うんだ。だから沢山食べて、眠くなったら寝れば良い。明日からきっと何もかも変わっているよ」
清秋に宥められて、斐都はやっと年相応に自分が扱われていることに気付いた。
 いつでも一人の人間としてしっかりしていなければならないと言われてきたけれど、よく考えれば自分はまだ十八になったばかり。ずっと守ってくれていた母親が高校に入ると同時にいなくなってから、一人で頑張ってきた疲れもあったのだろう。
 まだ近くに大人の誰かが必要であって、縋ってもいいのだと言われたのが心が落ち着いた。
 それから用意されたディナーを食べたのは、九時を回っていたけれど、斐都はそれをモリモリと食べた。
 そして食べ終えたら心が何だか軽くなった。
「最近、お肉を食べてなかったな」
「そりゃ精力も付かない。まだ若いんだから、沢山肉を食べないとな」
「うん」
 やっと斐都は清秋に心を開いて見せた。
 そのまま食事を取り、その日はホテルの方に泊まった。
 時間が時間であることと、結城の件で何かあるかもしれないと清秋が心配をしたからだ。
 このことにキレた結城が何をするのか予想は付かないのもあって、用心だと清秋はいい、斐都に一部屋を与えてくれた。
 斐都は風呂に入った。
 それは清秋の。
「スイートのお風呂なんてそうそう入れないだろう?」
 という言葉に負けたのだ。
 確かにお風呂は豪華で、シャンプーリンスからして明らかに使ってみたら違うし、バスソープも使ってしっかりと暖まった。
 長く入って風呂を楽しむということを堪能してから、着替えがないのでバスローブでそのままベッドに入った。
 その日は不安は一切なくて、斐都はそのまま深い眠りについた。
 夢の中では父親の夢を見た。
 優しく撫でられている時を思い出し、意外に記憶があるものだと思った。
 その時に一緒にいた叔父、清秋の姿も見た。
 相当斐都は懐いていたのもあり、清秋との思い出と父親との思い出は重なっていたのを思い出した。
 父と叔父によって可愛がられ、母が嫉妬するほど可愛がられた。
 そこで何だかふと思う。
 母親が再婚をした時に、あっさりと斐都を置いていったのは、義務は果たしたと思ったからかもしれない。
 これ以上この中に入ることはできないと思ったのかもしれない。
 だから夢なのに妙に納得した。
 きっと清秋が母に斐都のことを何か言ったとしても、もうきっと母は振り返ることなく気にもしないのだろう。きっとそういうことなのだ。
 そして朝目が覚め、ベッドルームから出ると清秋が電話をしているのに気付いた。
「ああ、そう。これからは俺が色んなことをするよ。麻理子さんはもう何もしなくていいよ。本当にお疲れさん、幸せになって自分の人生を堪能して」
 何だか意味深げにそう言う清秋は斐都を見つけてから言った。
「斐都、お母さんだよ、話があるそうだから」
 そう言われて斐都は電話に出た。
 母親が朝早くから電話に出ているのは、夜勤明けだったのだろう。声の気怠さがまた昔の疲れ切った母親を思い出す。
『あんた、大学も私立一本でいくのね。それでいいわ。本命の大学は問題と思っていたのよね。あんたじゃ受からないの分かってたのに、やっと清秋さんが説得してくれて助かったわ。無駄なことは嫌いなのよね。それでこれから清秋さんが様子を見てくれるそうじゃない? あんたには清春さんの遺産は渡したし、大学に受かれば好きにしていいわ。それにこれからは清秋さんが面倒を見てくれるって言うから、これから何かあれば清秋さんに相談をしなさい。私じゃ一緒に暮らしてないからあんたのこと理解できないのよね』
 それは暗に、斐都がゲイであるという部分のことなのだろう。
 斐都は母にはカミングアウトをしていた。
 それは中学三年の時だ。
母親はそれを聞いたとたん、気が抜けたように椅子に座り、そうなのと言った。それだけで母親は特にそれについて追求も質問もしなかった。
 ただ母親は急に斐都から興味を失ったかのように斐都にあまり構わなくなり、一年で再婚相手を見つけた。
 斐都が何をしても気にした様子は一切しなくなり、学校も呼び出しがされないなら好きにして良いと言われた。
 高校はそれなりにいい進学校にしたけれど、それすらももう母親の興味は引けなかった。
 ただ最近は進路相談で呼び出され、教師に斐都の受験先を私立に絞るようにとさんざん言われたことが余計に鬱陶しいレベルになっていたらしいことだけは、その時の母親の態度で読み取れた。
 母、いや彼女にとってもはや斐都は最愛の息子でもなくなっているのだろう。
 斐都にはそう感じた。
「うん、分かった。これからは清秋さんを頼ることにする。今までありがとう。幸せになってね」
 そう素直に言う斐都が意外だったのか、母親は一瞬黙った後に言った。
『……あんたもね、斐都。どうしても駄目だったら、私に連絡をしなさい』
「うん、ありがとう」
 母親は最後に母らしい気遣いをした。もし叔父である清秋と何かあれば、自分を頼ってもいいと思ってくれたのは、関係がこじれてからの時よりは少し良い方に前進だろうか。
 でもこれできっと母親は自由になれただろうし、斐都のことを心配することもなくなるだろう。
 斐都はこれで母親を自由にしてあげられたのかもしれないと一人納得した。

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