Sugary
10
その日の奏は、非常に幸せなまま目を覚ました。
「……ん……?」
いつもと違う部屋の様子に気付いて奏は周りを見回した。
そこは覚えている限り、西ヶ谷の寝室で間違いなかった。
そしてハッとして起き上がろうとして、想像以上に身体が付いてこないことに気付いてベッドの上でちょっとだけ起き上がれずにバタバタとしてしまった。
「あ……何で……あっ!」
身体が痛くて重いと原因を考えた瞬間、昨日の出来事を思い出した。
そうだった。昨日は混乱の中で奏は西ヶ谷に抱いて欲しいと願い出て、抱いて貰ったのだ。
そして思い出す。
西ヶ谷が奏のことを愛していると言ってくれたことを。
「~~~~~~ !!」
いくらあんな最中とはいえ西ヶ谷が嘘を言う訳もない。
あれは本当に西ヶ谷の本心が聞けて、嘘偽り無い言葉でお互いの気持ちを確かめ合った出来事だったのだ。
奏はそれだけでも今は幸せで、このまま時が止まってしまえばいいのにと思うくらいに幸福を感じていた。
しばらく西ヶ谷の匂いが残るベッドで悶えた後に、奏はやっとベッドから這い出て起きた。
居間の方に行くと、西ヶ谷の姿が見当たらないが明らかに誰かはいる気配はした。
しばらく立っていると、玄関先から西ヶ谷がやってきた。
「起きたのか、奏」
優しい顔でそう言われて、奏は顔を赤らめてから頷いた。
「おはようございます……あの……」
「身体は大丈夫か? 一応、あの後風呂には入れたのだが、まだ汚れているようだったら入り直してもいいぞ」
そう西ヶ谷に言われて、奏は一瞬で硬直して動けなくなった。
まさかそこまでしてもらっているとは思わず恐縮した。
「すみません……起こしてくれれば……」
自分で入ったのにと言おうとすると、西ヶ谷はクスリと笑って言った。
「私が起こしたくなかったし、その方が楽しかったから」
まっすぐに見つめられてそう言われ、奏は顔どころか耳まで真っ赤にしてその場に座り込んでしまった。
「は、恥ずかしい……んです……」
全力で西ヶ谷が遠慮をしない態度で接してくるので、奏は昨日までの他人事に近い態度からの違いに戸惑いながらも、最初の頃に戻った気がしてホッとした。
「これからもっと恥ずかしいことをする関係になるはずだが……奏は嫌なのか?」
西ヶ谷がそう言うので、奏はハッとして西ヶ谷を見上げた。
急激に変わった関係であるが、奏はそれを望んでいた。
自らの下心を武器にして西ヶ谷の心を開いたといっても過言ではない。
「嫌じゃない……っ! 嬉しいです」
奏が言って立ち上がると、西ヶ谷は奏を抱きしめてきた。
奏はびっくりしながらもその腕の中にホッとして西ヶ谷に抱きついた。
「夢じゃないですよね?」
奏が確認するようにしっかりと西ヶ谷を抱きしめてから聞いた。
「夢じゃないよ。夢だと私が困る」
西ヶ谷がそう言うので奏も頷いた。
「僕も困ります……夢は嫌です。現実がいいですっ!」
奏がはっきりと言うと西ヶ谷が奏をしっかりと抱き留めて言うのだ。
「それじゃおはようのキスをさせてくれ」
そう言われて驚いて西ヶ谷を見上げると、西ヶ谷は奏の頰にキスをしてから笑う。
「私の奏……ずっとここにいてくれ」
西ヶ谷の願いは必死の願いに聞こえた。いつもは余裕な顔をしている人なのに、奏の言葉一つでどうこうしてしまうこともあると言われて、奏は嬉しくなった。
「はい、ここにずっといます。僕はいろいろ迷惑をかけていると思います。でも僕が何を言っても絶対に僕の手を離さないで下さい」
奏がしっかりと西ヶ谷の手を握ると西ヶ谷もそれを握り返して言った。
「もちろんだよ、奏。この手を私から話すことはないし、絶対に離さないよ」
西ヶ谷の言葉に奏は嬉しくて泣きそうになった。
ずっと桜庭のせいで余計なことができずに生きてきたが、やっと自分の思う人の心がこちらを向いてくれた。それは奏にとって初めての出来事でそして多分最後の恋だと思った。
西ヶ谷以上の誰かなんてきっと現れやしない。
この手を離したらきっと地獄しかない。
それが分かるだけに握った手が奏にとって一生大切にできる人であったことが、奏にとってどれほどの幸運で、幸福なことなのかきっと西ヶ谷は気付いてないだろう。
奏と西ヶ谷がどうにかなったなど、二人の雰囲気を見れば分かることだった。
及川に至っては朝に会った瞬間、「なるほど」と言われてしまったほどだ。
「いいんじゃないですか、収まるところに収まったってことで」
そう及川が言うと西ヶ谷はふんっと鼻を鳴らしただけだった。
どうやら及川の言い分を聞くと、西ヶ谷は最初から奏に対してだけ態度が違いすぎたのだということだ。
「つまり?」
「つまり、奏くんのことは最初から目に入れても痛くないほど可愛がってたお気に入りだったってことだよ」
そう言われて奏は顔を真っ赤にしたほどだ。
そして奏に関しても同じで。
「奏くん、最初から西ヶ谷のこと好きだったでしょ? 一目惚れみたいな感じで刷り込みみたいにこの人に一生付いていかないとみたいな、気持ちで接してたよね? 義務感とかじゃなく、自然とそう思ったみたいな」
及川は実に奏のことをよく見ている人なんだと奏は気付いた。
正に奏はそういう気持ちで西ヶ谷を好きになり、とうとう当たって砕けてしまおうとしたくらいなのだ。
幸い思いは通じたので、助かったが、もし砕けていたらどうなっていたのか考えるだけ恐ろしいことだ。
「僕は手を取って貰っただけでも、きっと一生西ヶ谷さんに着いていくと思います」
奏のはっきりとした意思に及川は頷いた。
「まあ、桜庭のこともあるから奏くんも西ヶ谷も気分よくって訳にはいかなかったんだろうけど、収まるところに収まってくれるとこちらとしても有り難いかな」
及川的には奏が西ヶ谷に構われてくれている方が、奏が一人の時を心配しないでいいと思っているそうだ。
そうして奏は西ヶ谷と一緒に過ごすことが増え、最終的には奏の部屋で奏が自分のベッドで一人で寝る日はその日以降なかった。
さすがに荷物の関係で部屋は別にしたままであるが、西ヶ谷はマンションの都合上、二人で暮らせるマンションを作るのでそこで暮らそうとまで言ってくれた。
それを及川は。
「実質プロポーズみたいなもんよ」
と笑っていた。
西ヶ谷にもそう取ってもらっていいと言われたので、奏は二つ返事で西ヶ谷のプロポーズを受けた。
そんな幸福な日常は穏やかに過ぎていたが、それを許さない人は着々と奏の周りに近づいていた。
奏が大学を休学して部屋で過ごすことが多くなってから、異変はすぐに起きた。
まず、奏の母親の友人が奏を訪ねてきたのだ。
及川に頼んで万全の体制にしてから会議室を借りて会った。
母親の友人は、小坂と言った。小さい頃から奏もよく知っている人で、本当に世話になった人だった。
「どうかされたんですか、小坂さん」
奏が尋ねると、小坂は言った。
「実は私、マンションを出ることになって。それでね、桜庭さんに会って退所を伝えに行ったのね」
そう慎重に小坂は言った。
話を聞くとこういうことだった。
小坂は桜庭にマンションを売りに出して引っ越すことを知らせに行ったのだという。
すると桜庭の様子が一層変わったものになっていたというのだ。
「酷く、落ち込んで。それこそ死にそうなくらいの顔色で……何だか無茶をしそうで怖いなって」
小坂は一応奏と唯一連絡が付けられる信頼されている人であることは、桜庭も知っているので、桜庭はその小坂に泣きついたのだという。
奏に会いたい。奏を抱きしめたいと。
それは悲痛に叫んだらしいのだが、小坂にとって悍ましい以外の感情は湧かなかった。だからこそ、小坂は桜庭に聞いていた。
「どうしてそこまで奏君のことを?」
別に同情したわけでもなかったけれど、理由を奏も知らないなら聞き出した方が今後の転機になるかと思ったのだという。
すると桜庭は意気揚々として奏との出会いを話し始めたのだが、それが小坂にも理解ができない出来事だったのだそうだ。
奏が幼稚園の頃、送り迎えは親がしていて、その頃は桜庭の事務所がある商店街の中にある一軒のアパートみたいなテナントに両親は事務所を構えていた。
そこも桜庭の持ち物であったため、桜庭がよく来ていたという。
その頃は奏に関心を持っていなかったので両親もちょっと面倒な人くらいの感覚でいたらしいが、その日、奏は一人、階段で遊んでいたのだという。
両親がちょうど仕事場から現場に呼び出され、事務の人が奏の面倒を見てくれていた時だったという。しかし事務の人は奏をほったらかしにしていて、奏が事務所から出ていたことには気付いてなかったらしい。
そしてそこで遊んでいた奏を桜庭は見つけた。
何処の子だと声をかけたら、ニコリと笑って名乗ったのだという。
そして桜庭は親切心から事務所を訪ねて奏を連れて行ったのだが、事務所には事務の人も帰ってしまっていていなかった。
奏の話から奏の両親が急に出かけ、事務の人が奏を預かっている流れであることを知った。さすがに一人で残すわけにはいかないと、桜庭はまたもや親切心から奏と事務所で両親の帰宅を待つことにした。
桜庭は両親の携帯の番号は知らなかったし、事務の人もすぐに戻ってくるだろうと思っていたそうだ。事務所には鍵も掛かってなかったというから、桜庭の親切心は、そこまで普通によい人だったようだ。
しかし、そこから奏と二人でままごとのような遊びをし始めたとたん、奏が懐いてくれたことで桜庭の中で何かが芽生えてしまったらしい。
らしいというのは小坂の弁で、桜庭はその間のことを天使がくれた時間だの、奏をあがめている風に壮大なロマンスがあるかのように、ご託を並べたらしい。
それこそ小坂が口に出したくないくらいの言語を使ったようで、小坂は遠回しにそれを言った。
そして両親が帰宅した時には、桜庭は奏の虜になっていて、奏を養子にしたいと考えるようになったのだそうだ。
奏も覚えていないたった一日の出来事であるが、桜庭には何年も思い続けるような出来事だったらしい。
そして両親が戻ってきて事務所で桜庭と奏がいるのを見て、事情を聞いたら桜庭が用件の得ないことを言い出してしまい、両親はそれを怖がって何とか奏を取り戻したが、桜庭はことあるごとに奏を養子に出せと迫ったらしい。
事務所のこともあって両親は早々に事務所を建て直し、新しい引っ越し先を探していたが、その全てにおいて桜庭が邪魔をしたのだそうだ。
引っ越すには桜庭から逃れられるようなところではないといけないのだが、その県外や遠い場所であっても桜庭は手を回してきたのだという。
幸いであったが、奏に手を出そうとはしていないという唯一の良心に懸けて、引っ越しはやめて奏には言い聞かせて暮らしてきたというのが小坂が知っている事情だという。
「引っ越し云々は、最近になって聞いたばかりで、そんなことになっているとは思わなくて……奏くんも知っているものだと思っていたのだけれど、知らなかったのね……そうよね、こんなこと言えないよね」
まさか両親の不注意が原因でそうなった上に、桜庭には奏を一応助けて貰っているという理由もまた、桜庭を完全な悪者にできなかった。
事務の人は奏のことをすっかり忘れて帰ってしまったし、そんな注意力散漫の事務員に預けてしまったことも両親の失態だ。
それ故に奏が悪いんじゃないと言う両親の申し訳ないという気持ちの籠もった言葉と理由を奏は初めて知った。
「そうか……それであんなに私たちが至らないばかりにって責めるようなことを言っていたんだ……そうか、それで……」
奏はやっと理由が知れてよかったと思ったが、それに及川が渋い顔をした。
「まずいな、これじゃ根本的なものは全て桜庭の妄想ってことになる。それじゃこちらからどうこうできない……それこそ桜庭が暴走して目に見えて危害を加えてくるくらいでないと……」
そう及川が言った。
確かに原因があれば取り除けばいいと思っていたが、桜庭の中でできあがった奏への思いだけという理由だと、奏が何をしても無駄ということになる。
桜庭の思いの中に奏の思いなんてものはないし、奏の意思すらない。そうした奏への配慮はただ単に桜庭の中の奏という人間の美化した部分で成り立っているからだ。
けれどそれとは違い桜庭の本心はあの手紙だったんじゃないかと奏は気付いた。
「あの手紙は、妄想を外れた桜庭さんの本心だったんじゃないかな? なら、その桜庭さんの妄想から僕の言動が外れていけばいくほど、乖離が激しくなって、桜庭さんは現実の僕と妄想の僕の違いに混乱を起こすのかもしれない」
奏がそんなことを言うと、小坂が言った。
「そこなのよ。奏君がここに来てから、正に妄想を外れてしまっているのだと思う。独り言で、奏はそんな子じゃないとか、いや違うとか、一人で言い合いしてる感じで、怖くなって職員に書類を渡してから帰ってきちゃったからその後は聞いてないの……」
相当桜庭は混乱しているらしく、何が起爆になったのか最近の混乱ぶりは、それこそ周りも目に余る有様らしい。
そんな話をしていると西ヶ谷がやってきた。
「大丈夫か、奏?」
「はい、話は全部聞きました。桜庭さんが僕にこだわっている理由も……」
「何だって?」
そんな話が聞けるとは西ヶ谷も思ってなかったらしいが、小坂が話した内容を聞くと、さすがに及川と同じように渋い顔をした。
「ああ、小坂さんありがとうございました。奏のことは私に任せて大丈夫ですので、あまり桜庭を刺激しないように」
そう小坂は言われて頷いた。
あんな危ない人に関わりたい人はよほどの人だと思うと、小坂は言った。
そして小坂は会議室を出て帰っていった。
奏たちはまだ中で話し合いをしていたが、小坂が玄関の方に向かっていると、執事の格好をした使用人が二人、何かを話していた。
「へえ、会長、引っ越すんだ?」
「何か、マンションを建ててたらしいけどそこを急遽自分の自宅にするんだって」
「じゃ、あの子も引っ越すんだ?」
「だろうね。会長が連れて行くみたいだよ。手配もそうなってるし」
二人はそう話していたが、小坂が通り過ぎるとハッとしたように慌てて事務所の中に入っていった。
小坂はそれらを聞いても顔色も変えずにマンションから出た。もちろん受付の執事がスイッチを押さないと開かないので頼んで開けて貰った。
外に出ると小坂は携帯を取り出してタクシーを呼んだ。
タクシーは駅前から来て、小坂を拾ってくれた。
「どちらまで?」
「○○町までお願いします」
「はい」
ちょっと遠目の距離であるから運転手は喜んだ。
そして小坂は携帯を取り出してメールを打った。
【奏くん、引っ越すそうですよ。あの西ヶ谷と一緒のところに】
そう書いたメールは一瞬で送信された。
その宛先は、桜庭公一であった。
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