Sugary
6
奏が会議室から出て、受付を通ってエレベーターに向かうと、受付の深水が奏に手紙を持ってきた。
「夕方に届いていました」
そう言って手紙を手渡されて、奏は首を傾げた。
「誰だろ?」
誰かにここの住所は教えていない。教える必要はなかったし、西ヶ谷にも住んでいるところは事情があって教えられないと答えるように言われていた。
手紙を裏返してみると、差出人は葬式の時に手伝ってくれた母親の友人だった。
「……何かあったのかな……」
及川がいる手前、奏は手紙を開けることなく部屋まで持って行った。
部屋に入るといつも通りにチェーンロックをかけ、もう一つのロックもかけた。最近になって西ヶ谷が心配になったのか、オートロックだけでは不安なのかもう一つ内側からかけられる鍵をつけた。外に鍵穴はないので外からは誰も開けられない。
必ず外から帰ったらどんなに急いでいてもチェーンロックをかけ、もう一つの鍵もかけるようにと耳にタコができるほど言われた。
さすがに一回で分かることでも念を押されると、次第に習慣化してくるものだ。
部屋に入った奏は、まず鍵をかけてから部屋に上がり、そしてさっきもらった手紙を開いた。
手紙は三通有り、最初の一枚目は確かにその人からの気遣いの手紙だったが、奇妙なことにその手紙に最後は。
「……送り先が分からず困っていたところ、教えてもらえたので送ります。その時に一緒に入れて欲しいと頼まれたので同封しました……って何?」
奏は一枚目を捲り、二枚目を見ると顔色を変えた。
思わず汚いものを見るかのように手紙を投げ捨てて、この世の物ではない物を見るようにそれを凝視した。
その手紙には、奏の名前が最初に書いてあったが、その次の言葉が違った。
【愛しい愛しい私の奏。君はきっと私のものになる。君は最初から私のものだ。どんなことをしてでも手に入れる。どんなにアイツが邪魔をしようとも私の元に来ることになる。君は私のものなのだ】
そう書いて寄越したのは桜庭だった。
奏の母親と仲がよかった人は、桜庭と奏がこじれていることには気付いていない。わざわざ言うことでもないし、今後の付き合いもあるわけでもなかったから、油断していた。
最初から住所を教えていないことをもっと疑っていれば、一人でこんなものを読む羽目にならずにすんだ。
しかし奏は思い直して、そのままその手紙を拾い上げると、中身を全て読んだ。
覚悟が足りない自分が、どれほどの他人の悪意にさらされているのか知るべきだった。奏は今まで確かに桜庭は苦手だったが、やっと怖く感じてきたばかりで、まだその怖いと思う心がそこまで重要なこととは思ってなかった。
今、正にその恐怖を覚えた。どこまで桜庭がおかしいのかを理解し、自分の身は最終的には自分で守らないと意味がない。だからこそ知るべきだった。
奏は全てを読んだ後、あまりの気持ち悪さに手紙を投げ捨ててから、トイレで吐いた。
あんな他人の性欲に塗れた一方的な感情を向けられることは初めてだった。いや、桜庭はそれをずっと奏に向けていて、両親はそれを知っていて奏を傷つけないように助けてくれていたのだ。
「……は……あんなの……」
あんな人の妄想とはいえ、好きにされている自分がいることが奏には辛かった。
好きでもない人に何かをされるのは、冗談ではないことだ。
そして奏は思うのだ。これが西ヶ谷だったなら、きっと自分は心をときめかせてうれしがったのだろう。
だからこそ余計に、桜庭の怖さが理解できた。
好きという感情が純粋でないから、その下心を隠しもしない下品どころか浅ましさが見える感情が悍ましい力を持っていることを知った。
だから、奏は自分の純粋さもまた浅ましいものだと思った。
西ヶ谷にとって親切で助けてやっている男に感情を向けられれば、奏が桜庭をどうあっても受け入れられないように、西ヶ谷も奏を受け入れられないと感じてしまうだろう。
この心に芽生えた感情は決して表に出してはいけないことだ。
「知られる訳には……いかない……」
奏は自分の心に芽生える西ヶ谷への気持ちは絶対に西ヶ谷に悟られないようにしなければならないと思った。
奏は手紙の桜庭の部分を丸めてゴミ箱の奥に捨て、母親の友人の手紙を一枚だけ封筒に戻しておいた。
案の定、すぐに西ヶ谷がお昼にやってきて奏に手紙が何だったのか聞いてきた。
「奏、さっきの手紙、中は何だった?」
住所を教えていない人から手紙が届いていれば、怪しむのは当然だろう。
「大丈夫かっていう心配の手紙でした。後でお礼の手紙を書いておきます。ここの住所は、桜庭さんに聞いたみたいです……」
奏の言葉に西ヶ谷は舌打ちをする。さすがに住所を隠しても桜庭が調べようと思ったら調べられるので、桜庭が奏の居場所を知っているのは想定内の出来事だったようだ。
「住所は仕方ない。だが、今は新しい人は入れていないから住人も少ないし、人の出入りは完全に止めている。そうそう入り込める構造ではないから、部屋からでなければ危険はないよ。外に出るときは我々が付いているし、大学では人気のない場所にいかないように気をつければ大丈夫だろう」
そう言って西ヶ谷が奏の頭を撫でたが、奏はビクリと体を震わせた。
「……奏? どうした、具合が悪そうだ」
真っ青な顔をした奏に気付いた西ヶ谷がそう言うと、奏は頷いて言った。
「さっきからちょっと……」
「じゃあ、しばらく私もここにいるから、奏は寝ていればいい」
西ヶ谷はそう言うと奏をベッドルームに連れて行き、ベッドに寝かせる。
奏は青い顔のままでありながらも、顔を真っ赤にしているから、西ヶ谷はその奏の頰に手を当てて熱を測った。
「ちょっと、熱いな。冷やす物を持ってこよう」
そう言うと西ヶ谷が台所に消えていく。それに奏はホッとしたようにすっとベッドに体重を預けた。実際に体は疲れていたから、西ヶ谷がクスリを持って戻ってきた時には奏は完全に気を失うように眠っていた。
「さすがに疲れたか」
ここのところやっと落ち着いた生活が送れていたはずだが、その分疲れがどっと押し寄せてきたところに、桜庭からの接触だ。緊張感が増して倒れたというのが正しいだろうと西ヶ谷は思った。
クスリを枕元に置いて、水も置いて部屋を出ると居間のソファに腰を下ろした。
そこで目に入ったのが、奏がもらったという母親の友人からの手紙だ。奏は何げにそこに置いていってしまったが、西ヶ谷はそれをチェックした。
普通なら他人の手紙を開けるなんてあってはならないことであるが、住所を知らせていなかった人がわざわざ手紙を送ってくるほどに住所を知りたがる用事があるなら、何の用事なのか知っておくべきことだった。
そしてその手紙を読み進め、問題はなかったのだが、最後の二行が大問題だった。
手紙は一枚しかないのに、誰かの手紙を預かっているという描写。それに気付いて西ヶ谷は台所にあるゴミを少し漁った。
丸められた紙が気になり取り出すと、それを開いた。
「……これは……」
奏に向けられる性的感情をあからさまに見せつける桜庭の手紙に西ヶ谷ですら顔をしかめたほどだ。
奏がこれを読んで気分を悪くしたと言われれば、納得する内容だった。
「桜庭……!」
怒りが沸いてきてしまい西ヶ谷がガタリと音を出してしまう。だが西ヶ谷はすぐに落ち着きを取り戻す。
隣で奏が眠っていることを思い出したからだ。
そして怒りはやがて西ヶ谷の中にある罪悪感に変わる。
奏が可愛いと思い、必要以上に構うのも全て西ヶ谷が奏を気に入っているからだ。
本心では桜庭と思っていることはほぼ変わらない。抱きしめて側に置いて、ずっと奏と一緒にいたいとさえ思っている。奏がどこかにいってしまうなら、引き留めるために様々なことをしてしまいそうなほど、西ヶ谷は奏に対して邪な心を持ち出している。
奏はそれに気付いていないだろうし、親切な人だと思っているだろう。
だからこそ、その立場を崩したくはないから、おとなしくしているだけのことで、桜庭のことが終わってしまえば、奏に堂々と交際を申し込むつもりだった。
けれど桜庭の存在は奏にとって想像外の出来事で、桜庭が見せた邪な気持ちは、西ヶ谷に対する牽制なのかと思えたほどだ。
こうすれば、奏は確実に男同士の恋愛を拒否する心を持ってしまう。桜庭にとって奏さえ手に入れればいいだけのことなので、奏がどんな感情を持っていてもかまわない。けれど、奏と西ヶ谷がくっついてしまうことだけを阻止するためにこれを寄越したのなら、桜庭の作戦は成功している。
奏は確実にそうした思いや、性的な行動に関して拒否反応を見せるだろう。
そこでふと西ヶ谷は気付いた。
奏の頭をさっき撫でてやった時に、奏は真っ青な顔をした。
あれは男同士の関係に対しての拒否だったのではないだろうか。
男から女の代わりのようにして思われることへの奏の拒否だとすれば、そうなるのも分かる。
西ヶ谷は舌打ちをした。
自分の気持ちを優先させることよりも、奏の環境を整えてやることが西ヶ谷に与えられた役目であることを思い出した。
あまりに奏が可愛かったから、西ヶ谷も箍(たが)を外してしまったようだった。
「気をつけよう……」
西ヶ谷は桜庭の手紙を懐にしまうと、そのままその場で奏を見守りながら仕事を開始した。
奏を守ることが第一であることに変わりはない。
具合の悪い奏のために、おかゆの専門店から教えてもらったレシピを用いて、夕食は軽い物を用意した。
奏はゆっくりと目を覚ますと、辺りが暗くなっていることに気付いた。
寝ていたのだと思い出し、ベッドのサイドの灯りを付けると、西ヶ谷の手紙がある。
西ヶ谷はキッチンテーブルにて仕事をしているから、起きたらクスリを飲むために夕食にしようと書かれていた。
しかし奏は起きてすぐに西ヶ谷がいるキッチンに顔をまず出した。
「西ヶ谷さん……すみません」
そういう奏に西ヶ谷はすぐに寄ってきてから、奏の額に手を当てて熱を測った。
「熱は下がったようだね。でも汗を掻いているようだから、お風呂に入ってきなさい」
「……はい」
奏は西ヶ谷に触れられた部分から、何かが解けていくような感触に思わずうっとりとした。
西ヶ谷の手が気持ちがいいのは最初からずっと思っていたことで、奏はその手に撫でられることが好きだった。
風呂に入って汗をぬぐって出てくると、西ヶ谷は夕食を用意してくれていた。
「今日はレシピを聞いただけだから、店の味というわけにはいかなかったが、分量は全部言われた通りにしたから、味はそこまでおかしくはないと思う」
西ヶ谷が出してくれたのは雑炊と買ってきたローストビーフだ。
「ありがとうございます……」
お腹は空いていたので、奏はすぐに出されたものを食べた。
「食欲には問題はないな」
「美味しいです……あとこのローストビーフ、味がとても好みです」
「だろう。ローストビーフはここの店のが最高に美味しいんだ。これがあれば、ご飯だけで何杯もいける」
「うん、そうですね」
二人はそのまま夕食を食べながら談笑をして、お互いの気持ちを悟られぬようにしながらも、お互いの心が透けないように気を遣いながら距離を取った。
だからなのか、その微妙な距離は相手を拒否して避けている気がして、心の奥底で二人はやはり自分の下心が透けているせいかと落ち込んだ。
結果として、それまでの完全な親しみは一歩距離を置いた感じになり、二人はその距離を寂しいと感じながらも、お互いが嫌われないようにする距離として保った。
「おやすみなさい」
「おやすみ、ちゃんとチェーンも鍵もかけて」
西ヶ谷は奏がドアを閉めて鍵をかける音がしっかりとするまでドアの外に立ち続けて、ドアの物音が聞こえなくなってから部屋に戻った。
西ヶ谷は部屋に戻ると同時に弁護士の酒井に桜庭が奏に送りつけてきた手紙をファックスで送って見せた。
「どう思う?」
急に桜庭の動きがおかしな方向に動き出したことで、西ヶ谷は酒井の感想を求めた。
『そうですね、何か思惑があるようで、ないような手紙ですね。でも奏君からは確実に警戒を強くもたれてしまって、桜庭にとっては不利になる材料ですよね。でもここまで慎重に動いてきた桜庭が、急に狂った行動に出ることはないと思っています。だから、これも桜庭の攻撃という見方が正しいのでしょうが、その攻撃対象が何なのかが分かりかねますね』
「同意見だ」
西ヶ谷も桜庭が奏に警戒されても桜庭がこの手紙を奏に見せることで何かの効果を狙っているのは確かだ。
無意味なことはしないだろうし、今朝からの親族の人間をけしかけた日に、手紙が届くようにしていたことで奏の心を翻弄している。
何の効果が得られたのかは分からないが、桜庭にはきっと効果が絶大だと手応えはあったはずなのだ。
『ところで、西ヶ谷さんは奏君のことが好きですよね?』
「酒井、急にどうした? 何の意図があってそれを聞く?」
酒井がしっかりと確認してくることに、どういう意味があるのかと尋ね返した。
質問に質問を返すのはよくないことだと分かっているが、答えによって何が変わるのかは知っていなければならない。
『何の意図といいますか。これだけは言っておきたいのです。あなたと奏君はもう二十歳を超えている大人です。だから気が合えば付き合ってもいいんです。むしろそうなった方が桜庭に対して、牽制にもなると思います』
「急に何を言うかと思えば……」
酒井の言葉に西ヶ谷は溜め息を漏らした。
相手にすら分かってしまうほどに自分が分かりやすい態度をしていたのだろうかと思った。ただ奏には気付かれてはいないようだが、今日の奏の様子からこの思いは知らせない方がいいような気がした。
「桜庭と同じようになれってことか?」
そう西ヶ谷がそう言うと、酒井は違うと言った。
『あなたと桜庭が同じだなんて言う人はいないと思いますよ。私は現に同じには見えませんし、奏君も少なからずあなたには好意を持っているようですし』
「奏の場合は、窮地を私に助けられたことで信頼しているだけのことだ。だからその信頼する立場の人間が下心を持っているなどと知った時、奏はどうすればいいと思う? 逃げる場所が何処にもない状況を作った私から逃げても桜庭が喜んで目の前に現れる……それは絶望しかないだろう」
奏の立場になり考えれば考えるだけ、奏が自由になるまでは下心は見せない方がいいに決まっている。もし何か奏と先を考える時は、奏がこのマンションから出て自活できるようになったときだろう。
そうすれば、奏は凝り固まった感情や状況から解き放たれて、もっと自由に世界を見ることができるはずだ。
西ヶ谷は奏をそうしてやりたくて協力している。
邪な気持ちを置いてでも、奏が幸せになるために桜庭という人間を排除するために行動するのが一番今はいいことなのだ。
『……すみません、奏君の立場を考えずに……』
酒井が謝ってきたので、西ヶ谷は言った。
「私が余計な態度を取っているからいけなかったんだ。次からは気をつける」
西ヶ谷はそう言うと当面の対策を酒井と話し合って電話を切った。
ベッドに寝転がると、西ヶ谷はふと奏がいる部屋の方を見る。
手を伸ばせばすぐ手に届くところに、好みの相手がいる。それなのに手を出せずに手を拱(こまね)いている。百戦錬磨と言われた男でも、さすがにこうした状況は初めてで、何も手が出せないままだ。
しかも物事が解決するまで、奏にとってのいい人を演じ続けなければならない。慣れないことばかりしているけれど、それでも西ヶ谷はそれが最善だと思った。
奏にとって一番いいことをしてやりたいと思う気持ちは、さっきの桜庭の手紙を見た瞬間決まった。
自分の気持ちを後回しにしても奏の気持ちを優先させる。それが西ヶ谷が奏に求められている本来の姿なのだ。それ以上を奏は望んでいない。
西ヶ谷は気持ちを新たにすると、すぐにベッドで眠った。
お腹がいっぱいになった奏も、多分また眠っただろう。
けれど、目を瞑ってしまって浮かぶのは奏の別れ際のぎこちない仕草。距離を若干取るような態度に、西ヶ谷は少なからず自分がショックを受けていることを痛感した。
「駄目だな、これじゃ保護者失格だ」
明日からはしっかりとしなければと、西ヶ谷は思い直した。
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