両親の骨を拾って全てを納めた後は、近所の両親の友人たち一同にお礼をして、今日までたくさん助けてくれた人にも感謝を述べて、奏は西ヶ谷ともう一人の男と一緒に自宅に戻った。
暗い部屋は両親が出て行ったままで、二日間掃除をしていないから、少しだけ埃が舞った。けれど、誰もそれを気にせずに奏はそのまま居間のソファに二人を通した。
その二人は葬儀場で聞いた話によると、両親が友人に頼んでいた人だったようだ。何かあったときに尋ねてくれると嬉しいと言われて、奏の母親の友人が電話をしてくれたのだという。
西ヶ谷秀明(にしがや ひであき)というのが奏を助けてくれた男の名前だ。
「君の両親とは大学時代の後輩だ。仕事関係で二人とは何度か顔を合わせる関係だったから、頼ってくれたのだと思う」
西ヶ谷はそう言った。
両親に奏を託すほどに信頼した誰かがいるとは奏も予想だにしておらず、彼らが差し出した名刺に釘付けだった。
「西ヶ谷不動産……不動産会社ってことは、建築なども?」
「そうだ。うちの物件のリフォームなどは君の両親の会社で何度も世話になっている」 そう言われて奏は納得する。両親は建築家で自分たちの会社を持っていた。けれど社員は二人と事務の人だけで、ほぼデザインの方が専門だった。
「そうですか。僕は両親の仕事のことには疎くて……事務所もどうしていいのか分からなくて……」
「それに関しては、私どもの方が処理するように伺ってます」
そう言ったのは西ヶ谷に付いてきている弁護士だ。
その弁護士の酒井という人が両親の手紙を見せてくれた。
「もしものための遺言書だ」
そう言われて読んでみると両親はちゃんと奏のために様々な指示をした手紙を残してくれていた。その中にはマンションの修理の話は入っていなかったが、桜庭の口車には乗らないようにと何度も書いていた。
そして西ヶ谷の話も出てきた。弁護士は西ヶ谷の知り合いだから大丈夫だとも書いてある。そうした指示は全て弁護士の酒井に任せているとしっかり書いていた。
事務所は両親がいなくなれば畳むしかない。元々二人が主体でいなければ仕事にならないからだ。そして事務の人にはそうした場合の退職金などを渡しておくことや、その事務所を閉じる時に様々な手続きをしなければならないが、それは酒井に任せるようにという指示だった。
それを読んで奏はホッとした。
ここまで両親が考えてくれていたことが嬉しくて、そして悲しかった。
奏はもう一人になってしまったのだが、そんな奏に対して両親は西ヶ谷を頼るようにと書いていてくれた。邪険にはしないだろうから、迷惑だと思ってもそうしないと奏がまともに暮らせないことは承知していたようだった。
「君に身内や親族がいないことは、ご両親が残してくれていた手紙で知った。天涯孤独であることがハンデになる事柄は私を頼るといい。幸い私は地位ある身でね、それなりにやれているから、君一人くらいならどうにでもなる。迷惑だと思っても頼りなさい」
そう西ヶ谷が言うと奏はホッとして微笑んで頭を下げて礼を言った。
「ありがとうございます。これで両親の意思通りにできそうです。それから桜庭さんから救ってくれてありがとうございます」
そう言うと西ヶ谷が奏に聞いてきた。
「……あの桜庭という男は、君に対しての執着がひどい気がするが。ご両親の手紙にも幼少期からずっと引き取りたがっていてしつこいと書いてある。君はその原因は分かるかい?」
西ヶ谷の質問に奏は首を振った。
「物心が付いた時から、あの人はああいう感じで……何かと優しくはしてくれるのですが、物凄く怪しい気がして、僕はあまり好きではなくて苦手で……避けるようにはしているんですけど……マンションの所有者で管理人、不動産の関係もあって完全に拒むこともできなかったんです」
つかず離れずな関係になってしまい、どうしようもなく近い位置に桜庭は立っているのだという。
「ならば、そうした立場から解放されれば、向こうからの接触はできないだろう。すぐに部屋を用意する」
「え?」
西ヶ谷は電話一本で奏の次に住む部屋を用意してしまう。
「気にすることはない。都内に私の不動産で私が隣に住んでいて、ちょうど空いている部屋がある。つまり桜庭が越してきてどうこうできる場所ではないってことだ。もし下手なところに部屋を借り、隣に桜庭が越してきたなんてことになったら、悪夢だろう?」
そうした理由を西ヶ谷が言うと、奏はその可能性を一切考えてなかったことに気付いて、改めてゾッとした。
奏のその態度に少しだけ西ヶ谷は溜め息を吐いた。
「君は少し無防備すぎる」
奏の考えの及ばなさに西ヶ谷はよく今まで無事だったなというような口調で言っていた。
それには奏も分かったようで素直に考えを改めた。
「はい……気をつけます」
「そうしてくれ」
そもそもと西ヶ谷が思う。奏が西ヶ谷を全面的に信用している素振りすらも本当は警戒をしていなければならないのに、こんな嘘で誰かが近づいてきたとして、それを奏は多分疑いもしないのだろうなと思うと、頭が痛くなるほどのお人好しに育てた奏の両親たちを恨みたくもなった。
けれど、両親がそこまで気をつけ、さらにはあの桜庭さえも強引に出られなかった理由は、奏のこうした部分をなくしたくはなかったからなのだろう。
素直で信じやすく、容易に人は疑わない。何かされたわけではないからと相手を最初から嫌わない。
たとえ、優しく接していたとして、あの強欲で欲しいものはどんな手を使っても手に入れる桜庭が簡単に引き下がったのも奏の態度によると西ヶ谷は思った。
「そういえば、君が桜庭を拒否したのはこれが初めてなのではないか?」
そう奏に問うと奏は考えてから言った。
「基本的にお誘いは全て断るように両親に言われていたのでそう言って断ってましたけど……でも絶対に嫌だと思って断ったのは今日が初めてです」
「今日だけ、どうして?」
西ヶ谷が問うと、奏は言いにくそうにしながらもそれを言葉にした。
「何だか、怖かった……いつもはそこまで怖いと思ったことはないんです。ただ強引だなって……それくらいの感想ばかりで、両親もあの人はそういうところがあるから気をつけようねって話したくらいで。でも今日は何だか怖くて、足がすくみました。あの人が怖かったのは今日が初めてです」
奏は言ってから初めて怖かったのだと気付いた。桜庭は奇妙な人だとは思っていたが、怖いという感情が湧いたのは初めてで、きっとこれからも桜庭は怖い人のままなのだろうと思った。
そんな奏の心を読んだかのように西ヶ谷が言った。
「そうか。今日から桜庭も本気で君を手に入れるために、形振り構わずになるだろう。それこそ怖いという気持ちがどんどん大きくなるようなことをしてくると思った方がいい」
「え?」
正にそう思っていただけに奏は驚くも、どうして桜庭がそこまでするのか奏には理由がわからなかった。
「君はひどく人を惹き付けるらしい。正直言うと、私は君を適当に助けた後、後は知らぬ振りをしようと思っていた」
西ヶ谷がそう言い出して、奏はキョトンとする。それの何が悪いことなのか。そう思ったのだが、西ヶ谷はそうは思っていなかったらしい。
「君のご両親もそうだが、ひどく人を惹き付けるから、適当では済まなくなる。あれこれ世話を焼いてしまい、それに対して答えてほしいと思ってしまう輩の気持ちも理解できてしまう。私もそれなりにひどい人間なのでね」
そう言ってきた西ヶ谷の言葉に奏は西ヶ谷が何かを後悔しているように見えた。そしてその瞳は確実に桜庭のように奏を見ていることにも気付いた。
この人は僕を求めている。手を出し述べても手を取ってくれなかった両親の代わりに。
そう奏は思った。
そんな西ヶ谷の手を取って奏は言った。
「僕でよければ、僕の何かを上げられてあなたが安心するなら、僕からもらってくれると嬉しいです……」
奏がこんなことを言い出して、西ヶ谷は目を見開いた。
奏が意味もわからずそういうことを言い出したのだと思ったのか、すぐにふっと息を吐いてから言った。
「私以外にそういうことは絶対に口が裂けても言わないように」
キツく強くそう言われて、奏はにっこりと笑って頷いた。
「はい」
到底意味がわかっているとは思えない笑顔で返事をされて、西ヶ谷は更に溜め息を吐いた。それを見ていた弁護士の酒井は苦笑している。
そこで話は一旦財産のことについての話し合いになった。
両親は財産のほとんどを奏に残していたが、会社や権利などの債権は西ヶ谷に譲っていた。奏にはしばらく暮らしていけるほどのお金とマンションなどの住居も含まれていた。けれどその内容にはマンションの立ち退きは含まれてはいなかった。
「どういうことなんでしょうか……」
「これは、元々そういう話はなかったと考えるのが妥当かと」
酒井がそういうと奏はキョトンとする。
「え? どうしてそんな嘘を」
そんな嘘は奏が近所の人に聞いて回ったら分かることだ。マンションの欠陥工事の話だったなら、両親は近所の人にも話しているだろうし、欠陥が奏のうちだけということはあり得ないからだ。同じ基準で作られたマンションの部屋で一部屋だけということはあるかもしれないが、他の部屋を調べない理由がない。もちろんそれで調べられた上で皆は結果を聞いているはずだ。
そんな調査が入っていれば、周りで大きな噂になっている事件だ。
それが奏の耳に入らないなんてことは絶対にないと酒井が言った。
「つまり、奏くんを追い出し、一人で途方に暮れているところを親切にして部屋を宛がい、自分の側に置くことが桜庭の計画だったってことなんだろうね」
「奏、お前貞操の危機ですらあるぞ」
そう西ヶ谷が言うと、奏はまだ理解ができていないのか、キョトンとする。
「僕を側に置く? 貞操の危機? 僕と桜庭さんがその寝るってこと? 何で?」
奏の言葉に西ヶ谷はふうっと溜め息を吐いた。
そういう意味で気に入られているとは奏も思ってもいなかったようで、考えが追いつかないらしい。
「そう、桜庭は奏とセックスをする関係になりたがっているというわけだ」
それをはっきりと西ヶ谷が告げると奏はやっと理解が追いついたのか、ゾッとしたように顔を青ざめさせた。
「そんな……こと……桜庭さんがずっと狙ってたってこと? 僕のことずっと?」
小さくなって震えている奏に西ヶ谷ははっきりと告げた。
「そうだ。桜庭は最初から奏を狙っていた。ちょうどいい時期になって邪魔が消えたと思っているのだろう……」
そこまで言ってから西ヶ谷はふっと言葉を切った。
考えたくもない事が頭に浮かんだ。
奏の両親の事故は、レストランにブレーキが壊れたトラックが突っ込んできて、窓側にいた二人を轢き殺したのだ。けれど、その運転手は離婚したショックで整備を怠ったのではないかと言われていたが、相当借金があり、自暴自棄になったのかと思われていたが、その借金は最近全て払い込まれていたという。
借金がチャラになったのに離婚をし、自暴自棄になる理由が分からないと思っていたが、これはもしかしなくてもこの事故は仕組まれたものではないだろうかと思えてきたのだ。
桜庭が裏にいたとすれば、借金を返済できる金額を男に払い、男は家族のために自分を犠牲にしたと考えれば、男の奇妙な動きは説明はできるだろう。
しかしきっとその男が借金を返済できた金の出所はつかめないだろう。そんな足の付くまねを桜庭が残しているとは思えなかった。
思ったよりも重大な事態になっていることに西ヶ谷もやっと気付いた。
奏をそこまでしても桜庭が手に入れたいと考えているとすれば、悠長にこの部屋に置きっ放しにはできない。
「奏、悪いが、この部屋の全ての荷物はこちらでまとめて引っ越し会社に頼むとして、今から重要な書類や貴金属、君の当面の着替えや勉強道具を持ってすぐに引っ越した方がいい。君を一秒たりとも一人にしておくことはできない」
西ヶ谷がそう言い出して、奏はびくっと震える。
「言い方は悪いが、拒否された桜庭がどういう行動にでるのか、さすがに予想が付かない。早期に手を打ってくる可能性もある。奏、分かるか?」
西ヶ谷がそう尋ねると、奏は頷いた。
あの桜庭の脅しはきっと嘘じゃないのだろう。他人である西ヶ谷がそう感じるほどに桜庭の様子がおかしいことは、奏だって見ていたから知っている。
一人で過ごすのは、もう嫌だったのもある。
思い出が多すぎて、ただただ泣きたいのに、そんな暇も与えてくれそうもない桜庭に怯えて夜を明かすのは嫌だった。
奏はゆっくりと頷いた。
そしてすぐに貴重品を掻き集め、両親の会社の重要な書類などや通帳、マンションの契約書などを弁護士の酒井と掻き集めて、必要な書類を確認した。
荷物は西ヶ谷が持ってきた段ボール箱に当面の着替えを放り込み、大学の授業に使う教材なども全て持ち出した。
西ヶ谷は自分の部下を呼んでトラックを持ってこさせて、そうした荷物を全て運び出してくれた。
奏は部屋中をしっかり施錠し、西ヶ谷と確認して忘れ物がないかも確認した。
奏は慌てたままで生まれてからずっと暮らしていたマンションを逃げるように出て行く羽目になった。
それでも奏は一人ではなかった。
「奏、大丈夫か?」
車に乗ってマンションを去って行く時、奏はずっとマンションを見上げた。
ついさっきまで住んでいた馴染みのある見慣れた日常の光景であるマンションは、暗闇で街灯が光り照らし出されていて、今まで感じたこともないオドロオドロしさまで奏は感じてしまっていた。
「まさか、こうやって夜逃げになるとは思わなくて……三日前までそんなこと一ミリも考えたことはなくて……でも人生って突然変わってしまうあやふやなものなんだって突きつけられてしまって」
「……何があるか分からないから後悔しないようにその時その時を全力で生きるのだろうが……なかなか人間は上手く生きられない生き物らしい」
西ヶ谷の言葉に奏はちょっとだけ笑った。
たしかにそうだった。
「僕は、これからどうなるのだろうかとか、これまでに考えたことすらないことを考えて生きていくのだと思うと、不安もいっぱいですが、生きている以上は後悔はしたくないから、精一杯生きようと思います」
最後には見えなくなったマンションから視線をそらして、しっかりと西ヶ谷を見て言った。
その決意は、西ヶ谷にも見て取れた。
だからこそ西ヶ谷は言うのだ。
「大丈夫、私がついている。決して悪いようにはならないし、しない」
その力強い言葉に奏は言い様もないほどの安堵を覚えた。
そして奏はここ数日で初めて心の底から笑顔になれた。
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