Goodbye amnesia
3
記憶のことは後回しにして、志田洸(しだ ひかる)はリハビリに勤しんだ。
一ヶ月ほど経つと、杖をなくても普通に歩けるようになり、引き摺っていた足はかなり目立たない歩き方ができるようになった。更に一ヶ月経つと、早歩きをしても引き摺ることもなくなり、見た目は普通の人になった。
しかし走ると足が付いて来ないので左足を引き摺ってしまうため、走れないこともないが格好は悪い形で、子供よりも走るのは遅くなる。
よほどのことがない限り、走ることをしなければ、洸は普通の青年と変わらない。
三ヶ月も過ぎれば、リハビリも最終になり、洸は自分で歩いて、電車を使って病院に通っていた。
和隆は心配をして送ると言うのだが、それじゃ意味がないと洸は電車で二駅先の病院に一人で通うようになった。最初こそ緊張をしたが、次第に電車通院になれ、毎日の行動が
通勤のようになって慣れた。
リハビリも上手くいって、洸の躰は日常生活ならば問題がないレベルで筋肉もちゃんと付いた。しかし寝たきりの間に痩せた躰はなかなか標準体重に戻らず、今も少し足りないが、元々痩せていたことが写真でも分かるので、標準体重よりも痩せているのが普通なのだろうと医者に言われた。
よって通院の最終日には、和隆も付いてきて医者に話を聞いた。
「よく頑張りましたね。日常生活に不自由ないほど回復もされていますし、今後は余程の不都合がない限りは、今日でリハビリを終わります。リハビリは終わりますが、寝たきりの躰の状態を一年くらい様子を見ますので、三ヶ月ごとに検査に通って下さい。後、記憶の問題もありますし、変化がありましたら、すぐに通院してください」
医者が型通りの診察を下して、洸は自由になった。記憶のことはまだ何も思い出せていないが、通常の記憶もある洸の場合、日常生活に問題がないほどの知識もあるから、そこまで重要な問題でもないと医者は言う。
「よかったな、洸」
「うん、ありがとう。和隆もいっぱい協力してくれたから、僕、頑張れたよ」
洸がそう言い、和隆が微笑む。
それを見た医者が良かったと微笑んで言った。
「本当に寺嶋さんは、頑張りましたからね。本当に良かったですね。洸くんも目覚めてから、すごく頑張っていたし、ここまで本当にお疲れ様でした」
医者は和隆の献身的な看病に感心したように言い、その後の洸の頑張りも目を見張るほどに成果が出たことを喜んでくれた。
「ありがとうございました」
その日を最後にリハビリの通院が終わり、三ヶ月後の検査などが予約された。検査と言っても状態を聞く程度のことで、記憶のことも一緒に診察される。
記憶がどんな障害をもたらすのか分からないので、一応確認されるだけのことである。
「やーっと終わったぁ」
洸は病院を出ると、大きな伸びをしてすっきりしたように躰を伸ばした。
車を先に取りに行った和隆が、入り口まで車で迎えに来てくれのを洸が待っていると、洸のことをじろじろと露骨に眺めてくる同じ年くらいの青年が目に入った。
洸はきょとんとして青年の方を見るが、青年の顔に見覚えがない。
茶髪で、今時の前髪がしっかりある髪型で、身長は百七十五センチほど。細身であるが、百六十ほどの身長の洸からは、大きな相手になる。顔も可愛い感じであるが、今時のイケメンの顔という雰囲気である。服装はかなり派手で、真っ赤なコートを着ている。
誰だろうと考えていると、向こうから話しかけてきた。
「志田だよな? 志田洸」
「あ、はい。そうですが、……すみません、どなたでしょうか?」
洸がそう言うと、男性は笑って言った。
「俺、同じ大学だった、小出俊貴(こいで としき)。大学入って二年も同じ学部で友達だったけど、忘れちゃった?」
そう小出が言うのだが洸はバツの悪い顔をしてから、説明をした。
「ごめんなさい、僕、事故で大学に入ってからの記憶がなくなってて……覚えてないんです」
洸がそう言うと、小出は凄く驚いた顔をしたが、ふっと思い当たることがあったのか、頷きながら言った。
「そうか、あの怪我だったもんな。頭も打っただろうし、記憶も飛ぶよな。まあ、生きてて、こうやって出歩いているところが見れてよかったよ。何度か心配で見舞いに行ったんだけど、お前の親族に「もう来ないで欲しい」って言われてな。仕方ないなって思ってて、でも心配はしてたんだけど、寝たきりのまま退院してるし、携帯の連絡先も消えてなくなるし……家も知らない人が住んでるし、まさか来るなという身内の人に尋ねるわけにもいかないしで、無事を確かめる手段がなかったんだ」
小出は本当に心配していたと洸の無事を喜んでくれた。こんなに心配してくれいた人もいたんだと思った洸が嬉しかった。
「いろいろあって引っ越しをしたんだ。元の家は人に貸し出してる。あと、見舞いのことは……身内に聞いた。そのうち負担になるし、見舞の人の生活もあるから、そっちを優先させたいってそう言ってた」
洸がそう言うと、小出はなるほどと言った。
「まあ、二年以上も毎回見舞いにいけたかと言ったら、たぶんいろいろあって無理だったと思うけど……そこまで気を遣われてたのか。てっきり嫌われたのかと思ってたから……」
そう小出が言うので、洸がキョトンとする。
「あの、顔のいいスーツのイケメンがさ。何とか言うか、凄く洸と俺らの接触を嫌がっている感じで、まあ、洸とはその、まあ、寝てたというか、フレンドというか、そういう関係もあったから、嫌われてたんだろうけど……」
そう小出が言うので、洸は聞き返していた。
「寝てたって? セックスフレンドってこと?」
まさか自分がそういう人を作っているとは思わず聞き返すと、小出は覚えてないかと呟いた後に言った。
「友人でもあったけど、セックスもしてた。でも恋人じゃなくて、洸にはすごく好きな人がいて、その人の代わりだって最初から言っていたんだけど、俺は洸のこと、好きだったよ……あ、でも今の洸は出会った頃より、何か幼い感じがして好みじゃないけど」
小出がそう言った。悪びれた様子すらない言葉に、洸は不快感は感じなかった。寧ろ、なるほどそういうことかと思ったほどだ。
「あの、今、時間がなくて……連絡先を教えて貰える? 昔のこと思い出す話が聞きたいんだけど、迷惑でなければ……時間を作って」
洸が必死にお願いをすると、小出は少しだけ驚いていたが、洸の頼みは断れないらしい。昔好きだった人が困っているのを放っておけないタイプのようだった。
「ああ、構わないよ。春休みに入ったら、時間はいくらでもあるし、じゃ、これ連絡先」
そう言って小出が出したのは、名刺だった。個人的な名刺を面白半分で作って、友達同士で交換するのが流行っていると小出は言った。
「絶対に電話する。和隆に見つからないようにこっちから連絡する」
洸がそう言うと、小出は「ああ」と分かったように言った後に最後に一言言った。
「和隆って、洸が好きな人だろ? よかったじゃん、事故でああなっても欲しい人は側にいてくれる結果になったわけだし。俺は洸が生きていてくれて嬉しかった。じゃあ、またな」
小出はそう言うと病院の中に入っていった。どうやら、友人の入院の見舞いに来ていたらしく、見舞いの案内に立っている。
洸がそれを見送った後に、和隆が車でやってきた。
ドアを上げて中に入ると、和隆が言った。
「ごめんな。前の車が駐車券をなくして、料金所で立ち往生して、そのあおりを食ったよ」
そう言われて、洸は笑う。
「道理で、凄く遅いなって思ったよ」
そう洸が言うと、和隆が言った。
「誰かと話していたみたいだけど……?」
「あ、うん。ちょっとぶつかってしまって、それで」
「大丈夫かい?」
「うん、肩が当たったくらいだから、大丈夫。あんな入り口で堂々と立ってる僕が悪かったんだけどね。邪魔だろうし」
洸は小出のことを和隆には話さなかった。和隆はさっきの話し相手が小出と気付いていない。気付いていないのなら黙っていた方がいい。
記憶がない大学時代の友人が、セックスフレンドだった事実を洸が知ったとすれば、和隆は洸が思い出そうとする昔の記憶を思い出すなと言うはずだ。
きっと碌でもない生き方をしていたのだろう。そんな気がする洸は、それでも自分の過去を知りたかった。
和隆が好きだったという事実があるのに、恋人だったのに、上手くいってなくて、自分は浮気を平然としていたというのだから、どうしてそうなったのか知りたかった。
それに過去のことだから、今の関係を大事にしてゆっくり恋人をしていこうと言う和隆の言葉に甘えていたが、どういう恋人同士だったのか洸は知りたかった。
和隆の仕事が忙しくなってきたのは三月の終わり。会社の仕事が多く回されてきて、最後には会社に出向く羽目になった。
洸が目を覚ましてから、仕事の量が明らかに増えたのだが、和隆が元々洸の看病をする名目で、楽をしていたから、これだけの仕事量があるのは普通だと言った。
それでも会社でできることが増えてくると、会社に出向くことが毎日のようになり、洸はそれは仕方ないと納得した。
大きな部屋に一人でいるのはつまらないが、今はやることがあった。
躰が丈夫になったので、一人で部屋を掃除したり、家事をしてみたりして楽しんでいると和隆に告げると、和隆は会社に仕事に出るようになった。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
「……洸、キスして」
いってらっしゃいのキスをしないと和隆は出かけない。
恋人同士なのに、何もないのが段々と耐えられないと言われ、セックスを最終的に考えてくれとまでお願いされた。
「今は無理を言わない。けど、最終的にセックスまでする恋人になりたい」
和隆がはっきりとそう言うので、洸はびっくりして目を泳がせたのだが、心の中の過去の自分が歓喜しているのが分かった。
和隆に関することで、喜びの感情は過去のものだと分かるのだが、洸はそれが心地よかった。本当に喜んでいる躰や頭の中が幸福に満たされるのだ。それが悪いこととは思わない。
何があったにせよ、過去の自分も、今の自分も和隆のことは好きだった。
「……いってらっしゃい……わっ……ん」
背の低い洸の前に躰を屈めて、顔を持ってくる和隆の唇にキスを柔らかくすると、和隆がギュッと洸を抱きしめてきて、深いキスをする。
「ふ……ん……」
キスをすると頭の中が幸福で何も抵抗ができなくなる。洸が抵抗ができなくなるまで和隆が洸とキスしてから、やっと離してくれる。
「行ってくる。いい子にしてなさい」
「……うん……」
夢見心地になってしまう洸に、和隆は優しく甘くそう言う。
玄関が閉まるまで洸はぼーっとしてしまうのだが、ふっと我に返って洸は頬を叩く。
「もう、本当に弱いんだから」
和隆の甘さに本当に弱い洸は、いつも和隆のペースに巻き込まれるのだが、今日はそうもいかなかった。
病院で出会った大学時代の友人である、小出俊貴と会う約束をしたのが今日だった。
あれから和隆がいない間に連絡を取り合っていたが、やっと最近和隆が会社に出かけるのが日常になったので、予定が立てられた。
「よし、出かける準備をするか」
洸の方も出かけるのを怪しまれないように、最近は図書館通いを始めた。
本を図書館で読んで、その図書館で昼食を取って、本を借りて帰ってくるというのを最近は週二回ほど繰り返している。一日出かけていても、怪しまれないようにしていたのだが、さすがに和隆にバレるのは怖かった。
昔の自分が浮気をしていたことが分かっている状況で、それでも過去のことを知りたがっているということは、問題が大きくなることを意味している。
和隆がそれに賛成するとは到底思えず、隠すしかなかった。
洸は午前十時に家を出て、予定通りに図書館に向かった。その図書館は、今あるマンションから歩いて二十分ほどの距離にある。沢山の市の施設が並んでいる場所で、近くには学校もあるから、かなり賑やかで、商店街も並んでいる。
その中を通りながら、洸は図書館の近くにある喫茶店に入った。
喫茶店に入ると、洸が周りを見回すが、まだ小出は来ていなかった。
「お一人様ですか?」
従業員が話しかけてきたので。
「いえ、待ち合わせで、二人になります。あと、あの奥の席でお願いします」
洸がそう言うと従業員がその席に案内してくれた。
その席は、狭い喫茶店の中で一番奥になるが、ちょうどその席までの通路しかない狭さで、隣の席以外の客とは隔離される作りだ。店の立地のせいで、そんな妙な形になっている。
洸は前にここでくつろいだ時に、入り口からここが見辛いことが分かって、秘密の空間みたいだと思っていたところだった。
暫く座っていると、小出がやってきた。
「へえ、こんな場所、あったんだな。こっちの方はほとんど来ないし、知らなかったよ」
青の上着にジーパン姿の小出の髪は、茶色から金髪に変わっている。
「あ。小出くん……」
「びっくりした? 髪の色も変わってるしね。約束の時間、十分遅れたけど、土地勘がないってことで簡便な」
小出はそう言うと洸の向かいの席に座って、従業員にコーヒーとモーニングを頼んでいる。十一時までやっているモーニングタイムに間に合ったわけだ。
「ごめんな、朝飯まだなんだ。食べさせてね」
「あ、うん、いいけど」
フランクな小出の様子に、洸とは相当仲が良かったことは窺える。遠慮することがない態度なのは、昔からそうだったからだろう。
「あれからさ、いろいろ考えたけど、思い出せなくて」
洸がそう切り出すと、小出が言った。
「写真とか見ても思い出さないか?」
「あ、写真は全部携帯に入っていたらしくて、水に長時間浸かっていたから、データも死んでるって……」
事故当時に携帯が水に浸かったことは、捜索されておらず、暫くして携帯がないことに気付いてやっと水路に沈んでいるのが見つかったという。そこまでに一ヶ月以上経っていて、データ保存のメモリも水没で完全に駄目だったという。
「ああ、なるほど。携帯が死んだら、本人が欲しがってない限り、捨てるか。じゃ、これ俺が持ってる写真だけど、いつも持ってるやつだから」
そう言いながら小出は持っていたリュックの中から八インチくらいのタブレットを取り出して、アルバムを開いた。
「二年前と三年前、こんな感じ」
ちゃんと整頓されているフォルダに分けられた写真で、小出の友達という欄に洸が写っていた。
今より少し幼い感じの洸が小出たちと盛り上がっている様子で写っている。色んな写真があり、大学の文化祭や旅行、飲み会にキャンプと様々な場所で写真を撮っていた。
「へえ……すごく仲が良かったんだね、僕たち」
「そうそう、いつも遊ぶときは一緒だったな。率先して俺が企画してるやつのところに特攻して、お前ら連れてそこに参加するって形かな。旅行も安くなるように色んなヤツに相談して格安で行ったしな。お前の家の別荘を借りたこともあったかな」
「ああ、父さんの別荘か……そういうの貸し借りする仲だったんだ」
「あー、お前が甘えれば、喜んで貸してくれたぞ。キャンピングカーとかも借りてくれたし、いろいろ援助してくれたし」
「援助?」
「遊ぶにも金がかかるだろ? その足りない分を出してくれたんだ。すげー助かったんだよな。まあ、後で親父さんの会社の雑用を手伝ってたから、バイトしたのと変わらないんだけどね」
小出が言うには、援助はしてもらえたが、その後の荘吉の会社で書類の箱を整理整頓するバイトをよくさせられたらしい。保管期限が切れた物を捨て、シュレッダーにかけることや、新しく貯まったものを倉庫に移動する仕事で、これがかなりの重労働にあたり、一日でやるには学生を十人ほど雇った方が早いのだという。
そのバイト代よりも少々上乗せしたお金が、援助になっていたらしい。
「へえ、父さんもやるね」
「だろ。遊んだはいいが重労働は嫌だと逃げるヤツが出てきたんで、先にそれやって耐えられたものが援助を受けられるとしたくらいに結構辛いんだぜ」
そう言われた時に、その時の写真もあった。洸はシュレッダーをかけているところだ。
「このバイトの弁当も豪華でさ。ステーキだぜ。それでお土産に同じ弁当も持たせてくれて、皆ホクホクしていたなあ」
そう言われて写っている写真に、その弁当を食べているシーンがある。確か、洸が好きなステーキ店の特製弁当だ。
その写真を全て見終わっても、洸は思い出せはしなかった。
知らない人と写真を撮っているという雰囲気はどんどん強くなり、ちょうど事件前の頃にはその写真もなくなっていた。
「……写真の最後の方、半年くらいから写真がないよね」
洸がそう言うと、小出がああっと寂しそうな顔をした。
「喧嘩したんだ。洸と他のヤツが。些細なことだったんだけど、人数が多い方が俺らから去っていって、写真も撮らなくなったかな」
そう言われて洸はなるほどと頷く。しかしよく見ると、小出以外の友人でよく写っている人を見ると、毎回人が変わっていた。何度か同じ写真に写っている人もいたことにはいたが、旅行の写真には写っているのに、バイトの写真以降写っていない。また別の新しい人が写っているが、その人も何かのイベント後にはいなくなる。
小出以外が全てその場その場の友人で、固定の友人は小出しかいなかった。
「……僕と小出くんは、いつから、そういう関係になったの?」
こんなに仲良くしている友人とセックスするなら、相応のことがあったはずだ。
しかも洸は和隆のことが好きなのは、昔の写真を見ていて知っている。出会った時から和隆が好きで、その後、恋人同士になっているはずなのに、小出と寝ている自分。
この矛盾は何だろうかと洸は思ったのだ。
「あー……それは、そもそもの出会いが、バーでのことで、同じ学部だって知ったのは、セックスした後だったんだ」
小出がそう言い出して、洸は目を見開く。
「そういうバーに僕らは通ってたってこと?」
「うん、そういうこと。そこで知り合って、意気投合して寝た」
洸は少しショックだった。その時点で洸は和隆とは恋人同士ではなかったということになる。
和隆と恋人同士なら、他の人と出会いがあるゲイバーになんか行く意味がないのだ。だから大学に入った時にはまだ和隆とは恋人同士ではなかった。それが少しショックだった。初めては和隆がよかったけれど、それが義理とはいえ、兄弟では許されないから洸はこの手段を執ったのだろうか?
「洸は、好きな人と結ばれる結果にはならないからとか言ってたな」
「……そっか……うん、その当時は多分そうだったと思う」
洸は逆算して考えたら、その当時はまだ兄弟だったため、恋人同士にはなれなかっただろう。だから当時の洸が自分の性癖を確認するために誰かを探していたとしたら、誰かと試しただろう。
「それで今はどうなんだ?」
「あ、うん。状況が変わってて、一緒に住んでる」
洸がそう言うと、小出は驚いた顔をした。
「へえ、一緒に住んでるのか。怪我の功名ってやつかね? ま、よかったんじゃね?」
少しだけ小出ががっかりしたように肩を落としたのだが、洸はそれに気付かずに質問をした。
「僕は、君とそういう関係になってたのに、好きな人のことと分けて考えていたってことだよね?」
そう洸が尋ねると、小出が言った。
「心と体は別ってやつだよ。心では思い人を思ってはいるんだけど、それが結ばれるはずがないと思っていると、それに操を立てても仕方がないっていうね。洸は当時荒れてたから、よく泣いては俺のところに来てたよ。抱いてくれって」
そう言われて洸は困惑する。持てあました性欲を、友人にぶつけていたわけだ。
どうしようもない人間性を知って、洸は覚悟していたとはいえ、自分の複雑さが自分で理解できなかった。
そこまで思い詰めていた事実を和隆は知っているのだろうか。
だから、あそこまで過去のできごとを思い出す必要もないと言うのだろうか。
「失望したか? 自分に」
そう小出に問われて、洸は頷いた。
「ここまで馬鹿だとは思わなかったんだ……」
「……へえ、お前、何年前まで記憶あるんだ?」
「えっと、高校二年のちょうど半分くらい。そこから四年分の記憶がない上に、二年間、完全に寝たきりだったから、六年分の記憶はないってことになる」
洸が冷静にそう答えると、小出は驚く。
「それで、その冷静さか。怖いなお前。俺ならもっと混乱して大変だろうな。目覚めてから三ヶ月って言ってたっけ?」
小出の言葉に洸はうーんと考えた。
確かに最初は混乱した。何せ記憶にない人が側にいたからだ。でも説明されれば、それで納得ができるように答えられたので、洸はそれ以上を追求しなかっただけのことだ。
「そうだな……僕の記憶を必要としている人と一緒にいたら、そりゃ思い出さなきゃって混乱はしたと思う。でも和隆は、僕の過去は今必要じゃないから、そのまま今から人生をちゃんとしようって言ってくれた。だから、過去は後回しでいいかって気になってた」
洸がそう言うと、前向きな洸の言葉に小出は呆れたように溜息を吐いた。
「そうだよな。俺らが側にいて何か言えば、お前は焦っただろうな。でも、そういう人がいなきゃ、そうなるか。でも俺に会って記憶を取り戻したいと思ったんだろ?」
そう聞かれて洸は首を横に振った。
「取り戻したいんじゃなくて、知らなきゃいけない気がした」
洸のその言葉に小出が首を傾げた。
自分の記憶を取り戻したいのではなく、知るという言い方がおかしいと思ったのだ。
「こうやって自分の過去だって言われたら、もっと衝撃を受けるかと思ったんだけど。割と冷静に受け止められているのは、取り戻したいと思ってないからだと思う。どうやっても僕がその記憶を思い出しても、それまでのようになれるとは思えなくて、新しい記憶はどんどん作られているから、きっと考え方も変わっていると思う」
洸はそう考えた。今の自分は新しく作られている。その記憶を失うことはないから、きっと過去を思い出しても大丈夫だとは思った。
確かにどうしようもない生き方をしていたらしいが、苦しかっただろうが、それでも楽しい時間だってあったと教えて貰えた。
「あなたが見せてくれた、その写真。それがどんな記憶よりもしっかりと僕の記憶になる。楽しかったこともあったんだって、ちゃんと教えて貰えたから、ありがとう」
洸がそう言うと、小出は苦笑した。
「確かに、俺の知っている洸じゃないな。お前は。同じ人間でも記憶を失って生まれ変わると、こうも変わるのかってほどだ。まあ、それもいいんじゃないか? お前がそれでいいっていうなら、無理して過去に縋ることもないだろうし」
「そうだよね、あなたには申し訳ないけど、僕はこのままいこうと思う」
洸はそう言うと、写真の入ったタブレットを返した。
「僕の方には何も残ってはいないけれど、あなたはこのままの洸を覚えていてください」
洸はお礼を言って、席を立った。
「もう会うこともないかと思いますが、今日はありがとうございました。お元気で」
洸はそう言って小出の食事代を自分のお金で払った。ここまで来て貰ったお礼には少ないかもしれないが、小出も何も言わなかった。
「じゃあな、洸」
小出はそう言って、冷めたモーニングを口にした。その間に洸は店から出て行った。そこに残った小出はタブレットを少しだけ眺めてから、それを操作した。
沢山あるフォルダの中から、ナンバーだけ振ったフォルダを開いて写真を出した。
それは洸の姿であるが、隠し撮りだ。
洸はそこでは、全裸で小出とセックスをしている。動画もあるのだが、店内では再生できないので、写真を見始めた。
笑いながら小出と絡み合う洸は、その時はその時で楽しんでいた。その姿がここにはある。けれど、この写真の洸はもういない。名実ともに小出の側から消えた。
今日、少しの期待を込めて洸に会いに来たが、その期待は全て打ち破られた。
志田洸は全くの別人になり、その別人として生きていくと言った。
昔はこんな痴態を晒していて、それはそれで美しかったのだが、それが小出には残念だった。
「好きだったんだけどな、お前のこういうところ。これもいつまで隠しておけるかな?」
洸との痴態の中には数人で洸を犯している写真がある。
洸はこの写真では喜んではおらず、泣いている。無理矢理の行為をされ、数人がかりで犯されたレイプ写真だ。
洸は覚えてはいないと言うが、こういうこともあったことを忘れている。
忘れた方がいいのは、こういうことであるが、その原因が小出にあることも忘れてくれていいと小出は思っている。
実際この後だった。あの事件は。
「どうせ同じことをお前はするのに、一途なところは変わってないんだな」
小出はそのフォルダを選択し、編集を出した。そこにはコピーと移動と削除がある。
小出の指はそのまま削除を選択し、タブレットが尋ね返す。
【削除をするとデータは端末から全て消えます。削除しますか?】
小出の指は迷うことなく、OKという文字を押していた。
データの複製は残してない。本当は事と次第によっては、これを見せて反応を見ようとしたのだが、洸は本当に別人のようになっていた。
だから見せる必要はないと小出は思ったのだ。そしてそれを残しておいては、今後の洸にとってよくないと判断したのだ。
せめて、昔好きだった人くらい、最後は守りたかった。
志田洸の過去の痴態は、この世から削除された。
しかし、洸の過去の記憶は洸の頭の中にまだある。
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