Eureka

9

 伊計久嗣(いけい ひさつぐ)が学園に戻れたのは二週間後だった。
 様々な取材や事件の報道によって、外出ができず、伊計はその期間は実家に戻っていた。 実家では父親が事件のことを知り、報道の過熱を防ぐために手を回した。学園にも便宜を図るように理事会に寄附を申し出たほどだった。
 伊計のせいではないが、伊計が原因で学生が怪我をして、教師が二人も不祥事で警察に捕まったとなれば、火消しもかなりの権力があっても三日以上かかった。
 テレビは別の事件と不倫報道に盛り上がり、学園の事件は教師の一人が廃人のようになってしまったこともあり、面白おかしく盛り上げるわけにもいかない事情もあったようだった。
 学園前で学生を追い回すマスコミに批判が集まり、取材もすぐに下火になり、一ヶ月後の週刊誌からは消えるような話題だった。また教師の名前が出なかったこともあり、暴力事件という認識しかされなかったことも大きかった。
 伊計の処遇も理事会からは、そのままの起用となり、伊計もそれを了承した。
 復帰の初日に学園長室を訪れて、事件のあらましは聞いた。
 伊計の耳にはなかなか入ってこなかった情報が学園長からもたらされた。
「それから、手島真希のことですが、彼は転校することになりました」
 そう学園長から告げられて、伊計は驚くが、やはりそうかと納得することしかできない。 家の引っ越しのあたりから、何となく察してはいた。
「何処へ行くのか、私が知る必要がないことなんですね」
 伊計がそう言うと、学園長は頷いた。
「こういう情報も本当なら言う必要はないのですが、他から知るよりは事前に知っておく方が、先生のためにも良いかと判断しました」
 学園長の言葉に、伊計は頷いた。
 察してはいても、実際いなくなってしまうと、ポカリと心に穴が空いたような気分になった。こんな気持ちになったことはついぞなくて、伊計は呆気に取られた。
「……少しはあなたの心に変化を与えられた存在だったようですね。凄く残念です」
 真希が学生ではなく大人で、伊計が教師でなく学生だったら、学園長が口出しをする必要も他人が口を挟むことさえなかった関係になれただろう。そういう残念な気持ちが学園長にもあったようだ。
「本当はこういうことはしてはいけないのですが、もちろん理事にも内緒なのですが。これを、伊計先生に渡してくれと頼まれました」
 そう言って学園長は、封筒を取り出した。
 表には伊計先生へと少し右上がりの文字が書いてあり、裏には名前はなかった。
「……これは……手島からですか?」
 伊計がそう言うと、学園長は頷いた。
「あまりに必死だったので、思わず預かりましたが、渡すかどうかは中を読ませて貰うという条件で預かりました。行き先やこれからの住所など書き込まれていては困りますので……ですが、とても綺麗な手紙でした。ですから本当に残念です」
 学園長がそう言って、伊計に退出するように促した。
 伊計はそれを受け取って、学園を出た。
 実家から元のマンションに戻り、部屋に入ると、リビングのソファに座って手紙を開いた。


 伊計先生へ

 大変ご迷惑をおかけしました。
 僕の勝手で、事件が大きくなり、伊計先生や友人まで巻き込んでしまいました。
 あの二人の教師に目を付けられた段階で、叔父に相談をしておけば、ここまでの大事にならずに済んだのではないかと、後悔しております。
 伊計先生との日々は楽しかったです。これは本当です。
 僕は前の学校でも教師と関係を持ってしまい、同じ過ちを繰り返していました。
 けれど、それでも僕は伊計先生との日々は後悔はしていません。
 後悔はしてないけれど、二度と同じことは繰り返さないと思います。
 今の僕は伊計先生の重荷にしかなりません。
 一時の遊びで済んでしまえば、その重荷はすぐに消えます。
 だから、僕は行こうと思います。
 行き先は誰にも知らせてません。
 友人にも家族にも。

 僕は子供で、大人に選んで貰ったことでやっと道が見える存在です。
 僕は一人で立てるほど、強くもないことを知りました。
 だから、僕は大人になろうと思います。
 一人で立てるようになろうと思います。
 
 伊計先生、大好きでした。
 ありがとうございました。
 さようなら。

 PS、僕が少しでも先生の記憶の隅っこにいられると嬉しいな。


 伊計と真希は出会って半年も経っていない。
 そんな存在に伊計は心をかき乱される。
 自然と伊計は泣いていた。
 多分、好きだったのだと、今ならはっきりとそう思うのだが、気付いた時には全てを失った。
 真希は伊計を思い出に変えて、きっと未来に進んでいく。それを邪魔する権利は伊計にはなかった。
 ここで手放してやるのが、大人として教師として、当然のことなのだが、伊計の心がそれを拒否するのだ。
 引き裂かれるような痛みを覚える恋に、伊計はやっと気付いて、真希からの手紙を抱きしめた。
 大好きでしたという真希の言葉が、さようならという真希の言葉が、伊計の心に突き刺さってくる。
 追ってくるな、そう真希は言っている。
 真希は伊計の真希に対する執着を知っている。だから別れを告げた。
 行き先を匂わすことも何も言わず、真希は去っていった。
 それが伊計は悲しくて、嗚咽が出るほど泣いた。
 多分明日には、全てがなかったことになるのだ。


 学園を去った後、手島真希は海を渡った。
 日本国内にいれば、いつか伊計と繋がることができるのではないかという希望が生まれてしまうことを真希は恐れ、海外の宿舎がある学園に通った。
 そこの日々は順調で、真希は学生らしく暮らし、大学もそのままその学園の大学に通い、飛び級を得て、二十歳で卒業をした。
 寂しかった日々が忙しい日々に代わり、真希は就職をするために日本に戻った。
 あっちで就職をするには、定住する場所を選びきれなかったのもある。その国の国籍になることも考えたが、やはり日本がよかった。
 東京に戻ると、真希は叔父の仕事を手伝った。秘書のように叔父の側で仕事を調整する役割をして、忙しく働いた。
「真希はそろそろ、恋人でも作らないのかい?」
 そう同じ秘書の雑用をしている同僚に言われたが、真希は悲しそうに微笑んでから。
「今はそういうのはいいかなって思ってる。仕事忙しすぎてそんな暇がないだけだけどね」
 真希がそう答えると、同僚も確かにそうだと笑った。
 真希は伊計との後、恋人は作っていない。
 作る気がないわけではなかったが、忙しさにかまけていたら、ここまで恋人はできずにきただけだ。
 それに伊計との思い出の方が大きくて、思い出にしてしまったせいで、できた恋人と伊計を比べてがっかりなんてことになりそうなほど、伊計との日々が甘かった。
 思い出に縛られているつもりはなかったけれど、その思い出があったから、人を信じられている。
 あの事件のトラウマはまだある。
 暴力沙汰を見ると息苦しいほどのパニックに陥る。なるべくそういうところには行かないようにして、人との関わりも最小限にしている。
 それくらいにしないと、真希は自分が人に興味を持たれやすいことを理解していた。
 注意して行動をして、やっと人並みの付き合い方ができるようになった。
「真希、ちょっと来て」
 真希の叔父の信二が呼んでいる。
 秘書室の雑用をすぐに片付けて叔父の部屋にいくと、叔父が急に言い出した。
「今日の夕食は私と一緒に取ること。時間を空けなさい」
 そう信二が言うのは日常茶飯事なので、真希はスケジュールを空けている。
 それを知っているので信二もこういう無茶を平気で言うようになった。
「分かりました。何時ですか?」
「八時には店に行くように。今日は書類を届けたら、そのまま直帰だったよな?」
「はい、届ける場所が遠くですので直帰になってます。着替える時間がありそうなので、戻ってタクシーで向かいます」
「そうしてくれ」
 信二はそう言うと、会議だと言って理事会に出かけていった。
 信二は未だにあの学園の理事を続けていて、援助もしている。
 信二に直接聞いたことはないが、伊計は今もあの学園で音楽教師をしているようだ。真希が辞めた後もずっとである。それは良かったと真希は思っている。
 真希はあの時の友人だった濱田にも、未だに会ってはいない。
 別れる時に手紙を出したが、こちらの住所は教えなかったけれど、叔父経由で一度だけ別れの手紙が届いた。
 濱田もそのまま学園に残り、学園を卒業したという。その折りに手紙が来た。
 黙って転校されたことを怒っていたが、月日と共にここに真希がいないことは寂しいが、いない方が良かったと今は思っていると言う。
 濱田も被害者だが、眠らされていただけなので、ほぼ何も覚えていない上に、誘拐された辺りの記憶もほぼ消えていて、事件報道をされた時も自分がその事件の中枢にいたと言われてもピンとこないほどだったらしい。
 そのお陰で被害者ではあるが、記憶がない、眠らされていただけだという事実が広まると、知りたがる人は興味を失せてしまったらしい。
 その時に、濱田は伊計が真面目に音楽教師をしていることを知らせてきた。吹奏楽部が学園で出きるようになり、それに伊計は打ち込んでいる。大会にも出たし、準優勝もした。 濱田は一度だけ伊計と話をしたそうだが、伊計は真希の選んだことを誇りに思っていると言ったらしい。
 伊計にはできない選択をさせたことを悔やんではいたが、それでも真希が正しい道を進んだことを喜んでいたという。
 間違っていないと言われたことは、真希にとっては励みになった。
 突然の別れを伊計は受け入れてくれ、正しいと褒めてくれた。それだけで真希の未来は正しくあるべき道に進めた。
 だがあまりにも正しく生きるせいで、信二にさえ、少しは羽目を外せと言われるほどである。
 濱田とはそれ以来会ってもいなかったし、東京に戻った時も連絡は取っていない。
 お互いに別れはしたし、離れてしまって生活基盤も変わったから、もうお互いに昔の苦い思い出の人になっている。
 誰に今の自分を見せても恥ずかしくはないと思えるように生きてきた。


 その夜は、大雨が夕方から降り始め、タクシーを予約しておいたお陰で何とか混乱は免れた。しかし帰りのタクシーの予約はしていないので、この雨の中帰りのタクシーが捕まるかどうか、真希にはその方が心配だ。
 その心配を信二にメールですると、部屋を取ってあると言われた。
 どうやら、信二との食事の時間は長くかかるのだろうなと、予想が付いて、真希は溜め息を吐いた。嫌いではないし、面倒でもないが、信二の蘊蓄以外に、説教臭いプライベートへのツッコミが真希にとっては好ましくはないのだ。
 まだ二十一歳になったばかりで、子供なのは分かっているが、そろそろ信用して放置してほしいところでもある。だが、あの事件後に良くして貰ったから、逆らえない部分が大きく、言われるがままに行動してしまうことも多々ある。
 そうした部分を不審がられるのだが、それでも恩人であることを告げると大抵は納得して貰える。
 恩はまだまだ返し終わってすらいない。
 真希がホテルに到着すると、雨は一段と酷くなり、帰る気は本気で失せるほどだった。街は大混乱になり、道路には水が出ている。大きな災害にはならないが、道路は冠水してしまうところはしてしまうようだ。
「部屋、取って貰っておいてよかった……」
 ロビーのテレビでは客がテレビに釘付けで、報道番組を見ている。真希も少し時間があったので、そこで状況を確認してから、ホテルの最上階にあるレストランに向かった。
 大雨の影響か、レストランの予約のキャンセルが相次ぎ、真希たちが座るテーブルの周りには誰もいない状況になっていた。
「大雨ですから仕方ありません」
 急なキャンセルにレストラン側は困っているようだったが、だからといって、この大雨の中、出てこいとは言えない状況で、キャンセルを受けるしかないようだった。
 真希が席に座ると、すぐに信二から連絡が来た。
 携帯を取り出すと、大雨でタクシーが動かなくなってしまい、会社から出られないというのだ。
「……ってどうするの、これ」
 そう真希が思っていると、メールには続きがあった。
「え? 連れがいるから、その人と食べてこいって? どうして叔父さんの知り合いと僕がご飯食べるわけ? 意味分からないよ」
 真希はふうっと溜息を吐いて、携帯に返信をするも、信二は食事の代金は信二が払い終わっているので、食べてから泊まれと念を押して言われて、真希は二重に暗い気分になった。
 知らない人と何を喋れと言うのか、それだけで気が滅入る。
 そう真希が思っていると、真希の席に向かって人がやってきた。
「いらっしゃいませ、こちらでございます」
 案内のウェイターが真希の席にその人物を連れてきた。
 真希は携帯から視線を上げて相手を見た。
「……う、そ……」
 上げた視線に入ってきたのは、絶対に会うことはないと思っていた人物。
 伊計久嗣が立っていた。

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