Eureka

6

 伊計(いけい)は真希の距離の取り方が、非常に巧みであることに気付いていた。
 伊計との関係があくまで学園内での付き合いであることを常に匂わせている。それは最初に伊計が真希に手を出した時から、真希の中にあった頑なになびかない部分だ。
 何があったらあんなに頑なになれるのか。
 思いつくのは、真希が転入するに至った理由だ。
 ただこの理由について、誰も詳しいことは知らない。もちろん転校側の学校に尋ねても分かることではない。噂好きの誰かに聞くという方法もあるが、昨今の個人情報保護の時代に、ペラペラと重要な学生の情報を喋るとは思えない。
 しかし、真希がゲイでありながら、既に経験者であることから察するに、前の相手に振られるかして、引っ越す必要ができたからだ。
 それもかなり揉めたのだろう。
 真希の家族が一緒に来ないということは、唯一の母親という肉親は、真希との間柄が悪くなっているのだろう。母子家庭の家族が、条件のいいマンションで一緒に住まない理由など、思いつくのはその辺りだ。
 案の定、真希は母親の話はしないし、家族の話は時折出る、あのマンションの所有者の叔父さんのことくらいだ。それでもその叔父さんともあまり会ってはいないようで、折り合いもよくないのだろうか。
 まず、聞くに聞けない家庭環境が真希にはある。
 それが気になり始めたのは、加藤の件があってからだ。
 ただでさえ気になっていた真希のことを加藤が興味を持ったという出来事。あのせいで余計に真希を加藤に渡すことはできないと思うようになった。
 そこまで独占欲はなかったのに、急に沸いて出てきた独占欲に自分が今振り回されている。
 自宅が同じマンションの上下で、勝手がいいからという理由で真希を呼んでいたのに、今では待ちきれずに自分が真希の部屋に上がり込んでいる始末だ。
 学園の授業の作業をしながら、ふと真希のことを考える時間が増えた。
 普通に学生にはここまでの謎は存在しない。普通に両親がいて、普通に暮らしている。普通に友達がいて、教師に甘い言葉を言われると、好かれていると勘違いしてなびいてくれた。
 そして手を出しても、最後には少々の嘘で別れられる。
 どの学生も納得したように別れてくれ、二度と伊計のところにはこない。
 いや、一人だけ来たこともあったが、伊計のことが好きなわけではなく、ただの相談だった。
 それが加藤のことだったのを伊計は今思い出した。
 加藤に引き込まれて、何をされたのか知らないが、そのことでの相談であって、どうしようもなかった。伊計は手助けだけはできただろうが、見てもいない加藤との関係について伊計が何か言える立場ではなかった。
 そう告げた後、その学生は退学をしていった。
 今では普通に大検で大学へ通っており、伊計のことは恨んではいないと笑って言われた。
 伊計に無理を言ったことを詫びて、迂闊だった自分が悪かったことだからと言うが、伊計はその時に何かやれたのではないかと今でも思っている。
 寄り添っているだけでも彼の助けにはなれたと思うのに、その時の自分はそうした心がなかった。
 最近になり、加藤のことでトラブルを抱えることになった時に、真希のことを巻き込むわけにはいかないと考えた。
 しかし、かといって加藤がまだ何もしていない段階でどうにかできることなど、ありはしない。自分が何かされるならばまだ対処しようがあるのだが、されるのは確実に真希なのだ。
 気まぐれで連れ出した真希に危害を加えられるのは耐えられないことだった。
 それに最近は真希のことが気にかかりすぎて、誰にも渡したくないという心まで生まれている。誰かと共有するなんてあり得ないし、加藤に渡すなど、それこそゾッとする出来事だ。
 真希は危機を既に感じていて、加藤を警戒していた。
 聞いた話では、濱田昇という同級生が気をつけるように言ったらしい。
 濱田は過去に伊計が手を出していた学生だ。彼が伊計にあまりいい印象を持っていないことは、別れを告げられた時から気付いていた。濱田は伊計の勝手すぎる性格についていけず、見放してきた一人だ。
 伊計が付き合った学生の中では早々に伊計に見切りを付けた珍しい存在だ。
 その濱田が加藤について情報を集めていたらしいが、それでも加藤の被害者が全員退学をしている事情から、あまり噂は聞けなかったらしい。
 それでもクスリを使った何かをやっているようで、そのせいで学生生活を続けられずに怖くなって退学をするらしい。もちろんその消息は分からないし、加藤が手を確実に出した学生の存在もはっきりとはしない。
 しかしかなりの人数は存在しており、噂がそれを証明している。
 その中には、伊計と関係を持つと別れた後に加藤に襲われる可能性が高いらしい。
 その話を聞いて伊計はそんな関係性があるとは思ってもいなかったことだった。
 別れた人たちが伊計に何も言ってこない理由は、加藤に襲われてそれどころではなかったからだと言われたら、伊計は自分の思い上がりに吐き気がした。
 全く愛情がなかったわけでもない。だからおぞましさを覚える。
 真希にも同じことが起こるのだと言われたら、絶対に守らなければならない。そう思っているのに、自分がしていることが加藤と何が違うのだろうか。
 学生に好きに手を出し、用が済めば捨てるように別れる。加藤はクスリを使っているが、伊計は学生の心を好きに弄っているのだ。優しくして、堕ちてくるように甘い言葉をかけて、抱くのだ。
 真希にも言った。
 学生を食うのが目的で、教師になったようなものだと。
 元々音楽家崩れで、教職を選んだものだから、熱意もないままここまできた。目的を失って面白半分で言い寄ってくる学生に手を出していた。
 よく考えれば何をしているのだと思う。
 それをやめることは今ならできるのに、真希にだけ手を出すことが止められない。
 あの体を抱いている時が最高に至福の時のように感じて、受け入れて貰えていると思えたのだ。
 真希はある程度のことは容認してくれるが、決して自分からしてほしいと強請ってはこない。伊計が欲しいと言うまで、真希はいつまでも伊計を放置してくる。
 それまでの真希がしてきたことなのか、それとも求めることで失望した経験があるのか分からないが、真希はこの割り切った関係で自分から求めることはしないと決めているようだった。
 もちろんしている最中に求めるのは普通にあるが、セックスの最初になるきっかけだけは絶対に伊計の意志のみで行われている。
 関係がいつ終わってもいいように、真希は覚悟をしているということだ。
「まさか……」
 ふと伊計にある考えが浮かんだ。
 真希の相手は、確実に年上で、もしかしたら……。
 そう伊計が考えた時に、教室の準備室をノックする音がした。
 伊計は、それに驚いて考え事を止めた。
「はい、誰?」
「すみません、伊計先生にちょっとお話が」
 そう言ったのは若い声だった。確実に学生だ。
 伊計は準備室の鍵を開けて、入り口に立っている学生を見た。
「な……」
 その学生は、ワイシャツを引きちぎられたように無造作に脱がされ、上履きも履いていない。
「……どうし……」
 そう伊計が話をかけた瞬間だった。
「いやああぁぁぁあっ! 誰か! 助けて! だれかぁ!」
 そう叫びながら、学生が音楽室の準備室から走って階段に向かっていくのだ。
「……っ!」
 それに驚いた伊計は、一歩出遅れた。
「ま、待ちなさい、君!」
 伊計がそう言って学生を追って走り出すと、視聴覚室の中から誰かが出てきた。
「……何の騒ぎだ?」
 ちょうど視聴覚室から出た瞬間に学生が叫んだらしく、教師が二人ほど出てきた。
 伊計は最初は加藤たちかと思っていたが、出てきたのは白髪の男性、それは学園長と眼鏡をかけた英語教師だった。
「た、たすけて!」
 そう言って学生が学園長に縋り付いた。学園長はすぐに学生を抱き寄せた。
「どうしたのです?」
 学園長が尋ねると学生が言った。
「伊計、せんせいがっ……僕を襲ってきて……あああああっ」
 学生がそう言って崩れた瞬間、英語教師が走ってくる伊計に向けて叫んだ。
「そこを動くな! 伊計!」
 大きな恫喝に、伊計は走るのを止める。しかし口では否定をした。
「私ではない。彼が嘘を吐いている。尋ねてきた時から彼はその姿だった」
「嘘を吐くな、この下郎が! 貴様が学生に手を出してることくらい、噂でも知ってが、とうとう見境がなくなったかクソ野郎!」
 そう英語教師が叫び、学園長が言った。
「ここで騒ぎを大きくしても、問題は解決しません。私たちはこのまま彼を連れて行きますが、伊計先生は、このまま準備室で待機してください。訳は彼を処置してから聞きますので……」
 学園長がそう言って英語教師と共に学生を連れて階段に向かっていく。
 言い訳をしたい伊計であるが、それを遮るように視聴覚室から加藤が出てきた。
 加藤は伊計を見ると、ニヤリと笑ってから一言言った。
「……みっともないですね。でもこれであなたの方は終わりですね」
 今、加藤のことも問題として上がっている段階であるが、これで加藤の視聴覚室の私物化に関することは、確実に後回しになる。
 学生を強姦未遂した教師の方が大問題からだ。
 そこで伊計はやっと、これが加藤の罠だと気付いた。
「きさま……ここまでやるか?」
 伊計がそう言うと、加藤は素知らぬ顔で言う。
「私がやったなんて、責任転嫁もいいところだ。強姦魔の音楽教師さん。私が仕組んだなんて言って誰が信じてくれるとでも? 襲われた学生が唯一の証言者なのに?」
 加藤がニヤリとして言い、視聴覚室の鍵を閉めた。
「あなたは、準備室で待機でしょ。早く戻ってくださいよ」
 加藤はそう言うと、学園長を追って階段を下りていった。
 伊計は学園長に言い訳をしたいのだが、それをしては意味がないことも知っていた。
 この状況で伊計が何を言っても言い訳にしかならず、説明にはならない。襲われたと言った学生が伊計の準備室に来る前に、あの状態だったことを証明する方法がないのだ。
 伊計がそう言うだけで、証明はされない。
 誰もいないというこの環境を気に入っていたが、今はそれが伊計の罪を深めている。
「くそ……はめられた」
 自分の行いが招いた事態でもある。
 加藤を挑発したあの日のことを、加藤は恨みに思っていたらしい。だから確実に伊計が学園にいられなくなる方法を作ったとしか思えない。
 あの学生は見たことがない学生で、伊計の授業を専攻している学生ではない。だから伊計とは繋がりがないことだけが、唯一分かることだが、それだけで襲っていないという証明はできない。
 あの学生が嘘でしたと口にだしてくれるまで、伊計の罪は確定したも同然だった。
 伊計は音楽室の準備室に戻り、携帯電話を取り出すと、まず真希の連絡先を削除した。出したメールや返信も全て削除して、真希の存在を匂わすモノは完全に消した。
 そこで、この騒動はすぐに誰かの知るところになるだろうと予想できた。あの加藤がその辺りをし損じるとは思えない。
 伊計はもうこの学園にいることはできないだろう。
 だが、未練はなかった。
 ただ真希のことだけが心配で、それだけが未練と言えた。
 伊計がいなくなれば、加藤はきっと真希を手に入れるために行動するだろう。それだけは確かだ。
 加藤はずっとこの機会を待っていた。そして絶好のタイミングで仕掛けてきた。
 油断していたとはいえ、伊計には反論ができない。
 ただ襲ってはいないことを主張するだけだ。
 しかし、それを真希が信用してくれるかどうか、それだけが伊計には心配事だった。


 伊計久嗣の学生を襲った事件は、瞬く間に学園中に広がっていた。
 真希も学園に到着したとたん、濱田に屋上に拉致されて話を聞かされた。
「え? 伊計が学生を襲ってるところを学園長に見られた?」
 まさかの展開で、真希は信じられないと濱田に言った。
「俺もそれは思う。伊計はそういう襲うということをしなくても、相手を上手く言いくるめることができる。わざわざ襲う必要はないし、手島がいるんだから、相手にも困ってないはず。それなのにそうなったとなれば、もう一つしか」
 濱田がそう言うので、真希はまさかと思ったことを言った。
「伊計は填められたってこと?」
 そこまで伊計を信じているわけでもないのだが、伊計が襲う必要がない立場であることは、真希だって認めている。そんなことをしなくても、真希が散々付き合っている。
 つまみ食いをするにしても、逃げられるなんて状況を作っているとは思えない。
 それに学園長がちょうど視察している途中でなんて、そんな偶然、罠としか思えない。
「それを誰がやったかってことなんだけど」
 濱田がそう言い出して、真希はすぐに思い当たる人物の顔が頭の中に出てきた。
「まさか、加藤の仕業……?」
 そんなことをして伊計を填めるような人間に心当たりがあるかと言われたら、加藤以外に思いつかない。
 更に加藤は自分の視聴覚室の私物化が問題になっていて、目を付けられていたというから、その立場を利用して学園長を呼び出せる立場にある。
「不利な状況を一転させて、伊計の排除をしてきたか……えげつないな」
 加藤の仕業としか思えないと真希が言ったことから、濱田もその考えは間違いないだろうと言った。
 伊計が手を出した学生が復讐にきたという考えもあるのだが、それだと復讐が遅すぎるのだ。伊計は真希の前は原栄治と付き合っていて、その付き合いも長かったという。
 もし誰かが復讐しようとしたなら、真希が転入してくる前に起こっている事件だ。何故このタイミングで事件を起こせるのかと言われたら、もうそれは加藤の仕業としかいえない。
「だけど、加藤の仕業っていう証拠は多分ない」
「僕もそう思う。だってもしそんな証拠があるなら、伊計がそう言って抗議してる。それができてなくて噂がここまで広まっているのは、その証拠がないからだと思う」
「だよな……つーか被害者が、そう言い張って、伊計がそれを追ってきたなら、端から見れば伊計が襲ったとしか見えないよな」
「どのみち、伊計に逃げ場はないと思う……」
 昨日、伊計からの連絡は一切なかった。
 真希から連絡は取ったことはなかったが、伊計の連絡先はいつの間にか真希の携帯の中にある。伊計だと連絡先を登録はしていないが、真希には誰か分かる形にしてある。
 その携帯は鳴らなかった。
 知らせるほどではないのか。警戒をして知らせてないのか。
 それとも携帯を捜索される可能性を危惧して、連絡先を消したかのどれかだ。
「伊計から何か連絡あったか?」
「ない。そんな状況じゃないか、連絡を取ることで僕を巻き込みたくないのかもしれない……」
「確かにそうだな……これからどうする」
 濱田がお手上げだと言い出したので、真希はじっと考えた。
 加藤が伊計を排除したことで真希に手を出す手段を講じてくるなら、真希は真希で自分の身は自分で守らないといけない。元々伊計に頼るつもりはなかったが、教師が味方にいた方が、都合がよかった。しかしその手を封じられたとなれば、加藤に対して真希が何ができるのか。
「……僕にできるのは、多分一つしかないと思う」
 真希はそう言うのだが、それを濱田には言わなかった。
 言ったところでどうにかなるものでもなかったし、加藤の出方によって真希の対応も変わる。
 だが、加藤はきっと真希がその手を使ってくることを予想すらしていないと思った。

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