ジキルでハイドな男

1

「あのね、今日、隣に引っ越してくるお母さんの知り合いがいるんだけど。一人暮らしをした事がないらしくてね。それで、あんたに少しの間、食事とか色々と面 倒を見てもらいたいんだけど」
 朝、朝食を準備していた、令夏真継(はるか まつぎ)はキョトンとして自分の母親、真奈を見つめた。
「は?」
 真継は何を言われたのか一瞬解らなかった。
「あんた聞き返す癖、やめなさい」
 真奈は鋭く言って、ご飯を食べはじめる。
 真継は少し考えて、聞き返した。
「えっと……つまり、隣の人が来たら、世話をすればいいわけ?」
「そう」
「何処までやっていいわけ?」
 面倒を見るにしても、何処までやっていいのかは解らない。
 真継がそう聞くと、真奈は顔を上げて考えた。
「そうねえ。食事の事はやってもらいたいわ。ほっておくと何も食べなかったりするらしいのよ」
「うん。それじゃ、洗濯とかもやらないんじゃないの?」
「やった事ないかもね。毎日とは言わなくても、週一でもいいから見てやって」
 そう言われて、真継は段々嫌な予感がしてきた。
「当然、買い物もいかないよね?」
「一緒に連れて行って、やり方を覚えさせればいいと思うんだけど」
「それってさ、独り暮らしする方法を教えろって事じゃないか」
「そうとも言う」
 こう言われて、真継ははあっと溜息を吐いた。
 それは、一人暮らししているとは言わないんじゃないか?
 で、俺は召し使いなわけだ。
 しかも、母親の言い分では、もう決定事項らしい。
 逆らうと怖い真奈に文句が言えない真継だった。
「うん、学校から帰ってきたら手伝うよ。もう俺の事は話してるだろ」
「言ってる。うちの息子が暫く手伝うから安心してくださいってね」
「だと思った」
真継は溜息を思いっきり吐いた。
「そうだ。あたし、今日から出張」
 真奈がふと思い出したように言ったので、真継は驚いて食事をするのをやめた。
「なんで、昨日のうちに言ってくれないんだよ! どうせ、準備とかしてないんだろ!」
 真継は叫んで立ち上がった。
「うん。真継ちゃ~ん、よろしく~」
 まったく感情もない棒読みの台詞を吐いて、真奈は食事を続ける。
「信じられない! で、期間は?! 種類は!内容は!」
「二週間。論文の講演会。大学を幾つか回る。講議あり。同じ所に二日。日曜は休みだけど、土曜に飲み会。次の日曜に帰ってくる」
 淡々と予定を区切って説明すると、真継が行動をし出す。
 スーツを3着。私服を3着。旅行用の洗面具に化粧品類。ホテルにあるモノは備品で間に合わせで、下着やストッキングのストックなどをスーツケースにきっちり分けて詰め込む。
 とにかく真奈は、こういうことをきっちりやらない人物なので、真継の担当になっている。いや、あまりな無頓着ぶりに、大学側の教授から、せめて服装くらいはきっちりとと言われて、真継がそれを担当することになってしまったのだ。
 全てを詰め終えると、それを玄関まで運んで置いておく。
 こうしておくと、真奈を迎えにくる関係者が受け取って持っていってくれるからだ。
 慌ただしい準備を済ませると、真継はダイニングに戻って、自分の食事をさっさと済ませ、片付けをしてから大急ぎで家を出た。
 真奈は、そんな真継を見ながら、そこまできっちりやらなくてもいいのになあと思っていた。
 令夏真継は、16才にして家事全般を完璧にこなせる男である。
 母親の真奈は、精神科医で多忙な日々を送っている。
 そのため、物心付いた時には、真継は祖母に家事全般を仕込まれていた。
 中学に入るまで、祖母の家で暮らし、祖母が亡くなってから母親と一緒に住むようになった。しかし、独身女性な母親は、まったく家事が出来ない女で、しかも片付けられない女でもあった。
 当然、真継が全てをこなすようになり、今では家事は全部真継の仕事になっている。
 マンションの部屋を全部片付け、そして方々にマンションを所有している母親の身辺整理までもやってしまった。
 真奈は今では真継無しでは本当に何も出来ない女なのである。
 それでも、母親と一緒に暮らす事を夢見ていた真継にとっては、母親の役に立てる自分を嬉しく思っていた。
「よう、令夏(はるか)」
 マンションを出た所で、真継は友人の大岐に声をかけられた。
「おはよう、大岐(おおき)」
「おはよう。今日も真奈さんは遅いのか?」
 真継の家庭事情を知っている大岐は、毎朝その質問をする。
 駅へ向かって歩きながら、真継は少し考えた。
「今日から出張。2週間だってさ」
 そう言えば、朝いつも聞く質問は、母親の知り合いの引っ越し&世話話で聞きそびれていた。
「ふーん、じゃあ、今日から遊び放題じゃないか。明日から夏休みだしよ」
「いや、今日は用事があるんだ。取り合えず一週間は遊べないかもな」
「何の用事なんだ?」
 大岐が不思議そうに聞く。
「今日、隣に引っ越してくる人がいてさ。それが母さんの知り合いで、手伝えって言われてるから、速攻帰らないといけないんだ」
「へえ、あの部屋に人が入るんだ。確か、あれも真奈さんの持ち物じゃなかったっけ?」
 確かに、マンション関係は処分したのだが、何故か母親は自宅マンション内にもう一つ部屋を持っている。それを何故処分しないのかと尋ねたら、将来、真継が結婚した時に使えるように残してあるのだと言っていた。
 それを人に、一時ではあるが、貸すというのだ。
 余程、大事な人なのだろうと真継は思った。
「一時的に貸すみたいだよ。なんか、一人暮らしをした事がない人みたいで、色々世話をしなきゃならないんだ」
「ふーん、じゃあ、暫くは遊べないって事か?」
「多分そうなる。料理とかも教えないといけないし、やる事はいっぱいあるよ」
「お前、主夫だもんなあ」
 大岐は言って、真継の頭をクシャクシャと撫でる。
「ああ!もう、それするなって言っただろ!」
 真継は素早く手で頭を押さえて逃げる。
 大岐はクスクス笑って、手を引っ込めた。
「お前の髪って柔らかいよなあ。俺ん家の猫みたいだ」
「もうそれ何度も聞いたって……」
 真継は頬を膨らまして、怒って先に駅の改札を潜った。
 そこで、同級生の田村瞳と富田冬美に会った。
「おーおー。いつもラブラブでよろしいことで」
 瞳がからかってきたので、真継は溜息を吐く。
「毎朝、下らない事ばっかり言うよな」
「朝の日課だからね」
 当然とばかりに瞳が返す。
 すると、冬美がクスクス笑って言った。
「だって公認の仲でしょ」
 冬美はきっぱりと言い切った。
「冬美ー」
 真継は、冬美の肩を掴んで情けない顔をする。
「あたし、令夏君と大岐君なら全然オッケーなんだけど」
 マジな顔でそう言うから、真継が脱力する。
「俺も令夏ならいいんだけどねえ」
 冬美の言葉に乗って、大岐がそんな事を言った。
「……俺にそういう趣味はない」
 本気で怯えて逃げる真継を三人が笑う。
 大岐は苦笑してから冗談だよと付け足した。
「大岐とくっ付ける前に、令夏、嫁に来い!」
 瞳がマジ顔で令夏の手を握って言う。
「その求婚は、もう100回を超えたんだけど……」
「家事全般出来る綺麗な男は、女には必要なのよ。永久就職考えてー!」
 馬鹿な事を冗談で口にする瞳が言う。
 いつも同じ事でからかわれる真継である。
 学校は終業式だったので午前中で終わって、真継は急いで帰路に着いた。
 電車に乗って、空いている席に座ると隣で新聞を広げて読んでいたおじさんがいきなり話し掛けてきた。
「君って、氷室秀徳館の学生だよね」
 そう言われて、真継は自分に話し掛けているのだと思い、おじさんの方を見た。
「あ、はい、そうですけど……」
 おじさんはまだ新聞を広げたままで、顔だけを真継に向けている。
 ジッと人の身体を舐めるように眺めて、ニヤリとして言った。
「こんな時間にこんな所にいるという事は学校はさぼったんだ。いけない子だ。そういう子にはお仕置きしなきゃいけないね」
 おじさんは、いきなりわけの解らない事を言って、真継の太ももを手で摩り始めた。
 真継は訳が解らなくて、呆然としていたが、おじさんの指が股間の辺りに伸びてきた所で、ハッと我に返った。
「ちょ! やめて下さい!」
 真継はおじさんの腕を掴んで、それ以上触らせない様にしたのだが、おじさんは慣れた様子で顔を近付けてきた。
 周りの客は何ごとかと見ているが、誰も助けてはくれそうにない。
 中には面白がって見ている人もいる。
 おじさんは酒に酔っているらしく、物凄く酒臭い。
 真継は慌てて立ち上がった。
 こういうのは逃げるのが一番だ。
 次の駅に到着しそうなのを確認して、飛び出すように席を立ったのだが、おじさんは諦めてないらしく、立ち上がって追い掛けてくる。
 前の車両に逃げてもまだ追い掛けてくる。
「待て! 逃がすか!」
 などと言っているが、周りから見ればただの喧嘩。
 相手は酔っているから誰も関わりになりたくなくて見て見ぬ振りをしている。
 懸命に走っていた真継だが段々と足に痛みが走ってきた。
 ヤバイ、これくらいで負担が…。
 ちょうど、逃げ込んだ車両の中間辺りで、一人の背の高い男が立ち上がって、転びそうになった真継をぐっと腕の中へといきなり引き寄せた。
「え?」
 一瞬の事だったので真継も何が起こったのか理解出来なかった。
 そこへおじさんが追い付いてきた。
「お、お前、そいつを渡せ。そいつはお仕置きをしなきゃいけないんだ」
 まだ訳の解らない事をほざくおじさん。
「なあ、こいつお前の知り合い?」
 男が真継に聞いた。
 真継は男を見上げて力一杯首を横に振った。
「知らない! いきなり触ってきて」
 真継はそう言うと男は頷いておじさんの方を見て言った。
「ははあ、酔っ払いの変態か。じゃ、そういうのはこうしておこう」
 男はそう言うと、いきなり足でおじさんの腹を蹴った。
 おじさんはいきなりの攻撃に耐えられなかったのか、そのまま身体が3メートルくらい吹っ飛んで床に転がった。
「変態じじいはくたばってな」
 男がそう言ったのだが、おじさんは完全に伸びているらしい。起き上がる気配もない。
 いくら不意打ちを狙ったからと言って、人が気絶するくらいの力は出ないだろう。
 真継が呆然としていると電車は次の駅を突破してしまっていた。
「お前、何処まで乗るんだ?」
 男は酔っぱらいおじさんが片付いたと、真継を抱き寄せていた腕を離して、さっきまで座っていた席に座った。
「あ、次の駅で降ります」
「じゃ、ここ座れ」
 男は自分の隣の席を叩いて、真継に座るように言った。
 真継は少し考えて、大人しく隣の席に座った。
「あ、あの、有り難うございます。助かりました」 
 座った状態でも真継は深々と頭を下げた。
「いや、偶然だったしね」
 男はさっきまでの凶悪な態度とはうって変わって、優しいお兄さんに変わってしまっている。
 柔らかな笑顔で言われて、真継は思わず見愡れてしまった。
 男は、身長は185センチくらいはあるだろう。長い足を組んで堂々と座っている。
 長い前髪は右分けで、瞳に少しかかっている。鬱陶しそうに掻き上げるなら切ればいいのにそうしてないのは、わざと瞳を隠しているのかもしれない。サングラスの横の隙間から見える瞳は鋭く、人を射尽くすような感じだ。
「ああいうのは、初めて?」
 真継が男の顔に見愡れていると、男がそう尋ねてきた。
「あ、いえ、その……」
 さすがに男が頻繁に痴漢にあっているとは答えにくかった。
 しかも、痴漢同士が、自分の所有を主張して揉めた事があるとは絶対に言えない。
 真継が言い淀んでいるのを見て、男は納得したようだった。
「お前みたいな身体つきは、気をつけないとな。少しは危険を察知した方が身の為」   そんな事を言われて、真継は顔を真っ赤にして俯いた。
 そんな事は解っている。
 だが、それに対抗する手段が未だに思い付かない。
 いつもなら、大岐が一緒で、周りに瞳や冬美がいるから、痴漢に合う事も少なくなっている。だが、それが甘えであるのは自覚していた。
「……悪い。お前が悪い訳じゃないよな。世の中がおかしいんだ」
 男は真継が俯いて、落ち込んでいるのを見て、そう言った。
 まあ、確かに世の中おかしくなってきているとは思うと、真継は顔を上げて頷いた。
「なあ、お前、脚悪いのか?」
 男がいきなりそう言ったので、真継は驚いて男の顔を見つめた。
「……ええ、まあ。少しですけど……。急に走ったりするとちょっと負担がきてしまうんです」
 真継の左足は、小さい頃に事故にあって怪我をしてから、長時間走る事が出来ない。
 神経の問題らしいのだが、負担がかかると、痛みが走り、脚自体が動かなくなる事もある。だが、普通 に生活している分には、脚が悪いなどとは誰も気が付かない。
 真継がそう答えると、男はそれ以上踏み込んだ事は聞いてこなかった。
 結局そのまま黙ったまま、電車は次の駅に到着した。
 真継が再度礼を言って頭を下げると、男はニコリと微笑んで、真継の頭をクシャクシャと撫でた。
「また会ったら宜しくな」
 男はそう言い残して改札に消えた。
 真継はそれを見送って、恩人の名前を聞きそびれた事に気が付いた。
「あ……名前、聞かなかった……」
 でも、男がこの改札を潜ったという事は、この街に住んでいるか、それか通 っているのかもしれない。そうすれば偶然にまた会う事があるだろうと、真継は考えた。
 急いで家に帰り着くと、ちょうど引っ越し屋のトラックがマンションの前に停まっていて、荷物を運び終わっている所だった。
 間に合った、と真継が部屋に戻って、着替えを済ませてから隣を覗くと引っ越し屋が挨拶をして出ていくのに遭遇した。
 それを見送ってから、玄関ドアが開いてる隣の部屋を覗き込んだ。
 中で誰かが動いている気配がある。
「あの、すみません。隣の令夏(はるか)です。手伝いに来ました」
 真継が玄関から声をかけると、奥の部屋から人が出てきた。
「お、また会ったな」
 出てきた人物がニヤリと笑って言った。
 真継はその人物を見て、驚いた。
 その人物はさっき電車で真継を助けてくれた、あの男だったのだ。
「あの、さっきは本当に助かりました」
 真継はまた頭を下げて、礼を言った。
「それはいいんだが、あ、手伝ってくれるって言ったよな。じゃ台所は任せた」
 男は真剣な顔で、台所の方を指差した。
 真継は、そういえばこの人は、初めて一人暮らしをするんだったと思い出した。
 そりゃ台所の要領など解らないだろう。
「解りました。すぐやります。お邪魔します」
 真継は言って、部屋に上がった。
 男は、自分の部屋を片付けているらしく、大きな本棚で埋め尽された部屋で、段ボールを開けていた。
「お前、名前なんて言うんだ?」
 男は付いて来ながら真継に聞いた。
「真継です」
「へえ、真継かあ。俺は九頭神凪(くずがみ なぎ)だ。凪でいい」
「凪さんって、幾つなんですか?」
 ふと疑問になった真継が尋ねると、凪は答えた。
「21、大学生だ。真奈さんとは、大学の非常勤講師と生徒の間柄。真継は?」
「俺は16です。高校二年」
「ふーん。真継って、真奈さんにそっくりだなあ。さっき見た時、そうじゃないかと思ったんだ」
 凪がそう言ったので、真継は凪を見上げた。
 じっくりと顔を見られて、真継はある事に気が付いた。
 凪は、真継の母親である、真奈の事が好きなのだ、という事だ。
「それはよく言われます。あ、これって適当に並べていいですか?」
 真継は、真奈に似ていると言われる事に慣れているので、簡単に答えてから、台所に並べられた、デパートで買っただろう食器類が入った箱を指差して言った。
「後で何が何処にあるか教えてくれるなら、適当でいいけど」
 凪がそう答えたので、真継は自分が暫くここで食事を作る事を思い出した。
「母さんから、暫く食事を作るように言われたてたんですが……」
 真継がそう言うと、凪は少し驚いたような顔をした。
「真奈さんが、そう言ったのか?」
「はい。聞いてませんでした? 嫌ならいいんですけど」
 真継が言って首を傾げると、凪は何かを考えているように黙りこくった。
 そんなに考える程嫌なのか?
 真継はそう思って返事を待ったが、凪はまだ考え込んでいる。
 まさか、母親から言われているから断れないのではないだろうか?
「あの、迷惑なら、俺から母さんに言っておきます」
 真継がそう言った所で、凪が我に返った。
「いや、作ってくれると有り難い」
「じゃ、ここ片付けて、使える状態にしますね。食料は家から持ってきます」
 真継は勝手に段取りを決めて、手前にある箱から開封していった。
 凪は作業をする真継を暫く黙って見ていたが、何かを思い出したように、別 の部屋へと歩いていった。
 真継はそれに気が付かずに、箱から出てくるお皿を出して食器棚に並べる作業に没頭した。
 部屋が薄暗くなってきた所で、部屋に電気が付けられて、真継がハッと顔を上げた。
「お前、暗いんだから電気くらいつけろよ」
 呆れた声のした方向を見ると、何かの袋を下げた凪が立っていた。
「すみません。気が付きませんでした」
「お、殆ど片付いてるじゃないか。すごいな」
 台所にあった箱の中身は全部食器棚に納まっている。
 箱は潰して紐で纏めていて、真継がやる事は、もう台所の水回りの調味料の配置だけになっていた。
「俺の家と同じ配置にしました。それなら片付けるのも早いかと思って」
「それでいい。どうせ真継が使うんだろ?」
 凪はニコリとして言い切った。
「まあ、そうですけど……」
 どうも使う気がまったくない凪の態度に、真継は溜息を漏らした。
「そろそろご飯作りましょうか?」
 時計を見ると、もう7時前だった。
「お、頼む。腹減ってなあ。これのつまみも頼む。どうせだからお前も一緒にここで食べろよ。真奈さん、遅いんだろ?」
 そう言って凪がテーブルに置いたのは、ビールなどの酒の山。
 いつの間にか、コンビニに行って仕入れてきたようだった。
 一緒に食べようと言われて、真継は微笑んでしまった。
 一人で食事するのは楽しくない。
 誰でもいいから、一緒に食事してくれる人がいるのは嬉しいのだ。
「母さんは、今日から出張で、二週間いないんですよ。じゃ、食料取ってきます。それ、ちゃんと冷蔵庫へ入れて下さい。生温くなっちゃいますよ」
 真継がそう言うと、凪は渋々お酒を冷蔵庫へ運んだ。
 真継はそれを見てから、自分の家から食料を持って凪の部屋に戻ってきた。
「何か、食べられない物とかありますか?」
 真継が凪に聞くと、凪は首を振った。
「じゃ、簡単に作りますね」
 真継は持ってきた自分のエプロンをして、テキパキと料理し始める。
 元々作ってストックして冷凍してあったハンバーグを解凍してフライパンで焼きながら、サラダを作り、簡単な酒のつまみも作っていく。
 先につまみを出して、味噌汁を作り、焼けたハンバーグの盛り付けをする。
 ご飯は、元々自分の家でセットしていたのが炊きあがっているのを持ってきた。
 それを並べ終わると、さすがに凪も感嘆の言葉が出てしまう。
「凄いなあ、真継。いつもやってるのか?」
「まあ、母さんは忙しいから」
 真継は苦笑する。
「必要にかられて出来るようになったのか?」
「ううん。うちは祖母が厳しい人で、男も一人暮らしをする事になるんだから、女任せの家事なんて思ってちゃいけないって小さい頃から教え込まれたです」
 祖母はそういう所が厳しかった。とにかく男だとか女だとか、そういう区別 をしない人だったのだ。
「へえ、なのに真奈さんは出来ないんだ」
 それだけ厳しい祖母が母の真奈に家事を教えなかったとは思えない。
 しかし、真奈は一切やらない。
 大体、台所に立って包丁を握っている姿など、一度として見た事がない。
「そういえば、母さんが家事してるの見た事ないです。おばあちゃんの教えからすれば、母さんが出来ないわけないですよねえ」
 凪に言われて、初めてその矛盾に気が付いた真継。
「じゃあ、真継は真奈さんに頼られているんだな」
 凪がそんな事を言ったので、真継は不思議そうな顔をして凪を見つめた。
「頼る?」
「頼るって言ったら聞こえがいいけど、要は、甘えているのが正しいな。どんな男にだって甘えやしない真奈さんが、真継にだけ甘えているんだ。まったく素直じゃないね」
 母親に甘えられている。
 そう言われて、真継は何だか居心地が悪くなった。
 そう、照れてしまったのだ。
 まさか、あれやってこれやってという我侭な母親が、甘えでやっているとは思っていなかったからだ。
「いいな。俺も甘えたい」
 凪がいきなりそう言ったので、真継は吹出して笑ってしまう。
 笑っている真継を凪はジッと観察するように見ていた。
「そういえば、真奈さんが学校でなんて呼ばれているか知ってるか?」
 また凪が意外な事を言い出して、真継はなんとか笑いを納めた。
「え? それ興味あります」
 実際、真奈が学生の間でどう呼ばれているのかは、真継は知らなかった。
 他の講師仲間などからは、色々と聞いていたはいたのだが。
「鉄仮面女」
 凪は笑って言った。
「は?」
 真継はキョトンとしてしまった。
「表情が崩れないんだよ。何を言ってもダメージは受けないし、冗談は通じないし、手厳しいしね。あの人が大学で笑っている姿は見た事がないってくらい」
 とにかく人使いが荒いだの、時間厳守で1秒でも遅れたら出席にしてくれないなど、凪が今まで見てきた真奈の学校での姿を話して聞かせた。
 凪に母親の仕事場の話を出されて、真継はまったく違うイメージの母親に違和感を覚えた。
 まあ、厳しいのはあるが、笑うし怒るし、我侭言い放題。
 表情や感情が豊か過ぎるくらいである。
 ただ泣いた所は見た事がない。
 それが鉄仮面?
 真継が眉を顰めて考えていると、凪が笑った。
「やっぱり普段は違うんだ」
「ええ、まったく違います。思わず別人かと思ってしまいました」
 正直に感想を言う真継に、凪はビールを差し出した。
「ま、真奈さんの話もいいけど、一応、俺の引っ越し祝いって事で、これで乾杯だ」
 真継は差し出されたビールを素直に受け取って、凪と乾杯をした。
 食事が済んで、そのまま酒盛りになってしまった。
 凪の話は面白くて、真継もついつい飲み過ぎてしまった。
 時刻は既に10時を回っている。
「あ、もう部屋に戻らないと」
 もうどれくらい飲んだのか解らないくらいに、テーブルの上にはビールやチューハイの缶 が大量にある。
「いいじゃねえか、もっと飲もうぜ」
 凪が引き止めるが、真継はすぐに席を立った。
「いえ、まだお風呂の準備してなかったんで…。あ、これ、片付けますね」
 真継は言って、つまみやらが入った皿を綺麗に纏めて、いらなくなったのをシンクに運んだ。
 洗い物がたまっているので、それを片付けていると、凪はそれ以上引き止めるのを諦めたのか、ダイニングから出ていった。
 一瞬、怒らせたのかと思った真継だが、さすがにこれ以上は付き合ってられないと、作業に没頭した。
 その没頭している真継の後ろから、いつの間にか戻ってきた凪がこっそりと近付いてきていた。
「なあ、真継」
 いきなり声をかけられて、真継は驚いてしまう。
「な、凪さん? どうしました?」
 びっくりしながらも振り返ると、凪が怖い顔をしている。
 じっと睨み付けるように見られて、真継は一瞬で恐怖を感じた。
 さっきまでの優しい凪とは違う表情。
 他人とまで見違える程の表情の変化。
「……手」
 睨み付けたままで凪が言った。
「手?」
 真継はふと自分の手を広げて見る。
 何か付いているのかと思ったのだが、何もない。
 すると、凪の手が動いて、何かを取り出すと、カチャリと真継の両手首に嵌めた。
「え?」
 いきなりはめられた物を見て、真継の表情が固まる。
 手首にはめられたのは、何と手錠。
 何で手錠なんか持っているんだ?
 いや、それはいいとして、何で俺が嵌められるんだ?
 訳が解らなくなって、凪を見上げると、凪がニヤリと笑っている。
「捕まえた」
 そう呟いた。
「は?」
 さっぱりまったく意味が解らない。
 豹変したと思ったら、手錠で、しかも捕まえた?
「あの……どういう意味なんでしょうか?」
 手錠されてしまった腕を差し出して聞くと、凪がスッと身を屈めて、手錠された真継の両腕の間に頭を入れてきた。
 ちょうど、真継が凪の首に手を回している状態である。
 身体と身体が密着して、完全に真継が逃げられない状態になっている。
 凪は真継をギュッと抱き締めて肩に顔を埋めている。
「な、凪さん?」
 何がしたいんだろう?
 そう思って首を傾げると、凪が呟く。
「こんな所にいたんだ……やっと見つけた」
 さっぱりな内容である。
 ?マークが真継の頭の中を埋め尽してしまう。
 どういう意味だ?
「凪さん、誰かと間違ってません?」
 もしかして酔って人違いでもしているのだろうかと思った真継はそう聞いていた。
 すると、凪が顔を上げて、真継の頬を手で包むと瞳を覗き込んで真剣な顔をした。
「お前は、真継だろ」
「は、はい……そうですが」
「だったら人違いなわけない。この顔で、その名前。他に同じ人物がいるはずがない」
 凪はそう言い切った。
「まあ、そうですが……」
 真継はそう答えたが、どうしても凪を思い出せない。
 人違いしているわけではなさそうである。
 じゃあ、やっと見つけたってのはどういう意味なのだろうか?
「探し出すのにどれだけ時間がかかった事か。俺の半生はお前を探す事しかなかった」
 そんな事を真剣に言われても、真継には意味が解らない。
 まるで前世で結ばれていたとでも言われている感覚だ。
 それでも何かに取り憑かれたように凪が呟く。
「10年……ずっと探していた。真奈が大学講師として来た時は、あまりに似ているから、もしかしてと思った。息子がいると言ったから、年を聞いたら、ピッタリだ。しかも名前まで。絶対ビンゴだと思った。電車で出会った時、心臓が止まるかと思った。全然変わってない真継がいきなり現れるから。
 でも、確信がなかった。他人の空似かもしれない。真奈の息子を確認してからお前を探そうと思った。そしたら、手伝いに来てくれた。嬉しくて、すぐに抱き締めたかったのに、真継は俺の名前を聞いても思い出さないし、完全に忘れているから」
 凪はそこまで言って、いきなり真継にキスをしてきた。
「……!」
 突然の凪のキスに、真継は何が起こったのか解らなかった。
 それより、凪が語っている事自体が理解出来ない。
 食らい付くようなキス。
 すぐに舌が真継の口の中に侵入し、閉じている歯を舌で舐め回す。
 他人の舌で口の中を陵辱される事などないから、真継は抵抗する。しかし、凪はそれを許さない。逃げる真継の頭を掴んで、尚深く求めてくる。
 息苦しくなって真継が口を開いた瞬間を逃さず、凪の舌が口内に入り、舌を絡めてくる。
 真継はこの激しさについていけなくなっていた。
 呼吸を奪われ、感じた事のない奇妙な感覚に頭の芯から朦朧とし始める。
「……んっ……ん」
 咽の奥から自然と声が漏れ始めていた。
 真継の身体の力が完全に抜けてしまうと、凪はやっと唇を離した。
 倒れる真継を支えると、凪は真継の耳元で囁いた。
「約束も忘れているだろう? でも俺は覚えている。やっと約束を果たせそうだ」
 10年前の約束。
 そんな事など覚えているわけはない。
 小学生の時の約束?
 だが、小学生の時に、九頭神凪という人物に会った事も、約束する程の知り合いもいない。
「何の……事?」
 真継はやっとそう聞き返した。 
「簡単な事だ。真継が約束を果たしてくれればいいだけだ」
 凪は内容を言わずに言い切る。
「……やく、そく?」
 だから、その約束ってのは何なわけ?
 そう聞き返したかったのだが、言葉が出ない。
 凪はそれが解ったのか、耳元で囁く。
「俺が成人したら、真継を抱かせてくれるって約束だ」
「…は?」
 抱く?
 意味がさっぱりな真継が首を傾げると、凪は単刀直入に約束の内容を言った。
「セックスさせてくれるって真継が言った」
 凪の言葉に真継の頭の中は真っ白だ。
 俺が、セックスさせてやるって言った?
 しかも小学生の時に?
「う、嘘だ!」
 真継が最後の力を振り絞って抵抗したが、凪がそれを離すわけがない。
 寄り一層抱き締める力が強くなり、真継は身体の骨が砕けてしまいそうなほどの苦しさを味わった。
「……後で証拠はみせてやる。今は抱かせろ。もう我慢出来ない」

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