Together

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「おはよう」

 五十栖緒都(いおすみ おと)が朝起きて必ず言うセリフだった。

 起きているのは、この少し大きな家では父親しかいない。
 その父親は、完全に仕事に行く格好をしていて、その隙はまったくない姿をしている。
 オーダーメイドの黒のスーツ。それが定番だ。

「ああ、おはよう」
 そう答えた時には、もう新聞は読み終わっていて畳むところだった。

 この隙の無い姿は、もう見慣れたものだった。
 物心ついた時には父親はいつもこう完ぺきで、有無を言わさぬところがあった。それは緒都にとっての父親像であって、他と比べても違うことは解っていた。

 それを不満に思ったことはなかったし、それが当たり前だと思っていた。

「今日も弁当なのか?」
 父親が立ち上がりながらそう聞いてきたので、緒都は一瞬身体を震わせたが、すぐに頷いて返した。

 父親に異変だけは感じて欲しくなくて、緒都はもっともらしい弁当を作る作業に入る。

 卵を取り出したところで父親はかばんを持ってリビングを出ていく。それを追って緒都も玄関へ向かう。

「今日もまた遅くなると思う。戸締まりをして、火にもきをつけて」
 靴を履きながらそう言うのはいつものことだ。

「はい」
 緒都がそう答えると、父親は何も思わなかったのだろう。そのまま行ってくると言って出かけていった。

 それを確認してから、すぐさま緒都は玄関に鍵をかけた。
 そうしなければならない理由があった。

「なんで、毎日毎日来るんだ?」
 もう放っておいて欲しいと思っての行動なのだが、それを許してくれる相手でもなかった。

 ただ、唯一助かっているのは、父親がいる時には来ない相手であるということだろうか。

 今日もまた玄関のチャイムがなり、何も言わないでいると玄関を何度も叩かれた。
「おい、起きてるのは知ってるんだぞ。いい加減出てきたらどうだ!」

 そう言うのは、親友だった幼なじみ。
 七崎茅人(ななざき かやと)。

 緒都が玄関に蹲ると、耳を塞いだ。
 もう誰の言葉も聞きたくない。
 あんなことは一度で十分だった。

「あんな奴、俺は知らない」
 そう茅人が言っているのを聞いたのは、一ヶ月前のことだ。

 ちょうど教師に呼ばれて職員室へ行っていた緒都が、荷物を取りに教室に戻った時、教室の中から聞こえた言葉だ。

「おーおー、じゃあ俺らが何やっても邪魔すんなよ」
 この声はと緒都が思っていると、中にまだ他にも人がいるようだった。

 息を潜めて待っていると、茅人が飛び出してくるのが解って、緒都はそのまま隠れた。何故かこれは聞いてはいけないような気がしたからだ。

 茅人が帰った後、緒都が教室に戻ると、そこには野崎たちがいた。彼らは常に三人くらいでつるんでいて、良からぬことをやっているから、茅人から近づくなと言われていたやつらだった。

 一瞬びっくりしたが、そのまま緒都が荷物を持って出ようとすると、進藤がいつの間にか入り口に回ってきて緒都の進路を塞いだ。

「何?」
 緒都が不安げに見上げると、進藤は笑っている。
 何か嫌な予感がした。

 そんな気がして進藤の横を強引に通り抜けようとすると、腕を掴まれ、教室に連れ戻された。
 すぐに奥村が近づいてきて、緒都の足を払って転ばせると、緒都の身体に覆いかぶさってきた。

「い、痛い……」
 緒都がそう抗議すると、進藤が緒都の両腕を掴んで床に押さえつけてきた。

「おい、早くしろよ」
「まあ、待てって」
 進藤と奥村が何をしようとしているのか、緒都が悟るまでにそう時間はかからなかった。
 制服のボタンを外され、奥村が身体に触れてきた瞬間、緒都は暴れた。
 このまま自分がどうなってしまうのか、そう思った時だった。

「おい、お前ら、場所わきまえろよ」
 ちょうど教室に入ってきたらしい生徒がそう言った。

 その瞬間緩んだ進藤の腕を引きはがして緒都は鞄を掴むとそのまま逃げ出した。助けてくれた誰かなんて見ていない。

 とにかくここには居たくなくて、必死に逃げた。

 家に帰り着いた時、やっと安心してほっと息をついたのだけど、同時に茅人が自分を見捨てたのだと気付いて、緒都は泣いた。

 そんなに自分が疎ましかったのだろうか?
 迷惑をかけていたのだろうか?
 邪魔だったのだろうか?

 これまで自分が野崎たちの標的にされなかったのは、茅人がいてくれたからだ。
 ちょっかいは出されていたけれど、常に茅人と共にいることで守ってくれていたから、何もされなかった。

 その守りを茅人は何故か放棄した。
 そこまで茅人に迷惑をかけていたのかと思うと、申し訳ないとしか思えなくて、緒都は更に泣いた。

 散々泣いて学校を休んでしまった日、茅人が訪ねてきた。
 一瞬喜んだ緒都だったが、その茅人から出た言葉は卑猥な言葉だった。

 あいつらにやらせたんだろ?
 変態、そんなの俺の親友じゃない。

 一方的な言葉に緒都(おと)は耳を疑った。
 茅人はあの後、何かあったのか知っていたのだ。

 目の前が真っ暗になるというのは、こういうことを言うのだなと思った時には、緒都は茅人の前で玄関のドアを閉めた後だった。

 それで何もかも終わったと思っていた。
 茅人との友情も、学校も全部失ったのだと思った。

 それから、緒都は学校へは体調を崩したということにして、家で静養が必要だという理由をなんとかつけて、学校へはいかなくなっていた。

 それなのに、毎朝茅人はやってきて、緒都を苦しめる言葉を吐く。
 それが何の為なのか解らないし、理解も出来ない。
 ただ、緒都はそれから逃げることしか考えてなかった。

「緒都、なあ、俺の言うことを聞けよ」
 そうは言っても、最初は顔を合わせただけで、卑猥な言葉しか言わない相手の言葉など緒都に聞く勇気なんかあるわけない。
 たとえ、茅人が謝ろうとしているとしても、それはもう対等の言葉ではないからだ。

 俺が許してやってるだろ?
 俺が謝っているうちに出てこいよ。

 対等ではなかったのだ。それを思い知らされて緒都はますます茅人から離れようとした。言葉を交わすどころか、姿さえ見せない。

 一ヶ月逃げ回っているのだが、それも段々疲れてきた。

 いっそ、学校を変わろうかと思って、色々調べたりしているが、まだ父親に言えてなかった。それ以前に登校拒否になったことも父親は知らないからだ。

 やっと茅人が学校へ向かってくれたのを確認して、緒都は弁当を作る作業に戻った。
 弁当を作っているのは本当のことだ。ただ理由が学校へ行く為ではない。

 日中家にいるのも気がとがめて、ある所に行っている。弁当はその為だ。
 それを作り終えると、リュックを持ってきて詰める。
 持っていくものはほとんどないけれど、モバイルのパソコンやら本やらを詰め込んで、家に鍵をかけて出る。
 人がいなくなった道を駅とは反対に歩いていく。

 この時間は人に見とがめられなくていい時間だ。
 緒都が向かっているのは、ある豪邸。

 そこは十年前に空き家になって以来、誰もいないのだ。
 小さい時、よくここに忍び込んでは遊んだものだ。
 大きな庭はかなり荒れていたけれど、学校へ行かなくなった緒都が入った時は緑が多くて凄くイイ場所だということだった。

 それから探検するつもりでうろうろしているうちに、一ヶ所窓の鍵がかかっていない場所があった。
 好奇心で中へ入ってみて、驚いた。本当に大きな家だったことは明らかだった。

 持ち主はまったく解らないけれど、家中の家具がそのまま残されていて、大きなシーツのような布で覆われている。

 不法侵入であるのは解っているが、ごみなど残さなければ対して問題ではないだろうし、何か持ち出したりしなければ大丈夫だと緒都は思っている。

 この家が放置されてから、もう十年以上は経っている。今更誰かが住むとは思えなかったのもあった。

 それに誰かが忍び込んでくるような場所でもないから、誰かに見つかることもなかった。
 下手に街をうろつくよりは安全で、安心出来る場所でもある。

 緊張を強いられる家にいるより、学校へ行くより、今は安息の場所になっていた。
 いつものように窓から入り、二階へ上がる。

 一階だと偶然に入ってきた誰かに見つかってしまうかもしれないから、用心してのことだった。
 その日はいつもと違っていた。

 何処がとは言えないが、ここ一ヶ月通ってきたことで、この家の雰囲気を掴んでいたから、少しの変化も感じられるようになっていたのかもしれない。

 何か変だなと思いながら緒都はいつも使っている部屋を覗き込んだ。





 四十宮永哩(よそみや えいり)が、この屋敷に来たのはもう十三年くらい前だろうか。
 その時は、ここに祖父母がいて、家は豪華で賑やかだった。

 プライドが高い母親は、父親にお腹の子供のことを他の男の子供だと疑われて頭にきて、そのまま離婚して家に戻ってきた。
 当然、永哩は覚えてないし、後からそうだと言われてもよく解らない。

 母親は自分を置いて、そのまままた次の嫁ぎ先に行ってしまったから、それ以来会ってなかったし、会いに来るような母親でもなかった。
 この家での永哩の立場は、ただ祖父母の為に生きることだった。

 それが終わったのは、十三年前だ。
 それまで孫として扱われなかった永哩がやっと心身共に自由になった瞬間でもある。
 膨大な遺産を残した祖父母は、意外や意外、母親には何も残さず、永哩に全てを残すという遺言を書いていたのだ。
 そうしてこの家も永哩の物になった。

 膨大な遺産、それはまだ十二だった永哩には重すぎるものであった。
 遺産を欲しがる親戚、それに知らない人たち。
 それを救ってくれたのは、意外な人物だった。

 その人の手によって、なんとか生活は出来、大学を卒業する頃には、もう今の会社を始めていた。
 起業して、上手く世の中の流行りに乗せることが出来て、かなりの収益を得た今、順調にいっていた永哩の前に立ちはだかったのは、自分の父親だった。

「あの、やろう……」
 それは自分の父親に向けたものではない。
 ある人物に向けたものだ。
 やっと自分が自由に動けるのだと確信した時、邪魔が入ったというところだ。
 会社は一手に後輩に任せて、自分は逃げるしかなかった。

 本当に今更だ。
 何故、今になってと思う。
 もう二十五年だ。
 それが今になって、何故それを言われるのか理解出来ない。

 戻ってこい。
 その言葉は今までの永哩を否定するものだ。これまで自分はずっと四十宮永哩でやってきたのに、今更そこへ戻ってどうするというのだ。

「なんか、もう、どうしていいやら」
 そう呟いて、はっとした。
 人の気配を感じたからだ。

 こんな空き家で?
 そう思って見た先には、天使が立っていた。

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