Complicated
1
都住杞紗(いずみ きさ)は、母親の一言に驚いて、思わずお茶碗を落としそうになった。
「今、なんて言った?」
「ん? だから、あんたに転校してもらうって言ったのよ」
母親は平然として話を進める。
「なんでいきなり転校しなきゃなんないんだ?」
杞紗はなんとかお茶碗をテーブルに戻した。
母親をじっとみながら杞紗は聞き返した。
都住杞紗は、今年高校三年になる。
この時期に引っ越しとは穏やかな話ではない。
「あれ? さっき理由言ったんじゃなかったっけ?」
「言ったけど」
母親が杞紗に語った理由。
それは、母親の仕事の関係で、引っ越すことになったというだけである。それなのに何故自分まで転校しなければならないのかが解らなかった杞紗である。
母親が仕事が忙しい身分であるのは解っている。
今までも仕事で離れたことはある。
でも転校するのは初めてだった。
今までは、祖父の家に住んでいたからそこに杞紗は残されていた。
でも祖父は去年亡くなって今はいない。
母親は高校生の息子を一人にしておく事は出来ないと考えて、転校を言い出したのである。
「俺が転校して何処行く訳?」
真っ先にそれを聞きたかった。
自分が転校するのはいいとしよう。でも、1人にしておけないからという理由がある以上、一人暮らしは出来ないはずだ。
そんな不安を持っている杞紗に母親は言い放った。
「それはあんたの父さんの所よ」
当然とばかりに言い切られてしまう。
そこで、杞紗はなんとか落ち着いて話を纏めようとした。
この母親は仕事の忙しさから家事が出来ず、結局父親とは離婚してしまった経歴の持ち主である。それでも未だに友達関係としては交流は続いているらしく、息子の事ではよく話し合うらしいのだ。
「引っ越すのって確か東京に住んでたあの家の事?」
思い当たる場所といえば、昔住んでいた場所しかない。
「そうそう。父さんには既に連絡して承諾して貰っているから気兼ねしなくていいわよ」
とっくにそんな事は決まっているとばかりに言われてしまう。
「ええ? 俺、今更父さんと住むのか?」
何年も会ってもいない父親と住めと言われても素直に喜べない杞紗。
「あの人も忙しい人だから、実際は弟と一緒というのが正しいかもね」
母親は朝食の片づけを始めながらそう言った。
「え? 貴緒(きお)と?」
父親と一緒に住むという事は、離婚して離ればなれになった貴緒という弟と一緒に住む事になるのは当然の事だった。
貴緒は一つ下の弟で、小さい頃はいつも杞紗の後をついてきていたくらいにお兄ちゃん子だった。
離婚して離ればなれになってからは一度も会っていない。
何故か一緒に会う機会がなかったのである。
あれから貴緒はどう変わったのか。
それは杞紗も気になる所だった。
「貴緒はなんて言ってる?」
少し緊張してそれを聞いてみた。
「別にって。どうでもいいみたいよ。まったく、昔はあんなにお兄ちゃん子だったのにね、嬉しいとか思わないらしいわ」
母親の言葉に少し杞紗は寂しい思いをした。
可愛かった弟は昔とは違うらしい。
「解った……」
杞紗は力無く答えた。
母親が決めた事なら杞紗がこの春休みの間に転校する事は決まってしまっているからだ。
今更反対した所で無駄なのである。
そうして杞紗(きさ)が引っ越す日がやってきた。
荷物はそれほど無かったので、簡単に荷造りは出来た。
それを引っ越し屋に頼んで自分も車に乗り込んだ。
5年ぶりに元々住んでいた街に帰ってきた。
記憶は鮮明で、見た事ある街並を走って行く。ああここ小学校だとか、レストランなどの場所は変わってなかった。
家々が立ち並ぶ場所に近付くと、更に記憶は鮮やかに蘇る。
ここは鈴木さんちだとかそうした些細な事も思いだせる。
自分が住んでいた家に到着すると、そこは何も変わっていなかった。
「うわー懐かしい」
思わずそんな言葉が出てしまう。
緊張しながらチャイムを押すとすぐに反応があった。
「杞紗~久しぶりだねえ~」
そう出迎えてくれたのは父親だった。
5年も会う事が出来なかったのだから、杞紗も父親に会えたのは嬉しかった。
「父さん元気そうだね」
「杞紗も元気そうで何よりだ。でも、身長伸びなかったんだな」
一番気にしている身長の事を言われて、杞紗は苦笑してしまった。
というのも、この家を出て行ってから、身長は殆ど伸びなかったのである。
163センチといえば、小さ過ぎる。
小さい頃はヒョロヒョロと伸びたものだったのにだ。
「気にしてるんだから身長の事は言うなよ」
杞紗は笑って抱き締める父親から離れた。
父親も笑って杞紗を離してくれた。
「貴緒なんか、どんどん伸びて180センチ近くあるぞ」
「へえー」
それは意外な変化だった。
自分より小さかった弟は自分より遥かに背が高くなっているらしい。
父親はそれを言ってから思い出したように杞紗に言った。
「部屋は前使ってた私の書斎を開けたから、そこを使うといい」
「ありがとう」
昔は弟と同じ部屋だったから、今度は分けてくれたのである。さすがに高校生にもなって弟と同じ部屋ではお互い嫌であろう。
荷物は全部書斎だった部屋に運んで貰った。
その整理をしながら、ふと杞紗は気が付いた。
「あれ? 貴緒は?」
真っ先に挨拶にきてくれると思っていた弟がいつまで経っても現れなかったからだ。
「ああ、貴緒か」
父親は少し顔色を変えた。
「何かあったの?」
気になって杞紗が聞くと、父親が言いにくそうに杞紗に話し出した。
「最近、あいつ家に戻ってなくてな」
そんな事を言われて杞紗は驚いてしまう。
「家に戻ってない?」
昔の貴緒からは考えられない行動だ。
貴緒はお兄ちゃん子ではあったが、非常に真面目で勉強もできる子だった。
それがたった5年で何かが変わってしまっているのである。
「どうせ友達の所を渡り歩いているんだろうが、まあ、学校にはちゃんと顔を出しているから文句も言えなくてな」
父親も貴緒の行動には困っているという顔をしていた。
「いつの間にか不良になったんだ……」
貴緒が5年の間に変わってしまったのは明らかだった。
荷物の整理が終わった頃、問題の貴緒が帰宅した。
「貴緒! 杞紗が帰ってきたんだから顔を見せて挨拶くらいしろ!」
荷物の手伝いをしていた父親が真っ先に飛び出して廊下で貴緒を呼び止めた。
だが貴緒から帰ってきた言葉は意外な一言だった。
「面倒臭い、どうせ後で顔を会わせるんだからいいだろ」
本当に面倒くさがっている声だった。
変声期を迎えたはずの貴緒の声は低く、昔の面影は何処にもなかった。
「なんだその言い種は!」
父親が怒鳴っていたが、部屋からちらりと杞紗が廊下を覗くと、ちょうど貴緒が部屋に入って行く所だった。
姿は見えなかった。
どう考えても、貴緒は杞紗の帰宅を喜んでいるとは思えない口調だった。
もしかして、俺、歓迎されてないのかも。
そんな気にさせてしまう貴緒の一言に杞紗はショックを受けていた。
いくらお兄ちゃん子だった弟が変わってしまったとはいえ、もう少し歓迎してくれてると期待していたからかもしれない。その期待が裏切られたという所だろう。
杞紗は溜息をついてしまった。
こんなので、同居なんてできるのだろうかという不安からだった。
夕食になって杞紗は部屋の片付けを全部済ませて、リビングに降りて行った。
父親は急な仕事で出掛けてしまったが、夕食は好きに食べていいと言われていたからだ。
だが、下へ降りて行くと、何かいい匂いがした。
「え?」
何だろうと首を傾げて台所を見ると、なんと、貴緒が台所に立っていたのである。
でも、杞紗はその姿ではすぐに貴緒を気が付けなかった。
それもそのはず。
自分が覚えている貴緒は、自分と同じ身長の幼い姿だったからだ。
でも今の貴緒は、身長は180センチは軽くある程。ガタイもよく昔の姿は何処にも面 影すらなかったのだから。
「貴緒?」
不安げに杞紗が尋ねた。
すると、食事を用意していて貴緒が振り返った。
その貴緒は杞紗が見ても十分な男前だ。
ここに女性がいたら、十人中十人が振り返るだろうの美青年なのである。
あんなに可愛かった面影はもはや何処にもない。
こんなに変わるなんて。
自分は母親に似たのか、身長も顔も母親譲りである。その貧弱な身体からすれば、貴緒の姿はうらやましい限りだ。
そんな風に自分と貴緒を比べていると、貴緒が口を開いた。
「なあ、あんた好き嫌いはあるか?」
貴緒がそう尋ねてきた。
「え?」
驚いて顔を上げると、貴緒がジッと杞紗を見ていた。
「昔は好き嫌いが多かっただろ。とりあえずその辺は避けたつもりだが」
貴緒は手際よくテーブルに食事を並べて行く。
それも昔自分が好きだったハンバーグなどが並んでいた。
それを見たとたん、杞紗は嬉しさが溢れ出た。
自分に気を使ってくれている証拠だったからだ。
「あ、結構食べられるものは増えたよ。これ、全部貴緒が作ったのか」
食事を目の前にして杞紗は感激していた。
ここへ来たら自分が家事を担当するだろうと思っていただけに貴緒の行動は意外だった。
「あのオヤジに何が作れると思う? 必要に狩られて作るようになっただけだ」
ぶっきらぼうに答えて、貴緒はテーブルに食事を並べた。
でもそれは独り分だった。
「貴緒は食べないのか?」
不安になって杞紗は貴緒を見上げた。
「俺はもう食べた。だからあんたの分しか作ってない」
貴緒はそう答えて台所を出てきた。
「そうなのか……寂しいな」
そう杞紗が呟いたのが意外だったのか、貴緒は不思議な顔をした。
「何故だ?」
「だって、やっと人と一緒に食事できると思ったのに、また一人なんだと思ったらなんだか寂しくなったんだ」
そう杞紗は母親が仕事が忙しく、たまにしか一緒に食事をしてこなかった。でもここにいれば貴緒とだけでも食事が出来ると期待していたのである。
「ふーん。ま、とにかく食べてくれ。後片付けは任せる」
貴緒はそんな事情でも杞紗を甘やかす事はしなかった。
「何処か出かけるのか?」
さっさと食事の準備を済ませた貴緒が出かける準備をして薄いコートを着たのを見て聞いてみた。
「あんたには関係ない事だ。口出しするな」
貴緒はそう言うと本当に出かけてしまったのである。
ダイニングに一人残された杞紗は呆然としたまま、貴緒を見送って、溜息を吐くと貴緒が用意してくれた食事を食べた。
随分と大人っぽくなってしまった貴緒。
もしかしたら自分は歓迎されてないのかもしれないという考えはここでもはっきりとした。
もう弟は昔の弟ではない。
立派な大人だ。
もしかしたらお兄ちゃん子だった貴緒にだけは歓迎されるかもしれないと思っていた事が見事に打ち砕かれた結果 だった。
「こんなんで上手くやっていけるんだろうか……」
貴緒が作ってくれた食事は美味しかったが、一人で食べる寂しさはもっと積もってしまった瞬間だった。
5年の月日は長かったのかもしれない。
弟は5年、いやその前に兄離れをしてしまっていた。弟離れが出来てなかったのは自分の方だったのだ。
寂しく一人で食事を済ませ、後片付けをした後、リビングでテレビをみたりしていたが、出掛けた父親も貴緒も深夜になっても帰ってくる事はなかった。
勝手しったる家ではあったが、何か居心地が悪い印象だけが残ってしまった。
結局また一人になってしまっただけだからだ。
春休みの間、少し変わった事がある。
父親の出張の間、貴緒も家にいる事も多くなったからだ。
気を使ってくれているのか、食事は一緒に食べてくれるようにはなった。
でもその後はやはり出掛けてしまう。
何かバイトでもしているかのようで、6時半には出かけ、深夜に戻ってくるという生活を貴緒は送っていた。
何をしているのかは杞紗には聞けなかった。
ただ独り寂しくリビングにいると、時々貴緒が側に寄り添ってくれる事もあった。
口が悪く、態度もでかい貴緒だが、そうした優しさは変わってないのかもしれない。
やがて、新学期が始まると、貴緒は杞紗と一緒に登校してくれるようになった。
初めは道に慣れない杞紗に付き合ってくれただけなのだが、毎朝ちゃんと案内をしてくれた。
「あれ、都住(いずみ)の弟だったんだ」
そう言い出したのは、転校してきて一番に話し掛けてくれた堤だった。
緊張していた杞紗の心を柔らかくしてくれたのも堤(つつみ)だった。そのお陰で杞紗は問題なくクラスに溶け込む事が出来た。
「うん、そうだよ」
「あいつ変わってるって噂だぜ」
「変わってるって?」
杞紗はキョトンとして堤を見た。
堤は女の子達が家庭科実習で作ってくれたクッキーを杞紗に差し出し、それを食べながら答えた。
「モテるにはモテるんだがな。それも男女問わず」
「へえ、そうなんだ」
確かにあのガタイに頭の良さがあれば弟が人気あるのは解る気がする杞紗だった。
「でも、誰が言い寄っても来る者は拒まずらしい。入学早々問題も起こしたし、トラブルメーカーなのは変わりない」
トラブルメーカーと聞いて、杞紗は首を傾げた。
弟は無口な方で、他人との付き合いがどれほどなのか杞紗はまったく知らない。
ただ後輩らしき男の子に「あんた貴緒先輩の何なんだよ」とは言われた事があった。
それが何を意味するのかは解らなかった杞紗は、自分は貴緒の兄であるとだけ答えていた。
入ったばかりの時は、何故か周りから奇妙な目で見られていたのには気が付いていた。
それほど弟が有名人だとは思ってもいなかったので、何だろうと思っていたが、次第に解ってきた。
いい男を見れば誰でもそういう風な気分になるのだろう。
だが、それだけではないような気がしてきたのも確かだ。
杞紗に言い掛かりをつけてくるのは、大抵貴緒と同じ歳か、年下だったからだ。中学ではかなりの人気があったのだろうと思えた。
「こう言っちゃ悪いかもしれないけど。お前の弟、バイだって噂だしな」
バイ?
ちょっと待てよ。それって両刀って事って事は……。
「ええええ!?」
杞紗は驚いて大きな声を出してしまった。
まさか、そんな噂があるとは思っても見なかったからだ。
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