警察の捜査が迫るという氷上組は、もはや玻璃の存在を消す消さないの問題を超えた事件に発展している事態を、いかに関係ないのかということを証明するために証拠隠滅をするのに必死だった。
結果として組長の息子三人を見捨てる羽目になった組長は、填めようとしたはずの門井に頼りっぱなしで事態を乗り越えることになった。
その際、門井を次期組長にする約束を文章として残したという。
結果として門井は自分のヘマをバラされずに緒方に助けられた形になった。
そして玻璃が門井を見てもさほど顔色を変えもせずに、誰のことか分かっていない様子から、門井も玻璃への警戒心を解いたようで、玻璃の処遇を雨宮に譲った。
これで玻璃は氷上組に命を狙われることもなく生きていくことができる。
ただ問題は現実的なもので、玻璃が未成年という問題だけである。
戸籍も動かせず、自分だけでは生きていけない玻璃を雨宮が突き放すことはなかった。
玻璃も勉強をしながらも、クラブの清掃などを手伝いし、アルバイトをした。
十八歳になるまで玻璃は雨宮の部屋から出るときは、常に雨宮と行動をし、バイトはクラブの清掃のみで出かけたりすることはなかった。
それでも玻璃は不満はなく、雨宮の教育によって大学へ行く希望さえ見えてきた。
けれど実質二十歳になるまでは、玻璃は未成年で親の許可が何でもいる年齢であることは、雨宮が一番よく知っている。
これ以上の未来を望むなら、それはもう雨宮が手出しできることではない。だから雨宮からはあえて玻璃には提案しなかった。
玻璃も分かっているけれど、なかなか決めきれずに、ただ雨宮と過ぎ去る日常を満喫した。
そうして二人は、玻璃が十九歳になるまでいつも通りに過ごした。
その玻璃の十九歳の誕生日である日。
玻璃は雨宮に内緒で、自宅を出た。
初めて自分の意思で、雨宮の自宅から出たことになる。
玻璃がここにきて、既に五年が過ぎていた。
長いようであっという間で、いい思い出しかない場所だから玻璃は絶対にここに戻ってくると決めて、そしてケジメを付けに自宅に戻ったのだ。
さよならなんて絶対に言わない。
前に、未来に進むために少しだけ離れるだけだ。
玻璃はそう思い、振り向かずに駅に向かった。
そんな玻璃が出ていくのを雨宮は黙って見送った。
玻璃が自由になった十六歳から、いつかそんな日が来るとずっと思っていた。
このまま、なあなあで済むわけもなかった。
分かっていたからこそ、雨宮が玻璃の行動を止めるわけにはいかなかった。
「……帰ってこいよ、玻璃」
雨宮の願いも空しく、玻璃はそれから一年姿を見せることはなかった。
玻璃が養父母の自宅に戻った瞬間、養母によって警察に連れて行かれた。
どうやら養父母は玻璃を自分の身内を殺した犯人と思っていたようで、玻璃が現れた瞬間に警察を呼ばれてしまったのだ。
「この人殺しが!」
それが再開した養母が吐いた言葉だった。
養父は家から出てきもしなかった。
その反応はまあ玻璃には分からなくもない反応だった。
養母が玻璃を恨んでいるのは知っているし、玻璃がしたことで恨まれるのは当たり前だと思ったが、養父に至っては玻璃の顔を見ることさえできないほど、後悔をしているわけでもなかったようだ。それが分かるのは警察の捜査の後だった。
警察も玻璃を捜して五年以上、事件は時効もないので未だに捜査も続いている。
だから真相を知っているであろう玻璃は、警察からすれば事件の解決への一歩となり、玻璃は警察からなかなか解放されなかった。
それが玻璃の誤算だった。
「んーだから、殺されそうだなと思って、家出したんだけど、あちこち親切な人に助けて貰ってたけど、戸籍とか色々ないと生きていくのは大変だから戻った方がいいって言われたから、戻ってきただけで……そんな殺人事件のことは、後から知った感じ。あまりおばさんのこと、よく思ってなかったし、死んだとしても僕には関係ないかな」
玻璃は、入院していた叔母に売春を強要されてしていたことや、隣のおじさんと叔母が繋がっていて、おじさんにも強要されて売春を続けていたが、そのお金をちょっとずつ抜いて貯めたお金を持って、最後の客の親切でしばらく隠れ住んでいたといい、そのうちホームレスや漫画喫茶を転々として、売春を続けてきたことを作り上げて話した。
「何で、警察に行かなかったんだ?」
そう刑事に言われて玻璃は思ったままを答えた。
「僕、六度目の養子縁組なんだよね。で、それがどうなったか刑事さんの方が知ってるんじゃない? そうなるのが分かっていて、戻るわけないじゃん。同じことでしょ、戻っても戻らなくても、それだったら、自分が生きるために売春するよ? 刑事さんも僕のことそうやって正論言っていさめてやってる気がしてるんだろうけど、現実問題、そうじゃないじゃん。俺は六度目、なんだけど?」
養父による性的虐待で、玻璃は何度も居所をなくしている。
玻璃にそう言われると刑事も何も言えなくなる。
頼って助けられた先で、ほぼ自分の意思をねじ曲げられて育った人に、その正論は意味がない。どんな言葉も全部踏みにじってきたのは政府や施設、そして警察だ。
「まあ、刑事さんを責めたいわけじゃないんだ。ただ知ってて正論を吐くの、僕を買った人たちよりも気持ち悪いだけ」
玻璃の助けてあげた気になってる大人によって、踏みにじられた人生は戻ってこないのだと玻璃は言っているだけなのだ。
玻璃の養子縁組をした施設はとうに違法行為で解散されている。
玻璃を問題ありの夫婦に養子に出していたことも、院長だった女性が認めたのもあり、社会的問題にもなっていた。玻璃に対する虐待も院長が行っていたことが、当時の職員の証言で分かったほどだ。
刑事は玻璃の話を聞けば聞くほど、理不尽な目に遭ってきた玻璃に同情的だった。
玻璃が逃げて、行政を頼れない理由があまりにもありすぎたのだ。
しかし刑事の一人は、玻璃がただ売春をして生きてきたにしては綺麗過ぎると疑った。 まず教養があった。勉強もしっかりやっていたらしく、字も綺麗で食事をするのも綺麗に行儀よく食べている。普通、虐待された子はそうした教育はされておらず、どうしてもそうした部分は劣っている。
さらには二十歳で自由になれることを知っていたり、誰かが入れ知恵したにしては正しく法律を理解していた。
外見からこの姿でホームレスをしていたら、絶対に刑事の捜索の網には何処かでかかっていたはずなのだ。
それについて尋ねても玻璃は何処にいたという詳しいことは言わなかった。
「ねー、僕、もうこういうの飽きた。早く、書類とか書いてしまいたいんだけど?」
玻璃は養父母の扱いが酷いことが分かってからは支援団体によって、身の回りの生活を援助されている。けれど、玻璃はそれすら要らない、書類を書いてくれるだけでいいと言って、両親との縁を切りたがっていた。
警察の捜査では玻璃が犯人である可能性は少しはあったが、玻璃が犯人である証拠は何一つもないことで行き詰まってしまった。それでも警察は玻璃に疑いを向けてしまって、玻璃は容疑者としてしばらく警察に呼ばれ続けた。
それは数ヶ月過ぎても続き、とうとう玻璃は弁護士を入れた。
頼んだのは雨宮の知り合いの弁護士で、雨宮とも繋がっているが、雨宮には内緒でお願いをした。
神(かなえ)弁護士は、刑事の執拗な任意同行と未成年の長時間拘束に対して抗議をし、玻璃に対して捜査をする場合は代理人である神(かなえ)を通すように警告を出した。
そうすると警察からの呼び出しはぴたりと止まった。
どうやら事件捜査はやっていると世間へのアピールにやっていた可能性が高く、弁護士からのストップでやっと上層部が二の足を踏んでくれたお陰で捜査を玻璃に向ける必要がなくなった。
それが隣のおじさんこと、跡治邦康の指名手配に繋がったけれど、その跡治が数年前にホームレスとして病死していたことが分かった。
どうやら逃げ出した後、それなりに金遣いも荒かったらしいが、それからすぐにホームレスになり、病気が発見されそのまま治療もせずに死んだようだった。
そのホームレス仲間は、物凄く傲慢だったのでたぶん人も殺してるよといい、時々もう人を殺したことがあるから、一人も二人も一緒だと喧嘩で言っていたと証言する者もいた。そしてやっと跡治邦康の遺留品が発見され、そこから指紋が見つかり、それが呼吸器の内側に残っていた唯一の指紋と一致したという。
それでも玻璃の叔母殺しは、被疑者死亡で解決になるのに十ヶ月もかかった。
玻璃はその捜査が終わった報告を受けた後、養子縁組をしていた養父母に対して、叔母に預けて放置した虐待を訴えられたくなかったら、縁組の解消をするように訴え出た。
どうやら養子に関することで支援団体から資金を貰っていたようで、玻璃と縁組みを解消するとそのお金が入らなくなるので解消を渋っていることが裁判で発覚した。
また殺人事件当初、警察が尋ねてきた時に嘘の証言をしていたことも問題となり、話し合いは玻璃の一方的な有利のままで解消された。
そして玻璃は、生まれた時に付けられていた苗字、上遠野玻璃(かどの はり)として自分の戸籍を取り戻した。
たったこれだけのことに、玻璃は一年を費やしてしまった。
「だから、大人は嫌いなんだ。でも今日から僕も大人だもんな。ああーやだなー」
玻璃はそう言いながらも、支援団体の人にお礼を言って、当面の移動資金を貰った。本当は一人暮らし用に色々やってくれると言われたが、玻璃が行き先はあるといい、神(かなえ)弁護士も知っていることを告げたので、さすがに手を引いてくれた。
玻璃は全ての雑用を片付けると、一年住んだアパートを出て、新幹線に乗った。
荷物は何もない。ただ身一つで帰るだけ。
玻璃は、一年ぶりに同じ繁華街に戻ってきた。
出ていった時と同じように、周りは静かで街が眠っている。
朝九時、不夜城である繁華街は、ところどころにある定食屋が営業をしている。けれど人の姿はまばらだ。あの定食やお食事処は、夜の仕事を終えた人たちが立ち寄る場所で、一般的な人はあまりこない。
そんな街を、玻璃は素のままで歩いた。
通り過ぎる帰宅するであろう夜の住人が、玻璃の真っ白な姿を見て驚いて振り返っているが、玻璃は気にしないで歩いた。
出ていく時はカツラを被ったり、隠れて出かけたけれど、戻ってくるときはもう自由になっているのだから、隠れなくていいのが少しだけくすぐったく恥ずかしかった。
クラブの入り口が開いていたので玻璃はそこから中に入った。
「あ、あれ……? 玻璃くん? え、え」
まず、大掃除をしていた従業員、森越由貴に見つかった。
一番仲良くしていた従業員で、玻璃のことを何度も気に掛けてくれた人だ。
なんでも雨宮のホスト時代の後輩で、店の中の切り盛りを担当している。
誰よりも雨宮が信用している人だ。
「あ、はい、玻璃です」
「え、戻ってきたの? わああ、久しぶりっていうか、頭真っ白だね~」
面白そうに森越は玻璃の髪を見て目を輝かせている。
「うん、元々これ。いつもはカツラを被ってたから」
「あーこれじゃ目立つもんな~、ただでさえ白いのに。あ、店長はさっき上に上がったよ」
玻璃がいなくなってから一年経っているが、森越の様子は全然変わっていなかった。
それが玻璃には嬉しかった。
「え、今日なんかあったの?」
「うん、ダンスパーティーっていうの? 貸切りで派手にね。朝の七時までやってたから、やっと片付けしてんの」
「それはお疲れ様です、じゃ、僕上に行くね」
「はーい、またねー」
森越は明るく玻璃を見送り、仕事に戻っている。
玻璃は二階から事務所側を通って非常口から外に出た。
そこから屋上あたりまで上がり、部屋の前の玄関まできた。
見慣れた景色を振り返って眺めてから、初めてこの部屋のチャイムを押すことに気付いた。
「わ、ここでまだ初めてがあった……」
チャイムを押すと心臓が飛び出そうなほど高鳴り、鍵が開く音がすると玻璃は緊張で頭が真っ白になりそうだった。
「……壮さん」
ドアが開いて、まだ服を脱ぎかけている雨宮が立っている。
「た、ただいま、遅くなりました! 無事、上遠野玻璃(かどの はり)になってきました」
そう玻璃が言うと、雨宮の表情が少しだけ動いてから言った。
「おかえり、お前、上遠野(かどの)って苗字だった?」
「えーと養子縁組解消したんで、一番初めに貰った上遠野(かどの)に戻した」
そういう玻璃は少しだけ大人びた顔をしていた。
背は全然伸びてはいないが、玻璃の髪がすっかり伸びていた。
「上遠野(かどの)玻璃か…………いい名前だな」
少し何か思い出したのか、雨宮が考えた後にそう言った。
「入れ、お前の荷物はそのままにしてある」
そう言って雨宮は玻璃を家の中に入れてくれた。
玻璃は緊張して部屋に入ると、ドアが閉まる瞬間に玻璃は雨宮に抱き寄せられた。
「……玻璃、よく、帰ってきた」
ぎゅっと抱きしめて、雨宮が玻璃の肩に顔を埋めている。
それは泣いているような気がして、玻璃はしっかりと雨宮を抱き返してから言った。
「うん、ただいま」
「おかえり……」
そう言ってから玻璃が面白いことに気付いたというように言った。
「あ、そういえば。僕、壮さんにただいまって言ったことないし、壮さんにおかえりって言って貰ったの、初めてだ!」
玻璃がそう言って笑い出すと、雨宮は妙な顔をして玻璃を見る。
「……そうだっけ?」
「うん、ちなみにさっき押したチャイムも初めてでした! ドキドキするね! まだここに初めてがあるなんて思わなかったもん」
ニコニコとして玻璃が言うものだから、雨宮が噴き出すようにして笑った。
「……はははっお前、本当に変わってないな……はははっ」
これも玻璃にとっては初めての出来事で、玻璃はここに帰ってきたのに初めてばかりに遭遇している。
「壮さん、声出して笑ってる……ははっ」
あまりのことに玻璃が顔を真っ赤にして雨宮を見ている。
雨宮はしばらく笑ってから、玻璃に向かって言うのだ。
「愛しているよ……玻璃。これはこういうことなんだと思う」
急に雨宮が愛を囁きだして、玻璃は驚きで思わず涙が出た。
「え、あれ……う、嬉しいのに涙が出る……何で?」
必死に玻璃が止めようとするも、その目を擦る手を雨宮は止めて唇で涙を吸って止めてくる。
それは恋愛ドラマで見た究極の愛情表現の一つであることに玻璃は気付いた。
「嬉しくても涙は出るらしい」
「……あ、そうか……これか、うん、ドラマで言ってた。僕、嬉しいんだ。壮さんに愛してるって言われて、嬉しいんだ」
玻璃がそう言うのだが、愛しているが初めてではないことは雨宮は分かっていた。
「でも、愛してるって言われて嬉しいの、初めてで……僕も、そうだって言いたくて仕方ないのも初めて……」
「そう、嬉しいね。言ってごらん」
雨宮は柔らかく笑って、玻璃をしっかりと見た。
玻璃は息を吸い込んでから、玻璃は言った。
「僕も壮さんを愛してる」
玻璃がそう言うのに、雨宮は玻璃に優しくキスをした。
玻璃はまるで初めてキスをするかのように胸が高鳴って、また嬉しくて泣いた。
二人は、離れてみてお互いの存在の大切さに気付いた。
玻璃は刷り込みではなく、ちゃんと雨宮を好きになっていた。
雨宮は手放してみて、初めて玻璃のことを愛おしいと思った。
どうして恋人同士が愛を語るのか、やっと二人は理解をした。
愛を貰わずに生きてきた二人が、出会いから六年もかけてお互いの存在の愛おしさを知った。
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