緒方遼介(おがた りょうすけ)はその日、早めに経営しているホストクラブからクラブの経営状況を見るために店に顔を出すことになっていた。店長は雇い、会長となってから仕事は楽になってきたところだった。週に一回店を回り、経営と店の内部を見て回って、状況を把握するのが仕事だ。
クラブ経営を雨宮壮(あまみや そう)に任せ、店長を別に雇ってからは、雨宮の手腕が十分に発揮され、クラブの経営は右肩上がりだ。
ただ最近出回り始めた脱法ドラッグの入手先が、このクラブの近くであることで警察からは警戒されてはいる。しかし、店の外で買ったものを使って店の中で客がそれを使用することはほとんどない。というのも、店で客同士が知り合って店を出た後にドラッグを買いホテルで使用するからだ。
経営は暗いところはないというのが警察の認識になるのに、一年ほど要したが、脱法ドラッグの使用に関しての法律がないため、摘発に至らない。
値段が安いことで学生が手に入れやすい状況や、クラブがあるという環境からか、店は繁盛だけはしていた。そのお陰で、緒方の懐は潤っていた。
十分すぎるほどに潤っているが、緒方の心は満たされてはいなかった。
恋人と別れてから二年経った。
恋人は仕事に生きがいを見つけ、ずっと願っていた海外支社に配置され、夢が実現した。それを緒方に止める権利はなく、あっさりと別れた。その後、恋人は将来を誓った女と結婚して渡米してしまった。
すっかりと切れてしまった関係。長く十年は続いていた関係が、こんなことであっさりと切れるとは思わず、緒方は仕事をやる気がなくなり、忙しかった経営から一歩引いて会長となり、店は雇った人間に任せた。
ホストクラブを全国の繁華街に一軒ずつ持って、さらにはクラブを東京大阪に一軒、同系列には居酒屋まで持つ。繁華街の人間なら緒方の店はよく知っているほど繁盛している。そんな有名人が会長となり、第一線から引いたような立場になって、驚いていたところだ。
まだ三十五歳。立ち上げから六年にしての会長職。
やる気がないと放り出していたのを雨宮という男に任せたところ、全てが上向きになり、それが不思議で興味をまた持ち始め、やっと会長らしい仕事を始めた。
そんな緒方が街を眺めると、大学生くらいの若者が多いことに気付く。繁華街でも外国人が極端に少ないこの街で、日本人の学生が安心して遊びに来られるというのが街の売りだ。
クラブや小さな居酒屋が密集している地域であるから、ホストクラブなどがある繁華街とはまったくの様相が異なる。むしろ緒方が歩いている方が目立って仕方ない。
それでもこの街でそれなりの年齢の人が歩いていると、大概は経営者か売春目的のサラリーマンくらいだ。
そんなところを緒方は堂々と歩く。
店の裏側から入ろうと小道に入ると、数人の人だかりを見つける。
店の裏道は抜け道として使う人がいるが、クラブのある方面では人は滅多に見かけないから、珍しかったのだ。
「離せっ!」
「うるせぇ、黙らせろっ!」
「約束が違うだろっ」
「俺がお前を買ったんだよ、逃げるなっ」
「人を勝手に売り買いするなっ」
三人ほどの男が一人の青年を捕まえて揉(も)めている。青年は必死に抵抗し、どう見ても合意ではない。話の内容からしても怪しいことこの上ない。
緒方は面倒臭そうに溜め息を吐いてから言った。
「うちの店の裏で堂々と人身売買してんじゃないよ」
緒方がそう声をかけると、男たちは一斉に動揺したように緒方を見た。
「関係ないだろ」
一人の男がそう言った。
男は上等なスーツを着た、三十ほどの年齢の美麗な男だ。だが、性格の悪さが顔に出ているのか顔面が歪んで見える。平然と人身売買をする人間だ、相当の闇に手を染めているのだろうが、それでも緒方ほどではないだろう。
「大いに関係がある。それはうちの従業員だ。勝手に持っていくな」
緒方はそう言い、男たちの方へ歩いた。
ホストのような洋装をした緒方だが、美しい彫刻のような顔は、無表情で恐ろしい。久々に駄犬に噛みつかれて苛立ってきたのもあり、挑発するようにウソを言った。
「何勝手なことを!」
そう叫んだ時だった。
「何やってんだ、緒方」
反対側から近道を通ってきたであろう男が話しかけてきた。
四十を過ぎた任侠の男。厳(いか)つい顎、鋭い視線と見た目でただ者ではないと分かる様相の男が部下を三人ほど連れてきたのを見て、三人の男は震え上がった。
緒方の顔は知らないが、相手の顔はさすがに知っていた。
「門井(かどい)さん」
そう緒方が呼ぶと、男たちは捕まえていた青年を放置し、一斉にもう一つの抜け道の方へ逃げていった。
さすがに宝生組(ほうしょう)直参の氷上組(ひがみくみ)若頭、門井秀一(かどい しゅういち)に人身売買の話が漏れるのは怖かったと見えた。
この辺りは宝生組(ほうしょう)直参氷上組(ひがみくみ)の縄張りで、他のヤクザが入り込めない繁華街だ。最近になって緒方のクラブや居酒屋が繁華街を盛り上げてきて、彼らとも繋がりができていた。だから顔見知りだった。
「なんだ、あいつら」
「人身売買の現場だったんですよ。この子は誰かに裏切られたようです」
そう緒方が言って青年の方に近寄って肩を撫でて言った。
「……裏切られた……」
青年は下を向いたまま呟くように言った。どうやら思い当たることがあるようで、納得がいったようだった。
「何勝手に人売り買いしてんじゃねーぞ、おい、さっきの探しておけ」
門井(かどい)が部下に言って追いかけさせる。だが人が多い中で見つかるとは思えない。
「あれは誰か知ってる?」
緒方はそう言って青年に聞いた。
青年はそう言われて、ハッとしたように緒方を見た。
大きなアーモンド型の瞳が綺麗で、茶色の瞳が緒方をしっかりと捕らえた。愛らしい唇が驚いた形になっているのだが、それが誘っているように見えて、緒方の方も驚いた。
美青年、いや少年と言ってもまだいいような容姿に、すっぽりと緒方の腕に治まる体と、何もかもが緒方の好みを外していた。
別れた恋人とは似ても似つかない愛らしい姿なのに、自分の好みですらないはずなのに、緒方は一目で恋に落ちたかのように心が高鳴った。
「……多分、叔父の知り合いだという、折原という何処かの会社社長だったと思います」
「叔父?」
「久松という、母の弟なのですが。……薬を売ってる売人やってて……それでその客だという人が、さっきの折原という人で……」
「なんでそんな客が……まさか君」
緒方がハッとする。
すると青年は緒方が何を想像したのかすぐに察して首を振った。
「売りはしてないです……ただ叔父と揉めていて……叔父の弁護士という加地という人に呼び出されて……」
青年は叔父と母親の財産のことで揉めているのだという。だがこの揉めるというのは、遺産相続のことで、法律では息子である青年だけが相続人なのだが、母親の弟である久松は、自分にも権利があると言い張り、青年を脅してくるのだという。その流れで折原が青年を買おうとしたり、加地がウソの弁護士になったりと、面倒なことに巻き込まれたというわけなのだ。
「……この辺なら知った道だったので、通りかかったら……捕まって」
どうやら、この街の反対側にある商業施設がある辺りが弁護士事務所があるところだと言われたのだろう。そうなると青年は家はこの近くで、この辺りを抜けた方が近道になる。叔父とやらはその辺まで計画して折原に売り払ったというわけだ。
そこまで説明した青年はとうとうボロボロと涙を流して泣き出した。
「どうしたらいいのか、もう分からない……っ」
肉親は他にはいないようで、頼れる弁護士すら用意できない。母親は最近死んで、叔父が甥を売り払うような売人だ。人を信じようとしても誰を信じていいのかもはや分からなくなったのだろう。
「大丈夫、君は驚いているだけだ。ちょっと店で休んでいきなさい。大丈夫、私はこの店の経営者だ。落ち着くまで部屋においで」
緒方はそう言って青年に優しく話しかけ、青年はそんな緒方の服をきゅっと掴んで頷いた。
「坊主、そのおっさんが叔父さんの仲間だとは考えねぇのか」
突然、見学をするだけになった門井(かどい)がそう言った。
それに青年はハッとする。
「門井(かどい)さん、あなたじゃないんだから」
緒方がそう言うと青年を庇(かば)うようにした。
「久松なんて売人、俺は知らねえからな」
「末端まで覚えているわけじゃないでしょ?」
「そう言うなら雨宮の所でもあり得るわけだ」
急に仲間同士だと思っていた緒方と門井(かどい)の雰囲気が悪くなり、青年は焦ったように間に入って止める。
「け、喧嘩はよくないです……」
青年の言葉に、緒方が困った顔をして、門井(かどい)は鼻で笑う。
「確かに俺らが喧嘩してもどうにもなりはしないな」
きっかけが全く関係ない青年のもめ事である。
「……確かに」
緒方もそれに気付いてハッと息を吐いた。
「軽口は許してやるが、後始末は声をかけろよ」
門井(かどい)はそう緒方に言うと、近道を通って通路を抜けていった。三人ほどの部下が後ろについている。その人たちが行ってしまうのを見送ってから緒方は青年を店の中に招いた。
「少しだけお茶と話をしよう」
緒方はそう言って、困っている青年の話の相談を受けてくれると言うのだ。さすがにそれを断れない困った状況である青年はその招きを受けた。
店に入ると、ドンドンとリズムよく音楽が鳴っているのが聞こえてくる。
クラブの音楽というのは、青年は興味はないようで少し驚いているようだった。
「こういう場所に、出入りしたことはない?」
「……あの、普段はバイトしていて……暇がなくて」
さすがに経営者に向けて興味がないとは言えず、本当の理由でもあるバイトの話をした。
「へぇ偉いね」
緒方は素直に褒めた。
青年は少し照れたが素直に喜んだ。今時バイトしていることで褒められたことはないのだろう。
入り口からすぐの階段を上ると、店員の控え室がある。そしてその奥に店長室があった。そこには入らずに、その横にある会議室のような場所に緒方は青年を案内した。
部屋の中は来客用にソファが真ん中にあり、周りには家具や調度品が並んでいる。クラブの接客室にしては真面な部屋だった。ただ高級感はあり、その辺の調度品のツボが数百万しても不思議ではない気配がした。
なるべくそのすべてを目に入れないようにして、青年は勧められたソファに座る。
「えっと……名前を聞いてなかったね」
「あ、そういえば……越智、越智千雅(おち ちか)といいます」
青年がそう名乗った。
「千雅くんか。いい名前だね」
「ありがとうございます」
名前を緒方が褒めると、千雅は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔が優しくて、緒方は一緒になって微笑みたくなった。
久々に心が洗われる気がしたのは気のせいではないらしい。
「それで無粋な話なんだけど、さっきの叔父の話なんだけど、千雅くんも弁護士付けた方がいいよ。当てがないなら俺が紹介してもいいから、絶対付けた方がいい」
「……でも……」
千雅は困ったように首を傾げる。
「お金の問題ならそれこそローンって手もある。何も四六時中頼むわけじゃないし、俺の知り合いだから、怪しくもないよ。ただ警察や大人が必要な時に、弁護士は付いていた方が信用されるってことなんだ」
とにかく千雅に味方がいない。
千雅の話では身内はその叔父だけで、他の親戚とは縁がない。叔父がかなりやらかしたらしく、親類縁者はいない。
「その父親は?」
「昔からいません。母はどうやら未婚だったらしくて……」
「あれ? でも叔父さんって越智って名字じゃないよね?」
「叔父はその越智という名字で色々やってしまったので、結婚して女性の方の名字を名乗っているんです。ですから時々変わるし、今は久松なんです」
よくあるクレジットカードのブラックリストに載ったり、金融業のブラックリストに載るたびに結婚離婚を繰り返し、名字を変えているらしい。
とにかく大問題ばかりの叔父とは、母親が時々揉めてはいたが、金銭的な援助をしたことはないという。それでも母親が死んだ後に問題が起きた。
母親は生命保険に入っていた。もちろん千雅名義にしてあったのだが、それが高額だったのだ。それは母親が払っているわけでもない生命保険が残されていて、弁護士が持ってきたのだという。
ともかく母親からの最後の贈り物だから受け取るように言われ、それを受け取ってから叔父が何処かで聞きつけてやってきたのだという。
なんとか引っ越したりしたが、すぐに行き先を突き止められ、家に上がり込もうとするのを阻止してきたが、偽物の弁護士に騙された。
「あのね、忠告するとね。弁護士は登録の義務があって、調べるとちゃんと本物かどうか分かるんだ。それに弁護士の肩書きをウソで名乗るのは犯罪なんだ。同じ相手が何か言ってきたら警察に行った方がいい。その時のために本物の弁護士が必要なんだ」
緒方はそう言って説明をしてくれ、更に緒方の仕事で弁護士をしている弁護士を紹介してくれた。しかもすぐに会ってくれるといい、会議室で待ってるように言われた。
暫くして、会議室に人が入ってきた。
「緒方さん、こっちにいたんですか……」
気怠(けだる)そうな仕草をしたホストのような派手な見た目の男性が立っている。
「すまない来客中で」
「いいけど、こっちの方の用事は後にする? 明日にする?」
「ごめん、明日にしてくれないか?」
「分かった。……邪魔したね、えっと」
そう言うと男の人は千雅に名前を催促した。
「越智千雅(おち ちか)です。お邪魔しています」
「うん、俺は雨宮。千雅ちゃん、またね」
雨宮はそう言うと、すっと部屋から消えた。
「あれでもここの店長やってて有能なんだよ」
緒方がそう言って笑う。
やる気のなさそうな態度であるが、有能だと言われて意外そうに千雅は驚く。あの雨宮を見て優秀だと思うのは、ホスト時代を知っている人間くらいだ。
「……あれ、それじゃ、緒方さんは?」
この店の何なのだと不思議そうに尋ねられて緒方は答えた。
「オーナー、会長とも言うけど」
緒方はそう言って笑う。
「色んなところを経営してるけど、ここはその一つ」
「凄いですね」
普通、店は一つくらいでも十分だと言うのに、この人は見た目の若さでは計り知れないほど有能らしいと千雅は気付いた。
正直、緒方も雨宮もホスト上がりである。だが、ホスト上がりでも計画性を持ってホストをやっていた人間とそうでない人間ではここまでの差ができるのだという。
「俺はこの世界は全然知らないけれど、緒方さんみたいに親切な人もいるんだなって思えました」
千雅がにっこりと笑って言うのだが、それに緒方は苦笑いしかできない。だって確実に下心があるからだ。この心地いい感覚を失いたくなくて千雅に親切にしている。
「おじさんはいい気になっちゃうから、あんまり持ち上げないでね」
緒方がそう言うのだが、千雅はそれに首を傾げた。
「おじさんっていうよりは、お兄さんって感じなんですけど」
「ははは、嬉しいな。もう三十五なんだよねこれでも」
「へぇ、すごく若く見えてるから、オーナーって聞いて、ちょっとびっくりしてたんです実は」
「ははは、二十代だと未だに言われるのは嬉しいけど、こういう業界じゃちょっと顔としては問題ありなんだよね」
緒方がそう言うので、千雅もなんとなく分かると頷く。
「俺も二十歳超えて、もう二十二歳なんですけど、まだ十代だって言われて未成年として補導しかかったりします……」
「それは災難だ……」
災難ではあるが、前彼氏とあまりにも違う幼い容姿は、緒方には好印象を与え、好ましいとさえ思う。
緒方もまさか自分にこういう容姿の相手に欲情に似た感情がわいてしまうのは驚いたが、欲望に素直に生きても面白いとさえ思えてきてしまった。
さっそく話している間に、緒方が紹介した弁護士が到着した。
「話はざっくりと聞きましたが詳しくお願いします」
そう言って差し出された名刺が何と読むのか分からない名前だった。
神光路。
「……神(かみ)様?」
思わず様を付けてしまうのは日本人なら誰でもそうなる、宗教上の神様のこと。
さすがにその呼ばれ方は慣れているのか、クスリと笑って名乗ってくれた。
「神光路(かなえ こうじ)と申します。以後お見知りおきを」
「はい、神(かなえ)先生」
神(かなえ)は先生と呼ばれてまたクスリと笑ったが、それ以上の訂正はしなかった。先生と呼ばないでくれと言おうとしたのだが、なんとなく訂正するのは無粋な気がしたのだ。
「では詳しく話をしましょう」
そう言って千雅は自分の身の上に起きたことを詳しく緒方と神(かなえ)に話すことになったのだった。
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