raging inferno-04

 葵依はやっとのことで目を覚ました。
「…………いっ」
 しかし身体を動かそうとして体中が痛いのに気付いた。
 運動もしているのに、筋肉痛がある。おかしいとやっと意識が浮上するとその原因を思い出した。
「……くそ……」
 気付いたらあそこが疼いているのが分かった。
 まだ冷めていない熱があるのか、あの形をしっかりと中が覚えている。
 ベッドからあちこちの筋肉痛の痛みに耐えて起き上がった。ベッドに腰を掛けてから体中の痛みを確認して柔軟をするように身体を動かした。
 使ってない筋肉はないと思っていたが、さすがにセックスをする時に使う筋肉は鍛えられてないというところだろう。
「何か、納得いかない」
 そうしているうちにふと葵依は自分の視界が明るいことに気付いた。
 何気なしに見た方向に鏡があり、そこに写っているのが自分と認識するのに本当に三十秒ほどかかった。
「………………え?」
 ハッとして頭を抱え、慌てて鏡に近づく。
「何で……髪の色、抜けて……は? ……え?」
 何年ぶりになるのか。この金髪碧眼の姿は封印していた。コンタクトをする時に見慣れた青でさえ、金髪と重なると印象が違う。
 こんなことをされる謂われはないが、やった相手は誰かすぐに察した。
「……くそ、あの男だな……渡真利蓮(とまり れん)とか言ったか」
 憎らしいほどに忌々しい男、しかも自分よりも強いであろう琉球空手の使い手。
「つか、こっちにこんなに強いのがいるって聞いたことないんだけど……」
 世の中には強いヤツが沢山いるのは知っている。けれど、ほぼ強いヤツは葵依に手合わせを願って道場にやってきていた。全員返り討ちにしたので葵依の強さは武道界ではそれなりにある。けれど、琉球空手の使い手にもあったことがあるのだが、蓮ほどの使い手がいるとは聞いたことはなかった。
「俺が戦っても勝てないのは、榧流古武術の師範代くらいだと思ってたんだけど……」
 榧流古武術は奥義継承者がとにかく強い。元は同じ流派なので系統は似ているが完璧な実践用の彼らには勝てないと思ったほどだ。
 ただそれも奥義継承者に限ったことで、葵依の強さはそこまではある。
 戦ったことはなくても、戦っている姿を見せてもらったら最終的な強さは予想も付く。その奥義継承者の一人、織部寧野(しずの)と実践をさせてもらった時は、足下にも及ばなかったのを覚えている。
 まだ十七歳だった葵依は人生で初の手合わせで負けたのだ。
 そこから命一杯やってきて奥義継承をしてからは負け無しできた。
 勝てない戦いはその人たちだけだと信じていた。
「未熟ものだな……俺も」
 不意打ちでも負けた。自分の強さに自惚れていた高い鼻はぽっきりと折れた。
 だが今は、もう挑戦者の気分だ。十七の時の負けでも感じた、舐めていた自分の気持ちさえも、もう既に入れ替わっていた。
 葵依ははあっと溜め息を吐いたあと、金髪にされた髪をガシガシと掻いてから更に溜め息を吐く。
「これどうすんだよ。明日から会社なのに……染めに行く暇ないのだけど……」
 今日これから帰れたとしても美容院の予約は取れないだろう。しかも染める時間もかかる。
 そうしていると、部屋のドアが開いた。
 朝食を持った蓮が入ってきた。
 鏡の前で仁王立ちしている葵依に少しだけ笑ってから部屋に入ってきた。
「朝飯だ」
 蓮がそう言うと恨めしそうに葵依の碧眼がしっかりと蓮を捕らえて見ている。
「どうした?」
「まずは服を出せ。裸で飯を食わせる気か?」
 腰に手を当てて半分ほど振り返っている葵依がそう言うので、蓮は苦笑した。
 恥ずかしがりもしない。昨日の熱いセックスは何だったのかと思うほどにすっきりした顔をしている。
 仮にも縛られて犯されたというのが分かっているのかさえ不明なほどの開き直りなのか。
「すぐ用意する」
 仕方ないが元々服は用意していたので、それを比嘉に持ってこさせた。
 身体は散々触ったのでサイズは分かっているから、ぴったりと身体に葵依の身体にあった。
 わざわざ黒系のスーツにしてやったが、金色の髪が栄えていて似合っていた。
「何で髪を抜いた?」
 そう葵依が問うので蓮が言った。
「生え際が金髪になってた」
「……くそ、もうかよ」
 蓮の言葉に葵依は舌打ちをする。どうせ染めても二週間もすれば生え際に金髪が出てくるのだ。その上の方だけは自分で染めているらしいが、それでも髪を掻き上げたら結構な生え際が金髪になっていて、見苦しいレベルだった。
「月一じゃ持たないぞ。せめて二週に一回は染めないと持たない」
「シャンプーの時にできる染め用のやつも使ってるのに……」
 そう言いながら髪を気にしているが、もう全体を抜いてから生え際に合わせて染めたので違いは分からないだろう。
「そうされている間、爆睡していたなお前は」
「……う……」
 警戒心のかけらもないと言われた気がして葵依は落ち込む。
 今までこうなったことはなかったし、セックスもしたことはなかったから、余計に今日が酷い形だ。
「まずは飯を食え。それから、橙李がお前のマンションの近くをうろついていたから捕まえてきた。何かお前に話があるようだが、どうする?」
「話があるなら聞く。ところで俺のホテルは?」
「部屋はそのままだ。ここはそのホテルのスイートだ」
「……そうか」
 窓の外を見ると見覚えのある看板などが見える。それでやっと駅前のホテルだと確信が持てた。てっきり何処かの屋敷にでも連れ込まれたかと思っていたがそうでもなかったらしい。
 食事が用意された椅子に座り、食事を食べ始めると蓮も同じテーブルで食べ始めた。
 朝からステーキ肉まで用意されたが、それが塩クロワッサンと合っていて葵依はあっという間に食事を平らげる。その身体の何処に入るのかと疑うようなレベルの食べっぷりに、さすがの蓮も呆れている。
「大食らいだな、葵依」
「タダ飯だろ? なら食うまでよ」
 どうせ払いは自分ではないと分かっているのか平然と言って蓮の肉まで奪った。
「払ってやると言った覚えはないが?」
「なら俺は全裸で部屋から飛び出して泣くだけだ。お前に犯されたーってな。痕跡が何一つ残ってないわけないし」
 いくら綺麗に掃除したつもりでも葵依の身体にはその痕跡が残っているのは確かだ。
 それに葵依の服もまたなくなっているし、下着も捨てた。その痕跡はもちろん残っており、葵依の証言は一致する。
 これだけのことをされて開き直っているのだから、もちろん犯された事実について誰かに知られても平然としているのだろう。そう蓮には予想が付いた。
「分かった、好きなだけ食え」
 蓮が溜め息を吐いて折れると葵依はにこりとして言うのだ。
「このお肉、美味しいから、もう一枚お願い」
 余りに可愛くお願いされたので、蓮は内心喜んでいる自分に気付いてしまい、そんな自分に呆れながらも比嘉を呼んでステーキをもう一枚頼んだ。
「橙李はどするんだ? もう一時間も待っているわけだが」
 あまりにゆっくりとご飯を食べる葵依に蓮がそう言うのだが。
「待たせておけばいい。恐怖を沢山味わえばいい。俺の屈辱に比べれば軽い」
 新しい肉を食いながら言う葵依の目が光っている。
 橙李に関してはどうも良くない印象しかないらしい。
 そのまま三枚目のステーキを片付けた葵依は、やっと腹が張ったと言って蓮に連れられて別の部屋に行く。するとそこには橙李が縛られて椅子に座らされている。
 部屋に入ってきた葵依に気付いた橙李は葵依に泣きついた。
「葵依、これどういうことだよ! 何で俺だけこうなってるんだ?」
 ガタガタと騒ぎ出した橙李だったがすぐに葵依の髪に気付いて突っ込む。
「お前、髪戻したのか?」
「勝手に戻されたんだ、こいつに!」
 そう言って葵依は蓮を指差した。
 こいつ呼ばわりされた蓮は気にせずに橙李を見ている。
 しかし橙李を見てから葵依を見て言うのだ。
「そこまで似てないんだが、日向は何で間違えた?」
「それこそ知らねえよ」
 顔はそっくりであるが、雰囲気があまりにも違っていて、見た瞬間から別人だと感じるほどに葵依と橙李は違っている。当然これまでに生きてきた道が違うので、雰囲気は全く違う。体つきも確実に葵依がしっかりとして細いが無駄に筋肉も付いてないけれど引き締まっている。橙李は無駄ばかりしてきたが若さで何とかなっているタイプで、往年は体型が確実に崩れるような生活っぷりが窺える。
「最初から話を聞いていた人と想像できないほど別人でしたしね……」
 比嘉がそう言うので蓮は確かにそうだったと思った。
 本当に紛らわしいほど顔は似ているが、それに附属する身体があまりにも違っていて、実物を知っていれば間違える人は早々にいないことが分かる。
 更に葵依が容姿を変えてからは、髪の色や目の色も違っていたから、まず葵依と橙李を間違える人はいなかっただろう。


「ああん、橙李君! やっと見つかったのね!」
 日向が部屋にやってきて、橙李を見つけると走ってきて橙李に抱きついた。
「げ、日向……お前、何でここに!」
 まるで毛虫でも見たかのように怯えて震え上がる橙李。それを葵依が見て、ふーんと頷く。
「どうした?」
「あ、いや。橙李が日向さんのことを本気で嫌がっているのは、冗談では済まないことが分かってるから逃げてたってこと」
 葵依がそう言うので、橙李が叫ぶ。
「冗談じゃねーよ、ヤクザを連れてくるとか、絶対おかしいから! 普通の女じゃないよ! 葵依! 助けてくれよ!」
 橙李がそう叫ぶのだが、日向が全然気にしていない。
「普通に振ればいいだろ?」
「振ってるに決まってるだろ! もう百回は振ってるのに、全部無視して寄ってくるから逃げたに決まってるだろ! 自宅までヤクザみたいなのがやってきて、逃げた俺のこと探して追ってくるから、葵依の家まで逃げたのに東京でも変な外国人に追いかけられて、やっと葵依の家に辿り着いたらこいつらに捕まったし!」
 橙李がそう言うので、葵依は蓮に聞いた。
「外国人でも使ったのか?」
「いや、それは俺たちじゃない」
 蓮は本当に使ってないのでそう答えた。
「その外国人って、何処の外国人?」
 葵依が橙李に聞くと、橙李が言った。
「あ、葵依の仕事場の近くでロシア人っぽいのがいたけど、明らかにマフィアの一部みたいに見えて怖かったからすぐ逃げたし、あっちは気付いてないと思う」
 橙李の言葉に蓮は食いつく。
 あり得ない話ではないが、ロシア人のマフィアみたいな人というのは問題だ。それがどこの組織に属しているものかという問題だった。
「ロシア人? 何で?」
 葵依は暢気に聞いているが、蓮は比嘉に言った。
「何処の者か調べろ」
「はい」
 比嘉がこっそりと部屋を出て行くが、まだ葵依と橙李の話は終わっていない。
「知らないけどヤバイってすぐに分かったから逃げたって」
「お前の危機管理能力は、原因がわからないままっていうのが困ったところだよな」
 葵依がそう言うが、橙李は叫ぶ。
「ヤバイもんはヤバイって分かるだろ! 原因とかは後で分かるからいいんだよ! 葵依! 早く、この女どうにかしてくれ!」
「ひどい、橙李君! 私たち、結婚する仲でしょ! 絶対に離さないから!」
「しねえよ! 何言ってんだよ!」
 二人は話合いどころか平行線どころでもなく、世界が歪んで異世界レベルの意味が通じない会話をしている。
「俺じゃなくて、葵依でいいだろ! 同じ何だしよ!」
「違うわよ、あんな常識外れの人なんてごめんだわ!」
 やっと話が噛み合ったかのように葵依の話題になる。
 葵依は天井を見て肩を動かして溜め息を漏らした。蓮はとにかくどこまで話が噛み合わないのかを確かめているようだった。
「葵依の常識外れって何だよ、あの真面目な方がいいだろうが!」
「真面目真面目って、そこに至るまでにおかしい人と一緒になるなんて絶対にいやよ!」
 そう日向に酷評された葵依は、苦笑しか浮かばない。
 そんな葵依に蓮が言う。
「正に女性には常にそう言われてますって顔をしているぞ」
 そう蓮が言うと、恨みがましそうに葵依が蓮を見上げた。
「元々女性には興味がない。だからいいんだが、見た目で寄ってきた挙げ句につきまとった上で言われる言葉は「絶対おかしい」だからな」
 葵依がそう言うと蓮が聞き返した。
「どこがおかしいんだ?」
「常に格闘技のことばかり考えていることらしい。思春期によくある発情しっぱなしの状態でないとおかしいということだ」
「ああーそういうのばかりが引っかかるのか、お前の容姿だと」
「そういうこと。理解の及ばないものをおかしいと言い放ち、私が正してあげると襲ってくるのが女だというのが俺の認識している女という生き物だ」
 葵依がそう言い切ると、蓮が言った。
「……お前も相当複雑な性格をしているな……結婚できないぞ」
「する気は一切ないから気にするな。なのでお前の妹とどうにかなることは絶対にない」
 葵依がはっきりとお断りだと言い切ると、蓮は苦笑する。
 これでもかわいい妹であるのだが、今の女になって男に縋っている妹では、葵依の性格では切って捨てる程度にしかならないらしい。
「ところで俺はいつまでこの茶番に付き合ってなければならない?」
 葵依がそう言うと、蓮がまた苦笑した。
 確かに葵依はもう蚊帳の外の人間になっている。
「確かに、部屋の荷物を整理したから、駅まで送らせよう」
「いや、タクシーを呼んでくれるだけでいい。橙李のことは好きにしてくれ。あと大学にはいかせるように。今年留年が決まると除籍なんだそうだ」
 そう葵依は言うとこの場に何の思いもないとばかりに部屋を出て行く。蓮はそれを見送ってから、もったいないなと思ってしまい、思わず葵依の手に名刺を握らせた。
「何、これ?」
「何かあれば」
「何もないからいらない」
 名刺をもらっても捨てるだけだと葵依が返そうとするが、蓮はそれを受け取らせた。
「またこちらから橙李について連絡するかもしれない。どうせ登録できない番号だろ? 持っていろ」
 蓮がそう言うと、さすがに橙李のことになると非情にはなりきれないのか、葵依は仕方ないように受け取ってポケットに入れた。
「じゃ」
「また」
 さよならも言わずに葵依は一切振り返りもしないでエレベーターに乗って去ってしまう。そんな後を見て、蓮はつくづくもったいないなと思った。
 ここまで相性のいい相手と、格闘技について語れそうなくらいの実力者に蓮は会ったことがなかった。しかも年はそうそう変わらないどころか五歳も年下の強い相手だ。興味がわくなという方が無理な話だった。
 更にあんなに熱い夜を過ごしたというのに、あっさりとした別れをされたら、どうにかして気を引きたいと思ってしまう。
「……まあ、繋がりは切れてはいない」
 橙李という獲物がいる限り、日向が橙李にアタックを続ける限り、僅かな糸が葵依と蓮には繋がっている。
「比嘉、自宅まで安全に見送れ。姿は悟られるな」
「はい」
 蓮がそういうと比嘉はすっと消えていく。
 さすがにこの地で沖縄のヤクザに関わったものを九州の混乱している激戦区で手放しにするのは危険な気がした。さらには妙なロシア人の話もまだ何のことか分かってはいない。
 葵依が言った、橙李の危機管理能力の高さは伊達じゃないらしい。その橙李が関係ないロシア人を危険だと感じたなら、それは橙李に関わることであり、延いては葵依に関わることでもあるのだろう。
 ロシア人がどのロシア人か分からない以上は慎重に行動するに限る。
 九州の長沢原組の組長病死による解散。それに伴う、各組の思惑と共に介入する海外のマフィアによる九州の地での戦争が起こっている。
 沖縄の高嶺会は、九州の南部の攻略に成功し、繁華街の多い北九州を掌握するべく行動を開始している。蓮はその最前線にて行動を開始しており、他の組織とは険悪になっている。この騒動であまり動いていないのが宝生組(ほうしょう)と嵯峨根会くらいで、大阪の如罪組(あいの)は活発になり全面戦争に突入しそうだ。
 ヤクザが溢れた九州では、各地で戦争の火蓋が切って落とされており、警察の動きも活発だ。
 だからと言って警察にも限りがある。その合間に様々な小競り合いが起こっていた中での蓮の動きは、もしかしたら如罪組などを刺激したかもしれない。
 油断させるつもりで身内のことで動いていると思わせておきたかったが、どうやらそうもいかない事態になるかもしれない。
 葵依がいくら強いとはいえ、拳銃を出されれば勝てるわけもない。
 一晩でも肌を合わせたからか、蓮は葵依に情が沸いてしまいどうにかして構いたくてたまらない。
「……どうしたんだ……本当に」
 何かが得られて何かがすり抜けた気がして、蓮は空いた手を握りしめた。



 葵依はエレベーターに乗ると、大きな溜め息が出た。
「……たく、何だったんだ」
 本当にそう言う感想しか浮かばない出来事だった。こんなことがなければ、自分は戦いで負けることもなく、平穏に暮らしていたのだろうと思えたほどだ。
 しかし、負けを知った今は、それすら仕方がないと思えるのは不思議だった。
 ただ二度とあの男に会うことはないだろうし、戦うこともないだろう。
 だって次に会った時は、あの男はもっと強くなっているだろうし、不意打ちで負けたのにあのしつこく再戦を願ってきた様子から納得してないだろうから、もっと強くなるだろう。
 だから負けたくはないし、これからももっと強くなりたいという欲が生まれてきて、葵依は断然やる気も出てきていた。
 ただ少しだけあの男のことを忘れることがないのだろうと思えた。
 肌を合わせた初めての相手であり、戦いに負けた相手でもある。
 そんなのを忘れろというのは無理があるだろう。
 そう思いながらタクシーに乗り込むと、ホテルを見上げた。
 すぐにタクシーが動いていったので、ほんの少ししかホテルは見えなかったが、それでも窓側にはあの男が立っているのではないかと思った。
 駅まではそう遠くない距離をタクシーで移動し、新幹線に乗り込む。
 切符は最初から買ってあったので、それを取り出してふと貰った名刺を切符入れの中に入れ、それを内ポケットに入れた。
 さすがに名刺入れに入れておくと、誰かに見られた時に言い訳ができないので、誰も見ることはない切符入れに裏返して入れておけばなくすこともないだろうと思った。
 新幹線はすぐに出発し、東京まであっという間に移動してしまう。
 東京駅に到着すると会社に連絡を入れる。
「戻りました。今日はどうしましょう?」
 書類を会社に届けた方がいいのかと尋ねると、郵送で送っていいと言われる。
『あの藤宮さんに海外の企業から打ち合わせがしたいと連絡があって……その』
 急にそう言われてしまい、葵依はキョトンとしてから答えた。
「打ち合わせも何も、私、事務ですから……」
『そうですよね……おかしいと思ったんですよ。うちにいる同姓同名でもいるのかと思って調べ直したんですけど、そんな営業はいませんと返したんですが、そしたら何処にいるのか聞かれたので、相手の会社名を聞いてこちらからかけ直すと言ったんですが、そこで電話を切られてしまって……』
 そう営業の社員が言うので、葵依はふと橙李の言葉を思い出す。
 ロシア人っぽい男が会社にいたといい、それが危険だと判断したという話だ。
「多分、間違え電話だと思いますよ。だって事務と取引する会社なんてないでしょうし、同じ名前の人とうちの営業の連絡先が被っちゃってるのかも」
 そう葵依が気にしないふうに言うと、営業の社員もそうかもしれないと思ったようだった。たまにあるのだ。連絡先をまとめていて、間違って書き写ししたことや、名刺ケースを見ながらやっていると上と下の連絡先を見間違って連絡をしてしまうなど、些細なミスであるが、営業ではあるあるな現象らしい。
『そうですよね、よかった。じゃ、書類は郵送でお願いします。確か、藤宮さんは明日から休みを取られているんですよね。営業が迷惑をかけてしまったから特別有休でしたっけ?』
「あ、そうだった。それなら書類は郵送だと助かります。じゃ、速達で届くようにしておきます」
 葵依はそう言って急いで電話を切ると、駅から出てすぐにある郵便局に飛び込んで書類を速達で出した。速達なのでそのまま営業時間内には届くらしい。
 それを一通りやった後は、駅前の喫茶店で昼食を取ってから、自宅に戻るかそれともホテルに避難するか考えた。
 今、髪の毛が完全に金髪なので目立って仕方ない状態で、出社は免れた上に明日から特別有休があるのを思い出した。
 髪をとにかく目立たないように戻すのが先決かと思い直して、そのまま駅前の美容院を検索して電話で今日中に髪を染めることができるか聞いて、できると答えた美容院に飛び込んだ。
 色を抜かれた状態だったので、すぐにカラーリングはできた。
 真っ黒よりはと少し茶色を進められて、それにして何とか金髪からは免れた。
 会社にも出られるくらいになったが、美容院の人はもったいないと言った。
「元々金髪なんですよね? 根元の元来の色が綺麗だから、そのままでも良かったのにねえ」
 そう言われてしまったが、それでも葵依は言った。
「会社で目立つとちょっとアレなので……」
「ああ、お堅いところだと、地毛でもちょっとって言われそうですね」
「そんな感じです」
 そう答えると染めてしまうことに納得して貰った。
 ただ何でブリーチしたのかには、罰ゲームをされたと言うと同情された。
 何とか、夕方には美容院を抜け出したが、一万数千円が飛んでしまい、葵依は違う意味で渡真利蓮のことを恨んだのだった。
「あいつ、絶対許さん……! 今度合ったら毛染め代、徴収してやる!」
 葵依はそう言いながら、駅に向かった。