switch外伝8-1 脳内における静かなる闇とすでにある回答

 いつもの買い物の帰り道。普段なら一本右の通りを通って自宅に帰っていた。この街に住んでおよそ5年。年に数ヶ月くらいしか居着かない上に、ずっと恋人の周りばかりで過ごしてきたから、この街の入り組んだ場所に詳しいわけではなかった。それもそのはずで、この街に昔から住んでいる人間なら知る人ぞ知る細道だった。

 鬼柳は物珍しさからその道を携帯で検索をしてみる。自宅からは数百メートル、繁華街からは一本離れ、密集した民家が建ち並ぶ道は、ここの住人でなければ誰も立ち入らないような場所だ。おかげでお昼を回ったこの時間、周りは非常に静かで木々のざわめきしか聞こえない。

 熱帯夜が続くここ最近では、自然に吹く風も熱風を帯びているが、この道を吹き抜ける風は近場の意外にもその暑さがなかった。
 ふっと吹き抜けた風に鬼柳が顔を上げて見た場所に、見覚えがある建物が見えた。
建物てっぺんには過去、そこに聞き慣れたはずのものが付いていた形跡がある。
 誘われるように近づいて見ると、数人の子供が小さな庭で遊んでいる。

「ああ、養護施設か」
 よくある状況に納得して鬼柳は表側に回ってみる。そこはちゃんとした教会の姿をしていたが、随分とこじんまりとした教会だ。表の扉は今日は開いていて、誰でも入れるようになっていた。
 鬼柳は珍しく興味を惹かれて中に入ってみる。

 小さな祭壇に20人ほどが座ってしまえば埋まってしまう椅子。だがステンドグラスは見事なもので、ちゃんとした宗教画が順番に飾られている。小さい割にはその辺は拘ったものだったので鬼柳の中では好印象だった。

 鬼柳は元々、教会に通わされたこともあり、大きな街の教会は知っている。だがその宗教を信仰はしていない。というより自分の出自を知った瞬間から神など信じてはいなかった。

 だが最近は透耶の影響からなのか、八百万の神という考え方が割に好きだった。透耶の説明だと神道でいうところの八百万の神ではなく、一般的に認識されている方の八百万の神という考え方が好きだというのだ。自然現象や自然物だけではなく、全てのものに神は宿っているという考え方だ。

 透耶がその話の中で大好きなのが、トイレの神様という逸話だ。
 世間一般で流行っている歌ではなく、昔お祖母様に聞いた話。

 神は何処にでも居るというように、当然のように家の中にも神様は存在する。台所の神様やら玄関の神様、押し入れの神様に天井裏の神様、そしてトイレにも神様は存在する。

 で、この家の神様が集合し、最初に行ったとされるのが「誰が何処の神になるか」という神様の居場所を決める話し合いだ。しかし面白いことに神様たちは宴会が大好き、話し合いは二の次だった。だがいつまでも宴会をしていてはいけない。その中で一人の神が全員の居場所を決めることになった。

 「お前は台所、お前は玄関」というように各自の場所を決めたのはよかったのだが、この神、皆を優先させることに熱心だったが自分の居場所を最後まで決めてなかった。そして最後に残ったのがトイレだけだった為、この神様の居場所を決めた神様がトイレの神様になったというのだ。

「だからトイレの神様が家の中で一番偉くて、凄い神様なんだよ」
 透耶は最初に聞いた時は「トイレの神様どんくさい」とトイレの神様を馬鹿にしていた。けれど何か重大なことを決める責任というのはかなり難しいのだということを大きくなるにつれて知っていった。何故、お祖母様がトイレの神様を一番に祀っていたのか理解出来るようになって、透耶はこの話が好きになったという。

 それに世界にはトイレにはお金の神様がいるといい、清潔にしているといいという考え方もあるからそんな逸話があってもおかしくはない。

 色んな考え方が入り交じっている上で宗教信仰はあまりしない日本人には、好まれる考えなのだろう。昨今の海外では大して神様なんて信じてはいないし、信仰すらさほどしてない人間が無神論者では信用されないという理由で何らしかの宗教を信仰するという本末転倒な行動に出ているらしい。

 鬼柳には首を傾げたくなる事例だ。透耶には信仰する神はいないし、信仰している宗教もない。しかし神様の存在は信じているし、神に祈ることだってある。

 鬼柳も透耶と出逢ってからは珍しく神に祈ったりもした。何かを信じることは何かにすがりたくなるものなのだろう。

 この時の鬼柳には特に祈りたいことはなかったのだが、いざ神を前にして考えることも出てくる。いつもは忙しい時間を過ごしているし、考えることは山ほどある。その中で自分自身と透耶のこと、考えることを一時的にやめていたことが浮かんでくる。

 暫く座って考えていた。今日の買い物で生ものはないし、急ぎでもない。少しくらい遅れたとしても携帯があるし急用なら連絡がくるし、幸い近場にいる。

 最近は一人でいることがなくなった。よく言われるのが昔ほど壁がないという台詞だ。仕事場にいても常に一人だったし、誰かに何かを言ったこともない。家に戻っても、何処にいても常に一人だった。その方が余計なことを考えないでいいから楽だったし、誰かの思いを遮断することで自分を守れると思った。

 けれど透耶と出逢って人と関わることが増えた。自分がずっと関わらないようにしていた人の人生が流れてくるのを感じることが多くなった。透耶の影響なのだろう。透耶がしているように他人にもしてしまうことがある。大抵驚かれるし、気持ち悪がられる。何か企んでいるのかと率直に聞かれることもある。

 それから数年経った今では、鬼柳が恋人と暮らし始めたと聞くと大概納得されるくらいの変化はしているらしい。
 鬼柳自身も透耶と出逢う前の自分と今の自分を比べてみると大きく変わったと思っている。

 基本的に透耶以外にそれほど優しくしようとは思ってないし、しようとも思わないが、透耶に関わる人に透耶の相手として相応しくないと透耶が悪く言われないようにという努力はした。その結果が今であれば問題はない。

 しかし、透耶にしたことを今考えると幾ら必死になっていたとはいえ、そこまでする必要はなかったのではないかと今更思うことがある。
 透耶はそのことを嫌だったけど仕方ないと考えて許してくれている。
 それが今に繋がっているのであれば、鬼柳がした全てを許すというのだ。

 透耶は強いと思うことがよくある。
 透耶はそこに繋がる何かがあるのなら、それは仕方ないと考える。つまり妥協するという意志が強いのだ。

 基本的にプライドは高い方だ。元々生まれ持ったモノもあるし、育った環境もあるが自分が何を言われていてもさほど気にしないけれど、自分の中を侵害するような行為に出る人間にはきっぱりと拒絶を突きつける。

 鬼柳の場合自分のテリトリーに入られるのがことのほか嫌ったし、透耶にもそういうところがある。他のことは妥協するからそこから先に入らないでくれという部分があるのだ。そうしたことをはっきりと言うし態度にも出る。他の人間からは敬遠される性格でもある。所謂プライドが高くて親しみがないという理由でだ。

 鬼柳が透耶に親近感を抱くのは、そうしたプライドの高さと透耶の少年時代の孤独が理解出来るからだ。
 鬼柳は周りに不満をぶつけることで孤独を感じないようにした。透耶は耐え、周りの希望に添うことで孤独を感じないようにしていた。

 見ている限り透耶は弟に思われ、家族に愛されてはいた。けれど、透耶の飢えは癒されることがなかった。全ての義務を終えた時、透耶の中には何も残らなかったという。自分の実力で掴んできたはずのものは与えられたものだと思えた。そして自分の力で得たはずのその先さえ、透耶は掴もうと思わなかった。

 心が限界だったと透耶はその時のことを言う。
 心の不安定に引き摺られるように、透耶は自分でも記憶がないようなところへ一人で向かっていた。それがあの町であり、鬼柳と出逢った場所だ。もしそこに透耶がこず、いや鬼柳がいなかったとしたら、透耶はあの時諦めて死んでいたかもしれない。

 狂うというのはそういうことで、透耶は自分が狂っていることに気付いてなかったらしい。いくらなんでも海に入ったことを覚えて無くて、自分が泳げなかったことすら忘れるというのはあり得ない。実際正気の時の透耶は、未だに海に入るという行為はよほどの覚悟がないと無理であるし、一人の時は砂浜に入るということすらしない。自分を絶対的に守ってくれる誰かがいないと、そういうことはしないのだ。

 そういうことが解ってくるとその時の状況がすでにおかしいことを意味している。
 つまり透耶が心の奥底で死のうと思わない限り、海に入ること自体が異常だった。
 それもそのはずで心がすでに限界で色んなことが状況把握できてなかったのだ。

 その時透耶が欲しかったのは、自分一人をただ欲してくれる人。透耶の環境や透耶の家柄や、透耶の経歴さえいらないと言ってくれるような不可能な存在。

 たぶん透耶の家系のせいなのだろうが、自分だけを見てくれる人間がいなければ、とても耐えられなくて生きられないように出来ているのだろう。
 碌な死に方をしないと言っていた中には、狂って死んでいる人間も多かった。正常に育って寿命を迎えた人間は、基本的に誰かを強く愛して慈しんだ人くらいだ。
 誰かを愛して誰かを必要としない人間は次第に狂う。
 透耶の叔父が書いたという論文にはそう結論付けられている。

 透耶が心の限界だったと認めている以上、その狂いをまったく正反対にするような力でなければ透耶は例え鬼柳の側にいたとしても狂ったままだったはずだ。

 透耶にとってきっぱりと撥ね付けられるくらいの思いならきっぱりと切っていた。けれど鬼柳ほどの熱情を感じたことはなかっただろうし、鬼柳の必死さはそれまで見たこともないものだった。自分だけに向ける瞳は他人には見せないし、優しく差し出される手は透耶以外には向けられることはなかった。
 鬼柳ほどの常識のなさや、理解出来ない行動は、狂った透耶にはちょうどよかったらしい。
 つまり透耶を正常に戻したのは鬼柳であるといって過言ではないということだ。行方不明の間、透耶は鬼柳の手の中で生まれ変わったともいえる。
 それ故に、透耶の周りは透耶が選んだのならと鬼柳を認めた。

 それに光琉が言っていた、あの時透耶が死んでいたとしても、光琉は「やっぱり」と納得していただろうと。ただ一旦向けた心配性な部分が透耶の遺体くらいという気持ちになって捜索していたようなものだ。

 両親の死や祖父の死以来、透耶は自分の義務は今与えられたことだけだった。それが終わってしまった後は、誰が何を言ってももはや聞ける状態ではなかった。誰も透耶が求めているものを与えられなかったからだ。

 透耶にとって鬼柳は、自分の前に降ってわいた奇跡だという。無茶苦茶な奇跡だが、透耶はそう思っているらしい。
 そこで最初の神がどうたらという話に戻るのだが、ふと言われた一言に不安になった。
 透耶が鬼柳を神のように慕っているだけではないかということだ。

 昔、神に祈り縋り、愛していると尊敬し、信仰したそのモノ。
 決してそうは見えないはずの態度を不安に思ったのは、鬼柳の中にある不安からだろうか。その疑問は透耶を愛せば愛すほど深くなり、不安に思うほど自分の心が不確かになってきたのだろうかと疑って、一旦考えることをやめたものだ。

 愛が深くなると不安になるという感覚は初めてでよくわからない。
 自分では消化出来ない内容であるし、透耶には言えない内容だ。
 まさか透耶が向けてくる愛に疑いを持っているなどと言えるわけがない。

 何より恐いのは、そこで透耶がそうかもしれないと思い、自分から去ってしまうことだ。今更透耶を手放せと言われ、はいそうですかとは絶対に出来ない。
 一人に戻ることが、あんなに切望したはずの一人になることが、心の底から恐いのだ。
 自分が変わったことによって、一人という環境が恐い。

 けれど、透耶が自分を思っていることが、本当に愛情だけなのかという不安もある。 色々矛盾しているが失いたくないのに、本当のことを確かめずにはいられない。
 鬼柳はそんな思いが自分の中に蓄積されているのを感じていたけれど、誰かに相談したところで理解されるとは思ってなかった。しかし答えを知りたいと思っている。
 神に問うたとて、その答えに納得出来るのだろうか。

「何か、お悩みですか?」
 急に声をかけられて鬼柳は現実に引き戻された。
 ずっと視線は十字架に向けたままだったので人の気配に気付かなかった。
 驚いて振り返ると、牧師が一人立っていた。年は50あたりだろう。白くなってきている髪が所々にあった。

「随分長い時間、そうしてらっしゃいますが、何かありましたか?」
「……いや、ここで話していい内容ではないらしい」
 牧師の姿を見た鬼柳はそう言った。

 牧師が出てきたということは、宗派はプロテスタントだ。この新教はカトリック以上に同性愛を認めない方針が多い。教会で同性愛者が結婚式という報道があるが、ほとんどがカトリックなのだろう。もちろんそれを認めている宗派があるのは知っているが、いくら教会に通ったことがあるとはいえ、そこまで詳しく知っている人間はそうそういない。
 鬼柳も一般的な知識しかないので、牧師ということはと判断したのだが、牧師は笑って鬼柳に言った。

「ああ、貴方は噂の方ですね。大丈夫ですよ、私の宗派は貴方方の差別はしてません」
「そうじゃなくて……まあいいか。そこまで突っ込んだ話じゃないしな」
 同性愛を認める宗派ではあるが、基本的にキリスト教はセックスをしないことという条件でしか認めていない。子供が望めないのにセックスをするということは快楽のためにしていることなので駄目ということらしい。

 そのことが解っていて、それでも尚教会に入ってしまったのは、昔の癖を思い出しただけのことだろう。向こうでは教会は身近であったし、神に祈ることはしなかったけれど、何となく通ったこともある。日本に来てからはまったく来たことはなかったが、アメリカにいる時はふらっと入ったりしていたものだ。

 なんとなく静かな空間がそこにあり、考えをまとめるのに邪魔が入らないという点では教会は適した場所だったからだ。黙っていれば何かを祈っていると思われ、誰も邪魔しようとはしないから都合がよかった。

 時計を見るとここに入ってから約一時間ほど過ぎていた。どうやら長い時間考え事をしていたようで、そのせいでよほどの悩みがあると判断されたらしい。
 まあ相談する相手はいないし、この牧師ならある程度理解した上でそれなりの回答が得られるかもしれないと判断して鬼柳はそれを話していた。

 完全な回答なんてあるわけじゃないが、それに向けて何かヒントでも得られればと思っただけのことだ。
 鬼柳がさっきまで考えていたことを大体話し終わったところで牧師は笑った。

「これは、随分と深い愛なのですね」
「まあ、それは認めるが」
 所謂幸せすぎてなんだか恐いという昼ドラマにでもありそうな話なのは仕方ない。

「ですが、貴方の方も相手の方を神扱いなさってませんか?」
 そうストレートに言われて、鬼柳はふと考えた。

「貴方のお話を聞いていると、相手の方は貴方と同じようにただ愛しいと思う気持ちからの行動のように見えるのですが、そんな相手の方を貴方が尊敬して愛してもいる。しかしそれ以上に崇高な存在としてあがめているところがあるように思えるのです」
 それは否定は出来ない。ある意味透耶教の信者である。
 こくりと頷いたところで牧師はまた笑った。あまりに即答だったのがおかしかったのだろう。

「では、貴方が相手の方から神扱いされても文句は言えませんね」
 そう返されて、それもそうだと頷く。
 自分がそう見て欲しくないくせに透耶をそう見ているのでは本末転倒だ。

「確かにそうだな、不公平なことを言っていたらしい」
 そのことについては、人のことを言う前に自分を見直せというもっともな回答が得られて満足してしまった。だが他にもある不安。促そうとして牧師を見ると続けて話し始めた。

「愛しすぎて不安というのはよくあることです。それを失うことは地獄に落ちるような気分なのでしょう。ですが人は環境や影響によって心が変わったりするものです。些細なことが原因で相手の嫌なところが見えたりして失望する。ですが、貴方方の場合、お互いに与えられた分相手に返してもいる。それ以上にして返している。しかし返して貰うものが大きいと人は案外不安になるんです。これ以上に大きなものを返せるのだろうかと」

「それはある。俺は透耶に愛して貰う分、ちゃんと愛せているのだろうかと思うことがある」
 大きくなりすぎる愛は不安にもなる。透耶を疑っているのではない、鬼柳は自分がそれだけの愛を返せているのだろうかと不安になっていただけのことなのだ。

「納得が出来なければ、相手の顔を見るといいです。お互いが鏡です。相手が笑顔でいるということは、貴方がそれだけの愛をちゃんと返している証拠です。そして貴方にも同じことが言えます。貴方が笑っていれば、相手の方にもその思いは伝わっているのではないですか?」 
 確かに透耶が笑顔でいると安心する。そう約束して一緒にいる。ずっと笑顔でいられるようにと願って、透耶を愛してきた。
 そのちょっとした隙間は、鬼柳が透耶と離れている間に訪れたのだろう。

 何のことはない。自分の中にある不安は、透耶に会えなかった時間分蓄積され、消化されなかった黒い部分が、あろうことか透耶を疑うというくだらないことに捕らわれたままだったのだ。

 自分の中にあの時の自分の行動を今更責める部分があるから、余計な考えをしてしまったのだろう。あんな酷いことをした自分を許すという透耶――――――。

「全て許すという透耶の心が広くて不安になった……」
 鬼柳がポツリと漏らすと、牧師は問う。

「それは無条件に何もかもをですか?」
「……無茶苦茶怒った後に、散々すねてから」
 思い出して少し笑ってしまった。
 透耶は許すとは言っても、それ以前に散々文句を言ったし、本当に嫌なことをされたら口も聞いてくれないどころではない。
 反論も何もなく許すと言っているのではない。透耶が反論したりそれなりのことをしたから最後に許してくれるだけなのだ。無条件ではないし、昔のように諦めた妥協ではない。

「過去、それも透耶が知らないことは……二度としないならいいとは言ってたな」
 ふとそういう風に苦笑していたことを思い出す。散々やっておいてなんだが、過去のことで透耶が怒るのではないかと少し不安だったこともある。その辺はあまり突っ込まれては困るなと思っていたら、透耶は大して突っ込まずに済ませている。
 聞きたい内容ではないし、過去の出来事を一々怒っていたら切りがないと呆れたのかもしれない。

「神は沢山のことを試練とし、それを乗り越えたものには奇跡をみせる。貴方はその方と出逢って奇跡を見た。運命の出会いというのがあるとしたら、まさに奇跡と言える」

 奇跡的な確率で自分たちが出逢ったことは納得出来る。同じ東京に住んでいたとしてもあの町であの場所で出逢わなければ、意味がなかったと言える。普段の透耶だったらきっと警戒されて近づけなかっただろうし、そもそも鬼柳も傷心でなかったら透耶に狂うこともなかった。素人には手を出さないと決めていた信念さえ吹き飛ばすほどの危うい魅力が透耶にあった。そうした偶然が重なった上でのことなのだ。

 あの日を奇跡の日だというのなら、そういうことにした方がいい。

 面倒くさい説明はいらないし、そうした方が透耶の中ではきっと価値がある日になるはずだ。ただある意味、人生最悪の日でもあるのだが。

「胡散臭い奇跡を信じているわけじゃないし、ここの神に祈ったことなんてそれほどあるわけじゃないが、ちょっとした偶然が重なった結果は気に入っている」
 鬼柳がはっきりとそう告げたのだが、それでも牧師は笑っていた。

「どうですか? 少しは楽になられましたか?」
 そう問われて鬼柳はハッとする。さっきまで暗く悩んでいたことは、今では綺麗になくなっている。別段牧師が答えを出したわけではなく、鬼柳も完全な結論を出したわけでもない。

 ただずっと透耶が示してくれていた態度や投げかけてくれていた言葉が、今しっくり噛み合ったというべきか。案外、こんな不安など透耶にぶつけた方が明確に答えが得られたのではないかという結果だ。

「なんのことはない。俺の悩みなどとっくに透耶が全部解決してくれてたんだ。やっぱり俺はここの神には祈れない。懺悔するなら透耶にしないと問題は解決しないってことだしな」
 鬼柳が晴れ晴れとそう言い切ると、牧師はやはり笑っていた。

「そうですか。それはよかった」
 そう言われた瞬間だった。

「恭みっけ」
 急に透耶の声がして鬼柳は驚いて振り返った。

 鬼柳が振り返ってみると、透耶は一瞬笑顔を見せたが、すぐにしまったという顔をして慌てていた。

「ご、ごめんなさい。邪魔しちゃったかな?」
 どうやら鬼柳を見つけて声をかけたが、側に牧師がいたことに気付いて何か話していたのではないかと思ったらしい。
 鬼柳は牧師に少し頭を下げて礼をすると、ドアの外にいる透耶に向かって歩き出した。透耶はきょとんとしていたが、立っている牧師に頭を下げてから近づいてきた鬼柳の腕に腕を絡めてきた。

「どうやってここにきたんだ?」
 鬼柳が自分の居場所を知らせてなかったので透耶に聞くと、透耶はにこりとして携帯を出して見せた。

「ほら、恭が前に使ったって言ってたGPSのやつ。どうやって使うのかと思って、恭探すのに試してみたんだ。なんかスパイモノみたいで面白いね」
 透耶は面白いおもちゃを手に入れた子供のようにはしゃいでいる。鬼柳はなんだか嬉しくなって透耶の頭を撫で、びっくりした透耶が顔を上げたところでおでこにキスをした。

 すると透耶はにこりと笑って「えへへ」と言うだけだ。
 何があったのかとは聞かないし、教会で何をしていたのかも聞かない。けれどあそこが教会であることは地図に載っている。鬼柳がいる場所が教会という透耶の中では意外なところだった上に、すでに2時間ほどそこに居たので心配になったらしい、と想像出来るから面白い。

「知らない道に教会があったんでふらっと入ってただけだ」
 鬼柳がそう言うと透耶は首を傾げて見上げてくる。本当にそれだけなのかと探っているようなので鬼柳は言った。

「透耶は仕事してたし、家事もやることやったし、買い物も生ものないしって思ってうっかり座って時間潰してたら牧師に捕まった。さすがに牧師をどうこうするわけにもいかないんで適当に返事してたらこんな時間だ」
 鬼柳がそういうと透耶はぶっと吹き出して笑う。

「笑うことはないだろう。透耶が迎えに来なかったら牧師の夕食時まで俺は軟禁だったろうな」

「恭でもさすがに牧師様に何かするのは気が引けるんだ」

「そりゃ、小さいころは散々世話になったからなぁ。その時の習性というか習慣が抜けないのさ」

「えーと、牧師様は偉いから?」

「その時の牧師に何か言うと全部じじいに筒抜けでな。しかも牧師が絶対に知らないはずのことまで知ってて、それで神は全て知ってらっしゃると言われてから戦々恐々。実は二人が知り合いで結構な頻度で連絡取り合っていたって解るまで本当に牧師が恐かったんだ」

 鬼柳の意外な子供時代のエピソードに透耶は目を丸くしていた。鬼柳の子供時代の想像が出来ず、まだ写真すらみたことがない透耶であるが、鬼柳が進んで子供時代のことを話すのは、もっぱら鬼柳が自分が母親に捨てられたと思っていた頃の話ばかりで、それ以前の鬼柳が何も知らなかった時代の話は初めてだ。

「嬉しいな。そういう話、もっと聞きたい」
 透耶はあまりの嬉しさに鬼柳の顔を見て微笑んでいた。
 目が合って鬼柳は目を見張った。

 ずっと幼い子供のように笑っているのだろうと鬼柳は思っていたが、意外なほど穏やかに笑っていて驚いた。毎日透耶の笑っている顔は見ていたと思う。けれどここまで穏やかな笑顔を見るのは、初めてだったかもしれない。よく見ているようで見逃していた部分だ。  

 そう青年期の五年だ。透耶は最初に会った頃とは少し骨格も違ってきていたし、顔つきも幼さが抜けて、青年特優の美しさがにじみ出ている。知らない間に成長しているのだなと気付かされて、鬼柳は目を細めて透耶を見ていた。

 透耶は割合女顔だったが、早くに成長した光琉に似てくるのは当たり前だ。あげく透耶の三十代なら透耶の叔父という見本がいたので期待大である。
 ただ綺麗な人だという印象だけは変わらない。

「帰ってご飯食べてから」
「えー、じゃあ早く帰ってご飯食べて、お風呂も入って」
 穏やかな笑顔はそれっきり消えて、いつもの透耶の顔になったけれど、たぶんまた昔話をすればあの笑顔が見られるだろう。

 見守っているつもりでも離れている時間が長いこともあって、透耶の成長を少し見逃している部分があることが解った鬼柳は、もう些細な闇には捕らわれず、透耶の些細な変化に気を配るようにしようと心に誓う。
 それになんとか誤魔化せたかとホッとして息を吐いた。その一瞬の気の緩み。

「あ、忘れてた」
 そうしたところで先へ歩き出していた透耶がくるりと向きを変えて戻ってくると、鬼柳の襟首を捕まえて引っ張り、唇にキスをする。

「まさか、それで誤魔化せたなんて思ってないよね?」
 離れた透耶の顔がニヤリと笑っていた。
 きっと自分が透耶を問い詰める時の透耶の気分というのは、まさにこんな感じだったんだろうなと思った。

 くそ、やっぱ駄目か――――――と。
 独占欲が強いのは何も鬼柳だけではないのである。