switch外伝6 We can go9

 榎木津透耶が鬼柳恭一に頼み事をされたのは、ヴィクターのお墓参りに行った帰りだった。
 車の中で鬼柳が言った一言だ。
「透耶、ちょっとだけお願いがある」
 いつになく真剣な口調で鬼柳が言うので透耶は首を傾げてそれを聞いた。
「鬼柳家に一緒に行って欲しい」
 その言葉に透耶は一瞬何を言われたのか分からなかった。
 鬼柳家に?と透耶が不思議がるのは当然だろう。このアメリカへ来ることで鬼柳がそうした予定を組んでいたことはなかったからだ。綾乃のコンサートのことやちょっとした知り合いに会ったりする予定はあったし、それが済んでしまえば気軽に観光(透耶には取材みたいなものを)して、一ヶ月の休暇を終えるはずだった。
 透耶には鬼柳がまったく実家のことを口に出したりないのは、無意識のうちに避けているのだと思っていた。透耶も一度は実家に寄った方がいいのではないかと考えたりしたが、自分がそれについていけるわけもなく、口にしない鬼柳の気持ちも分かるだけに、言い出しにくかったのもだった。
 その鬼柳が急に思い立ったように言い出すのだから、その必要性があることは考えるまでもない。
 ただ一緒にという言葉が引っかかるところだ。
 鬼柳が透耶と同棲をし恋人同士であることは鬼柳の父親も知っている。
 その父親が再婚というより、初婚をしたのは鬼柳が家を出た後だという。そんな複雑なところに透耶が行ってもいいのかと透耶が悩むのは当たり前だろう。
「俺、一緒でいいの? あ、ほら、恭のお父さんは知ってるだろうけど、そのお嫁さんは知らないんでしょ?」
 透耶がそう確認をすると、鬼柳は少し考えて答えた。
「いや、結婚する時の条件で親父は俺のことは話してあると言っていた。そもそも親父が結婚しようが俺には全然関係ないことだし、気にするのは向こうの家くらいのものだろう。で、結婚したってことは俺のことには干渉しないと納得して結婚したんだろうとは思う」
「そう、なんだ。じゃあ、邪魔にならないように大人しくしてる」
 鬼柳の言葉を受けて透耶はそれなら仕方ないと頷いた。
「ただ、分かっていてもちょっと嫌な気分になるかもしれない。そういうことがあったら、透耶、黙ってないで俺にすぐに言えよ」
「うん、分かった」
 鬼柳が申し訳ないという顔をして透耶の頬を両手で包んで言うから、透耶はすんなりとそれに頷いていた。
 この二人の関係を万人に受け入れて欲しい訳じゃない。ただ静かに暮らしているのだから、そこら辺は少しは見逃して欲しいくらいの気持ちでいた。鬼柳の知り合いや透耶の友達はみんな寛容な人が多く、みんなが応援してくれていたから、それだけでありがたいことなのだと透耶は思っている。
 みんながみんな認めてくれてるわけではないから、ある程度の透耶なりの覚悟はあった。
 鬼柳の実家は、ニューヨーク郊外の高級住宅街にある。
 昔からそこに住まいを構えていて、祖父が仕事で家を出てからは仕事場もそれほど離れた位置ではない鬼柳の父親が相続して暮らしている。鬼柳が生まれた時には祖父はそこに住んでいなかったそうだ。
 なので結婚した今では、その家はちょうどいい環境にある。
 大きな門や整備された大きな道、歩いている人やジョギングしている住人も見かけたが、透耶がエドワードに連れて行かれた鬼柳の隠れ家だった住宅街とは雰囲気も住人の服装もまったく違っていた。
 ここは高級嗜好の人たちが昔から住む地域で、治安はかなりいいのだそうだ。学校もバスで通える場所に作られていて、品のいい住人たちの子供が通っている。
 透耶にとっては十分興味がある場所だ。ニューヨークの街は観光したが、こういう住宅街は別の意味で透耶の脳を刺激する。作家としての興味はもちろん、自分の知らない世界を垣間見れるのは貴重な体験だ。
 鬼柳の仕事が仕事だから、一緒に海外なんてのも初めてだったし、こういう機会でもなければ、自分は立ち入ることは出来ない。そんな場所に堂々と入れて透耶が興奮しないわけがない。
 流れる景色を窓に張り付くようにして目に焼き付けているのは、鬼柳はいつも透耶と日本国内を旅行するのとは違うことは分かった。
 アメリカという大きな国の印象はテレビや写真、映画などでしか知らない典型的な日本人としての反応以上反応で鬼柳は苦笑しながら透耶の様子を伺っているだけだった。
 正直、透耶を実家に連れて行くのは嫌な気分だった。もう実家とは10年くらいまともな連絡をしていないし、15年も実家自体には帰っていない。人生の半分しか過ごしてない場所は、鬼柳の鬱屈した思い出しか残っていない。懐かしめと言われても懐かしむには、もう月日が経ちすぎている。
 行くのは嫌ではない。ただ透耶が一緒というところが問題なのだ。
 一人なら問題を済ませてさっさと帰ってしまえばいいのだが、透耶がいるとそう簡単に事が済むわけがない。それを分かっていて向こうが仕掛けてきたのだから、はっきり言って鬱陶しいくらいだ。
 大体、鬼柳がそれを問題にする必要はなかったし、そもそも関係ないの一言で済むことなのに、向こうはだったら透耶に全部話すぞと脅してきた。
 それはちょっと待って欲しかった。
 鬼柳が鬼柳家からきっちり戸籍を抜いて、ただの鬼柳恭一になってからにして欲しかったのだ。
 こっそり籍を抜こうと準備していたら向こうに勘付かれてちょっとした問題が発生した。
 そこに透耶はまったく関係ない。なのに口を出してくる相手。
 そもそもまったくの赤の他人に口出しされる謂われはないが、納得するように説得しろと言われて、さっさと籍だけ分けておけばよかったと後悔する羽目になったのは鬼柳が自分の存在自体をあまり重要とは考えていなかったことが発端だ。
 鬼柳にはこの事はただ面倒なことを今回一気に済ませてしまおうと軽い気持ちで起こしたことだ。
 まさかそこに赤の他人、しかも1回も会ったこともない人から待ったがかかるとは予想もしていなかった。
 そして何をどう説得すればいいのか、少し鬼柳は途方に暮れていた。
 それは透耶を前にして「あんた赤の他人だから口出しするな」と言えるようなものではない関係だからだ。
 住宅街の一等地に鬼柳家はある。
 少し丘になった場所を上り、門に到達する。門番がいるのはここらではこの辺りくらいで、それだけ誘拐を警戒している証拠である。
 その門を通って玄関まで到達するのに、約百メートル進むと家がやっと見えてくる。その大きさは鬼柳や透耶が暮らしている家とは大きさが倍以上違ったし、透耶の実家である京都の家よりも豪華で西洋風の建物の迫力を見せつけてくる。
 透耶は唖然とその様子を眺め、改めて鬼柳家というのがどれだけのものかを感じていた。
 大きいな……うちより規模違うし、なんか華やかだし……。
 透耶は鬼柳に促されて車を降りた。その目の前には執事が二人いる。
「お帰りなさいませ、恭一様」
 執事が懐かしそうな目で鬼柳を眺めた後、深々と頭を下げてきた。それに鬼柳ははっきりと言った。
「サイモン、帰ってきたわけじゃない。少し邪魔をする」
 鬼柳の言葉に執事はハッとして申し訳ありませんと頭を下げた。
 サイモン・アルフォードは鬼柳が生まれる前から、この家を取り仕切っている。本当は宝田がその役目をするはずだったが、宝田が鬼柳の直属の執事になったので、彼は80歳になった今でも現役で執事をしている。宝田がこの家を取り仕切っていた時期はお暇していたが、その後宝田が鬼柳について家を出た時にまた呼び戻され、現在は後続の執事の教育をしているらしい。
 サイモンは小さい時の鬼柳しか知らない。そして鬼柳が出ていった後のことも余り詳しくないらしい。 ただ事情だけは知っていたので、鬼柳が家を出たことを知った時は、やはりな気分だったようだ。だから宝田が失意のうちに執事をやめ、日本にある鬼柳家の家を管理する役職に就くことになったと聞いた時は、自分が舞い戻って宝田の後続を育てようと考えた。
 その後続である若い執事は鬼柳を見て頭を下げていたが、似ても似つかないこの家の長男に少し戸惑っているのがうかがい知れた。
 本物の長男が、ワイシャツにジーンズという軽装をしているのにびっくりするのは当然かもしれない。事情があって家を出た長男であるが、それなりにやっていると聞いていただけに、この家に似合わない格好がどうにもこうにも気になるところだろう。
 その隣にいた透耶の方がきっちりとしたスーツを着ていたから余計に気になる。
 そんな視線を構いもせず鬼柳はサイモンが案内をする居間に上がり込んだ。透耶はおっかなびっくりではあったがなんとか表情を顔に出すことはせずに鬼柳の後について行った。
 通された居間には、父親はいなかった。まだ仕事の時間である午後だ。居るのは現在のこの家の主人一成の妻である。
 妻のアイリーンは、綺麗な金髪の女性だった。派手なワンピースを着ていて派手なメイク。宝石類もめいいっぱいつけて、ゆったりと椅子に座っているのを見て、鬼柳は内心でははーなるほどと納得した。
 確かに美人ではある。だが、ただ派手だなという印象しかない彼女の顔は、鬼柳の顔を見るやにこやかに微笑んだ。それも人を誘惑するようなそんな視線を寄越してだ。
 しかし鬼柳はそんな視線には慣れていた。昔散々見た視線だ。
「ようこそ、恭一さん、お帰りさなさい。初めまして、私が貴方の義母のアイリーンよ」
 そう言うとアイリーンは鬼柳に体を寄せてきて頬にキスまでした。
 やり過ぎだ、と鬼柳は思う。腕に無理に当てる脂肪の固まりがわざとらしい。
 鬼柳は相手が満足する前にさっと体をずらして、後ろにいた透耶の肩を抱いた。
「こっちは透耶だ、俺の恋人で同棲相手。透耶、こっちが義母のアイリーンだそうだ」
 そう言ってやると透耶は頭を下げて自己紹介し、アイリーンに挨拶をした。
「まあ、よろしくね、透耶さん。ここには好きなだけ居ていいのよ。恭一さんの家だから、貴方の家だと思って頂戴」
 アイリーンの言葉に透耶はにっこりとしただけで返事はしなかった。その視線が鬼柳を見上げてきた。困惑しているのも分かる。
 当たり前だろう、アイリーンは透耶が差し出した握手の手をとうとう取らなかったのだから。
 これで額面通りに歓迎されているとは思わない。透耶はこういうことはいち早く事態を察知する。他人が自分たちをよく思っていないと感じるのは透耶の得意とするところで、好意よりも相手が嫌がっている嫌っているということだけは人一倍気にする質だ。
 目が語っている。
 ここに来る前に言った、不快な思いをするかもしれないという言葉より、一体何考えてるの?という鬼柳に対する問いかけの目だ。
 ああ、一波乱どころか、この家で大騒動が起こりそうな予感がヒシヒシする。
 そのもめ事の中心にいるのは透耶ではなく、鬼柳だ。
 面倒くさいなと鬼柳はふっと息を吐いて、透耶をソファに座らせて、アイリーンが語る今の鬼柳家の話を聞き流していた。
 

 鬼柳家には現在、アイリーンが生んだ子が二人いる。
 アイリーンは25の時にこの家に嫁ぎ、55歳になる一成とはある意味家同士の結びつきが深いのだろう。家の自慢が自分の自慢でもあるような女性だった。
 子供は5歳の長女、4歳の次男。鬼柳が戸籍を抜かなかったので本当は長男であるが、次男扱いの男の子がこの家を継ぐことになりそうだ。
 二人も子供が出来たことは十分彼女が家の勤めを果たしたことになり、彼女も誇りに思っているらしいのは話の端々から感じることが出来る。
 その家庭円満の話に頷きながらも透耶はどうしてだろうと思っていた。
 幸せそうな家庭、家族、彼女が自慢に思っている環境、全てが揃っていると思えるのに、何故彼女はこうまでも自分に敵意をむき出しにしてくるのだろうか?という疑問だ。
 ただの同性愛者が許せないというようなものではなく、嫌悪感は感じているようだが、彼女の主張がこの家に透耶がいることすら許せないということのみのようなのだ。
 そんなに不快感を一瞬にして与えてしまったのかと思うが、時折見せる彼女の鬼柳に対する視線の意味を透耶が分からないわけがない。こういう視線で鬼柳を見る人が多いのは隣にいる透耶が一番よく知っている。
 だが、おかしいではないか?
 彼女は鬼柳の父親と結婚していて家族もいる、それなのに、今日初めて会っただろう義理の長男にそんな秋波向ける意味が理解出来ない。
 自分が嫌われることは慣れているし、疎まれる理由も理解出来る。だが、この秋波の意味を理解しようとするとお家波乱を意味する。
 それにだ、鬼柳がこの秋波に気付いてないのはおかしいのだ。ここまであからさまで透耶でさえ首を傾げる状態を鬼柳が分かっていないはずがない。
「ねえ、うちの子たちとも仲良くして欲しいのよ。ああ、そろそろ帰ってくる頃よ。お兄さんが居るって分かってからあの子たちちょっと浮かれてね。透耶さんのように綺麗な人もいるから、舞い上がってしまうかもね」
 ああ、チクチクする。胸に棘が刺さっていく感じがする。
 正直、面と向って「お前のような薄汚い人間、家に居て欲しくないわ!」と怒鳴られた方がマシだ。
 アイリーンは鬼柳に家族の自慢をしてみせた後、必ず透耶を忘れてはいないわよと付け足すように話すのだ。
 その親切という名の毒針が、アイリーンが透耶の名を口にして誉めるたびに刺さってくる。
 彼女の高いプライドというものが、透耶の名を口にするたびに毒のように響いてくる。
 一体、彼女は何を恐れているのだろうか?
 ここには居ない誰か向けた怒りは一体なんなのか?
 透耶にはとうとう答えを見つけることは出来なかった。