switch外伝6 We can go7

「うーん、まぶし……」
 意識がちょっと浮上したところに瞼を閉じていても入ってくる光に透耶は否応なしに目を覚ますことになってしまった。
「悪い、起きたか」
 カーテンを開いたのは鬼柳で、別に透耶を起こそうとしたわけではなかったようだ。
 眩しくても眠い時は透耶は眠ったままであるし、昨日も疲れていたから起きないだろうと思っていた。しかし透耶はノソノソと布団からはい出してきて、ベッドの上に座る。瞬きではなく、目をゆっくり開いては閉じを繰り返している。
 そしてまた目を開いたところに、鬼柳の綺麗な笑顔が飛び込んでくる。
「おはよう、透耶」
 朝の光りに照らされた鬼柳の顔を見ていると自然と顔が笑顔になってしまう。
「おはよう、恭」
 ため息を吐くように返答されて、鬼柳は笑いながら透耶の額にキスを落とす。
「毎朝俺の顔見るたびに、透耶は俺に惚れ直してるんだな」
 いきなりそう言い出した鬼柳に、透耶は馬鹿と返してバスルームに飛び込んだ。
 もう、朝から何言ってんだか……。
 だが事実であり図星だったから余計に恥ずかしかっただけだ。
 シャワーを浴びて体を洗い、バスローブを着て部屋に戻ると、鬼柳は新聞を読んでいた。
「何読んでるの?」
 透耶がそう言って鬼柳に近づいていくと、鬼柳が顔を上げて新聞を見せる。
「あら……綾乃ちゃんだ」
 新聞の音楽欄に綾乃が写真付きで紹介されている。どうやらあの会場には大手新聞記者も居たらしい。 日本から来た奇跡と紹介されているのを読んで透耶はホッと息をついた。記者は綾乃を高く評価している。CDも聞いていたらしく、その紹介も一緒にされている。
「あーなるほど。こういう理由でCDが先に発売だったんだ」
 透耶はやっと納得した。
 普通、CDにするほどの理由となると、コンサートで評判だったからコンサートの音源などが録音されたりする。そうするのが当然の流れである。しかし、綾乃のCDは三ヶ月前に発売されていた。エドワードやジョージが何の計算もなくCDを作るはずはなく、何かあるだろうと思ってはいた。
 その理由が今はっきりしたわけだ。綾乃のCDはコンサート後の評判を聞きつけた人が簡単に音源を確認する為に必要な材料の一つである。
 最初のコンサートはほとんどエドワードやジョージの音楽通たちを集めた披露会みたいなものだ。だがそこの客は耳が肥えている。はっきり言って一番の難関である場面なのは、昨日のコンサートだったのだ。これさえ乗り越え評価が得られれば、綾乃の今後のコンサートは一般人にも聴きに行こうかという気分にさせるはずだ。
 そして新聞という広告を使った作戦。これで一般人にもピアニストとしての榎木津綾乃の名前は浸透していくはずだ。そんなに誉めるならCDくらい聞いてやろうとする層も取り込める計算だったのだ。
「よかった」
 透耶が本当に嬉しそうにそういうから鬼柳も笑っていた。
「だな」
 そう言って透耶を引き寄せて唇にキスをした。軽く啄むようにしてると透耶が鬼柳にもたれかかってきた。
 ゆったりとした久々に静かな時間。そうやって寄り添ってお昼までを過ごした。
 そう思ってたいたのだけど。
 ドアがノックされる音に鬼柳が反応して、ドアを開けて誰か確認した。
「どうした」
 鬼柳の忌々しそうな声に透耶は入り口の方を覗いた。
 そこには忙しいはずのエドワードが立っている。しかも笑っている。
 エドワードは鬼柳をちょっと呼び寄せて何か耳元で言っている。その言葉を聞いたとたん鬼柳が信じられないという顔をして聞き返した。
「まさか」
「私が案内してきた。今はセラが相手している」
「お前……何やって」
「会社に来たんだ。どうしてもお前に話があると言ってる」
「今更……」
 鬼柳はそう呟いていた。
 その人物と話したのは、そう透耶と出会った年のことだ。電話で自分の戸籍のことでかけただけ。その時、鬼柳は、自分は死ぬまで鬼柳恭一でいいと言った。それにその人物はそうかと返しただけであった。あれから5年。その人物も結婚をしていたはず。今更自分のことで何かあるとは思えない。
「今更だから何か話があるんだろう。そうじゃなければ直接ここに来ていたはずだ。わざわざ私を通したのは、ワンクッション起きたかったんじゃないか? お前と直接会ったところで逃げられると予想するだろう」
 エドワードがそう言ったところで、鬼柳の後ろにいる透耶に向って挨拶をした。
「やあ、透耶。ちょっと恭を借りてもいいだろうか?」
 そう言われて透耶はキョトンとする。
「え?」
 どうしたんだろうと不思議顔をして、歩いて入口まで来る。
「恭に客が来ていてね、それで透耶は私と一緒に観光へ行こうか?」
「え? 恭にお客さん? へ? エドワードさんと観光?」
 エドワードがこういう誘いをしてくるということは、透耶がその場に居ない方がいいという客なのだろう。透耶はそうすぐに察して、部屋の中に戻っていった。

 鬼柳はまだ思案顔のままで、エドワードが透耶を誘い出したことに気付いていない。普段なら速攻にそれを止めるかして暴言の一つでも吐くのに、その様子もない。

 透耶は後で話して貰えるだろうと思って、とりあえずエドワードの言う通りに行動した。荷物を軽くまとめて肩からかけるバッグに詰めると、外出着に着替えて入り口に戻った。

「恭、お客さんに会ってきなよ。せっかく訪ねてきてくれたんだから、ね?」
 透耶がそう言うと、鬼柳はハッとしたように顔を上げた。
「……透耶、その格好、どこ行くんだ?」
 やはり、さっきの話を聞いてなかったらしい。
「うん、俺、エドワードさんとちょっと出かけてくる。恭はお客さんと会う。いいね」
 ポンポンと肩を叩いてそう言うと、もの凄く嫌そうな顔をしている。
 そんなに嫌な相手かい……。
 だがエドワードがそんな意地悪をする必要はないし、今日は会社で忙しいと聞いていたから、わざわざ自分を連れ出すようなことも普段ならしないはずだ。これは鬼柳にとって必要なことであることは、エドワードの登場が証明しているようなものだ。
 それはきっと透耶の知らない過去、そしてまだ出会ってもいない相手だろう。
「いや、透耶は部屋で待っててくれれば、話はすぐ終わるし、何もエドと出かけることはないだろう」
 鬼柳はそう言って透耶の腕を掴んだ。
 透耶はそれを見て、また鬼柳の顔を眺めて言う。
「だからね、恭がアメリカに居ないと会えない相手なんでしょ? そんな人がわざわざ時間作ってきてくれてるんだよ。それに適当に済んじゃうような話じゃないかもしれないでしょ?」
 透耶がそう言うと、やはりそういう相手だったらしく、鬼柳は反論をしなかった。

「俺は大丈夫、エドワードさんがついてるし、SPの人もいるし。ね?」
 透耶がそう付け足すと、鬼柳は深いため息を漏らして頷いた。
「分かった。透耶の言う通りにする。エド、変なところに連れて行くなよ。後、終わったら電話する」
 渋々な返事をして鬼柳は透耶の腕を放した。
「分かった、終わったら電話してね。じゃ、行ってきます」
 透耶がにこりと笑って鬼柳の首に腕を回して頬にキスをすると鬼柳も透耶の頬にキスをして送り出してくれた。
 鬼柳は部屋の前で透耶を見送っていた。透耶は一度振り返って手を振って、鬼柳も手を挙げていた。
 ホテルを出ると、エドワードが乗ってきたという黒い車が止まっていた。
 エスコートされるようにして透耶が乗り込むと、エドワードが隣に座った。
 SPの人たちが慌ただしく車に分乗して、出発となった。
「そういえば、どこ行くんですか?」
 透耶が行き先は聞いてなかったなと思い、エドワードを見ながらそう聞くと、エドワードはニヤリとして言うのだ。
「面白いところに連れて行ってあげよう」
「面白いところ、ですか?」
「そう、透耶にはとても興味深いところだと思うよ」
 エドワードは実に楽しそうにそう言って、それ以上行き先を言わなかった。SPたちは行く場所を知っているようで、エドワードが指示するまでもない。

 何処に連れて行かれるのか透耶はワクワクしながら窓の外に流れる、異国の風景を堪能した。
 信号で止まるたびに横断歩道を渡る、様々な国の人たち。ほとんどの人は国籍はアメリカだと思うが、見た目ではそうではない人も混じっていて、さすがアメリカだなと思う。東京にいても外国の人はよく見るが、ここは規模が全然違う。
 風景も何もかもが壮大で、透耶はビルの上の方を眺めたり、歩道を歩いている人を眺めたりと、目移りばかりしてしまっていた。
 ここが鬼柳が育った国なのだと思うと余計に感慨深いものになる。
 そういえば、鬼柳も透耶の生まれた京都の町を興味深げに眺めていたなと思いだし、あの時の彼も今の自分のような気持ちになっていたのかもしれない。そう思うとちょっと面白かった。
 そうした百面相をする透耶を横目にしながら、エドワードも久々に訪れる場所のことを思っていた。
 あれは、10年前のことだ。
 あの場所は鬼柳が処分する予定だったのをエドワードが無理矢理引き受けて、その後、何故か処分することが出来ずにいる場所だ。
 車は大きな通りから、片方一車線の場所に入り、段々と周りのビルが低くなってくる。近くには公園があり、そこで子供たちが遊んでいるのが見える。
 観光じゃないなとふと透耶が思ったのは、ここが観光客が入るような場所ではない、本当にここに住む人たちが暮らしている住宅街であることに気付いたからだ。

 車の通りはそれほどなく、大通りからは離れた場所。
 そこの一角に車が止まると、SPが出てきてドアを開けてくれる。ここがエドワードが透耶に見せた場所だった。
 透耶は何も言わずに車を降り、周りを見回す。
 歩道には主婦や子供が楽しそうに歩いていて、ちょっと驚いたようにこっちを見ている。
 それは明らかに自分たちが異質な存在であることを示している。
 エドワードは透耶が思い存分周りを堪能しているのを黙ってみていた。
 ここは低所得者などが暮らす、低賃金で借りられるアパートなどが建ち並ぶ住宅街で、エドワードのような高級スーツを着た男がくるような場所ではない。場違いなのは周りの住人の目がありありと語っている。
 ここに来るのは、およそ5年ぶりだった。

「透耶」
 エドワードがそう呼びかけると、透耶は振り返った。
 顔にはここに何が?と書いてある。けれど聞いては来ない。
 エドワードは透耶に手招きをして呼ぶと、先に歩き出す。透耶は遅れないようにちょっと走ってエドワードの隣に並んだ。
 エドワードが目指していたのは、二十メートル先にあった5階建てのアパート。かなり古く、消防法は大丈夫か?と言いたくなるような感じに傷んでいた。
 よく映画で見るような古いアパート。隣の喧嘩が聞こえてきたり、廊下を歩いている人の足音が聞こえてきたりという雰囲気だった。サスペンスなんかだと、ここに有名人の遺体が見つかって、謎が謎を呼ぶという出発点のような感じに見えた。
 そこのアパートに入ると、二階へと上がった。そしてキィを取り出すと、一つの部屋に透耶を案内した。
 部屋に入ると、かなりほこりっぽい。
 周りを見渡すと、部屋に入ってすぐに廊下があり、途中にユニットバスがあり、部屋が一つ。その奥にはリビングとキッチンがくっついた部屋があった。

 部屋には小さな家具が残っていて、床にはカーペットが敷かれていて、それもかなり古くなっている。片隅にちょっと大きなソファがあって、テーブルは小さなものがある。キッチンを見るとそこには何もなく、ただただ埃が積もりに積もっている。
 掃除もしてないし、そもそもエドワードさんが使ってるわけでもないし……ここなんだろう?
 透耶がそう思ってエドワードを見ると、エドワードはにこりとして言った。
「ここから恭は日本に向ったんだ」
 そう言われて透耶はハッとする。
 確か、鬼柳は自分の父親が用意した家に住みながらも、隠れ家を用意していたと言っていた。それは宝田執事にも秘密にしていて、在学中にバイトをする傍ら、アメリカから日本に行くのに必要な荷物を用意し、それを隠す場所にアパートを借りていた。
 そして準備が完了したのが、卒業の日。どうしても身につけておかなければならないものを最後にここに送り、そしてその足で日本へと向ったのだ。

 だが、鬼柳の性格からして、この場所を処分というか、返却してから出て行きそうなものなのに。そう透耶が不思議そうな顔をするとエドワードが語り出した。

「本当は恭が始末までしていくつもりだったんだが、急いでいたんだな。日本に行ってから鍵やら契約書やらそのままこの部屋に置いてきてしまったのに気付いて私に連絡をしてきた。私は恭が日本へ行くことは知らなかったし、こんな秘密の部屋を用意していたことも知らなかった。洗いざらい喋らせて、納得したから始末は請け負った。だが――――――ここを処分する気分になれなかった」
 エドワードは当時を思い出しながら静かに話す。透耶はそれに耳を傾けていた。
「どうして?」
 透耶が初めて問うた。何故始末出来なかったのか。
「そうだな。本当に恭が居なくなったことを受け入れられなかったんだろうな。それに日本に行ったとしてもカメラの仕事で成功出来るかも分からなかった。だから、もしもの為にここは残しておこう、せめて帰る場所くらい残しておこうと思ったんだろうな」
 そうエドワードが言う。透耶はああと納得した。
 鬼柳は家を捨て、これからの全てをカメラだけに頼って生きていかなければならない。この国に戻ることになったら、それは鬼柳家、それも鬼柳が嫌でどうしても我慢が出来ない家しか残っていない。
 エドワードはその時になった場合、鬼柳が自分を頼ってくれるなら、ここだけは帰る場所として残してやろうとしたのだ。
 黙って日本へ行ってしまった鬼柳、そしてその時に自分さえも頼ってくれなかった鬼柳をどうやって忘れればいいのか分からなかったのもあるだろう。
 どんどん遠くへ飛び立っていく鬼柳をエドワードは止めることは出来なかった。
 この家だけが唯一の繋がりのような気がしたとしてもそれはおかしなことではないだろう。
「とまあ、最初の方は愁傷なことを思っていたが。あの男が何かで失敗したところを見たことがなかったから面白かったのもあったかもしれない」

「……は?」
 それはどうだろう……エドワードさん。
「そうして10年だ。結局、恭は戻ってくることは一度もなかったし、もう日本から戻ることはないだろう。だからここは契約を解除して手放そうと思ってな。最後に透耶に見せておこうと思ったんだ」
 エドワードは最後の最後にここを透耶に見せておこうと思っていたのだ。もう二度と持ち主が戻ることはない場所。思い出に浸るのも最後だ。

「ありがとうございます。ここ見せてもらって……すごく嬉しかったです」
 透耶はそう言って頭を下げていた。
「恭の帰る場所は透耶が待っている場所だ。ここはもう必要はない」
 そう真剣に言われて透耶は微笑んで返していた。
 鬼柳が戻る場所は透耶がいる場所。それは鬼柳がいつも言っている言葉だからだ。
 エドワードと透耶はその場所を後にした。
 もう二度と来ることはない。訪れることもない場所。
 でもそこは鬼柳が旅立った場所。
 鬼柳はもう忘れているだろう。でも透耶は最後まで覚えていようと思った。
 鬼柳が何を思ってそこに居たかを、エドワードが何を思ってそこを見せてくれたかをよく覚えていようと思った。