switch外伝6 We can go21

 怒濤のロス観光のはずだった。
 さっきまでうじうじと悩んでいた透耶が速攻で準備して部屋を飛び出して行くと、玄関で鬼柳とヘンリーがいるところに出くわした。

「あれ、ヘンリーさん?」
 透耶が首を傾げて声を掛けると、ヘンリーが透耶を見つけて笑って手を振っていた。鬼柳はかかってきたらしい携帯に出ているが、無言だった。

「一週間前からこっちの学会にも顔を出してたんだ」
 ヘンリーがロスにいる理由を言うと透耶は納得してお疲れ様と言った。

 ヘンリーはアメリカに渡る機会が出来た時から、こっちの学会関係者に顔を出して回っているのだという。ヘンリーが学会関係者と知り合いだというと年齢や日本を活動拠点にしてる時点で誰もが不思議がるのだが、実は医学関係では論文で有名なのだそうだ。

 色々聞いてみると、こっちの関係者に嫌気が差して、当時知り合った日本人医師を頼って日本に活動拠点を移したらしい。だがヘンリーが友人のところに顔出すたびに、強盗が忍び込んだように伝達が回り、日本へ行く時に世話になった人たちのところに顔を出さなければならなくなったらしい。全米のあちこちに散っている専門家たちばかりだから、ヘンリーはこの一ヶ月ほど移動に次ぐ移動ばかりだった。

「やっとお役ご免になったところだったんだ。鬼柳さんにメールしたらこっちに来てるって言うから、ちょっとだけ寄ってみた。これから観光だって?」
 ヘンリーは邪魔だったらここで休ませて貰おうと思っていたようだが、それを鬼柳が止めた。

「悪い、ヘンリー。透耶に付き合って観光してやってくれないか。今日一日でいい」
 鬼柳が携帯を切って振り返ると大いに不満だ不満だという顔をして渋々そう言い出した。

「どうしたの?」
 透耶は鬼柳を見上げたが、鬼柳は眉に皺を寄せたままで渋々言った。

「呼び出しだ。誰だが知らんが、俺がこっちに来てることを言ったらしい」
 また鬼柳の知り合いかららしいが、そこに透耶を連れて行きたくない様子だ。

「会わなきゃいけない人なのか?」
 ヘンリーが不思議そうに聞いた。鬼柳が透耶を放って置いて会いに行く、しかも会わせたくない相手となると、気になってくる。

「……俺はめちゃくちゃ会いたくない」
 鬼柳が最高に嫌そうに言うので、透耶は首を傾げてしまった。確かに鬼柳にはアメリカで会いたい人はいないようだが、そうは言っても向こうが会いたがっているパターンがもう何回も続いている。

「というか、もう20年会ってない相手だからな。今更何の用だって話だ」
 鬼柳はぶつぶつと文句を言いながらも、出かけるらしい。20年も会ってない相手なのに、鬼柳が会いたくないという相手なのに、その呼び出しを無視出来ない相手というのが透耶にも気になるところだが、鬼柳は相手の目的が分からないので透耶を連れて行きたくないようだ。

「透耶、今日はヘンリーと出かけてくれ。終わったらすぐ行くから。というか、すぐ終わらせて駆けつけるから」
 鬼柳が真剣に絶対に連れて行きたくないと言っているので、透耶はそれに頷くしかなかった。
 タクシーで厳しい顔で出かける鬼柳を見送って、透耶はヘンリーを見上げた。

「一体、誰に会うんだろうね?」
「誰だろうね?」
 二人で首を傾げてみるが、鬼柳のアメリカ時代の知り合いなど知らない二人には想像もつかないことだった。

 とりあえずヘンリーとロスの街並みに出てみた透耶。ニューヨークとは違った雰囲気のアメリカを目に焼き付けようと必死にあちこちを見ては、観光ガイドをしてくれるヘンリーの説明を真剣に聞いた。
 鬼柳がこの場に居ないのは寂しいが、あれだけ嫌々に出かけた鬼柳が楽しんでこいと送り出してくれたのだから楽しまないわけにはいかない。
 だがそれでも一緒にいたかったのは隠しきれない。

「透耶、そんなに張り切って回ることはないよ。俺とじゃ楽しくないんだろ?」
 ヘンリーが先を行く透耶を呼び止めてそう言うと、透耶は立ち止まった。

「ヘンリーさんと回るのも楽しいよ、でも……」
 そう言いかけたところ、目の前に設置されたベンチに座っていた老人が大声で文句を言い出した。

「まったく! うちの付き人は何処へ行ったんじゃ! 年寄りを放っておいて平気とは、最近の若者はなっとらん!」
 ベンチに座っている老人が大声で喋ったのは日本語だった。

 杖をついてそこに手を乗せ厳しい顔をしている。彫りは深い方だが、顔は典型的な日本人。真っ白な髪にたっぷりとした口髭。そして着ているものは着物ときているから観光で連れてこられたのだろうが、どうもその着物がかなり良い物であるのは透耶は見た目だけで分かってしまった。

 自分の祖父とよく似たような有名染め物だったから分かっただけだが、その着物を着る人間はかなりの金持ちだけだ。
 透耶はすっと老人の隣に座って、その老人に尋ねた。

「どうかされたんですか?」
 透耶が笑顔で話しかけると、老人は透耶の顔を見て一瞬だけ驚いた顔をしたが、相手が日本人だと分かったのかふうっと溜息を漏らして言った。

「見てわからんか。置いてきぼりを食らったのじゃ」
 老人がそう言ったので透耶は大人の迷子かとふっと気が遠くなりそうだった。

 どうやったら迷子になれるんだろうか。これだけ大きな声で文句を言うような老人だ。ちょっとでも付き添いは離れまいとして絶対に目を離さないだろう。ここは海外だ。老人一人でいれば危険すぎるのはわかりきっていることだ。

「ホテルの名前や場所は覚えてますか? よかったら送りますよ」
 透耶がそう申し出ると、老人はふんと鼻を鳴らした。

「横文字など覚えておるわけなかろう」
 ばっさりと覚えてないと言われた。

「メモとかは?」
 わずかな望みにかけてみたが、やはり。

「そんなものは付き添いが持っておるものじゃろう。わしが持っておっても意味はない」
 はいはい、ばっさり。
 いかにも金持ちのお爺さんだ。

 透耶はどうしようかと迷っていると、ヘンリーが透耶の肩を叩いて耳元で言った。それも英語で。

「透耶、どうする? このまま放って置いたら犯罪に巻き込まれそうだ。けど付き添っていても相手方が見つけてくれる可能性も少ないかもしれない」
「どういうこと?」

「このお爺さん、1時間くらいここにこうしていたみたいだ。さっき通った時も座ってたから」
 ヘンリーは、ここへ透耶を案内した時にちらっとこの老人のことは覚えていた。日本人だったし、着物だったのも手伝って、珍しく記憶に残っていたらしい。

「え……じゃあ、もう1時間以上もここに?」
 それは老人も文句を言いたくなるだろう。本人はこれだけ分かりやすいところに座って、向こうが見つけてくれるのを待っていたのだから。老人の杖からも想像出来るようにそれほど遠くではぐれたわけでもなさそうだ。

「うん、そろそろ日本の大使館辺りに知らせた方がいいかもしれない。お爺さん、かなりのお金持ちでしょ? 誘拐されたかもしれないと身内が騒ぎ出して駆け込んでいるかも」
 その可能性は高いだろう。警察に駆け込んでも日本人とはぐれたから探してくれではこっちの警察は動いてくれない。それなら大使館を通せば話は早くなる。
 この老人のように金持ちであり、旅行会社などは使ってなさそうな旅行客が困った時に駆け込むなら大使館だろうとヘンリーは思ったのだ。

「じゃあ、とりあえず大使館に話を通して置けばいいかな」
 そう話し合っていると、老人がジロリと透耶とヘンリーを見た。

「お前たち、まさかわしを誘拐しようなどと考えておるのか? わしはここを動かんぞ!」
 老人は透耶たちがこそこそ話していることで何か疑いを持ったらしく、この場を動くものかとしっかりと杖を掴んで脚を踏ん張った。

「あ、いえ、そうじゃなくて……お連れさんが探して大使館あたりに捜索願でも出してないかと思って」

「そんなところに世話になるつもりはないぞ! いや、そう言って連れ出して仲間を呼び出して誘拐するつもりなのじゃろうがそうはいかん!」」
 透耶が何とか話を繋げようとするも、老人は意固地になってここを梃子でも動かないという姿勢に入ってしまった。

「…………ヘンリーさん……どうしよう?」
「……なんだか、とても頑固なお爺さんだね……よし俺がなんとか説得……」
 ヘンリーが透耶と変わって説得しようとしたのだが、老人は席を立とうとした透耶の腕を掴んで叫んだのだ。

「そのアメリカ人をわしの側に近づけるな!」
「……へ?」
 腕を引っ張られた透耶は驚いて老人の方を振り返る。

「お前が隣に座っておれ。お前は日本人じゃろ」
「あ、はいそうですが…………」
 どうやら老人はここで出会った人間は信じられないが、日本人である透耶と離れるのも嫌なようだ。英語が飛び交う道ばたにあるベンチで一人で座っているのも不安で、そこに透耶が日本語で話しかけたのでホッとしてしまったのだろう。しかし、ここで透耶と離れたら日本語の会話が出来なくなるし、探してくれているはずの付き添い人が見つけてくれるまでまた一人になってしまうのだ。

「分かりました。俺が隣でその隣に彼に座って貰ってもいいですか? 立ちっぱなしじゃ彼も疲れてしまうので」
 透耶は座って少し老人の方へ詰めると、開いている隣にヘンリーを座らせる許可を貰うことにした。

「構わん」
「ありがとうございます。ヘンリーさん座って」

「え、透耶……まさか」
「迎えの人が来るまでか、お爺さんを大使館まで送るまではどうしても不安で離れられないよ」
 どうしても放っておくことはできないし、ここで待っていれば付き添い人もいずれやってくるかもしれない。
 それに鬼柳がいない観光は少しだけ気の抜けた感じがしていたから、ヘンリーには悪いが観光は明日に回すことにした。

「そうなるんじゃないかと思った……まあ、透耶なんとか説得して。俺が日本語で話しても無駄かもしれない」
 ヘンリーがそう言って座ると、老人が文句を言う。

「こそこそと英語を使うのをやめい!」

「……はい、すみません」
 透耶は慌てて日本語に切り替えた。ここ最近アメリカにいる影響で通常の会話が英語になってしまっていた。なのでヘンリーと話している時も英語になってしまっていた。双方どっちでも即座に切り替えられていた為、注意されるまで自分たちが英語を日常語に使っているのに気がつかなかった。

「名は何という」
「榎木津透耶です。お爺さんは?」
 透耶が名乗って聞き返すと老人は渋々名前を言った。

「…………淳一」
 下の名前かい。
 そこは普通名字で来ないか? とヘンリーは思って老人を見る。

「淳一さん? いい名前ですね」
 透耶が笑顔で老人の名を呼んでみると、老人はハッとしたような顔をして透耶の顔をじっと見つめている。

「どうしました? 淳一さん?」
 老人が固まってしまったので透耶が心配になってもう一度呼びかけてみると老人は何かを呟きだした。

「…………志帆さん……おお志帆さん!」
 老人がその名を呟いたあと叫ぶと、透耶にがしっと抱きついてきたのである。
 抱きついてきた老人はしっかりと透耶を抱きしめて志帆さんと言い続けている。透耶は不安顔になってヘンリーを見て聞いた。

「……えーと、誰?」
「こういう場合、初恋の人に似てたとかじゃないかなー」

「いや、俺、男だし……名前からして女性らしいんだけど?」
 透耶は呆れた顔をしてヘンリーに言う。

「じゃあ、透耶に似た顔の人なんじゃないの? 志帆って、聞き覚えない?」
 透耶の顔に似ているなら玲泉門院関係だ。ヘンリーも玲泉門院家の一族がみな顔が似ているのは知っているのでそう聞いたのだ。だがしかし志帆という名に聞き覚えはない。なので透耶は首を振って覚えはないと言った。

「そっか。じゃあ似てる人だったんじゃない? 思い出は美化されてるだろうし……まあ、いいんじゃないか」
 ヘンリーがそう日本語で言ってしまったところ、老人がむくっと起き上がりヘンリーを睨み付けて言った。

「美化とは何事か! わしはそこまで耄碌しとらんぞ! 志帆さんは本当に綺麗な人じゃったんじゃ!」
 するとヘンリーは続けて言った。

「綺麗な人が男に似てるんだ?」
「そうとも! わしの目が耄碌しておらん証拠を見せてやろう!」

 老人はそう張り切ると、懐からパスケースを取り出してその中から一枚の写真を取り出した。かなり古い写真でセピア色をしたものだ。随分大事にして持ち歩いていたらしいが、やはり年代が年代なのだろう。写真はよれてしまっていた。
 だがそこに映っていたのは、間違いなく。

「あ……ほんとだ。綺麗な人だね。でも……透耶本当に見覚えないの?」
 写真を受け取った透耶はその写真を見て固まっていた。ヘンリーはそれを覗き込んで自分の考えは間違いではないと確信付けた。
 そこには透耶に似た女性がいる。ヘンリーから見れば透耶に似ている女性に見えるが、透耶には別の人に見えていた。

「……お、お祖母様? え、でも、名前違うし、え? 他の人?」
 そこに映る着物を着た女性は、透耶には自分の母方の祖母に似ているとしか思えなかった。

「えーと、透耶くん。どうしてそこでお祖母様なのかな? 普通お母さんに似てるとかってならない?」
 顔かたちは母親に似てるのは当たり前でも、着ている服装などが違ったら違う人の印象になるという簡単な錯覚みたいなものだ。

「うちの母さんは着物は着たことないから、自然にお祖母様って思った。それに写真が古いから……って、ええ? この子供が淳一さん?」
 お祖母様に似た女性の隣に映ってるのが10歳くらいの子供だ。きっちりとしたスーツを着ている。その背景にはちょうど寺が映っている。

「そうじゃ、それがわし。その綺麗な女性が志帆さんじゃ」
「えっと待って下さい。淳一さん、今お歳は?」

「今年で80じゃ。この時、志帆さんは18歳だったかな」
 老人が思い出しながらそう言うと、ヘンリーがざっと計算する。

「70年前……か。透耶覚えは?」
「覚えというか、ここって京都の北嵯峨ですよね?」
 透耶は写真を指さして老人に言っていた。

「ああ、北嵯峨じゃ。わしがよく遊びに行っていた寺で志帆さんに出会ったんじゃ。これを撮ったのは、わしが京都を離れてアメリカへ渡る前日に撮ったものだ。志帆さんも結婚をすると言うていてな。本当はアメリカに誘ったんだが、振られてしもうたわ」
 老人が笑って振られたと話していた時、透耶には聞き覚えのある話になってきた。

「……曾お祖母様だ」
 透耶がポツリと呟くと、ヘンリーがギョッとした。「本当に? でも名前に聞き覚えがないんだろ?」

「うん。元々曾お祖母様には会ったことないし、写真も見たことはないから、確実じゃないけど。でも、お祖母様が昔、俺たちが小さい時に「自分のお母様はアメリカで結婚しようって熱心に誘う男の子がいたのよ」って自慢してたって話聞いたことあって……俺は曾お祖母様の話を聞いたのはそれっきりだったし、名前も出てなかったから覚えはないけど、あ、でも、光琉なら曾お祖母様の名前覚えてるかも!」

 透耶は光琉が実家の資料整理に行っていたことを思い出した。一年前から行方不明の叔父の部屋の資料は透耶も手伝って整理したが、その家自体は光琉が受け継ぐことになっていた為、門外不出と言われている資料は光琉が管理している。

 それは叔父が玲泉門院を調べていた時に集めた資料で、家系図なども入っている。透耶は興味がないので一切見ていないが、光琉は片付けるのに中に何があるのかを確認するのに見ている可能性がある。
 さっそく携帯で光琉に連絡を取って確認した。

「光琉、曾お祖母様の名前って、志帆さんだった?」
 開口一番に透耶が光琉にそう言ったものだから、電話に出た光琉は一瞬沈黙した。

『……お前な、いきなり何言ってんだよ』
「いいから思い出して!」

『ふて腐れたと思ったらいきなり全開かよ。つーか、覚えてない。もしかしたら綾乃が覚えてるかもしれないけど、今ピアノに入ったから当分出てこないぞ、あれは』

「綾乃ちゃんが?」
 なんでそうなると透耶が不思議がっていると光琉が言う。

『片付けてる時、一人で爆笑しながら叔父さんが纏めた資料読んでたから』
「………………はい?」
 頭に沢山はてなマークが浮かんでしまった。なんで資料を爆笑しながら読めるんだ?

『資料の中に玲泉門院家爆笑集みたいなのがあったらしい。大抵人から聞いて俺らが知ってたりするのが載ってるらしいが、綾乃は初めてだから面白かったんだろうな。かなり昔のから纏めてあるらしいし、日記から抜粋したのもあるとかで、綾乃的にはかなり面白い本らしい。あいつ京都にいる間、ずっとあれ読んでたから、俺らより面白話に出てきた名前は覚えてるかもな』

「…………葵さん……何莫迦な本作ってるの?」
 自分の叔父の研究って一体何?と真剣に考える羽目になろうとは思わなかった透耶である。

『とにかく、名前知りたければ後二時間くらい後にするか、戻ってきて綾乃に直接聞けよ。俺はアレを中断させるのは死んでもやだ』
 光琉はそう言うとさっさと電話を切ってしまった。アレを中断とは、綾乃のピアノの練習だ。一旦集中してしまうとなかなか中断させるのは難しい。しかも綾乃的にノッている時に邪魔しようものなら、たとえ光琉でも綾乃は盛大にキレるのだ。
 練習に一緒に入ったことのある透耶なら、アドバイスなどの理由でなら中断させることは出来るだろうが、今の綾乃はコンサート関係で興奮した状態が続いているから透耶でも邪魔をするのは難しいだろう。

「……透耶、分かった?」
 ヘンリーが電話が切れたのを確認して尋ねるが、透耶は首を振っていた。

「淳一さん、志帆さんの名字は覚えてますか?」
 とりあえず似てるだけの他人の可能性もあるかもしれない。もしかしたら曾お祖母様の従姉妹だとかそういう関係かもしれない。透耶が本当に知らない玲泉門院関係がある可能性もある。
 それを確かめる為に聞いたのだが、その老人はふむと考え込んでからあっさり言った。

「いやあ、実は名字は聞いてなかったんじゃ。名前だけしか確認してなかったしのう。そういえば、家が何処なのかも聞いてなかったのう。じゃが、いいところのお嬢様なのは分かっておった。着ているモノは上物だったし、流行のハンカチも持っておったしの」
 まあ、70年前の話だ。名前は覚えていても名字まで聞いたりはしないかもしれない。当時の老人が10歳だとすれば、名字を言われても覚えないだろうし、名前だけでも交流は出来ただろう。
 初恋の人の思い出を語る老人を置いて、透耶とヘンリーは二人で溜息を漏らしていた。

 こうのど元で出かかって出てこない魚の骨みたいに引っかかっていて、それが気になって仕方ない。 さっきからもう一時間は経過しているし、老人がここに座っているのを発見してから二時間が経過した。だが老人の付き沿い人は誰も迎えに来ないし、ヘンリーにこっそり頼んでいた大使館への問い合わせも無駄に終わっている。
 老人の行方不明の捜索は出ていないし、尋ねてきた人もいないらしい。

「よし、決めた」
 透耶はそう言って立ち上がると、老人に向かって手を差し出した。

「淳一さん、ちょっと確かめてみたいことがあるんで、付き合って下さい」
 透耶がそう言ってみると、さっきまで絶対に動かないと言っていた老人は、ほほっと笑って立ち上がった。

「よかろう。わしも待ちくたびれて暇になってきたところじゃ。付き合ってやろう」
 そう言って透耶の手を取った。
 呆然としたのはヘンリーだ。

「何処行くわけ?」
 ヘンリーが尋ねると透耶は。

「一旦家に戻る。それで綾乃ちゃんに聞いてすっきりしてくる」
 そう答えたのだった。
 観光に出て老人を拾う。まさに普通ではない。透耶の周りでは奇妙なことが起こるものだとヘンリーは今更ながらに思ったのだった。