switch番外編1真貴司綾乃の場合

 暑い日。それは夏休み。
 あたしはいつものようにその道を歩いてた。
「暑いなあ」
 あたしはそう呟いて、また道を歩き始める。
 今月に入って何度もこの道を往復してることになる。
 あたしがこの道を辿るのには訳がある。そうあたしが習ってるピアノのレッスンの為。それを上達させる為に通 っている場所がある。

 そこにいるのは教師ではない。
 あたしだけの先生がいる。
 先生は、この近辺の大きな一戸建てに住んでいるの。もちろん、あの鬼柳さんも一緒に。
 先生に出会ったのは、沖縄のお祖父様が経営しているホテルのバーだった。あたしのピアノに師事した事で気になってたの。誰があれだけのことをやってのけたのかって。
 でも出会ってみれば、全然偉そうな人じゃなかった。
 男の人にしては小さくて、綺麗で、美少年という言葉がぴったりとハマってしまう人。そこであたしは噛み付いてしまった訳。
 先生が師事した事はまさしくあたしの欠点を言い当てていたから、ならこの人はどんなピアノの音をしているのだろうと興味を惹かれたからなの。
 でも窓口が悪かった。

 最悪だったと言っても過言じゃないと思う。その窓口が鬼柳さんだった。
 あたしはその対応に頭がヒートしちゃって、喧嘩を吹っかけてしまったのよ。あたしらしくもなく、ペースを乱されたという感じかしら。
 でも先生は、とぼけた様子でピアノを弾いてくれた。
 それは信じられない程、澄んだ音で、それでいて力強いものだった。この人が一年以上もピアノを弾いてなかった人とは思えない程だったの。
 あたしは呆然として、その音を聞いていた。
 家に帰ってからも、その音が頭から離れなかった。だから、あたしは無理を承知で、その人に師事してもらう事を望んだ。
 この人ならと思えたから。

 すったもんだで承諾して貰って、沖縄の別荘でレッスンを開始してからあたしは順調だった。どんどん良くなり、でも途中でがくーんと落ちちゃったり。それでも先生は独自の方法であたしの音作りを手伝ってくれた。
 それは素直に嬉しかった。
 どうしてそこまで優しいのだろうと思った。
 でも、その優しさは先生一人だけのモノじゃなかった。
 先生は鬼柳さんにその優しさを分けて貰っているようだった。あたしが二人の関係に気が付いた時、妙に納得してしまったのもそれがあったから。
 男同士という事は気にならなかった。
 先生は鬼柳さんを好きだし、鬼柳さんはそれ以上に先生を愛していたから。それを他の誰かに陰口叩かれるのはあたしも嫌だったの。
 それにあたしはすごく良くしてくれた。
 それが普通でも、あたしは嬉しかった。
 特別扱いしない、そんな人達がいるとは思えなかったけど、実際にいたから嬉しかった。
 あたしは二人の関係は当然だと思えた。
 先生はまだ悩んでいたけど、あたしはそれの何処が悪いのと諌めた事もあったな。先生の悩みの根源は解らなかったけどれど、あれだけ愛されていると分っていて、苦しいけど、それでも先生は前向きになれたようだった。
 あたしなんかが恋愛相談にのるのはなんか違う気がしたけど、先生は喜んでくれて、しかも親友だと言ってくれた。
 あたしは、先生の親友になれて嬉しかった。
 先生の事は大好き。その大好きな人から好きだと言って貰える事はもっと嬉しい事だから。
 鬼柳さんとは最初は最悪だったんだけど、先生好き同士、なんとか上手くやれてるような気がした。
 先生が鈍感だから気が付かなかった事もあたしには見抜けた。当然鬼柳さんも同じ事。そんな事が続いて、あたしは鬼柳さんとも友達になれたのよ。
 年上の友達だけど、そこは普通の友達より豪華だと思うわけよ。何しろ、美少年に美青年だもんね。目の保養になる訳。

 そして東京に戻ってから、いろいろあった。
 先生との知り合いのジョージ・ハーグリーヴス氏がいきなりパトロンになってくれたり、驚きの連続。
 その日先生も来るはずだったのだけど、ある事情で先生は安静状態になってしまって駄 目だった。
 残念だなあと思ってたけど、後日の学院内コンクールで先生が聴きに来てくれた。
 そこでまた一悶着。先生には騒動がつきものなのかしらと思った程よ。原因はあたしにもあったし、先生だけを責める訳にはいかなかった。
 あたしがあのMDを聞かせなければ事件は起きなかったんだと思うから。
 それでも先生は仕方ないから、綾乃ちゃんには関係ないから大丈夫だって言ってくれた。
 でもあたしはあたしの責任だと思って、あのピアニストで先生を表舞台に立たせたかった高城さんにあたしは泣きながら抗議したっけ……。
 鬼柳さんも先生もあたしが泣くことはないと言ってくれたけど、二人を追い詰める事をしたのは、あたしが原因だから。
 なんでこんなにいい人があんな事を言われないといけないのかってあたしは憤ってたの。
 先生にとってピアノは過去に置き去りにしたもので、鬼柳さんが聴きたいと言ったからまた始めたものだった。
 ただそれだけの理由で過去に向き合ったんだから、それを責めるのはお門違いだとあたしは思ってたの。
 一応、話し合いで、高城さんは納得してくれたけど、まだ諦めてないみたいだし油断出来ない。
 今度はあたしが先生を守るんだ!とか思ってる。
 それで、そのもめ事の間に簡単に話が纏まったのが、先生にあたしのピアノレッスンをしてもらうという事なのよ。
 一度やった事だったけど、あたしはどうしても先生の意見がききたいと思ってたので、それを承諾して貰った時は本当に嬉しかった。
 そして、6月からあたしは毎週日曜日に先生の師事を受けることになったの。
 で、今は夏休み。
 先生が京都の実家に帰っている間は、あたしも沖縄に帰ってて、先生が戻ってきた時から二日に一回の間隔であたしは先生の家に通 ってるわけ。
 しかし暑い。連日の猛暑。
 やっと鬼柳、榎木津邸に到着。

 インターホンを押す前に、家の前に立っている警備の人に挨拶。暑い中御苦労さんです。
 この家は警備だけは異常に厳しい。前に先生が誘拐されたりしてからは、それ以上に厳しい警備がつけられてる。当然出入りする人間のチェックも行われてる訳。
 あたしでも気軽に入る事は出来ないの。
 警備員に挨拶したところで、中にいる執事さんに連絡がいくことになる。
 そうすると、執事の宝田さんが玄関で待っててくれるという手筈になるのよ。
 玄関まで遠い道のりを歩いていると、宝田さんが玄関前で待っててくれた。
「こんにちは」
 あたしが挨拶をすると、宝田さんが深々と頭を下げるの。
 そこまでしなくていいと言っても、これが執事の仕事ですからと言われてしまった。
「綾乃様、暑い中、ようこそいらっしゃいませ」
 この綾乃様という様付けも止めて欲しいと思ってるのだけど、それも却下された。
 同じような事を先生も言ったらしいけど、一蹴されたそうです。
 やっぱ執事って仕事はそこまでちゃんとしてないと駄目なのかなあ……という疑問が浮かんでしまいますよ。
 家の中に入ると涼しかった。
 外の暑さは何処へというように冷房がきいてる。
「すぐにお茶をお持ちします。どうぞ居間でお寛ぎ下さい」
 宝田さんにそう言われて、あたしはいつものように居間へ直行。
 そこに誰も居ず、冷房だけが効いていた。
 ほっと息を吐いてソファに座って、バッグから楽譜を取り出す。暗記は済んでるけど、再度確認の為。
 先生がくるまでは少し時間がかかるので(いつもだし)暗記してるか確認しなおすの。
 先生とのレッスンは楽譜なしが基本なの。
 もちろん先生は楽譜を見るんだけど、それはあくまで書き足しの為のもので、先生は大体の曲は全て暗記してるのよね。
 あたしがその作業をしていると、宝田さんがお茶を持ってやってきた。
「今、恭一様が透耶様をお呼びになってますので、もう少しお待ち下さい」
 と深々と頭を下げたので、あたしも釣られて頭を下げて。
「宜しくお願いします」
 と言ってしまった。
 それもそのはず。
 先生は仕事に熱中すると、鬼柳さんの声しか聴こえなくなるという変な特技の持ち主なのよ。
 暫くすると、鬼柳さんがやってきた。
「綾乃、外暑くなかったか?」
 一日中家の中での作業をしているのか、鬼柳さんがそう尋ねてきた。
「暑いよ~、陽炎が見えるくらい」
「猛暑だな。洗濯物がよく乾くのはいいんだが」
「洗濯日和だよねえ」
 などと会話をしていると、先生がやってきた。
「お待たせ。外暑かったでしょ?」
 同じ事を聞く二人……可笑しいったらありゃしない。
「暑かった~。先生ならぶったおれるかもしれないくらい」
 あたしはそう答えた。それも笑いを堪えながら。
「そんなに暑いんだ……猛暑だね。でも洗濯物はよく乾くよねえ」
 先生はそう言った。
 もう、まったく同じ事を言うからもう笑わずにはいられない。あたしが笑っていると、先生も鬼柳さんもポカンとした顔をしてた。分ってないみたい。
 あたしは笑いを何とか納めて、やっとレッスンに入る。
 レッスンに入ると先生は人が変わる。こう凛としてると言ったらいいかな。普段のぼやけたモノがなくなってしまうの。
 おまけにキビシイ……。
 初めて先生の前で弾く時は緊張するのよ。で、弾き終わった後必ず駄目出しがでるのです。
 悔しいけど、それが合ってるから文句も言えない。
「一章目は合ってるけど、二章目からずれてる」
 う……ばれてる。
 そうなのよ、ここが合わないのよ。
 自分でも分ってる弱点だけに、あたしは頭を抱えた。
 うーん、どうやって弾けばいいんだろうか。試行錯誤。
 先生は師事はしても弾いて聴かせてはくれない。
 これも全部あたしの為。
 先生の音は、人を惑わす。だから先生は練習しても、それを教える為に弾いたりしないの。
 あたしが先生の音が聴けるようになったのは、あたしが自分の音を確立したからなの。
 でも普段はまったく弾いてくれない。
 鬼柳さんが聴きたいと言うまで、絶対に弾かないのよ。
 それから長い時間かけて、あたしは自分の音探しを始めた。新しい楽譜の曲目は、あの「ラ・カンパネラ」。
 先生が沖縄で弾いてくれた、あの曲なのよ。
 あたしの次のコンクール題材もこれなわけ。
 相当難しい曲なんだけど、何故かこれが選ばれた。
 来年にはあたしも中学を卒業するから、これくらい難しい曲もやるようになってる。
 先生はそれに合わせてやってくれる。
 この夏はあたしの成長期かもしれない。だって、こんなりっぱな先生がいるんだもん。


 レッスンが終わると、おやつが出てくる。
 それを食べながら、先生と雑談をする。
「先生、次の本いつ出るの?」
 あたしがそう聞くと、先生はうーんと考え込んでしまったようだ。
「いつだったかな?」
 こう来るんだもん。
 先生は締め切りはきちんと守る人なんだけど、出る本については殆ど興味がないみたいなの。
 いつ出てもいいしと考えているのかも知れないし、それを考えるのは編集の仕事と割り切ってるような感じ。
「透耶の本なら今月出るぞ」
 仕事を終えたのか、それともピアノが聴こえなくなってレッスンが終わったのを悟ったのか、鬼柳さんが居間へやってきてそう言い出した。
「え? 今月だっけ?」
 先生はまだぼけている。
 あたしは編集の事とかは知らないから、キョトンとして眺めていた。
「今月出る。手塚に聞いた」
 鬼柳さん、もしかして、先生以上に先生のスケジュールを把握してない?
 あたしはそう思ってしまった。なんか可笑しいというか、先生らしいボケというか、鬼柳さんらしい情報網とか、笑う所が沢山あるような気がした。
「嘘ぉ。確認してくる」
 先生は急いで書斎に戻った。鬼柳さんは笑って見送ってる。
 うーんイイ雰囲気。
 こういう二人のやりとりってホッとするんだよね。
「先生って作家見てると、作家のイメージが崩れるわ」
 あたしがそういうと、鬼柳さんがキョトンとした。
「どういうふうに?」
「うんとね。もっとこう、売れてるんだからとかで、出版物には絶対の自信を持ってて、発売日がくると売れてるのかを気にしてるとか」
 あたしがそういうと、鬼柳さんは笑って言った。
「透耶にはまったくあてはまらないな」
 その通り。
「そうなの。だから作家のイメージが崩れたの。先生みたいに書く事だけが楽しいって作家は珍しいのかもしれないから」
「ま、好きな事やれてるから透耶は輝いてるんだろうな」
 ぽろりと鬼柳さんが呟いた。
 そこには何か意味が込められていたような気がしたんだけど、あたしには解けない謎だった。


 それから、また先生の元に通うようになった夏休みも終わりの日。
 あたしは先生から衝撃的な事を聞いた。
 あの鬼柳さんが仕事に戻るという事。
 鬼柳さんの仕事は主に海外で、しかも中東の戦場なのだそうだ。鬼柳さんはカメラマンで、一時期落ち込んだ事もあって、仕事を黙って休んでいたらしいのね。
 でもそこへ戻ると決めたと言ったんだそうなの。
「先生はそれでいいの?」
 あたしはそう聞かずにはいられなかった。
 だって、あたしは二人はずっとこの家にいるんだと思い込んでいたから。
 あたしの言いたい事が解ったのか、先生は頷いた後で答えてくれた。
「恭の仕事は、報道しかないんだよ。本人も自覚してるし、戻るのにもいい時期だから。それに背中を押したのは俺だからね」
「なんで?」
「恭にはそれしかないから。俺が小説を書く事しか出来ないように、恭にも報道カメラマンとしての道しか残されてないんだ。それがよく解ったから、恭も戻ると決めたんだ」
 先生は清清しい顔をして笑顔で答えてくれた。

 あたしは、ああ、来る時がきたのかと思った。
 ずっとこの家にいる訳にはいかないのは、誰でも思ったんだろう。
 鬼柳さんが有名なカメラマンと共に行動していて、中でもかなりのカメラマンという事は先生に聞いて知ってた。
 だから、今が時期なのだ。

「そっか……あたしにはピアノしか取り柄がないから、この道を進むしかないように、鬼柳さんにもその道を進むしかないってわけね」
 あたしはそう言って納得する事が出来た。
 中東で危険な地帯とは分ってても、そんな事は鬼柳さんだって仕事をしてきたのだから、分っている。それでも戻ると決めたからにはちゃんと仕事をするだろう。
 何ヶ月も離れる事になるかもしれないけど、そんな事は二人は承知している。それでも離れて生きる事を選んだのだから、そこにはあたしも知らない何かがあったのかもしれない。

 でも確かなモノが二人の中にはある。
 離れても大丈夫だという心がある。
 あたしにはそう見えた。
 これからも変わらず二人は暮していくんだろうな。
 遠い空を見上げてはお互いの事を思い出し、そして今までの思い出もまた思い出し、それを力にして前に進むんだ。
 二人は離れていても心は一つなんだから。


 あたしにもいつかそんな人があらわれるんだろうか。
 そう思うと、まだ来ない未来を明るく迎え入れられる気がする。
 それまでは、この二人を見守る側でもいいと思う。
 あたしはそうやって二人と関わっていくんだから。