switch14

「あ、恭、折角箱詰めしたの出さないでよ」
 ダイニングでいらない物を処分する為に箱分けしていた透耶が、リビングで箱を開いては中を見ている鬼柳を止めた。
 周りには、宅急便さんが箱詰めしながら荷物を運び出している所である。
 そう今日は透耶の家の引越である。
 元から使わない物は箱詰めされたままで、日用品も少ないから荷造りは簡単だった。
 しかし、押し入れから出してあった箱を見付けては鬼柳が一々開けてしまう。
「もう、何やってんだよ」
 透耶が怒って鬼柳の前に立つが鬼柳は視線を上げない。
「ん、アルバムって書いてあるからさ」
 広げているのは透耶のアルバムで、高校を転校してから撮られたものばかりが入っているものだった。
「そんなの向こう運んでからでも見れるでしょ」
「今見たい」
「解った。その箱に全部入ってるから、自分で運んで行ってね」
 どう説得しても引き下がりそうもない鬼柳は放っておく事にして、他の荷物を全部運んでもらった。
 残ったのは、アルバムが収められている箱だけ。
 それでも鬼柳はアルバムを手放そうとしない。
「ほら、もうここは閉めるよ」
「んー」
 生返事。
 聞いてない……。
 透耶は鬼柳が持っているアルバムを取り上げる。
「あ、透耶ー」
 鬼柳はそれを取り返そうとして顔を上げるが。
「帰ってからだ!」
 透耶が仁王立ちで睨み付けている。
「……はい」
 ここは逆らわない方がいいと素直に返事する鬼柳。
 さっさと段ボールを運んで部屋を出る。
 とにかく早く返ってアルバムを見たいとばかりな行動だ。
 それを見て透耶は溜息を吐く。
 ……別に見せないって訳じゃないのになあ。
 部屋に残っているのは、透耶が要らなくなった家具類で、そのまま売り出すつもりで契約も済ませてある。


 鬼柳の車で新しい家に向かう。
 一年と少し過ごしたマンションを後にする事は寂しい事ではなかった。
 あそこは逃げた場所。
 そういう気が透耶にあったからだ。
 新しい家には、今日全てが揃う。
 ただ、ピアノだけが揃ってなかった。
 結局、あの日の次の日、透耶はまったく纏められていない鬼柳の部屋に引っ越し屋の段ボールを運んでもらい、大事な機材や写 真とネガの整理をしたからだ。
 そうしないと、鬼柳は適当に詰めてしまう。カメラ以外の事はちゃんと整頓出来るのに、カメラの事だけはまるっきり駄 目な鬼柳である。
 一々ネガやらを確認させて番号を振り、写真をアルバムに全部入れて整理整頓をしたのだ。膨大な量 に及ぶ写真の整理だけで透耶は一週間もかけてしまったのだった。
 その荷物の整理が終わった所で、透耶は一人でマンションに帰り、自分の家の整頓をしていた。
 鬼柳が付いてくると言ってしつこかったが、鬼柳の家を整理している時に始終邪魔をしてHをしようとするので、作業にならないと透耶が嫌がった。
 幸いな事に新居への荷物があり、それを何処に配置するかは鬼柳しか解らないので、そっちに狩り出された為に透耶は自分の作業が捗った次第だ。

「透耶、ピアノどうする?」
 どうしても、これだけが揃わなかった事を鬼柳は凄く気にしていて、始終こればかりを言うようになっていた。
「んー、どうしようかなあ。こうなったら工場まで行った方がいいかもしれない」
 ここまで粘ってしまったから、買うならそれがイイだろうと透耶は思っていた。
「工場まで行くのか?」
 そこまでして買うものなのかと鬼柳は驚いてしまう。
「市販じゃ、合うのがあるか解らないし、直販の方が注文つけやすいんだよ。台数もあるし、弾き比べが出来るから」
 透耶がそう言っていると、透耶の携帯が鳴った。
 見ると、新居からの電話だった。
「宝田さんかなあ?」
 呟いて出ると、やはり宝田だった。
「え? ハーグリーヴス氏? ああジョージさんが電話してきた? 何で電話番号知ってるの?」
 意外な人からの電話があった事と、折り返し電話を掛けるように言われたと報告された。
「んん? 何だ?」 
 さっぱり訳が解らないが、取り合えず言われた番号に掛けてみる。
『This is Toya speaking.(こんにちは、透耶です)』
 と透耶が名乗るや否や。
『Long time no see. Toya.I am sorry but I have no time to talk to you. so I am going to be brief. I guess you are tied up with moving to your new house. well. I wish you great happiness. I was thinking about sending you some present. and I came across something rare. so I sent it to you right away. It will reach you around today.I hope you like it.If you have the same one. you can send it back. Oh. and as for lunch. let’s have one with Ayano next week.I am looking forward to seeing you.So long. (久しぶりだね、透耶。すまないがこちらは時間がなくてね、用件だけ伝えるよ。新居への引っ越しで忙しいと思うが、取り合えず、おめでとう。引っ越し祝いに何かを送ろうと思って、珍しいものが手に入ったので、さっそく送らせて貰ったよ。今日辺りに届くはずだから、使ってくれると嬉しい。もし同じものがあるなら送り返してくれても構わない。食事は来週綾乃と一緒に食べよう。じゃあ、会うのを楽しみにしているよ)』
 ジョージが一気に喋り、一方的に用件だけ述べて電話は切れてしまう。
「え! ジョージさん!」
 透耶が呼び止めようにも既に電話は切れている。
 ジョージさーん、それはないんじゃない?
「相変わらずだ、ジョージさん」
 パワフルジョージ、健在という感じだ。
 透耶は携帯電話を握り締めて、グッタリしてしまう。
「何だって?」
「うーん、よく解らないけど、引っ越し祝いに何か送ったって事を言いたかったみたい」
 結局何が言いたいのか解らなかった透耶である。
「何かって?」
「解らない、言ってくれなかったから。でも今日届くはずだって」
「大体、何で奴が新居の電話番号知ってんだ?」
 新居の電話番号は、まだ誰にも教えていない。
「さあ?」
 確かに謎である。
 電話が通ったのは昨日。当然誰にもまだ教えていない。なのにジョージがかけてきたということは、誰かが教えたか、調べられたかのどちらしかないわけだ。
 まあ、どちらにせよ、それに構っている暇はない。

 一軒家の家は、元々海外の企業家が住んでいた家で、様式もイギリス風とあり、鬼柳の背の高さでもまったく問題ない。
 まず門があり、車が入る為にはリモコンが必要。人であってもリモコンがなければ開けられない。外部の人間が入る時は、中からカメラで人物を確認してからしか開けられないという万全なセキュリティーなのだ。
 これはやり過ぎだと、透耶が文句を言ったのだが、宝田に、これでも不十分です。と一括されてしまったのである。しかも、この時ばかりは鬼柳も宝田の味方だったものだから、透耶が妥協するしかなかった。
 最後にはSPまで準備すると言い張った宝田の言葉があったから、透耶はそれだけは勘弁してほしいと言った事で、セキュリティーだけは妥協しないと言った宝田の言葉に頷くしかなかったのだった。
 門から10mの私道があり、家が奥にある感じになっていて、外からはわずかな外観しか見えない。
 車庫には、車が3台停められるが、そこには宝田の持ち車と、鬼柳が以前乗っていた車と、今鬼柳が乗っている車を停める事になっている。
 玄関前には車が一周出来るスペースがあり、引っ越しの車が停まっていて、荷物を運び込んでいる。
 玄関ドアは両開きで、今は開け放たれている。
 家に入ると、まずホールがある。
 二階への階段と、4つのドア。そして中庭へのドアがある。
 この家には中庭があり、それを取り囲むように部屋が並んでいる。
 玄関を入って左側に、リビングルームと書斎がある。書斎は透耶の仕事部屋になり、リビングルームはソファとテレビを置き、ピアノもここへ入れるつもりで今もスペースを開けている。
 リビングからダイニングに繋がって、奥右キッチンがある。キッチンは大き目で使いやすい造り。鬼柳が熱心に見ていた場所でもある。
 不思議な事に、キッチンの隣にまたダイニングスペースがある。これはどういう事なのか解らないが、普段使わない皿などを置くにはいいと鬼柳は言う。
 その隣がランドリー。日本と違って、ランドリーがある。一階に風呂はない。
 その理由は、二階や主寝室に風呂が完備されているからである。
 グルリと家を一周すると、玄関ホールへ戻ってくる。
 つまり、玄関を入って左廊下→途中左ドアが書斎→リビング→ダイニング→キッチン→廊下で、途中にランドリー、物置き、地下への階段→玄関、と一周出来る造りだ。
 何故一周回っているかというと、この家には中庭があるからである。
 石張りの庭で、木や花壇などがあり、ベンチまで置いてある。
 中庭には、玄関ホール、リビング、ダイニング、キッチン、廊下、と、何処からでも出入りが出来るようになっている。光り取りには十分なモノ。
 お陰で家の中は、日中、電気をつける必要はない。
 透耶はこの中庭が気に入っていた。
 螺旋階段みたいになっている階段を登って二階へ上がると、正面に主寝室がある。
 エアーベッドを欲しがった鬼柳がキングサイズのダブルベッドを買い入れていた。
  入って正面の壁にドアがあるが、そこはトレイ、バス、サウナがあるパウダールーム。
  クローゼットもあり、便利な作りなのだが、何故かもう一つパウダールームがある。女性の為、らしいのだが、そんなに寝室にトイレ、バスが二つもあってどうするんだという感じである。
 子供部屋らしい、ゲストルームが二つと、バス、トイレがある。 
 地下は、フィットレスルームだったらしく、一番広い部屋は窓がガラス張りで、明るい。ジャグジーや風呂まで完備されているから、どうするんだという話になったが、風呂は完全に潰して、暗室に作り替えられている。
 広い部屋は鬼柳の写真を整理する時に使えそう。ワインセラーまであるのだが、そこは鬼柳の機材を仕舞うのに使っている。
 他にもメイドさんが使う部屋が3つあるが、何故か、その一つに宝田が住み込む事になってしまった。


 実は、宝田が住み込む時に、少し揉めてしまっていたのだった。
「これだけ広い家を管理なされるのには、私のような者がいた方が便利でございます」
 宝田が、新居の引っ越し手伝いをしている時に、いきなりそんな事を言い出したのだ。
「いらねえ! 帰れ!」
 当然、鬼柳はこう言う。
 だが、そんな鬼柳の言葉などには動じない宝田はニコリして言葉を続けた。
「おや、恭一様がいらっしゃらない時に、透耶様が見知らぬ方を招き入れないとでも言い切れますか?」
「……う」
 詰るなよ……。
 透耶は言葉に詰まった鬼柳を恨めしそうに見てしまう。
 しかし、それはないと言い切れない透耶でもある。
 鬼柳の知り合いだとか言われて入ってこられると、透耶はその知り合い全部を知っている訳ではないから、拒めなくなってしまう可能性もあるからだ。
 鬼柳が言葉に詰まったのを確認して、宝田が更に話を進めて行く。
「もう一人、部屋などを掃除するメイドがいると便利なのですけれど」
 そう切り出した宝田に鬼柳は息を吹き返して怒鳴る。
「それこそいらん!」
 はっきりと言い切られてもなお、宝田はニコリとして言い放った。
「ほう、では透耶様に手伝わせるとおっしゃる? これだけの広さを掃除なされば、丸二日はかかりますよ。それを毎日やれるとおっしゃるのですね?」
「……う」
 完全に負けてるし……。
 別に毎日やる必要はないだろうと思っている透耶だが、鬼柳が言い淀んでいる所を見ると、そういうわけにもいかないらしい。
「俺もやります」
 透耶が鬼柳を助けるようにそう言うと、宝田は首を振って言った。
「いえいえ、透耶様はお仕事がおありでしょう。それに集中なされると、とても掃除どころではなさそうです」
 ニコリと言われて透耶は言葉を失う。
「……はう」
 俺も負けてる。
 駄目だ、性格、癖を見抜かれている。
 さすが、20年、鬼柳を扱ってきた執事だけの事はある。
 透耶の性格も見抜かれているから、二人に反論する余地は何処にもなかった。
 結局、二人とも押し切られてそれを受け入れる事になった。 
 そうしてやってきたのは、22歳の若い女性。
 野上妙子というメイドになって4年目の人だった。
 必要な事以外の私語はなく、無口でテキパキと仕事をする女性であるが、透耶はどうも自分は好かれていない気がしていた。
 鬼柳が主人で、宝田が仕事の上司。で、透耶はただのおまけ。そういう態度がありありと感じられるのだ。
 まあ被害を被った訳でもなし。鬼柳の役に立っているらしいので、透耶はいい事にしておいた。
 12LDKという馬鹿でかさの新居。
 買う時には考えなかったが、確かに掃除は大変だ。



「恭一様、透耶様、おかえりなさいませ」
 玄関を入った所で、宝田に出迎えられた。
「ただいまです」
 透耶が挨拶をして家に入った。
「お荷物の方は、全て受け取りまして、指定の部屋へ運ばせて頂きました。恭一様、それもお運び致しましょうか?」
 鬼柳が段ボール箱を抱えているので、宝田がそう言うが鬼柳は無視してリビングへ入って行く。
「あの、どうかしましたか?」
 いやに真剣だった鬼柳に、宝田が不思議な顔をして透耶を見た。
「あ、いえ。あれ、俺のアルバムなんですよ」
 透耶がそう説明すると、宝田は納得した顔をした。
 ある意味仕方がない状況である。
「透耶様、それから……」
 そう宝田が言いかけた時に、リビングから鬼柳が出てきて言った。
「透耶! ピアノがあるぞ!」
 凄く驚いている様子だった。
「へ? 何で?」
 驚きながら鬼柳に引き摺られて行くと、本当にピアノがあった。
 黒のグランドピアノだ。
「ええ? 何で?」
 透耶が宝田を見て言うと、宅配の明細を手渡されて説明してくれた。
「先ほど、ハーグリーヴス様からの届けものという事で、届けられました」
 普段なら、こんな怪しい贈り物は、主人の判断なく受け取りはしない宝田であるが、先に先方から連絡があり、しかも透耶が見知っている様子だったので受け取ったのだ。
 透耶は呆然として、ピアノを見ている。
 引っ越し祝いの贈り物って、これだったんだ!
「ジョージさーん、そういう事はちゃんと説明してよぉー」
 透耶は頭を抱えてしまう。
 こんなの貰える訳ない。
「駄目だ、こんなの貰えない!」
 透耶は力強く言った。
 大体、貰うものではない。
「じゃあ買い取ればいいじゃないか」
 平然と言う鬼柳。
「こんなに高いのでなくていいんだ……」
 自分が気に入って弾けるものであるなら、透耶は文句を言ったりしない。
 なので、鬼柳は不思議そうに見て言った。
「ピアノとしてはいい方なのか?」
「スタインウェイだよ、これ。最高級品」
 メーカー表示を見なくても、姿形だけで透耶にはメーカーが解る。
「じじいに電話して、買い取る事にすればいいじゃないか。買いに行く手間も省けるし」
 ピアノの最高級品、と聞いて、鬼柳は貰うのではなく、買い取る方法を考えていた。
 買いに行く手間は省けるし、一番いいものが目の前にあるのだから、逃すはずもない。
 だが、透耶は、絶対駄目だと言い張った。
 こんな、何千万単位のピアノなんて、弾くのも恐ろしい。
「取り合えず、受け取れないって電話する……」
 が、いくら電話してもジョージは出なかった。
 携帯は通じない。留守電にもなってない。
 会社関係は取次いでくれないし、居場所は不明。
 徹底的に居場所を隠しているのだ。
「何で!?」
 透耶は電話を握り締めて叫ぶ。
 その様子を見て、鬼柳はピンとくるものがあった。
「ははあ、あのじじい、わざとだな」
 鬼柳がボソリと言った。
「え?」
 呆然としていた透耶が鬼柳を見上げる。
「電話もじじい直通じゃねえから、繋がるはずもない。いくらいらねえと言っても返品出来ないようにしてやがるんだよ。ああいうのは、返品しようたって出来ないだろう? 返品だって期限があるだろうし、不良品じゃねえしな」
 胸くそ悪いが、作戦としては間違ってない。
 鬼柳はそう思っていた。
 
 つまり、透耶はジョージに嵌められたという事だ。
「ハメられた……。ジョージさん、相変わらず我が道を行く」
 今頃、ニヤリとほくそ笑んでいるだろう。
 透耶は脱力した。
 すっかり落ち込んで床に座っている透耶を鬼柳が抱き起こす。
 とりあえず貰えという鬼柳と、絶対貰えないと言い張る透耶。
 なんとかそれが治まったのは、鬼柳の一言だった。
「仕方ねえから、貰っとけ。納得出来なきゃじじいを説得するしかねえな」
 鬼柳は既に返す気はない返事をする。
 一旦送ったものをジョージがすんなり受け入れるはずはないと透耶は思った。
 とりあえず、ピアノは買い取るという方向で話が進んだのだが、透耶一人は納得してなかった。
「……もう、絶対文句言ってやる」
 そんな事を透耶は一人で誓っていた。
 鬼柳は内心、透耶はあのジョージに適う訳ないと思っていた。


 透耶が寝室のクローゼットで衣服の整理をしていると、妙子が入ってきた。
「夕食の準備が整いました」
 いきなり後ろに立たれて、透耶は驚いて振り返った。
「あ、はい、解りました」
 透耶がそう答えたが妙子がすぐに下がって行く様子はなかった。
 不思議顔で、透耶が見ていると妙子がやっと言葉を吐いた。
「あの、ハーグリーヴス様というのは、イギリスのエレクトラの社長ですか?」
 妙子が透耶を見下ろして、そう聞いてきた。
「え、ええ、そうです」
「そうですか。失礼しました。電話などがかかった場合は、透耶様にお通しすれば宜しいのですね」
「はい、お願いします」
 鬼柳に通したら、まず喧嘩にしかならない。
「畏まりました」 
 妙子は言葉では納得しているようだったが、態度では、「何故、あんたが」という風な言葉が聴こえてきそうな感じだった。
 透耶は妙子を見送って、少し頭を掻いた。
 最初の予感通り、妙子とは相性が悪いみたいだ。
 そんな事を思いながらも、自分が我慢すればいいんだと思い直して、クローゼットを後にした。

 食事をした後、コーヒーを飲んで透耶はまたクローゼットの整理をしていたが、段々と眠くなってきて、とうとう耐えられなくなってしまった。
「……うわ、無茶苦茶眠い……」
 フラフラしながらベッドに倒れ込むようにして、そのまま眠ってしまっていた。
 鬼柳は、写真の手入れをしていたが風呂の準備をしなければと二階へ上がってきた。
 寝室に入ると、灯をつけたままで透耶が眠っている。
 着替えもしてないのは珍しい事だった。
「……透耶?」
 一回起こして着替えをさせようとしたが、透耶はピクリとも動かないで寝ている。
「透耶、服脱がないと」
 耳元で呼び掛けるが、反応はなし。
 まるで気を失っているかのような寝方である。
「?」
 大抵無意識に声を聞き分けて反応してくれるはずが、今日はまったくない。
 取り合えず服を脱がせて着替えをさせ、布団に入れて寝かせた。
 引っ越し作業で疲れたのかと鬼柳はそう思った。


 しかし、その日以来、透耶の眠り病が始まった。

 朝はしっかり起きるのに、夜は倒れ込むように寝てしまう。
 起こしても起きない、呼び掛けても返事をしない。
 そういう事が続いていた。
「透耶、何処か悪いんじゃないか?」
 さすがに心配になってきた鬼柳がそう聞くが透耶は首を振った。
「ううん、別に眠いくらいだし何処も悪くないよ」
 透耶は笑って言う。
「そうか? 顔色は悪くはないな」
 鬼柳は言って、透耶の頬に触れる。
「病気じゃないってば、たぶん、いろいろあったから疲れてるんだよ」
 あまりに心配されるから、透耶はニコリと笑って安心させようとすると、鬼柳が透耶を引き寄せてキスをしてきた。 
「……ん」
 深く口付けて離れると、額にもキスをされる。
「疲れてるなら仕方ないな」
 鬼柳は言いながら透耶を抱き締めて、いつものように透耶の髪を梳く。
「何?」
「セックスしてないからさあ」
 しみじみと言われて、透耶はふと考え込んでしまう。
「あ、そういえばそうだねえ」
 眠いばかりで、そういう行為は透耶からは要求できないし、鬼柳も気遣って無理矢理やろうとはしていなかった。
「一緒にいるのに、何で何日もしてないんだよぉ」
 情けない顔で言うものだから、透耶は笑ってしまう。
 それじゃあ、セックスだけしたいに聞こえる……。
 本当に眠いだけで、それも夜になると眠るのが早いというだけだった。
 ただ、朝起きた時に気持ち悪くて吐いている事は言えなかった。


 4日目に入る頃、とうとう昼間まで眠くて仕方がないというように透耶は欠伸をしている。
 おかしいなあ、何でこんなに眠いんだ?
 そんな事を思っていたが、すぐに行動が出来なくなるくらい頭がぼーっとしてくる。もう何も考えられない状態だ。
 仕事にもならなくて、もっていたノートとペンを地面に落としても拾おうとは思えなかった。
 そのまま中庭のベンチに座って寝てしまう。
 洗濯を終えた鬼柳が、キッチンから透耶が中庭にいるのを見付けて出てくる。
 腕を投げ出してグッタリしているから、明らかに眠りに入りかけているのが解る。
「透耶、また眠いのか?」
 鬼柳が透耶の身体を起こして呼び掛けると、目を瞑ったままで口だけが動く。
「ん……眠い……」
 完全に思考力がない状態で、ただ眠いと繰り返す。
 やがて、完全に意識が無くなる。
「透耶!?」
 幾ら呼んでも眠りに入ると返事はしなくなる。
 明らかにおかしい。
 あれだけ寝ているにも関わらず、昼間まで意識を失うように眠るなど、どう考えても何かある。
 二階の寝室に運んで寝かせて出てくると、部屋の前に宝田が立っていた。
「恭一様、透耶様を医師に見せた方が宜しいのではないでしょうか?」
 宝田も明らかにおかしいと、そう言い出した。
「それは考えたんだが、異様に眠るってだけなのは、病気とかと何か違う気がする」
 鬼柳は何故かそう思いたかった。
 病気であるはずがない。今までそんな症状はなかった。透耶も持病があるような事も言ってなかった。だから疑う部分がある。
「ですが……。もしかして御存じありませんか?」
 宝田がそう言ってきたが、鬼柳には何の事だが解らない様子だった。
「何を?」
 聞き返されて宝田は言った。
「透耶様は朝起きていらっしゃた時、洗面所で嘔吐なさってます」
 宝田がそれを報告すると、鬼柳がまさかと顔を向けた。
「吐いてる? いつからだ」
 そんな事はまったく知らないと、鬼柳が真剣な顔で宝田に問うた。
「私が気付いたのは、今日の事なのですが、もしかすると毎朝そうだったのかもしれません」
 透耶の慣れた様子から、今日だけの事ではないと宝田は思っていた。
 鬼柳はそれで深く考え込んだ。
 何故、透耶は吐いた事を黙っているのか?
 心配かけたくないから、黙っている可能性は高い。
「その前に、一人知り合いの医者に見せておきたい」
 鬼柳がそう言った。
「医者に知り合いがいらっしゃるのですか?」
「専門じゃないが、どうすればいいのかは教えてくれると思う」
 透耶を一度見て、よく知っている人物がいる。
 もし何か持病があったとしたら、鬼柳に何も言ってなくても医者である人物には何か言っている可能性もあるからだ。
 鬼柳は、透耶の携帯からその人物のナンバーを探し出した。
 翌日。その人物はさっそくやってきた。
「やあ、透耶久しぶり」
 透耶が書斎で仕事をしていると、ドアが開いてその人物が覗き込んでいた。
「あれ、ヘンリーさん?」
 沖縄で別れたきりの、ヘンリー・ウィリアムズだ。
「近くまできたら、鬼柳さんを見かけてね。招待してもらったんだ」
 まったく変わらないヘンリーの笑顔に透耶も微笑んだ。
「いらっしゃいませ」
 透耶はそう言って立ち上がろうとしたが止められた。
「いいよ、仕事しててくれ」
「すみません。一段落したら行きますね」
 正直、頼まれている月刊連載になる小説のネタを考えている途中だったので、透耶は中断出来なかった。
 ヘンリーはそれを解っているように部屋を出て行った。
 それを見送って、透耶は溜息を吐いた。
 どうも最近眠過ぎて、集中出来ていない。
 そこへドアがノックされた。


「で、いきなり寝る?」
 居間へ通されたヘンリーは、鬼柳から詳しく透耶の様子を聞いた。
「うん。ここへ来てからなんだ。最初は疲れてたのかと思ったんだが、夜は早くから寝るし、朝は早いが、ここ2日くらい昼間もいきなり寝るようになってきた」
 いきなり眠る病気は、殆ど聞いた事がない。
 透耶にそういう持病がある話は聞いてないし、健康そのものだった。それは沖縄で自分がみたのだから、ヘンリーが一番よく解っている事であった。
 それが、たった一ヶ月足らずで、しかもここ数日で容態が変わっている。それもただ眠るだけ。
 ヘンリーはある仮説が頭を過った。
「その時の思考能力は?」
「眠る前は殆どない。答えはするけど、眠いしか言わない」
「まさか、あっちの方で酷使した?」
 ヘンリーの問いに、鬼柳はキョトンとする。
「は?」
「セックス」
 その言葉に鬼柳は納得した。それは一番に疑う事だろう。
「いや、ここへ来てからは一度もやってない。来た日から死んだように眠ってから」
 なんていったって、悪戯しても目を覚まさない程に眠っているからやれるわけがない。
「ふーん。風邪薬とか、何か鎮痛剤は飲んでない?」
「それもない。薬類は宝田が管理してる。使われた形跡はないし、透耶も家から一歩も出てないから、買って来れるはずはない」
 透耶が異様に眠るようになってから、薬の管理は宝田が行っている。それに元々透耶は薬が何処にあるのか知らないのだ。
「元々、精神安定剤を飲んでるとかは、ないよな」
 ヘンリーは自分で言いながら、それはないだろうとは思っている。
「考えられるから、探したんだが、そういうのはなかった」
 一度透耶が家に帰っている間に、そういう薬を持ち出した可能性は、鬼柳も疑っていた。
 悪いとは思ったが、透耶の持ち物は全部調べた。書斎も全部調べたがそういう物は出なかったし、薬なら使った形跡が残るので解るはずだが、そのゴミも出てなかった。
 通院記録も宝田に調べさせたが、透耶が病院にいったのは、去年、風邪を引いた時と、今年4月のあの誘拐の事件の時で、睡眠薬などが投薬された記録は何処にもなかったのだ。
「おかしいなあ……。記録まで調べてるなら、持病があるならそこに記載されてるはずだ」
 今、そういう病気が発症した可能性はあるが、それがここへ来てからというのが、ヘンリーには引っ掛かった。
「それと、昨日と今日。透耶が嘔吐しているのを宝田が見てる。それから気になって見ていたんだが、吐くのは朝起きてからだけのようだ」
「嘔吐ねえ……朝起きてからだけとなると……」
 そう話していると、ホール側のドアが開いた。
 一斉に皆が振り返ると、透耶がドアに凭れ掛かるようにして立っていた。
「……恭、……ここへ置いてた、ノート知らない?」
 やっと喋っているという風な言い方で透耶が言うと、鬼柳が駆け寄って透耶を支えた。
「透耶、また眠いんだろう?」
「……ん、でも、仕事、しなきゃ……」
 言いながらも完全に目を閉じている。
「仕事は後でやろう。眠いなら眠っていいから」
「……うん」
 鬼柳に言われ安心して透耶は眠ってしまう。
 崩れる身体を鬼柳が抱え上げて、開いているソファに寝かせる。
 初めて透耶が眠ってしまう所を見たヘンリーは確信した。
 前と同じ眠り方だった。
「ははあ、これ、薬だ」
 沖縄で透耶を治療する時に、薬を入れた時も透耶はこうやっていきなり眠った。
 同じである。
「え? 薬?」
 鬼柳がキョトンとする。
「うん、眠剤か精神安定剤」
 ヘンリーは透耶の脈を取ってみるが、少し乱れている。手も冷たい。急激に薬を与えられた状態であり、これは普通 に飲む量でもない。呼吸が弱いが、病院に運ぶ程重傷でもない。
 だがやる事がある。
 ヘンリーは携帯電話で自分の病院に電話し、幾つか点滴を持ってくるように伝えた。
「点滴って?」
 心配した鬼柳がヘンリーに問う。
「ああ、ちょっと用心の為。中毒に成りかかっているかもしれないから、血液中の薬の効力をなくしたいと思ってな。大丈夫、病院に連れて行く程じゃない」
 テキパキと作業していくヘンリーを見て、鬼柳は溜息を吐いた。
「病気じゃないんだな」
「病気じゃない。薬だ」
 ヘンリーはそう言うと、透耶の掌を両方匂いを嗅いで、上がって書斎に向かった。
 鬼柳も透耶を宝田に任せて付いて行く。
「鬼柳さん、悪いけど、もう一度家捜ししてくれない?」
「解った」
 ヘンリーが何を思っているのかはすぐに解った。
 机の引き出しから全て調べたが、薬は疎かその塵さえ出ない。
「やっぱり、透耶が自分で飲んだんじゃない」
 ヘンリーが断言した。
 手の匂いを嗅いだのは、薬の匂いがしないかどうかを確認したかったからだった。しかし透耶の手からは匂いすらしなかった。
「どういう事だ?」
 透耶が自分で飲んだのではないとすれば、どうやって薬を飲む事が出来ると言うのだ。という疑問が含まれた問いだった。
「さっき見た時、透耶は疲れていたけど、眠そうではなかった。時間にして30分程。どれだけ強力な眠剤でも、1時間程効くまでにかかる。逆算すれば、俺が透耶を見た時には、もう眠たくなってなければならない。でも違った」
「?」
 そんな説明では、鬼柳はさっぱり解らない。
「いきなり眠る程となると、急激に強い安定剤を与えなきゃ無理だ。そんなの自分で飲む訳ない。知ってるか? 透耶は眠る薬が嫌いなんだよ。それにこれ程の量 は、今の処方じゃ出ない事になってる。
 仮に透耶が持っていたとしても、今までの経過からして、それだけの量があるなら、探した時に出てきているはずだ。注射系なら30分くらいで効くのもあるが、透耶にその痕はない。なら解らないまま飲まされていると考えた方が妥当だ」
 ヘンリーは言って、テーブルに置かれているペットボトルの水を取り上げた。
 水はよく冷えている。
 薬を飲んだなら、そのゴミがあるはずだ。日本で眠剤系を手に入れる方法はいくらでもあるが、それでもシートや包み紙がないものはない。
 そうなると、もうこれしかない。
「鬼柳さん、透耶が書斎に入ってどれくらい時間が経ってる?」
 ヘンリーの質問は変なものだが、それでも透耶の事に関係しているのは明らかなので鬼柳はそれに答える。
「そうだな、昼の1時に入って、それから一度も出て来ていない。心配だから、居間にいる間はここを見ているから間違いはない」
 鬼柳の説明で、ヘンリーはなるほどと頷く。
「もう3時間は経ってる訳だ。じゃあ、この水は何で冷えてる訳?」
 ヘンリーは言ってペットボトルをテーブルに置いた。
 書斎には冷蔵庫なんてものは置いてない。
「透耶がもし、自分で水を取りに行く気があったなら、仕事に集中出来ないでいたはずだ。透耶の集中力は並じゃない。仕事を中断したなら、ここに俺がいるのに、わざわざ別 ルートから水を取りにキッチンへ行くと思うか?」
 ヘンリーの質問の意図は鬼柳にも解った。
 それは透耶の性格からしてあり得ない行動である。
 なら、透耶以外の人物が水を書斎へ運んだ事になる。
「誰かがその水に仕込んでるって事か? しかもそれをわざわざ透耶に渡してたと? ああ、透耶は飲みかけの水を冷蔵庫へ戻す癖がある。飲み切らないんだ。それは寝室にもある」
 ここにいる者なら、透耶の癖はよく知っている。冷蔵庫と寝室にある冷蔵庫の両方を自由に触る事が出来、今透耶に水を渡す事が出来る人物は一人しかいない。
 それはもうヘンリーにも解っていた。
 メイドの野田妙子しかいない。
「なら、それしか考えられない。でも意味が解らない。透耶を眠らせてどうするんだ?」
 殺害する訳でもない。精神安定剤の強力なものを与えつづければ、いや、もっと量 を増やしていたら、意識のない透耶を殺害することは可能だ。
 透耶が嘔吐しているのは、薬が合ってないからだ。それを吐き出そうとしている。ああいうのは合わない人にはそうなる。
 しかし、妙子は、透耶を眠らせる事しか考えていなかったようだ。それも夜だけ。今は昼にも眠らせようとしているが、その意味が解らない。
「どうするかは、そいつに聞けば解るだろう」
 鬼柳が言って立ち上がった。
 ヘンリーはそれを止めようとは思わない。
 鬼柳にとって、相手が誰だろうが、透耶に危害を加える人間を許せる訳がないからだ。
 しかし、意外な人物から止めが入った。
「恭一様、私にお任せ下さいませ」
 言ったのは宝田だった。
 宝田は今、誰が犯人なのか気が付いたようだった。
「恭一様でも私でもなければ、こんな事ができるのは一人しかいません。ですが、それを家に入れたのは私の落ち度でございます。ですから、私にお任せ下さいませ」
 鬼柳は暫く宝田を無表情で睨み付けていた。だが、それで怯む宝田ではない。やはり慣れがある分、鬼柳が今何を考えているのかは手に取るように解る。
「お願い致します」
 宝田はもう一度言った。
 それで折れたのは、鬼柳の方だった。
「勝手にしろ。俺がどうかしてしまう前に」
 ぶっきらぼうに鬼柳がそう言った。
「ありがとうございます」
 宝田は頭を下げると、妙子を探しに下がって行った。
 それを見ていたヘンリーが意外そうに言った。
「へえ、鬼柳さん、メイド殺すかと思ったのに」
 言い方は呑気そうだが、目は笑ってないヘンリー。
  鬼柳は溜息を吐いて透耶の側で座る。眠っている透耶の顔を撫でて、髪を梳く。
「今でも殺してやろうと思ってる。しかし、宝田のメンツもあるしな。それに透耶は何も知らない。出来れば黙っていたい」
 自分がどうこうする前に、透耶の気持ちを考えるとこうするしかないと、納得しなければならない。
「まあ、メイドに眠剤仕込まれてたなんてショック受けるよな」
 ヘンリーは、そう言って溜息を吐いた。
「過労って事でやって欲しいんだが」
 鬼柳がそう頼むと、ヘンリーは頷いた。
「OK。やたら眠かったのは、今までの疲れが出ての症状って事にしておこう。嘔吐もそれが原因。でもさ、鬼柳さんがメイドを殺していたら、俺は遺体の処理もしてやったんだけどな」
 物騒な事を平気で口にするヘンリー。
 驚いて鬼柳がヘンリーを見る。
 瞳に真剣な色が見える。冗談で済ませないというのは解る。
 鬼柳はニヤリとしてしまう。
「へえ、温厚なお前でも怒っている訳だ」
「当り前。どう考えたって、透耶は何も悪くないんだ。あのメイドの嫉妬って下らない事でお気に入りを滅茶滅茶にされるなんて、許せる訳ないだろう? 俺はそこまで寛大じゃないんだ」
 ヘンリーはそう言い切った。
「物騒だな。で、下らない嫉妬って何だ」
 本当に何の事だが解らないという顔をしている鬼柳。
「あのメイド見たら解る。鬼柳さんを好きなんだよ」
 ヘンリーは本当に気付かなかったのかという顔をしている。
  鬼柳は眉を顰めて訳が解らない顔である。
「何だそりゃ?」
 本心からそう思っている顔だ。
 そりゃ、他人に興味がない鬼柳だ。そんな他人の感情などに気が付くはずもない。
 そこへ宝田が戻って来た。
「どうだった?」
 ヘンリーが尋ねる。
「それが、意味の解らない事を申しまして……。その恭一様の為だとか言っております」
 いいにくそうに言う宝田に、鬼柳がハッキリ言えと視線だけで訴える。
「鬼柳さんの為ってなんだ?」
 代わりヘンリーが質問した。
「その、透耶様を悪魔だと申しまして、悪魔に渡してはいけないと……」
 どうも内容がぐちゃぐちゃらしい。
 何度問い返しても、透耶を悪魔だと言い、鬼柳を助ける為だと口にするだけで、理由はそれだけだと言う。透耶に鬼柳から離れるように、嫌がらせもしたし、透耶の言葉は聞かないという、メイドとしては失格の態度も取っていた。
 それでも透耶が出て行く素振りも見せないので、薬の量を増やしたのだと。
「結局はさ、鬼柳さんが好きだったって事でしょ?」
「それも申しておりました。理由については、悪魔から恭一様を守る為だと言い張りまして」
 どうも、それ一本でしか説明をしたがらないメイドの妙子の様子に、宝田も辟易しているようだった。
 肝心の理由と、どれだけの量を飲ませたのかが解らないから、ヘンリーはイライラして立ち上がった。
「宝田さんともあろう人が、何迷ってる訳。面倒臭いなあ。俺が直接聞いてくる」
 ヘンリーはそう言うと、ダイニングに行った。


 一時間してヘンリーは戻って来た。
「宝田さん、彼女に今までの給料払って追い出して。まったく頭痛い女だ」
 ヘンリーは本当に頭が痛くなっていた。
 あの理由と薬の量。
 本当に、警察沙汰にしてやりたいくらいの出来事である。
「あ、成島さん、点滴やってくれたんだ」
 居間のテーブルの上にはメモが置いてあり、ヘンリーの病院にいる看護士の成島がやって来ていて、ヘンリーが残していたカルテ通 りに点滴を行って帰っていた。
 透耶は寝室に運ばれており、居間に残っていたのは宝田だけだった。
「解りました。寝室は二階に上がって、廊下をまっすぐ、突き当たりのドアです。ヘンリー様、ありがとうございます」
 宝田は言って頭を下げた。
「俺はあの二人が気に入っている。それだけだよ」
 ヘンリーは言い残して、二階へ上がって行った。


 ヘンリーがドアのノックして部屋に入ると、鬼柳はベッドの側の椅子に座って、透耶の点滴していない方の手を握って撫でている。
「何で、いつも透耶なんだ? こうやっているのを見るのは二度目だ。本当は病院に運んだ方がいいんだろ?」
 鬼柳がそんな事を言い出したので、ヘンリーは溜息を吐いて点滴の様子を見た。
「成島さんが喋ったのか」
「ああ」
「口止めしとくの忘れてた。まあ、透耶が何を飲まされたのか解れば俺でも対処出来ると思ったから。大丈夫、死んでしまうような物じゃない、ただ薬の効力で数日辛いだろうから、入院させた方がいいだろうという事なんだ」
「辛いのか?」
 鬼柳が不安そうな顔をしてヘンリーを見る。
「頭痛とか吐き気が酷いと思う。メイドがやってた薬は、透耶に合ってなくて、すでに拒否反応で、嘔吐してるくらいだから、薬が抜けるまで点滴するしかない。目が覚めても丸一日やった方がいいから、通 ってくるよ」
 ヘンリーが言って、点滴の様子を確認し、更に何かをカルテに書き込んでいる。
「結局、何だったんだ?」
 あのメイドが何をしようとして、こんな事をしたのか。そんな事には興味はなかったが、透耶を苦しめるのは誰であろうと許せない。
「セックスさせたくなかったんだ」
 ヘンリーの答えに鬼柳はキョトンとした。
「はああ?」
 本当になんなんだその理由は……。
「透耶が夜早くに寝てしまえば、どうやったって鬼柳さんとはセックスしないだろう?」
 メイドはそう言った。
 鬼柳が透耶に触れるのは許さない。
 それどころか、鬼柳には誰も愛さないで欲しい。
 あの方を誘惑するのは、悪魔だ。初めて見た時に鬼柳に惚れ、透耶を見た時には、鬼柳に優しくされているのを見ると煮えくり返る思いだった。しかもその透耶は鬼柳に抱かれている。なら、抱けないようにすればいい。
 その結論が、透耶を眠らせる事だったのだ。
「解らん。何で昼間まで眠らせるんだ?」
「家の中で、キスでもしてたんじゃないかあ?」
「あああ? そりゃするだろう。それが眠らせた理由なのか?」
 鬼柳は信じられないと、口をあんぐりと開ける。
「そう、セックスさせない、キスもさせない。そうすれば鬼柳さんが透耶に飽きるかもとか期待した。 目の前には年頃の女がいるわけだしな。あわよくば、身替わりでもいいんですーとか思ってたかもしれない」
 ヘンリーの言葉に鬼柳は正気か?と言った。
「無茶苦茶下らないぞ」
 下らない。そんな果てしもない野望を持った女の考えなど、鬱陶しいを通 り越して、馬鹿以外何もない。そんなものの為に透耶は薬漬けにされたのか?
 ヘンリーもこれを聞いた時は、呆れてモノが言えなかった。
 自分の好みの男が目の前に現れたから、それについてきた恋人を悪魔と称して、排除しようとする。しかも自分から告白するわけでもない。鬼柳の方が自分を好きになるかもしれないと期待して待っているだけなのだ。
「俺もそう思う」
 だからヘンリーは頭を抱えてしまったのだ。
「大体、セックスなんて、やろうと思えば、相手が寝てても出来るぞ」
 女の考えより、やっぱりそっちを考える鬼柳には、女の考えなんて一生届かない。
「言うと思った。でもやらなかったんだろ?」
「やったって楽しくない。透耶の反応がなきゃな」
「まあねえ……」
 鬼柳にここまで思わせる程、透耶は鬼柳を全部手に入れている。そして、沖縄で何があったかは想像はつくが、透耶も鬼柳を受け入れている。それでは、いくらいい女でも誰も叶わない。
 鬼柳が何より大事なのは、この世には透耶しかいないのだから。

 
 夜になって、一本目の点滴が終わると、宝田が二本目の点滴をセットする。
 さすがに執事だけあり、こういう事さえ慣れている様子で扱っていく。
 鬼柳はベッドに一緒に入って、透耶に腕枕をしている。
 一緒に眠っているかと思ったが、目は開いている。
 その瞳がずっと宝田の行動を追っている。まるで信用をしていないように、何をしているのかを確認しているようでもあった。
  それが終わると、宝田は鬼柳と視線が合った。鬼柳は何もいいはしないが、明らかに批難の色が見られる。
「恭一様、本当に申し訳ありませんでした。透耶様が目覚められる時にお暇させていただきます」
 宝田は頭を下げて謝る。これで許してはくれないだろうとは思っているが、それでも謝って、何か言葉を貰わなくてはならない。
「……いや、謝られても困る」
 ボソリと鬼柳が呟いた。
 驚いた宝田が頭を上げた。
「恭一様?」
 何故そんな事を言うのか、それが不思議だったのだ。
「……透耶がお前を気に入ってる。それなのに出て行かれると、この事を話さないといけなくなる。これは透耶に話したくないから、メイドは家庭の事情で辞めたという事にする。メイドの事くらいなら透耶を騙せるだろうからな。でもお前の事は多分無理だ。だから辞められると困る」
 鬼柳は面倒臭そうに言って、目を瞑った。
 宝田には信じられない言葉だった。
 鬼柳は失敗した人間を許しはしない。特に透耶が絡むとそれは一層酷くなる。それなのに今回は許そうとしている。
「本当にそれで宜しいのですか?」
 宝田は再度尋ねる。
「透耶に良くしてくれたらそれでいい」
 それが本心。
 透耶にとって良い事であるなら、鬼柳は全て許すつもりだった。
 透耶は宝田を気に入っていて、信用もしている。それは態度を見ればよく解る事で、宝田も透耶に好かれている事を嬉しく思っている。
 もし、ここで宝田を切ったとして、透耶が納得するとは思えない。勝手に宝田が出ていくはずもないと言い出して、何かあったんだろうと騒ぎ出すと、この事を全部話さないといけなくなる。
 それだけはしたくないから、宝田を許すしかない。
「点滴が切れる頃に起こしてくれ」
 鬼柳はそう言うと、それ以上喋らなかった。
 本当に寝る訳ではないが、それが出て行けという合図。
「ありがとうございます」
 宝田は短く礼を言って部屋を出て行った。
 部屋を出ても、入り口で宝田はもう一度頭を下げた。
 失敗を許されたわけではない。
 失敗は許さないが、ここに残る事を許された。
 自分が許されるのは、透耶の為である。
 これは、透耶に向かっての謝罪の叩頭だった。


 透耶が目を覚ましたのは、翌々日の朝早く。
 まだ頭がはっきりと覚めないが、目が開いた。
 二三回瞬きすると、横で誰かが動く気配があった。
「透耶? 起きたか」
 鬼柳の声がして、透耶は完全に目が覚めた。
 頭を動かすと、隣に鬼柳がいた。
「恭? あれ? 俺また寝てた?」
 枯れた声が出た。
 透耶が覚えているのは、書斎で仕事をしていた所までで、自分で歩いてリビングに行った事までは覚えてなかった。
「うん、寝てた。過労だって」
 鬼柳が言って起き上がると、透耶の顔を覗き込んで額にキスをする。
「過労?」
 なんの事だがさっぱりの透耶は、キョトンとする。
「ほら、疲れたように寝てただろ? だからヘンリーに相談したんだ。そしたら過労だって、それで身体が反応して眠ろうとしてたって」
 鬼柳はそう言いながら、透耶の顔を覗き込んで繁々と見ている。
 そういう説明をされて、透耶は納得してしまった。
 医者であるヘンリーがそう言っているのだから自分が気が付かない間に、身体に変調があったのだと。
「何だ、そうだったんだ」
 透耶はホッと息を吐いた。
 ……だから吐いてたんだ。
 よく解らないが、何故吐くんだろうと思っていた。気分が悪いのは、風邪を引いた時に似ていたので、風邪なのだろうか?とは思ったが、ご飯は食べられるし、眠いだけというのも変だと思ってはいたのだ。
「御免」
 鬼柳が謝ってくる。
「何で謝るの?」
「ん、気が付かなかったから。それに嘔吐までしてたんだろ?」
 鬼柳にそう言われて、透耶は吐いてた事はすっかりバレていたんだと解った。
 相談しなかったのを悪いと、この時初めて後悔した。
「何で嘔吐してるのかも、過労だって事も俺だって解らなかったから。ほら、そんな顔しないで」
 本当に申し訳ないという顔をしているから、透耶は微笑んで頬を撫でてやる。
 こういうの前に見たような気がする……。
 透耶はふと思い出した。
 そう、入院した時も鬼柳はこうやって自分を責めた。自分のせいではないのに、御免と謝ってくる。
 しょうがないなあ……。
 首に手を回して引き寄せてやると、鬼柳はそのまま倒れてくる。ちょうど肩の辺りに頭を埋めると動かなくなった。
「?」
 何だ?
 そう思っていると、穏やかな吐息が聴こえる。
 どうやら眠ったらしい。
 ずっと起きて様子を見ていたのだろう。
 そう考えると、透耶は鬼柳が可愛くて仕方なくなる。本当に一喜一憂する人だ。
 透耶が腕枕をする形になって、反対側は予想通りに点滴で身動きが取れなくなる。
 ……うーん、見事に動けないや。
 どうしよう……。
 そこへ、宝田がノックをして入って来た。
 宝田は、透耶が目覚めているのを見るとホッと息を吐いている。
 この人にも心配かけたんだ……。
「すみません」
 透耶がそう謝ると、宝田が慌てて頭を下げてくる。
「私の方こそ申し訳ありません。体調にお気付きになりませんでした」
「いえ、俺も自己管理が出来てなかったんです」
 透耶がそう言っても、宝田はもう一度謝ってくる。
 もう何で鬼柳家の人は、悪くもないのにこうも謝ってくるんだろう?
 透耶が不思議に思っていると、宝田が点滴を取り替えてくれている。
「どれくらい、点滴してなきゃいけませんか?」
「ヘンリー様が、いらっしゃいますので、それまでは続けるように仰せつかっております」
「……そっか」
 透耶は深く息を吐いて尋ねる。
「もしかして、宝田さん、眠ってないんじゃないですか?」
「いえ、私はちゃんと眠らせて頂いております。恭一様は眠られてはいなかったようですね」
 透耶の隣で肩へ顔を埋めるようにして眠っている鬼柳を見ると、宝田の顔が綻んでしまう。
 どんなに深く眠っていても、人の気配で目を覚ます習慣がある鬼柳が、宝田がいるというのに目を覚まさないのは、珍しい事だ。
 それだけ、透耶の側は安心するという事だ。
 そう思うと、どれだけ鬼柳が透耶を思っているのかがよく解る。やっと、一緒にいて安堵出来て眠れる場所を見付けたのだ。
「そうか、それでいきなり寝ちゃったんだ。悪かったな」
 横を向くと、鬼柳の眠っている顔が見える。
 寝顔が普段の鋭い目つきがないから、余計に綺麗な顔。思わず頭を撫でてしまう。
「俺、どれくらい寝てました?」
 透耶がそう聞くと、宝田は困った顔をしながらも答えた。
「二日ほど」
「……そうですか」
 ……俺、寝過ぎかも。じゃあ、恭はその間ずっと起きてた事になるわけ?
 んー、それじゃいきなり寝てしまうのは当たり前だ。
「御気分の方は、宜しいですか?」
 下がろうとしている宝田が尋ねる。
 透耶には嘔吐の問題が残っている。
「う……ん、ちょっと、ヤバイかも……」
 つまり微妙に吐きそうな感じが渦巻いている。
 起き上がったら一発で終わりって感じ?
 透耶がそう正直に話したとたん、鬼柳がガバッと起き上がった。
「吐く?」
 真剣に言われて、透耶は頷いてしまう。
 寝てたんじゃあ……。
「宝田」
「はい」
 はっきり言わなくても、ツーカーな二人。宝田がすぐにバスルームなどがある部屋のドアを開けて、戻ってくると点滴を持つ。それで鬼柳が透耶の身体を抱え上げてトイレに運ぶ。
 運ばれる浮遊感で透耶の吐き気は一気に本物になる。
 ぐっと吐くのを我慢していると、トイレの前で降ろされた。
「もういいぞ、吐け」
 そう言われて、透耶は我慢していたのを解放した。
 とはいえ、吐く物は殆どない。
「……ゲホッ、ゲホッ……」
 吐き終わると、ヒューヒューと苦しそうに息をする透耶に、鬼柳が水を持ってくる。
「口を濯げ、気持ち悪いだろ」
 言われた通りにすると、透耶はグッタリとしてしまう。
 身体を起こすと余計に目眩がする。
 透耶は、鬼柳の服にしがみついて深呼吸を繰り返す。
 あまりに苦しそうにするから、鬼柳も更に心配になる。
 まさか、毎朝こうなっていたんじゃないか、そういう事にさえ気が付かなかったのか。
 それが悔しくて仕方がなかったし、こういう事をした、メイドをやはり殺しておくべきだったか、と鬼柳は真剣に考えてしまった。
 ベッドに横たえると、透耶は深く息を吐いて気分を静める。
「大丈夫か?」
「ん……さっきよりいい……」
 鬼柳が透耶の髪を梳くって撫でるので、透耶の気分が落ち着いてくる。
 気分がいい。
「……それ、気持ちいい」
 うっとりとしてしまう透耶。
 撫でられる事が気持ちいい。そう言われて鬼柳は笑ってしまう。そんなことはとっくに知っている。
「じゃ、寝るまでやってようか?」
「ん……」
 そのまま撫でていると、透耶は眠ってしまう。
 宝田はそれを見ながら、部屋を出て行った。

 透耶が次に目を覚ますと、ヘンリーがいた。
 点滴を外しながら、透耶が目覚めた事にヘンリーが気が付いた。
「どう?」
「……朝よりいいです」
 いつの朝なのかは解らないが。
 透耶がそういう顔をしていたのだろう、ヘンリーが笑って言った。
「透耶が一回目を覚ましてまた寝てから、丸一日経ってるよ」
 この言葉を聞いて透耶は、嘘~と言いたくなった。
「吐き気はない?」
「今は……ないです」
「頭痛は?」
「……しません。頭が少しぼーっとしてる感じ……」
「そっか。少しの間、体調は悪いかもしれないが、無理はしないように」
「はい。ありがとうございます」
 透耶はヘンリーに礼を言う。
 ヘンリーは、熱を計ったり脈を取ったり、色々やっていたが異常はないようだ。
「鬼柳さん、入って来ていいよ」
 ヘンリーがそう言うと、鬼柳がいそいそと部屋に入ってくる。何で部屋出てたんだろうと、思っているとヘンリーが笑って説明してくれる。
「くっついて離れないから、診察出来なかったんだよ」
 なるほど……。
 納得出来たのは、鬼柳がベッドに上がり込んで来て、顔中にキスされて頭を撫でられているからだ。
 そうされている透耶は、少し妙な気分になってきた。
 んー、これは、ヤバイかなあ。
「恭、ちょっと離れて……。ヘンリーさん」
 鬼柳を押し退けて、身体を起こすとヘンリーに耳打ちをした。
 ヘンリーは驚いた顔をしたが、少し考えて言った。
「透耶がそれでいいなら、いいんだけど」
「無理かなあ?」
「今週はやめておいた方がいい、と、これは医者の意見だけどね」
「ん……じゃあ、我慢する」 
 透耶はそう言って引き下がった。
 それを見ていた鬼柳が擦り寄ってくる。
「何の相談なんだ?」
 とにかく透耶に関する事での秘密は絶対に許さないという態度である。透耶は少し困った顔をしてヘンリーを見る。
 ヘンリーは笑って言った。
「鬼柳さん、セックスはまだ禁止だからね。透耶がいいと言っても駄目だよ。今週いっぱいは認めない」
 ヘンリーの言葉に透耶は顔を真っ赤にする。
 ストレートに言わないで欲しい……。
 鬼柳はそれを言われて固まった。
 透耶もまさか自分でそんな事を相談するとは思わなかった。
 顔を見ていたら、したくなっただなんて。
「それは……透耶が、したかったって事か?」
 信じられないという風に鬼柳が尋ねる。
 透耶は素直に、うん、と頷く。
「……透耶、あんまり可愛い事言うなよ……」
 鬼柳はそのままベッドに減り込んだ。
 抱き締めてやりたい所だが、透耶の状態からして深いキスもしてはいけないんだと思っていたから、それを今我慢しているのだった。
 ハッキリ言って、おあずけされて、目の前に美味しいモノがあるのに触る事も出来ない、生殺し状態だ。
 しかも、透耶からしたいなどと言われたのは、これが二度目だ。
「ごめんね……」
 透耶は本当に申し訳なくなって謝ってしまう。
「とおや~」
 情けない声で鬼柳が言う。
 生殺し、更に追い討ち。
「透耶、それ以上は生殺し」
 ヘンリーが助け舟を出す。
 その言葉で透耶ははっとしてしまう。
 もしかして、追い討ちかけてる?
 じーっと見ていたが、鬼柳は起き上がらない。
 爆笑したヘンリーが診察を終えて帰って行くと、鬼柳が情けない顔をして起き上がった。

「ちくしょー、やりまくりてぇ」
 ストレートに言う鬼柳は顔がマジだ。
 透耶はそんな鬼柳を見て、布団から這い出してた。
「透耶?」
 いきなり起き出したから、鬼柳が止めようとすると、透耶は鬼柳に近付きキスをする。
 鬼柳は驚いて動かなかったが、透耶はわざと誘うように口を開かない鬼柳の唇を舐めた。
「……と」
 透耶、と呼ぼうとしたのだが、開いた口に透耶が舌を滑り込ませる。
 舌が絡まってきて、鬼柳は我慢が出来なくなった。
 こうなると、主導権は鬼柳に移る。
「……ん……」
 透耶がいつもより激しく答えるから、鬼柳も駄目だとは解っているが、無理をさせるとは解っていても止まらない。
 抱き寄せて深いキスをする。
「……ん、はあ」
 唇が離れると、透耶は完全に身体の力が抜けた。
 久しぶりに、強烈なキスをした。
 飢えて食らいつくす様に求められて、透耶は何故か満足していた。
 一方、鬼柳は焦った。
「うわ、御免!」
 慌てて透耶をベッドに寝かせると、頬を両手で掴んで覗き込んだ。目を瞑っていた透耶の瞳が開いて鬼柳を見上げている。
「俺も御免……」
 心配そうに覗き込まれて、透耶はいつものように微笑む。
「透耶……挑発しただろ……」
「うん……したかったんだ……」
 朦朧としている透耶は素直に答えていた。
「嬉しいけど、今なのか?」
「うん……」
「何故?」
 いきなり透耶がそうした事を言うとは信じられない鬼柳。
「顔、見てたら、したくなった……。それに……駄目だと言われると、したくならない?」
 悪戯っぽく見つめて言うと鬼柳はやっと笑ってくれる。
 それから何か思い付いたように鬼柳が言った。
「じゃあ、中に入れないから、やってみる?」
「はあ?」
 ……何だそれ?
「初心者用」
 鬼柳はいいながら透耶を抱き寄せる。
「でも、お風呂入ってないから、汚いってば……」
 そう言った時には、鬼柳は透耶のパジャマを脱がしている。
 脱がしながら首筋から舐めていく。
「あ……駄目……汚いって…」
 鬼柳を押し返そうとするが、今の透耶ではそれは何の抵抗にもなっていない。
「ん、何処が?」
 鬼柳は、ニヤリとして、透耶を久しぶりに味わうなあとか思いながら、丹念に舐めていく。
  手は透耶の身体中を這い回る。
「ん、や……ん……あ」
「いい反応……可愛い」
 ズボンも下着も剥ぎ取られて、鬼柳も服を脱ぎ捨てる。
 座ったままの状態で、鬼柳がキスを降らせてくる。
 透耶はいきなり自身を握られて身体が跳ね上がる。
「んん……」
 既に身体を舐められただけで立っているそれは、液を流している。
「俺と一緒に」
 鬼柳は、透耶自身と自分のを擦り合わせると、両方を握って扱き始めた。
「あ、ん……」
 ゾクリと一気に快感がやってきて、透耶の身体が反り返る。
「気持ちいい?」
 鬼柳が聞くと、透耶は素直に頷いた。
「ん……いい……」
 朦朧としているのだろうか、言葉にもしてくれる。
 これも珍しい反応だ。
 こういう事を聞くと大抵睨まれるのだが、この反応から、透耶も我慢が出来なくなっているのが解る。
「ん……」
「俺も最高」
 しかし、先に達したのは透耶の方だった。
「や、ごめん……」
 一緒にいこうと思っていたのに、気持ちよさに先に達してしまった事を透耶は謝った。
 鬼柳はそんな透耶に微笑む。
「よかったんだろ?」
 わざとそういう聞き方を鬼柳はしてみる。
 すると、透耶は頷いた。
 これで、鬼柳は確信した。
 やはり、今日の透耶は普通じゃない。
「でも……」
 鬼柳がまだ達してない。
 透耶が慌てていると、鬼柳は自分で処理するために立ち上がろうとした。
「俺が……!」
 透耶は言って鬼柳自身に手を伸ばした。
 さっきのような事でも確かに感じていたらしく、先から密が出ている。透耶は握って扱いた。
「……えっと。自分でやるから」
 鬼柳が遠慮していうが、透耶は聞いてない。
 既に手が扱き始めている。
「……ん」
 息を吐き鬼柳が甘い声をあげる。
 あまりに感じているイイ顔をしているから、透耶はしゃがみ込んで、鬼柳自身を口に銜えた。
「え? と、透耶!」
 透耶に銜えられて、鬼柳は驚いて目を開けた。
 透耶がしゃがみ込んで銜えて口で扱いているのを見て慌てて、透耶の頭を離そうとしたが、透耶は言うことを聞いてくれない。
「それはしなくていい……」
「やだ」
 透耶は、まだ頭の中がはっきりしないのか、妙に拗ねて意地になって、鬼柳自身を再度銜えた。
 やっぱり普通じゃない。
 けど、気持ちいいんだけど。
 どうしたものかと、鬼柳が迷っていると、透耶はさっさと先へ進めていく。
「……とおや……」
 根元を握って先の方だけを舐める。
 鬼柳がやっていたようにと透耶は奉仕する。
「う……ん、とおや……」
 頭を抱え込まれて、鬼柳が甘い声を上げる。
 積極的な透耶の奉仕に、さすがに一週間もおあずけをくらった鬼柳の限界は速かった。
「……とおや、もう……」
 透耶もこれ以上続けるのは自分の体力的に無理だと判断して、手を離した。しかし、まだ銜えたままだった。
「っ……!」
 鬼柳は透耶の口に放ってしまう。
 これだけはマズイと鬼柳も思っていた。
 なのに、自制がきかなかったのだ。
 透耶がそのまま飲み込もうとしていたので、鬼柳が叫んだ。
「透耶、駄目だ! 吐け!」
 そう言われて透耶は洗面所へ抱えられて連れて行かれた。流しに押し付けられて口に指を突っ込まれる。
 そうすると口が開くので、精液を吐き出さされた。
 そして急いで水でうがいをするように言われた。
「そんなにしなくても……」
 ぐったりしながらも透耶がそう言うと、鬼柳が言った。
「馬鹿言うな。空きっ腹にんなもん入れたら吐くだろうが」
「……そうか……」 
 透耶がそう溜息をつくと、そのままバスルームへ運ばれた。
 お湯はもう張ってあったらしい。
 ちょうど、裸同士だったので、そのままシャワーを浴びせられて身体を洗われる。
 綺麗に洗われて、シャンプーまでやってもらってお湯に浸かる。鬼柳は自分で身体を洗っている。
 全部が済むと、鬼柳も湯舟に入ってきて、透耶の身体を自分の足の上に乗せて安定させる。
 何故だか向かい合わせだ。
 鬼柳は口笛を吹いている。余程機嫌がいいらしい。
「口笛ってさ。女の子が人前で吹くのはよくないって言うよね」
 透耶がいきなりそう言い出したので鬼柳が不思議そうな顔で透耶を見た。
「何で?」
「キスする形になってるからだって。今どき言わないのかなあ?」
「ふうん。透耶は口笛吹けるのか?」
「ん、俺? 吹けるよ」
 透耶が言って口笛を吹こうとすると、すっと鬼柳がキスをしていく。
 いきなりキスをされたので透耶が驚いた顔をしていると、鬼柳がニヤリと笑った。
「本当だな。誘ってるみたいだ」
 もしかして、余計な事を教えたか?
 それを実践する鬼柳が鬼柳らしくて笑ってしまう透耶。
 その笑っている透耶の頬を手で撫でて鬼柳が笑う。
「そういう顔、他でするなよ」 
 などと言われるから、透耶も困る。
「どういう顔だよ……」
 まったく、意味が解らない。
 鬼柳はよく、そういう顔を他でするな、とか、見せるな、とかいうのだが、透耶にはさっぱり解らない。
「身体、辛くないか?」
「ん、大丈夫……」
 正直、今は気持ち良かった。肩が出ているから鬼柳がお湯を漉くって肩へとかけている。
「今日、綾乃のコンクールだったけど。ちゃんと説明しといたから」
 鬼柳がそう言ったので、透耶はそれを思い出した。
「あ、今日だったんだ。今からでも間に合うかな?」
 風呂場にある時計を見ると、ちょうど昼を回ったところだった。
 プログラムでは、綾乃は最終の方だったので、急げば演奏は聴けるはずだ、と透耶が考えていたのだが、それを鬼柳が止めた。
「無理して行く事はない」
「聴きに行くだけなんだから、大丈夫だって」
 透耶はそう言って笑う。
 しかし結局外出許可は出なかった。
 途中でまた倒れたりしたらどうするんだ、という鬼柳の言葉に透耶は反論出来なかったからである。
 後で綾乃に謝りの電話を入れよう。透耶にはそれしか出来る事はなかった。




 風呂を出て、食事を作るという鬼柳について透耶は一階へ降りて行った。
 ご飯類は食べれそうにないが、果物なら剃り下ろしたモノが食べられるだろうと鬼柳が用意し始めた。
 そこで透耶はメイドの野田が辞めた事を聞かされた。
「……そうなんだ」
 透耶の感想はそれだけだった。
 透耶には珍しく、メイドに懐かなかったのも鬼柳は少し気になっていた。
 沖縄の使用人が優しかったのもあるが、透耶は誰にでも親しく接する事が出来る。地位 の関係などどうでもいいみたいに、誰にでも同じように接する。
 だが、宝田には懐いているのに、メイドにはそういう態度は微塵も見せなかったのだ。
「もしかして、あまり好きじゃなかった?」
 鬼柳がそう聞くと、透耶は少し言いにくそうに口を開いた。
「ん、ま。宝田さんが選んだ人だから、出来る人なんだろうけど。その、何か……俺の事、見る目というのかなあ? 汚いモノを見る目って感じがあった。まあ、恭とこういう関係だから、偏見はあるだろうし、仕方がないとは思う」
 つまり相手からそういう目で見られているという事を透耶の方が敏感に感じ取っていた訳だ。鬼柳の方はまったく気にしないので気が付かなかった。
「そう見えたのか? だったら最初にそう言えば良かったのに……」
 そう鬼柳が言ったが、透耶は少し考えて言った。
「だって……彼女、恭の事が好きだったんだよ。だから余計に俺の事嫌いだっただけだよ。それ以外では、問題ないし」
 透耶は本当に何も問題はなかったと言う。
 しかし鬼柳はメイドが何をやったのかを知っている。
「そういう問題が一番問題なんだよ」
 だから事件が起きたとは口が裂けても言えない。
 とはいえ、透耶は自分が嫌われている事を知っていた。何が原因なのかさえも。
 しかも、メイドは透耶に対して、出ていくようにも嫌がらせをしてたと言っていた。
 透耶にとっては、それすら大した事ではないらしい。
「恭、気が付いてなかったじゃん。そんなの俺の口から言えるわけない。彼女だって俺が気付いているとは思ってないだろうしさ。もし、彼女が行動に出るなら、俺は戦う気はあったけどね。恭を誰かに渡すなんてもう出来ないよ」
 でも、あくまで相手の気持ちが優先である。
 メイドが告白する気はなかったというのも解っていた。もちろん、告白されたって透耶が鬼柳を譲る事はない。だから嫌われていても仕方がないという結論に至る。
 自分さえ我慢すれば、それで周りが治まるならそれでいいという自虐的な考え方だ。
 あえて、好かれようとはしない。
 ただし我慢して、鬼柳を渡す気は更々ない。
 そういう透耶の考えが解って、鬼柳は嬉しいやら悲しいやら。
「沖縄の人達が特殊だったのかな? 俺、あの人達好きだったから」
 透耶が懐かしそうに話すので、余程あの屋敷が居心地がよかった事が解る。
「まあ、あいつらは出来過ぎって感じだからな」
「じゃあ、エドワードさんに人を見る目があるって事だよね。凄いなあ」
「それは認める」
 渋々鬼柳は認めた。
 エドワードの才能は認めるが、どうも過去に何かあったらしく、鬼柳はあまり関わり合いになりたくないらしい。
「でさ、メイドさん、どうするの?」
 透耶は何気ないように聞くと、鬼柳の動きが止まる。
「……暫くはいらん」
 鬼柳の押し殺したような声が返ってくる。
「そう? 困らない?」
「別に」
 言い方があまりにそっけなかったので、透耶は少し不安になる。
 メイドが辞めたのは、別の意味があったのではないか?という事である。しかし、それは聞けなかった。
 そこへ宝田が入って来たので、透耶が尋ねる。
 同じ事を聞くと、宝田まで一瞬だが固まった。
「それですが、今代わりがすぐには見つかりませんので、掃除だけを業者の方へお願いしようと考えております」
 何とかそれだけを宝田は伝えた。
 まさか、また問題が起こるかもしれないから、鬼柳が嫌がっているとは言えない。
 透耶は宝田の説明に納得したようだが、宝田はヒヤヒヤである。
 透耶は、これで確信した。
 メイドは何かやって、それで鬼柳を怒らせたのではないか、ということだ。その理由を知られたくない。そんな節がある。
 透耶はその理由を聞かない事にした。
 その問題はもう終わっている事で、鬼柳と宝田が蒸し返したくないという風だからだ。
 まあいいや。
 透耶はそれを考えるのをやめて、鬼柳が出してくれた果物を平らげた。