switch101-18 ハーモニカ
引っ越しの為に荷物を整理していると、懐かしいものが出てきた。
放置していたにも関わらず、銀色に光るハーモニカ。
吹けもしないのに、あいつは死ぬまでこれを大事に持っていた。
最後の最後で、ハーモニカを俺に渡して。
「記念だから吹いてみせてくれ」
そんな事を言うから、俺は言う通りにしたんだが、まさか、それが最後になろうとは思いもしなかった。
一応、吹いた事はあるので、簡単な「キラキラ星」を一曲やってやった。
あいつは嬉しそうに聴いていた。
これが誰から貰ったのか俺は知っている。
あいつを殺した病気を移した奴。
あいつは言った。
「これは、あの人に最後のプレゼントって貰ったんだ。別に俺は吹けないんだけどさ。何をプレゼントして欲しいのか解らなくてな。咄嗟に目に入ったこれを強請った。それが最後」
そう、そいつはそれを渡して直に自殺をした。
病名は、エイズ。
奴は悲観して、あいつを置いて先に楽な方へ逃げた。
そいつがエイズだった事が解ったのは、解剖して調べられた時だ。
あいつは、毎年、検査をしていたし、奴以外とは寝ない主義だったから、あいつから移る訳はないから、奴が何処かで貰ってきた事になる。
奴は自分がエイズなのは知っていただろう。そしてあいつに移してしまったという事も解っていた。
それなのに、自分だけが悲観し、置いて逃げた。
最低な野郎だ。
それでもあいつは仕方がないと笑っていた。
「あの人が悲観する気持ちは解るよ。俺に相談してくれなかったのは悲しいけど、あの人は弱い人で心が繊細過ぎたんだ。だから病気の事でパニックになっただけだよ。感染したのは仕方がない。危険性があるのに、避妊具をつけなかった俺が悪いんだ。失敗とは思わないけど、後悔はしている」
心が繊細な奴程、自分を美化しやがるから嫌いだ。
リスクがあるのは当然で、それを解っていないのはおかしすぎる。
それに、他で貰ってくる様な奴が繊細なのか?
だが、それは言えない事だった。
もう、奴はいないし、今更だからだ。
「そういえば、恭は、いつも万全だよな。ナーザスがぼやいてたよ。嫌な程完璧だってね」
俺は、別に病気は怖くないが、常識として認識している。
自分はよくても、相手に悪い。
こっちは、性の捌け口にしているだけだから、病気のリスクを相手に負わせるのは違うと思っている。
相手がリスクを背負うと言っても、後で揉めるのは解っているからな。
俺がそういう考えでいる事をあいつは納得していたけど、あいつなりのこだわりはそういう事ではなかった。
「自己中心的な考えなんだけど、俺は、本当に好きだったから、病気を移されても仕方がないと思った。だから、避妊はしなかっただけ」
では、何に後悔をしているんだ?俺がそう聞くと、あいつは笑って言った。
「うん、それはやっぱり、両親かな? せっかくさ、あの人との事を理解して貰った矢先にこれだろ? 息子が幸せになるはずが。養子でもいいから、子供を持てとも言ってくれたのにね」
理解のある両親。
あいつの両親は、こんな俺でも優しくしてくれる。
俺がバイである事も知っている。
それでも偏見はない。それが不思議だった。
「昔は偏見も多いし、誤解もあったけど、両親の親友にそういう人がいて、ちゃんと幸せになった人がいるんだって。だから、息子がそうなったとき、まっ先にその人に相談して、やっと理解したらしい」
あいつに包容力があるのは、こういう親がいるからだろう。
「避妊しとけば良かったよね。そうすれば、少なくとも両親は悲しませずに済んだから」
あいつは最後に笑ってそう言った。
でも何故最後の最後に、俺にハーモニカを吹かせたのかは解らない。
俺もさほど気にせずにその日は帰ったのだが、次に会いに行った時は、もうあいつには会わせて貰えなかった。
あいつが嫌がったんだそうだ。
元気だった自分を覚えておいて欲しいから、死に行く姿を見せたくないと、母親に伝いに言われた。
俺はどんな姿になろうとも、あいつが元気だった頃を忘れたりはしない。
それでも、あいつが頼みごとをした2つ目だったから、俺は容態だけ聞きに病院へ通 った。
あいつが死んだのは、それから一年後。
仕事で出ている先に、エドから連絡があった。
葬式は既に済んでいるし、急いで行った所で何にもならないのは解っていた。だから、俺があいつを訪ねたのは、それから半年後だった。
久しぶりに訪ねた、あいつの両親の家でハーモニカを渡された。
「あの子がね。それを恭に渡してくれって言ったの。大事にしてたモノだから、形見分けにはいいんだけ、これだけは恭に渡してくれって」
あいつは遺言は一切残していなかった。
ただ、これを俺にとだけ言ったそうだ。
「幸せだったのよね、あの子。だって、最後は笑ってたのよ。こうして訪ねてくれる友達もいるし、忘れないと言ってくれる人もいる。あの子は愛されてたのよね。今はそれだけでいい」
両親は言って笑っていた。
最初にあいつに会ったのは、確か検査の時だ。
その時、もうあいつは感染していて、発症もしていた。
それでも、あいつの話を聞いていると安心した。
ただそれだけだった。
あいつは幸せだったのか? そう聞かれたら頷くしかない。
俺はあいつじゃないから、最後に何を思ったのかなんて解らない。
でも今は解る気がする。
少なくとも、好きな相手といる時間と、何をされてもいいと思う気持ち。
ただ愛し合いたいと思う心。
それは解る気がする。
たぶん、あいつは幸せだっただろう。
あいつは、奴を失ったが、精神的には失わなかった。
奴が自殺したお陰で、誰にも奪われずに済んだ。
ハーモニカは、奴の分身だったのだろう。
だけど、何故それを俺に吹かせて、遺言で形見として渡したのかは、まだ解らない。