switch10

 一週間ぶりに透耶は屋敷に戻ってきた。
 そんなに長い間いた所ではないにしろ、透耶には懐かしい所へ帰ってきた気がした。
 綾乃は、二人を迎えに来た車が運転手付きだったのに驚き、更に屋敷に入るのに、門があってそこにSPがいたのにも驚いていた。
 そして、屋敷自体を見上げて、ポカーンと口を開いていた。
 うーん、驚くよねえ……。
 などと、透耶は最初の気持ちを思い出した。
 玄関を入ると、使用人が勢ぞろいして、出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ」
 そう言って一斉に頭を下げて挨拶をされ、綾乃はまたポカーンとしてしまう。
「綾乃、口が開いてるぞ」
 鬼柳にそう注意され、綾乃はやっと我に返る。
 透耶は、久しぶりに会う使用人と親しく話をしている。
「またお世話になります」
 透耶がそういうと、使用人たちは皆笑顔で頷いている。
 彼等は、透耶がもしかしたら帰って来ないかもしれないと心配していたのだ。それも一安心。鬼柳と仲良く帰ってくる姿を見て安堵した。
「ああ、そうだ。皆、今日から一週間、預かる事になった、綾乃だ。エドも承知しているから、宜しく」
 鬼柳がそう紹介すると、全員が頭を下げた。
「あの、真貴司綾乃です、宜しくお願いします」
 綾乃は自己紹介をして頭を下げた。
 知念が少し考えて透耶に相談した。
「綾乃様のお部屋はどちらになさいましょうか?」
「うーん、俺の隣も開いてるよね」
 透耶がそう言うと、知念がこそっと耳打ちをした。
「申し訳ありませんが、それはお勧め出来ません。透耶様、御自分の部屋に鬼柳様が忍ばれる事をお忘れですか?」
 鋭い指摘だ。さすが知念。
 笑えない話でもある。男の部屋に男が忍び込んでくる光景。まあ、鬼柳の場合は堂々とやってくるからおかしくはないだろうが、朝帰り(?)はさすがにマズイだろう。
「あー、うーん、そうかあー。マズイよねー。あんまり刺激したくないんだけど」
 透耶のいいどよみの仕方で、知念は、ただ預かった訳ではない事を悟った。綾乃は透耶と鬼柳の関係に気が付いてない。
「どういう御用件でお預かりする事になったのでしょうか?」
「あ、ピアノ弾く為に預かったんです。俺がアドバイスするって事で」
「はあ、解りました。それでは、一階のピアノの部屋の隣が客間になってますので、そちらになさいましょうか? 二階よりは安全だと思います」
 安全ねえ……凄いトラップがあるみたいだ。
 まあ、用事があって部屋に入られて、やってる最中だったら嫌だよね。
 そんな事を考えて、透耶は知念に任せる事にした。
「うん、じゃあ、それでお願いします」
「解りました。すぐに準備致します」
 知念は深々と頭を下げた。
 鬼柳はすぐに使用人と打ち合わせして、作業を決めていく。
 綾乃は荷物を預けて、とりあえずピアノを見せて貰う事にした。
 一番暇な透耶が案内役である。
「先生」
 綾乃にいきなりそう呼ばれて、透耶は?マークを浮かべてしまった。恐る恐る振り返る。
「へ? 俺?」
「はい、師事頂くのですから、当然です」
 綾乃はニコリとして言った。
 透耶は少し頭を掻いて考えて言った。
「えっと、それって何か変じゃない? 名前でいいよ。それに敬語もなし。敬語使ってると疲れるし、俺、あんまり好きじゃないんだ」
「でも先生は譲れない。敬語は譲歩しま……するわ」
 正直、綾乃も敬語はあまり好きではなかった。使い馴れているが、どうも環境的に嘘臭い気がしていた。
「それから、鬼柳さんにも敬語なしね。きっと後で怒られると思うよ。最初の勢いは何処へ行ったって」
 透耶が笑ってそう言うと、綾乃は少し顔を赤らめた。
「あれは……」
「うん、あれは凄かった。あの鬼柳さんに怯まないで挑んだの、ちょっと尊敬」
 そういう透耶も結構殴るし、暴れるし、逃げ回ったのだが。
「先生も最初は怯んだの?」
「あーうーん、怯む暇なかったかもねえ」
 怯む前にもっと凄い事あったしねえ。
「鬼柳さんの知り合いが、ランカスターさんなの? じゃあ、もう一人の外国人さんは?」
「ヘンリーさん? あの人はエドワードさんの友達。ジョージさんはエドワードさんの仕事仲間かなあ? どっちにしろ、鬼柳さんがいなかったら、一生出会わなかった人達だね」
「あははは、あたしもそうだ。鬼柳さんが喧嘩売って来なかったら、先生とも出会わなかったんだ」
「そうだねえ。やっぱ、ここは鬼柳さんに感謝かな?」
 透耶が勿体ぶってそう言うので、綾乃は笑ってしまった。
 もちろん、透耶が勿体ぶったのは、それが身体と引き換えに、とは言えなかったからである。
 ピアノがある防音室に案内すると、綾乃は部屋を見て感激し、ピアノを見てまた感嘆の声を上げた。
「すごい、最高」
「うん、ここは凄いよね。俺も驚いた」
「スタインウェイ級のピアノって初めて。先生、いつもこれで練習してるの?」
 綾乃はピアノの蓋を開けて、鍵盤を眺めている。
「ううん、俺が触ったのは一日だけだよ。後はホテルでやってただけだし」
「ああ、ロイヤルスイートにはピアノあったね。あれ? 先生、この屋敷があるのに、どうしてホテルに泊まってたの?」
「はあ、エドワードさんが来てたから」
 ぐは、鋭い所を……まさか、鬼柳さんと喧嘩しましたとは言えない。それも……なんて。
 透耶は何とか誤摩化したつもりだが、綾乃の疑問はまだあった。
「え? でもランカスターさんが泊まってたのは、一週間前からよね。どうしてこっちに泊まらなかったのかしら?」
「エドワードさんが来てたのは、仕事があったから。こっちじゃ、時間がかかるからじゃないのかな?」
「じゃあ、この屋敷の意味がないね」
「どうしてだろう? 気にもしなかったよ」
 透耶もそこまで考えてなかった。確かにエドワードが沖縄に来たのは仕事が目的だったかもしれないが、ここへ泊まらないのはどういう訳なのかは、知らない。
 もっとも、何故ここに屋敷があるのかさえ、透耶は聞いた事はない。何だか、聞いてはいけない気がしていたからだ。
「こんなピアノもあるのに、勿体無いね」
「そうだねえ」
 などと感想を洩らしていると、知念がやってきて綾乃を部屋に案内した。
 部屋を見て使い方などを説明された綾乃は、知念に決まり事を言われた。
「お二階は、鬼柳様、透耶様のプライベートなお部屋になっております。くれぐれも勝手に上がったりしないで下さい。用がお有りでしたら、使用人に声を掛けて下さい。宜しいですね。ピアノ室は鍵を開けておきますので、御自由に何時お使いになられても構いません。それと、ここで見たり聞いたりした事は外部でお話になる事はお止め下さい。お二人とも、バカンスでおいでになられています」
 厳重に行動を制限されて、綾乃はふと不思議に思った。
 何処の御曹子達だ……。




「先生って、何処かの御曹子とか?」
 ピアノの部屋に、練習道具、楽譜や音を取る為のMDなどを持ち込んでいた綾乃が透耶に尋ねた。
「は? 何で?」
 透耶はキョトンとして綾乃を見た。
「だって、そうとしか見えないんだけど」
「それはあり得ない。俺はまったく普通の、ごく一般市民だよ。鬼柳さんと知り合わなければ、こんな所一生来なかったと思うよ」
「ふうん。あ、先生って今仕事はしてないの? なんかバカンスとは言われたけど」
「俺、仕事してるよ。会社とかには就職しなかったけど、家で出来る仕事だからね」
「鬼柳さんもそうなの?」
「ううん、あの人は、本当に休暇中」
 透耶がそう言うと、やっと綾乃の質問が止まった。
 見ると持ってきた楽譜と睨めっこをしていた。練習曲を収めたファイルらしい。
「綾乃ちゃん、さっそく弾いてみる?」
 透耶がピアノの前に立っている綾乃に言った。
「あ、はい」
 綾乃は慌ててファイルを置くと、中から「G線上のアリア」の楽譜を出して置いた。
 透耶も途中で楽譜を何部かコピーしてきたのを取り出して、MDをセットすると、ソファに座った。
 練習をして、本番。
 内容は初めて聴いた時よりは良かったが、透耶はいくつかチェックを入れる。
「もう一回」
 透耶は綾乃が弾き終わる度にそう言う。どこが悪いのか、そういうアドバイスは一回もしない。ただ弾かせるだけ。
 ちょうどMDの録音時間が終わる頃に透耶は終了と言った。
「え?」
 透耶はソファから立ち上がって、綾乃に透耶がチェックを入れた楽譜を渡した。
「あのMDを聴きながら、このチェックした場所を聴いて御覧。一回一回、弾く音やバランスが違い過ぎるから、もっと自信を持って音を確実にさせなきゃ駄 目だ」
「はい」
 綾乃は素直に楽譜を受け取った。
「それから、俺が綾乃ちゃんの練習を聴くのは一日一回。弾く回数はMDの録音時間のみ。それ以外は俺は聴かない。綾乃ちゃんはいくら練習しても構わないけどね。弾く時間は綾乃ちゃんが決めていいよ」
 透耶は無情にもそう言い放った。
「そ、そんな! あたし時間がない!」
 綾乃が慌ててそう言うと、透耶は静かに言った。
「あのね。時間がないからって焦るのは良くない。それだけ駄目な演奏にもなるし、とても聴いてられない音しか出せ無くなるよ。あくまで、俺がするのはアドバイスであって、俺の音を綾乃ちゃんに教える訳じゃないんだ。綾乃ちゃんの音を確立するためのアドバイスしかするつもりはないよ」
「でも」
 綾乃が食って掛かるが、透耶はニコリと微笑んで言った。
「何? 俺のやり方に何か文句でもある?」
 笑ってるのに何か怖い……。
「い、いえ」
「OK.じゃ、それを聴いて、チェックして練習してみて」
 透耶がMDを綾乃に手渡した。
 受取った時、綾乃は透耶の手に見とれた。
 細くて長い指。ピアニスト特有の美しい指だ。それがあの曲「ラ・カンパネラ」の鐘の音を作り出していた。
「色ペンで分けてるから、何回目なのか解るようにしてる」
 透耶はそう言って、少し身を乗り出して、チェックした楽譜の説明をしている。
 それなのに、綾乃は透耶に見愡れていた。
 ワイシャツの袖を捲り、腕がむき出しになっている。細い腕で、色が白い。腰だって細い。そこらの女の子より、細いくらいだ。でもその背の高さでもおかしくないバランスで、綺麗だ。少し伏せた目蓋、長い睫 毛。小さい顔、細い首が長い。髪が柔らかそうで、少し目にかかっている。
 これを美少年と言うんだ。綾乃はそう思った。
 ずっと綺麗なピアノを弾く人だと思っていたが、外見はそれくらいに美しかった。
「……綾乃ちゃん?」
「あ、はい」
 心配そうに透耶が覗き込んでいた。
 それで、やっと綾乃は我に返った。
「大丈夫? 疲れた?」
「……いえ、その、少し」
「じゃあ、ご飯食べようか。そろそろ用意出来るだろうし」
 透耶がそう言って身体を起こすと、ちょうど鬼柳が部屋のドアをノックした。
 鬼柳はドアに凭れ掛かっていた。
「おい、飯出来てるぞ。早く食ってくれ。冷める」
「うん。綾乃ちゃん、行こう」
「はい」
 綾乃がスコアを置いて立ち上がると、透耶は鬼柳に何か話し掛けていた。それに答えて鬼柳が何かを耳打ちすると、透耶が笑っている。
 鬼柳がふと上げた視線が綾乃に突き刺さった。
 透耶の腰に手を回して引き寄せるようにして、綾乃に向けて笑った。それもイヤラシイ笑い方。
 綾乃は呆然としてそれを見ていた。
 二人が部屋を出て行っても綾乃は暫く動けなかった。
 鬼柳は、綾乃が透耶に見愡れていたのを見ていた。だから、これは俺のものだと、マーキングしたのだ。
 つまり、宣戦布告されたわけだ。
「あの男」
 ヤな男だ。




 そのヤな男が作ったご飯を食べさせられる綾乃。
 豪華な日本食に、味も最高で、見た目もよい。
 透耶が美味しそうに頬張って食べているのを見て、鬼柳が微笑んでいる。悔しいが、すごくいい顔をしている。
 きっと、あの男は、極上の甘さで先生を独占しているんだ。などと綾乃は思ってしまった。
「どうした、綾乃。難しい顔をして」
 ご飯を睨んで固まっている綾乃に鬼柳がそう言った。見上げると、鬼柳はニヤっと笑っている。
「あれ、味、もしかして合わなかった?」
 透耶が心配そうな顔をしてそう言った。
 綾乃は慌てて首を横に振った。
「ううん、美味しいよ」
「よかった」
「? どうして先生が心配するの?」
 綾乃がそう聞くと、透耶が答える前に鬼柳が答えた。
「俺が作る飯は透耶の好みになってるからな」
 つまり、透耶の好みに合わないなら飯食うなって事らしい。
「合わなかったら言って、鬼柳さんには頼めないけど、料理人もいるから」
 透耶は自分の好みを作ってくる鬼柳に感謝しているが、鬼柳が好きでやっている事を無理に変えさせようとは思っていないらしい。
 その言い方がなんか綾乃にはカチンときた。
「いえ、大丈夫です」
 綾乃はきっぱりと言った。
 残っていたご飯を平らげて立ち上がった。
「ごちそうさまでした。練習してきます」
 そう言って食堂を後にした。何故か鬼柳に笑われている気がした。


 ピアノ室に戻って、綾乃はピアノに置いていたMDをスコアを持ってソファに座った。
 まずスコアを見ると、沢山の書き込みがあった。それを見ながら自分の演奏をチェックする。
「う……」
 まさに透耶の指摘通りに演奏が無茶苦茶だった。
 ううう、酷い。こんなに酷かったんだ。
 しかしスコアには的確にアドバイスがされている。思わず頷いてしまう箇所や自分でも気が付かない箇所も。ほんの数分の曲なのに指摘する場所はほぼ全体と言ってもおかしくなかった。
 全部聞き終わって、スコアをチェックした時、最後のスコアに一言書き足してあった。
 楽しく弾いてる?
 それはアドバイスではなく、透耶の感じた言葉だった。
「楽しく弾く……」
 そう最初にアドバイスをくれた時も透耶はそう言っていた。それに意味があるらしい。
 昔は楽しかった。でも今はそんな事思った事ない。
 綾乃は、ピアノを弾く事を忘れて、どうしたら弾くのが楽しいのか、そればかりを考えていた。



 二日間、綾乃は迷ったままでピアノは弾けなかった。ピアノ室に籠ったまま、スコアと睨めっこをしている。
 どうやったら、透耶みたいな美しい音を出せるのか。
 あの音を聴いてから、あの音しか聴こえない。
 だけど、透耶は二度とピアノの音を聴かせてくれない。
「あー、ピアノ練習しなきゃ……」
 一日一回しか聴いて貰えない練習時間を無駄にする訳にはいかなかったから、未完成のままでもアドバイスしてもらうのには弾かなきゃならないと、起き上がって透耶を呼びに居間へ向かった。
 居間へ入ろうとした時、鬼柳が居間と続きの部屋から入って行くのが見えた。
 綾乃は思わず隠れてしまった。
 入るタイミングを逃して、隠れていると声が聴こえた。
「透耶、綾乃の練習見なくていいのか?」
 居間で透耶が仕事をしているのを見て、鬼柳が不思議そうな声で言った。
 透耶はちょうど、ソファに座っていて、いつもの様に靴を脱いで足を上げ、体育座り状態でノートに自分が書いた小説の内容を確認していた。
「んー、見てたよ。今は一人でやってもらってる」
 透耶はノートから目を離さずに答えた。
「付きっきりで見るんじゃないんだ」
 鬼柳は透耶の隣に座って言った。
 透耶はまだノートから目を離そうとはしない。こうなると周りが見えなくなるのはいつもの事で、鬼柳の声しか聴こえていない。
「仮にも、コンクールに出るくらいの実力があるなら、手取り足取りで教えるのは綾乃ちゃんの為にならないよ」
「そうなのか?」
「俺がやれるのは、ここがおかしくない?って気付かせて上げる事で、それに対してこう弾けああ弾けってのは言えない。解釈は綾乃ちゃんがすることだけど、それに観客が納得出来なきゃ意味がないでしょ。俺がそういうのを指摘して、綾乃ちゃんが自分で曲を理解して、どれだけ自分の音で表現できるのかをサポートするくらいだよ」
「弾いて教えたりしないのか」
 鬼柳がそう言うと、透耶が真剣な顔をして鬼柳を見た。
「それは一番やっちゃいけない」
「どうしてだ? 綾乃は透耶の音を聴いて、先生になってくれって言ったんじゃないか」
 鬼柳はそう解釈していた。それは間違っていない解釈だったから、透耶は鬼柳をペンで指差して言った。
「それ。綾乃ちゃんが求めているのは、俺の音。だから駄目。せっかくこれから自分の音を作っていく段階で、コピーなんか教えたら、綾乃ちゃんは俺のコピーしか出来なくなる。それは怖い事だよ。今まで作ってきた綾乃ちゃんの音が全て無駄 になっちゃうよ」
 透耶はあくまで綾乃の音を大事にしたいと思っている。それは鬼柳にも解った。
「透耶は綾乃の音を無駄にしたくないんだな?」
「うん。折角上手いのにさ。今、俺の音真似してガタガタ。迷ってたけど、それは表現の仕方であって、音が狂ってる事はなかったんだ」
 だから、口出しした自分が悪いと思っている。久しぶりにピアノの音を聴いたから、思わずやってしまった失敗が、大きな付けになってしまった。
 その責任は取るつもりだった。
「じゃあ、あの時聴かせたから、綾乃は間違った方向に逃げようとしているって事か」
「うん、まあね。普通、自分の音を確立している人は、他人の音に感動はしても引き摺られはしないもんだよ。でも綾乃ちゃんは逃げてる。楽な方へ行こうとしてる。さっき弾いて貰ってそれが解ったから、俺は弾かない、聴かせないって決めた」
 透耶は外を睨んだまま真剣にそう言った。
「……透耶、前に似た事でもあったのか?」
 鬼柳の心配そうな声に、透耶が振り返った。少し笑っている。
「思い出したんだけど。俺の音って、どうも、音が確立してない人とか迷ってる人に聴かせるといけないらしいよ。昔はよく怒られた。お前のせいで俺の音が解らなくなったとか。前は意味が解らなかったけど、極力人前では弾かなかったよ。でもこういう事だったんだね」
 確かに透耶は、その外見からはとても考えられないような音を出す。一瞬にして誰もが圧倒される音を一発目に出してくる。いきなりその音をぶつけられると、音が確立してないモノには、その音が欲しくなってしまうのだ。
 綾乃は今その状態なのだ。
 鬼柳は少し訳が解らない顔をして尋ねた。
「ピアノの音って真似ちゃいけないのか?」
 一瞬鬼柳が黙っていたので、透耶の視線はノートに戻っていた。それでもちゃんと質問は聴こえている。
「最初はいいんだよ。あの人みたいになりたいとか、音楽とかってのは、大体最初は皆真似から入るでしょ。でもいずれは自分の音を見付けて成功する。音を見付けられなかった人はそれで終わるわけ。ピアノは確かに楽譜通 りに演奏するんだけど、その通りでもいけない、結局、誰も聴いた事ない音で人を感動させなきゃならない、難しいものなんだ。同じ音がする楽器から違う音を出さなきゃならない。世界中にいるピアニストと違う、それまでのモノとは違う、何かを発見しなければ、成功が約束されない。沢山ピアノを弾く人はいるけど、それで食べていける人は一握りしかいない世界だからね」
 透耶はそう答えた。
 鬼柳は驚いた。そこまで考えてピアノを、透耶はやってきたんじゃないかと。
「凄いな透耶。そんな難しい事考えて、難しい曲を弾いてるんだ」
 鬼柳が感嘆したようにそう言ったが、透耶は首を振って言った。
「一般論だよ。誰でも考えてる事。俺はそんな事考えたのってあんまり覚えてない。うちは、小学校出るまでずっと母親が師事だったから、他の音を知らないんだ。母さんはジャズしか弾かないし、光琉と俺は明らかに音が違ったしねえ。ある意味恵まれてたのかもしれない。音が確立するまで、他の音を知らなかったんだから。まあ、ジャズはパクリだけどねえ」
 透耶は少し昔を思い出しながら話していた。
 そういえば、そこまで鬼柳には話していなかったなあと思ってしまった。
 鬼柳はそれを聞いて、ニヤリとしてしまう。
 透耶が音にこだわる理由が、ここにあったのだ。
「はっはー、だから透耶は自分の音にはうるさいんだな。鳴ってる理想の音があるから、他に惑わされない。自分の理想の音だけしか求めてないから、誰にも真似出来ない。透耶が納得する音は透耶しか知らないんだからな」
 鬼柳が言った言葉に透耶は心の底から驚いていた。
 目を見開いてそう言った鬼柳を凝視していた。
「……すごいなあ、鬼柳さん。その通りだよ」
 最後の方は何だか可笑しくなって笑ってしまっていた。
 だから、この人を凄いと思うんだ……。
 鬼柳は煙草を吹かせて、息を吐いた。
「だから言っただろ。透耶の事なら何でも解ってるって」
 そう言われて透耶はむうっと顔を膨らませた。
「どうした?」
「ずるいー。俺、鬼柳さんの事、あんまりよく解らないのに」
「ほら、俺は謎の男だからな」
 ニコリとして言う鬼柳に、透耶は思いっきり不審な顔をした。
「謎だらけだよ、まったく……怪しいのこの上ない」
 透耶がそういうから、鬼柳は吹き出して煙草を指で取ると、透耶に素早くキスをした。
 一瞬触ったくらいのキスで、透耶はぎょっとして、持っていたペンを落として手の甲で唇を拭いた。
「な、いきなり、何するんだよ!」
 鬼柳はしれっとして舌を出した。
「隙だらけ」
「もう、真面目な話してるかと思えば、ふざけてる」
「透耶とキスするのに、ふざけたことはないぞ。いつでもドキドキ、ワクワク」
 などと言いながら、胸に手を当てている鬼柳。透耶は吹き出して笑ってしまう。
「おかしい……。まるで少女漫画の世界だ。一体、何を読んでるんだ」
「透耶の小説」
 鬼柳の返答に透耶は一瞬固まって、それから鬼柳にしがみついた。信じられないという顔だ。
「う、嘘!」
「ほんと。宿題やってたら、出てきたぞ」
「ううう、そんな事書いたかなあ。うー」
「うん、透耶がさっき言っていた言い方だった。少女漫画みたいなって」
「あ、ああ、そっか。それは書いたかも」
 透耶は考えながら頷いた。
「宿題やってるんだ」
「うん、もう半分」
「頑張って」
 透耶がにっこりと微笑むと、またノートに視線を戻して仕事を再開した。
 鬼柳は暫くそんな透耶を見ていたが、煙草をもみ消すとまた隣の部屋に戻って行った。
 綾乃はずっと廊下で、この会話を聴いていた。
 透耶の言葉は綾乃には衝撃だった。
 透耶がそこまで、綾乃の音、にこだわっている事。そしてその欠点をはっきり言った。
 真似をした音。
 それは綾乃には解っていた。だが、それが駄目なのだとは思ってなかった。
 そこにこそ、一番の欠点がある。透耶はそれを指摘はしているが、綾乃には言わなかった。
 たぶん次も同じ事をしたら、透耶は言うだろう。
 その為、透耶は練習をしろとは言わない。弾かなくても考える時間が必要だと思っている。
 綾乃はすぐにピアノ室に戻った。
 そしてもう一度自分の音を聴いた。
 欠点が一気に解った気がした。

 その欠点が解って、自分の音を取り戻した綾乃は、次の日透耶を呼んで練習を聴いて貰った。

「うん、迷いは消えたって音だね」
 透耶が微笑んで、スコアを渡す。
「本当?」
 綾乃は嬉しそうな顔をして透耶を見上げた。
 スッキリした顔をしている綾乃を見て透耶は頷いた。
「自分の音が解ったって感じ。後は表現。弾き込んでいけば大丈夫。今までの積み重ねがあるからね」
「はい」
 綾乃はホッとした。
 第一段階は成功したようだった。 
 そう思い、透耶を見上げるとちょうど首筋が見えた。
 一瞬、本当に一瞬。透耶が身体を動かした事で、肩が見えた。そこに不自然な痕が残っていた。
 え……歯形? 何で?
 綾乃はそこまで思って、ふとある事が頭に浮かんだ。
 そう、鬼柳の宣戦布告だ。
 わざとらしく、透耶に密着して、俺のもの、扱いをして綾乃をけん制した事。あれはただ気に入った人物にやる事ではない。いくら、鬼柳が海外の生まれで出身だったとしても、友達、知り合いを独占するには、あれは過剰な仕掛け方だ。
 そうじゃないとしたら?
 鬼柳は昨日、透耶にキスをしていた。
 あれもただの悪戯ではない。
 目に入る所に鬼柳がいると、これ見よがしにマーキングする光景を見せつけられる。あれは凄い独占欲の固まりだ。あの独占欲は、異常過ぎる程で誰が見ても容易に想像出来る。
 本気で好きなんだとしたら?
 それが抱きたいとかいうものだったら?
 そして抱いているとしたら?
 歯形があってもおかしくはない。
 そこまで思って、綾乃は想像してしまった。
 鬼柳に組み敷かれた透耶。
 それを想像して、綾乃は目眩がした。
 何でおかしくないのよ……。
 一体、何考えてんのよ、あたしは……。
 さすが妄想する年頃。
 赤面して、百面相をしている綾乃を透耶は首を傾げて見ていた。




 翌日の練習は滅茶苦茶になっていた。
 透耶を見るだけで、鬼柳に抱かれている透耶を想像してしまうから、中々演奏に身が入らない。
「ストーップ、綾乃ちゃん」
 少し機嫌が悪い声で透耶が演奏を止めた。
 綾乃ははっとして、指を止めた。
「先生?」
 透耶は、すぐにMDを止めて立ち上がった。
「綾乃ちゃん、今、何考えてるの?」
「え? 何って?」
 ドキリとする綾乃。ハッキリ言って言えない内容だ。
 透耶は溜息を吐いて、スコアを置いた。
「思い当たる事があるなら、演奏中はそれを考えない事。これ聴けば解ると思うけど。今までで一番悪いよ。これ以上聴いてられないから、余った時間でまた弾けるなら呼んで」
 透耶はそう言うと、部屋を出て行ってしまった。
 綾乃は呆然とそれを見送った。
 さすがに音にうるさい透耶である。少しのおかしな状況すら音なら見破れるらしい。
 綾乃が考えていた疚しい想像が入り交じった演奏は、透耶を不快にさせてしまったらしい。
「ああ、やっちゃった……」
 綾乃はピアノを離れて、ソファに座った。
 目の前には透耶がチェックしていたスコアがある。だが、スコアには珍しくチェックはなかった。
「チェックがない」
 綾乃は不思議に思った。
 どんなに音が悪くても、迷っていても、真似の音でも透耶は必ずアドバイスをくれていた。それが今日はない。
 確か、4、5回は弾いたはずだ。それでも一枚もスコアにはチェックはされていなかった。
 つまり一回目から透耶には演奏が気に入らなかったのだ。
 チェックする気も起らないくらいに。
 綾乃は慌ててMDをチェックした。 
 聴いて綾乃は頭を抱えた。これはマズイ。急いでそれを削除した。聴いてられない。
 これは人を不快にさせる音。
 これでは、透耶が怒るのは無理はない。
 綾乃は本当に反省した。




 時間が過ぎて、少し部屋の中が暗くなってきた時、綾乃は目を覚ました。
 どうやら考えながら寝ていたらしい。
 綾乃は起き上がると、庭に目がいった。
 夕刻の色がする中で、透耶が庭で座っている。
 足を投げ出して、身体を反らして後ろに手をついて空を見ている。外なのに靴を履いていない。
 ここ数日で解った事だが、透耶は土足である屋敷内でもあまり靴などを履かないでうろうろとしている。島草履を履いていると思ったら、何処かで脱ぎ捨ててしまい、鬼柳が後を追い掛けて履かせている事もあった。
 放って置くと何処でも座り込むし、挙げ句、仕事と称して何かをノートに書いている時は、鬼柳の呼びかけにしか答えないくらいの集中力を発揮する。
 何かに夢中になるか、気になる事でも考えていると、廊下だろうが何処だろうが平気で転んでしまう。眠いと思うとソファでも平気で寝る。
 ピアノを弾いている時の凛とした様子からは、想像も出来ない程、ボーッとしているし、天然ボケである。
 
 それをサポートするように、常に鬼柳や使用人が見張っているらしく、転んだ時は使用人が駆け付けてくるし、廊下で座り込んでいる時は鬼柳が呼びに来る。
 食事はいつも鬼柳が作っていて、食事時間は朝昼晩と決まった時間に鬼柳が使用人の分を作り、透耶の分は透耶が食べるだろう時間に別 に用意している。決まっているのは夕飯くらい。
 二階へ上がってはいけないと言われているので、綾乃は二人が居間とかにいる時しか見た事はないのだが、鬼柳は早起きで透耶は朝が遅い。それなのに、鬼柳は透耶が寝た時間を知っている。
 不思議な事に、掃除、洗濯など、使用人に混ざって鬼柳が指示を出している事もある程だ。
 そして、一番不思議なのが、透耶が庭に出るとそれを邪魔しないように、SPが立っている事だ。
 何で家の庭の中なのに、SPがいるんだろう?そう綾乃が思っていると、何処からか鬼柳が現れた。
 すると、鬼柳がSPを見た。SPは頭を下げると下がって行った。
  凄く不思議な光景だ。
 鬼柳は煙草を取り出して一服すると、透耶に何か話し掛けた。透耶は視線を鬼柳に向けて、何か言って笑ってる。優しい笑顔だ。
 鬼柳までもが想像も出来ない程、優しい顔をして笑っている。
 うわ!うそだあ!あの男が!?
 綾乃は思わず叫びそうになった。
 いつも意地悪そうにして、ニヤリと笑う鬼柳しか印象のない綾乃には、驚く光景だ。
 綾乃が透耶にピアノ以外の話をすると、痛い視線を向けるし、邪魔するように勝手に答える。ハッキリとした言葉で否定はしないが、明らかに綾乃が透耶に関わる事を否定している。
 透耶の方はそうでもなく、気が付いていない。鬼柳は実に上手く宣戦布告し、攻撃してくる。独占欲が強いらしい。
 透耶がボーッとしていても、鬼柳の視線はいつも透耶にある。
 綺麗だから見とれるのでなく、透耶だから見とれるというふうに、優しく大切にしている。
 ああ、そうか。鬼柳は純粋に透耶を好きなのだ。
 他には誰もいらないと思えるくらいに、一途なだけなのだ。
 何も難しく考える事はなかったのだ。
 宣戦布告の事も、透耶に触れる事も、綾乃に向ける視線も、全部ただ透耶の事を考えての事なのだ。
 なんだ単純だ。
 ああ、そうか……。
 そう考えた綾乃はふっと肩の力が抜けた。
 ピアノも同じだ。ただ単純に好きで、弾いているのが楽しければいいんだ。
  今まで楽しかったのに、何故辛いから音が出ないと思ったのだろう。
 悩むのもいい、迷うのもいい。でも楽しいことを忘れてはいけないのだ。だから、透耶は聞いたのだ。「楽しい?」って。何度も。
 ああ、何だ、そういう事か。
 綾乃はやっと意味が解って、思わず笑ってしまった。
 庭に目をやると、鬼柳が寝転がっている透耶を起こして、軽々と抱き抱えると居間がある方へと歩いて行った。
 綾乃は気になって居間へ行くと、知念が濡らしたタオルを持って居間へ入って行く所だった。
 後に続いて中に入ると、テーブルの上に透耶が座らされ、知念に渡されたタオルで、鬼柳が透耶の汚れた足を拭いている。
「んー、いいよー。自分でやるから」
 透耶がそう言って動くと、鬼柳がそれを押さえ付けて言う。
「動くなって」
「だからいいってば」
「……舐めるぞ」
 しっかり足を握られて真剣に言われて透耶は言葉を失う。
「う……」
 鬼柳なら、何の躊躇いもなく本当に舐めるだろうという妙な確信だけはあったからだ。
 むうっと不満顔をしている透耶を見て鬼柳が笑う。
「ほら、先生がそんな子供っぽくってどうする。綾乃が見てるぞ」
 鬼柳が嗜めるように言ったので、透耶は綾乃の存在に気が付いた。
「うわ、え? あれ、綾乃ちゃん」
 少し困った顔をして透耶が綾乃を見ている。
 綾乃はじっと様子を見ていて、ボソリと呟いた。
「女王様と下僕みたい……」
 鬼柳に跪かせて足を拭かせて、島草履を履かせている姿はまさにそうだった。
「う……!」
 透耶が呻いて、鬼柳は何だそりゃ?という顔をし、知念が吹き出した。
 本当に至れり尽くせり状態の透耶に、尽しまくりの鬼柳。
「ほほう、女王様ねえ」
 鬼柳が何か思い付いたのか、ニヤリとして透耶を見下ろした。透耶はすぐに何かを察したのか、慌てて鬼柳の口を塞いだ。
「いい、言わなくていい!」
 鬼柳はいきなり口を塞がれてキョトンとしていたが、ニヤリと笑う。透耶の腕を取って、自分の口から外す。
「まだ何も言ってないんだけど?」
「ううん。また馬鹿な事考えてる、絶対」
「馬鹿な事って?」
 鬼柳は透耶の手を取ってわざと口へ持っていくとキスをする。
 それじゃああ!!!←透耶。
 このエロ魔人があ!!!←綾乃。
 ああもう……←知念。
「きききき、鬼柳さん!」
 透耶が振払おうとするが、鬼柳がそれを許す訳がない。
「ん? 何?」
 とぼけた声を出しながらも、手を舐めてくるのはやめない。
「何じゃなくてえ!」
 透耶がそう叫ぶと鬼柳は手にキスするのをやめて、スッと顔を近付けてきた。キスでも出来そうな距離だ。
「綾乃が見てるから嫌なのか?」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「俺は誰が見てても、透耶にキスしたいし、やりたい。何で駄 目って言うんだ?」
 わざと耳元で囁くように言われて、透耶は顔を真っ赤にして伏せる。
「何でぇ……。もう訳解んない……!」
 透耶はさすがに言い返せない。
 そう、綾乃がここへ来てから、透耶は鬼柳に性交渉をする事をやめてくれるように頼んでいたのだ。
 鬼柳は理由が解らなかったが、透耶が何か考えているようだったので、それに従っていた。
 だが、もう限界がきているのだろう。
 わざとやっている。
「綾乃は知ってるぞ。そんだけ色っぽい印見えりゃ、誰だって勘付くさ」
 鬼柳がそう言うと、後ろから鬼柳の頭を殴る人がいた。
 スッパーンといい音がして鬼柳が頭を押さえて唸った。
「たあ! 何する!」
 鬼柳が振り返ると、そこに綾乃が立っていた。
「綾乃ちゃん!」
「綾乃、てめえ!」
「やかましい、エロ魔人」
 綾乃が呆れた顔をして言い放った。
 驚いたのは透耶。
「あ、あ、あ綾乃ちゃん……!」
 綾乃は呆れた顔をして、透耶を見る。
「先生、気が付いてないでしょ」
「は、はい、何でしょう?」
 綾乃にじっと見られて言われると、透耶は背筋を伸ばして綾乃の方を見る。
 もうどっちが先生だか解らない状況だ。
「このエロ魔人がマーキングしてたの。気が付いてないでしょ?」
 綾乃の言葉に透耶はキョトンとする。
「え? マーキング?」
 えっと、あれは犬とか猫とかが自分の縄張りを知らせる為にする行為だよねえ……。
 つまり、鬼柳さんがマーキングしてたって訳で、それを何にしてたのかって事だよねえ。
 ………?
 何で? どうやって? 何に?
 透耶は真剣に黙り込んだ。
 あまりに真剣な透耶に溜息を吐いたのは綾乃。肩の力が抜けたのは鬼柳。
「いやだあ。全然気が付いてないんだ!? あたしがここへ来た時から、俺のもの、ってやってたんだけどねえ」
「何だ、綾乃、やっぱり気が付いてたか」
 エロ魔人こと鬼柳はニヤッとして綾乃を見た。綾乃は鬼柳を睨み付けて言った。
「当たり前でしょ。あれだけ露骨にやられて気が付かないなんて、先生くらいじゃないの」
「透耶は鈍いからなあ」
 真剣に考える透耶を見ながら、鬼柳が呟いた。思わず綾乃も頷いてしまう。
「ははあ、先生、そういう色恋沙汰は弱そう」
「ああ、ま、俺の押しも弱いんだろうなあ。綾乃に見せるくらいだし、キスくらいでもいいかと思ったんだが」
 とんでもない事を言い放つ鬼柳。綾乃は自分がもっと年上で大人だったら、こいつは目の前で一体何を見せるつもりだったのか、何となく想像が出来てしまって、白い目で鬼柳を見てしまう。
「阿呆? 押し弱いじゃないわよ。あんな事、外でもやってんじゃないでしょうねえ?」
「んー、やったかなあ」
 何処で何をやったのか覚えてないくらいにやりまくっている鬼柳。場所さえ選ばない凶行振りに綾乃は溜息を吐く。
「さすがエロ魔人。だけど、外ではあまりやらない方がいいよ。人の目って怖いんだから。あんたがよくっても、先生には世間体ってのがあるんだからね」
「んなの言われなくても解ってる。程度分けてやってるよ」
「結局やってんじゃん……」
 更に呆れる綾乃。だが、鬼柳は少し考えながら呟いた。
「仕方ないだろ。透耶、誘拐された事あるしな」
 誘拐。という言葉に綾乃は驚くと同時に、やっぱトラブルはあったのかと少し納得してしまう。
「そんな事あったの!?」
「まあ、人違いでだったけどな。結構危なかったし」
「うーわー。犯人勇気あるなあー」
 なんてチャレンジャーな誘拐犯。犯罪自体すごい事で、更に人を誘拐するのも難しい。その中で、透耶を選んだ事がまた勇気があると綾乃は思った。
 はっきりいって、鬼柳だけは敵に回したくない人物だ。
 案の定、その時の事を思い出したのだろう、えらく物騒な笑みを浮かべた鬼柳が言い放った。
「殺してやろうと思ったが、一番殺してえ奴には会わなかったけどな」
「あんたなら、絶対殺ってるだろうねえ」
 一撃必殺という感じだろう。
「当たり前だ」
 きっぱり言い切られて、綾乃は納得する。
「本当に好きなのね。だったら最初に言ってくれれば……」
 あんな失敗もしなかったのに、と綾乃は続けたかったが、さすがに恥ずかしくて言えなかった。
「言おうと思ったけど、言う隙がなかった」
 などと、鬼柳と綾乃が話している間、透耶は固まっていた。
「ちょっと待った!!」
 やっと我に返って、恐る恐る顔を上げている。
 並んで話し込んでいた鬼柳と綾乃が振り返る。
 しかし、透耶が話を止めたのは、内容が内容だったからではなかった。
 物凄く真面目な顔で透耶は言った。
「あの、マーキングってどういう意味?」
 遅すぎる天然ボケの質問。
 もちろん、マーキング自体の意味を聞いているのではない。
 綾乃は今度は解りやすく説明をした。
「あのねー。さっきみたいに、人がいるのに先生に触ったり、キスしたりして、相手にこいつは俺のものだから、触るんじゃねえ。何かあったら俺が相手だ。って思わせる事」
「どうしてそんな事になるわけ?」
 透耶にはさっぱり意味が解らなかった。
 これでも説明になってなかったらしい。
「エロ魔人。あんたの苦労がよく解るわ」
「だろ?」
 綾乃と鬼柳が顔を見合わせて頷き合っている。
 もうエロ魔人と呼ばれようが、頭を抱える所が一緒とあり、呼び方などどうでも良くなっている鬼柳。
「つまり、このエロ魔人が先生の事が好きで、誰にも渡す気はないから、怪我したくなかったら近付くなって事を相手に解るようにやっているって事」
 綾乃が簡単に説明すると、やっと透耶にも訳が解ったらしい。
「えええええ!?」
 びっくりして叫び声をあげる透耶。
「つ、つまり、それを綾乃ちゃんに向かってやってたって事!?」
「そう」
 綾乃は素直に頷く。
「何で!? 何でそういう事をするわけ!?」
 透耶が鬼柳に詰め寄って聞くと、鬼柳はふいっと顔を反らせる。
 綾乃は吹き出して笑ってしまう。可笑しい。普段は鬼柳の方が強そうなのに、こういう時は透耶の方が強いらしい。
 透耶に詰め寄られて困っている鬼柳を手助けする。
「それは、エロ魔人の勘違いって事。早とちり」
 クスクス笑いながら綾乃が言うと、鬼柳は頭を掻いた。
 綾乃は鬼柳を見て微笑んだ。
「早とちり?」
 まったく、綺麗な顔をして人を惑わせるのに、中は完全な天然だ。きっと思いを伝えた所で、この人は笑って同じ言葉を返すだろう。だから、それでもいいから嫌われたくはない。
 きっと、鬼柳以上に透耶を大切には出来ない。
 鬼柳は鬼柳で、そういう綾乃の気持ちを解っているから、理由を説明したりなんかしない。黙っているのは綾乃の為だ。
「まあ、いいんだけど。先生とエロ魔人の関係は解ってる。でもそれはあたしは関与する気はないの。で、あたしはピアノを弾きにきているので、先生、練習を見て下さい」
 綾乃はそう言っていた。
 何だか、今は弾けそうな気がした。
 綾乃の言葉に透耶は驚いたが、関係を知っているという箇所は思いっきり省いて、ピアノの練習を見て下さい、という箇所だけを聞き取っていた。  
「解った。練習再開しよう」




 ピアノを弾いて、楽しいと最初は思った。弾けない曲を練習して、段々上手くなるのが面 白かったし楽しかった。
 いつからだろう?
 弾けなきゃ駄目になって、楽しいとか、そういう事を考えなくなったのは?
 楽しさを忘れて、弾けて当たり前になって、そして義務になっていった。
 コンクールで上手く弾けても、いい賞を貰っても、それは絶対に通らなきゃならない道で、当たり前で、誰も本心から喜んでくれなくなったのは。
 だけど、今は楽しい。
 笑いたくなるくらいに楽しい。
 自分の音がはっきりと聴こえる。
 今までちゃんと自分の音を聴いていたんだろうか?
 胸の中で鳴ってる音には程遠いのは解る。
 だけど、今出来る最高の音が出ているのも解る。
 今まで長くて嫌だった曲が、すぐに終わってしまう。
 何度弾いても、新しく鳴っている音に近付いて行く気がしてもっと弾いていたい。
 MDに残らなくてもいい。
 今はとにかく弾いていたい。
 そんな気がして堪らなかった。
 ピアノが好き、大好き。今ははっきりと答えられる。
 単純でいい。
 ただ好きなだけでもいい。
 綾乃がピアノを弾き終えた時、時計は午後11時を回っていた。
 実質、6時間くらい引き続けていたという事になる。
 綾乃は暫くピアノを見ていたが、すぐに今練習中である事を思い出して透耶の方を振り返った。
 透耶はソファにいた。
 しかし、ソファに横になり、動きがない。
 綾乃は起き上がってソファまで行く。
 上から見下ろしても動きはない。
 ゆっくりとしゃがんで、顔を見る。
 すると寝息が聴こえる。
「完全に寝てる……」
 綾乃は脱力してしまう。
 こっちが楽しく弾いていたというのに、肝心の感想を聴きたい先生が寝てしまっていては話にならない。
 綾乃はムッとして指で透耶の頬を押してみる。
「う、柔らかい。肌、スベスベだし」
 じーっと透耶の顔を見る。
 極め細やかだし、とてもじゃないが男の肌とは思えない。
 同世代の男ってのを綺麗と思った事はない。でも大人の男の人を綺麗だと思った事はある。
 その中でも透耶は期待を裏切らない、中身まで極上だ。
 その透耶を守ろうと、エロいが邪ではあるが、男が見ても惚れるだろう鬼柳がついている。きっと、エドワードもヘンリーもそのうちの一人。
 やっぱり、女王様だ。
 皆、透耶が自然にいられるように気配り、でもそれを透耶に気付かせない。ただ、透耶は透耶のままでいてくれるだけでいいのだ。
 いいな……ちゃんと見ててくれる人がいる。
 綾乃はソファに肘をついて透耶の寝顔を見ていると、雰囲気に呑まれてそのまま寝てしまった。





 鬼柳は、夕食も食べないでピアノ室に閉じこもっている二人が気になって何度か覗きに行ったのだが、まだまだ綾乃が弾きたがって弾いている姿が見えた。
 透耶に、ピアニストは一日10時間くらい平気で練習すると聞いていたので、何度か覗いては食事を進めようとしたのだが、どうも入っていけない雰囲気だった。
 さすがに深夜になりかかって、これは止めさせた方がいいと決断しピアノ室を覗くと、ピアノの音は止まっていた。
 だが、ピアノの所には綾乃はいない。
 透耶の姿も見当たらない。
 しかし、二人が出ていくのなら、ピアノを片付けない事はない。あの二人は、とにかくピアノを大切に扱うからだ。
 中へ進んで行くと、ソファに二人がいるのが見えた。
 近付いて覗くと、両方とも完全に寝ている。
「何だ、疲れて寝ちまったか」
 まったくの子供二人である。
 透耶を見ると、凄く穏やかに眠っている。
 透耶が頼まれた仕事の最中に寝てしまう事はないだろうから、綾乃のピアノはちゃんと透耶が満足するように完成したのであろう。
 綾乃を見ると、こっちは幸せそうに眠っている。
 鬼柳は思わず笑ってしまう。
 このまま寝かせてあげたいが、この場所ではマズイ。鬼柳はまず綾乃を抱き抱えて綾乃の部屋へ運んだ。
 次に透耶を連れて二階へあがる。
 さすがにピアノを片付ける方法は知らなくて、使用人に任せてきた。
 透耶の部屋のベッドに寝かせて、着ている物を剥ぎ取り着替えをさせる。
「透耶、少し腰を上げて」
 耳に近付いて命令をすると、透耶は素直に言う事を聞いて腰を上げる。
 眠っていても鬼柳の声には無意識に従う癖が出来ている。
 素早くズボンを履かせる。
 そうやって服を着せると、鬼柳も着替えて透耶の隣に滑り込む。透耶は温もりを感じると、鬼柳の方に寝返りうって擦り寄ってくる。
 抱き寄せてやると、もぞもぞと動いていつもの指定の場所に落ち着くと穏やかな寝息を立てて眠りが深くなったようだ。
 最初は、隣に寝るだけで怯えたように起きたりしていたのだが、今はそれもない。それどころか、起きて欲しいのに起きなかったりする。
 だが、隣にいる人は誰なのかは理解出来ているらしく、確かめるようにしている。
 抱き締めて頭へキスをする。
 きっと、透耶と綾乃は今日はすごくいい夢を見ているに違いない。



 昨日早めに寝てしまった透耶は、明け方には目を覚ましていた。布団から這いずり出て、座ったままで身体を伸ばすと、自分の部屋のベッドで寝ている事が解った。
「あれ? 俺、ピアノ室にいたんじゃないっけ?」
 いつの間に部屋へと思ったが、ベッドを見れば隣に寝ている鬼柳がいるので、すぐに謎は解けた。
 わざわざ運んでくれたんだ……。
 そう思って、鬼柳の寝顔を見ていた。
 そういえば、鬼柳の寝顔を見る事自体珍しい事だ。
 この男は、一体いつ寝てるんだってくらいに、透耶の後に寝て、透耶の前に起きる。
 こうして熟睡しているのを見るのは初めてだ。
 暫くその顔を見ていたが、少し髪を撫でてやってから、透耶はベッドを降りて風呂に入った。
 いつの間にかパジャマであるが、もう何も言うまい。
 さすがに湯は張ってないから、シャワーだけ浴びて用意していた服に着替えて部屋に戻ると、まだ鬼柳は寝ていた。
 ベッドの脇に脱ぎっぱなしの服が放って置かれていたので、片付けようとして拾っていると、突然腕を掴まれた。
「うわ! 何!?」
 引っ張られたので、ベッドにもたれるように倒れてしまう。 何だ?と見ると、寝ているはずの鬼柳の腕が布団の中から伸びて透耶の腕を掴んでいた。
「……鬼柳さん?」
 いつの間に起きたんだ?と思って声をかけたが返事が返って来ない。
 寝惚けているのかと思い、腕を掴んでいる指を外そうとしたのだが、これでこいつは寝ているのか?と思う程、力強く握られていた。
「鬼柳さーん、離してくれない?」
 取り合えず声をかけると、鬼柳は起き上がらずに返事をした。
「何時だ」
 寝起きとは思えない程、はっきりとした声が返ってきた。
「ん、六時。朝の」
「何で起きてるんだ」
「目が覚めたんだよ」
「もう少し寝ればいい」
「あの。ちょっとピアノ室に行きたいんだけど」
「何しに」
「練習」
「誰が」
「俺」
 そう透耶が答えると鬼柳が腕を離してくれた。
 何か変な夢でも見たのだろうか?
 透耶は不思議に思いながら、腕を摩り鬼柳を残して部屋を出て行った。
 その音を聴いて、鬼柳は顔を上げた。
「たくっ。俺にも予定というものがあるんだ……」
 そう言ってまた布団に顔を埋めたが、すぐに起き上がって服を探してそれを着ると透耶の後を追って部屋を出た。




 綾乃は目を覚まして辺りを見渡して自分の部屋である事を確認して、服もそのままだったので、いつの間にか部屋に帰ってきたのかと思っていた。
 風呂に入って着替え、お腹が空いているのを思い出して、何か軽いものでも食べたいと部屋を出た。
 ちょうど部屋を出た所で、こっちへやってくる鬼柳を見付けた。
 鬼柳も綾乃に気が付いた。
「あれ? 鬼柳さん、何やってんの?」
「お前も何やってる」
 少し眠そうな顔で言われて、綾乃は首を傾げながら答えた。
「あたしは、ちょっとお腹空いて……」
「ああ、そっか。昨日夕食食べなかったな」
 鬼柳は思い出したようだった。
「先生は?」
 そう聞かれて、鬼柳は少し悩んだ。
 正直に答えてもいいが、それでは透耶がわざわざ綾乃に聴かれない時間を選んで練習している意味がない。
「ん、仕事してる」
 鬼柳がそう答えると、綾乃は納得した。
「そっかー。ちょっと昨日の練習の事聞こうと思ったんだけど」
 透耶が寝てしまい、自分も寝てしまったから、結局練習のアドバイスなどまったく聞いてなかったのを思い出した。
 ピアノの話が出て、鬼柳は焦った。
 今綾乃をピアノ室に行かせる訳にはいかない。
「食事の時にでも顔だせるだろう。軽いものなら、スコーンとかが残ってるから、ジャム付けて食べればいい」
 鬼柳がそう言うと、綾乃は微笑んだ。
「あのスコーン美味しいんだよねえ。ちょっと食べてくる。あ、朝食いつものようにでいいから」
 綾乃はそう言うと食堂に向けて走り出した。
 走り去って行った綾乃を見送って、鬼柳は吹き出してしまった。
 どんな重要な事があっても、まず食欲な所は透耶に似ている。一瞬、これが日本の若者の特徴かと鬼柳は思ってしまった。
「さて、俺は俺の用事を済ませるか」
 鬼柳は踵を返してピアノ室に入って行った。




「え? 明日帰る?」
 透耶は食べかけの魚を戻して綾乃を見た。
 綾乃は美味しそうにご飯を頬張りながら頷いた。
「うん。あたし、今学校休んでるのよ。本当は、親戚の葬式に帰ってきたんだけど、学校の先生がついでだから休んでくればいいって言ってくれて。でも明日東京に帰らないといけなくて。母から昨日電話があって、明日の便を取ったからって」
 綾乃がそう説明すると、透耶は少し寂しそうな顔をした。
「そうだよね。学校あるし、仕方ないよね」
「先生のお陰で、ピアノの仕上がりは最高だから、あたし自信を持って帰れる。先生ありがとう」
 綾乃は最初に見た時の険しい顔や悩んでいて切羽詰まった顔は、何処にもなかった。スッキリして、輝くばかりの笑顔で微笑んでいる。
 それを見ていると透耶は何も言えない。
「俺は何もしてないよ。全部綾乃ちゃんの力だよ」
 謙遜でも何でもない。自分の音を確立したのは綾乃の力である。透耶はそう思っていた。
 綾乃は、透耶のお陰で自分の音を取り戻せたと思って感謝しても、透耶自身は何もやってないと答える事は分かっていた。それ以上追求する事はせず。
「そう言うと思ったけど。そうだ。先生、昨日練習中に寝ちゃったけど、あれってどういう事?」
 綾乃がそう聞くと、透耶がグッとご飯を喉に詰らせた。
「あ、あれは……。その……。聴いてたら気持ちよくなっちゃって、それでつい寝ちゃったんだ。ごめんね、練習中に」
 透耶がそう言ったものだから、鬼柳も綾乃も驚いて顔を見合わせた。
「それって、クラシック嫌いな奴がよくやるってやつじゃないか?」
「うーん、そういう人は元からクラシック聴かないけどねえ。でも本当に寝る人いるんだあ」
 などと言われて透耶は小さくなってしまう。
 もちろん、鬼柳も綾乃も本気で苛めているわけではなく、面白いからやっているだけである。
 二人には解っている。透耶が眠れる程、綾乃のピアノは心地が良い音だったということ。そこまで、綾乃の音は完成したという事。
「ひーん、悪かったって。何でもするから」
 透耶が頭を抱えてそう言うと、綾乃が何か閃いた、という顔をした。
「じゃあ、先生と鬼柳さんであたしをエスコート観光ってのはどう?」
 綾乃の突拍子もないお願いごとに、透耶と鬼柳は目を丸くした。



 結局、綾乃の要求通りにエスコート観光が始まった。
 いきなり行く場所を言われて、綾乃が提案したのは、ビオスの丘だった。
 自家用車・レンタカーでのアクセス。那覇空港より (沖縄自動車道経由)60分。沖縄自動車道石川インターより15分琉球村より15分。
  海洋博記念公園より (沖縄自動車道経由)70分。ホテルムーンビーチ10分。
  ルネッサンスリゾートより10分。
 バスでのアクセス。 那覇空港・那覇バスターミナル・名護バスターミナルより。琉球バス・沖縄バスの「名護西線(20番)」又は、「空港リゾート線(120番)」で「仲泊」下車。(那覇バスターミナルから仲泊間の所要約70分)「仲泊」からはタクシー。(ビオスの丘まで約7分)
※「仲泊」から「石川-読谷線(48番)」に乗り換えビオスの丘に一番近いバス停の「第二団地前」で下車すると、ビオスの丘まで約3キロの上り坂を歩き。高速バス「石川インター」下車、石川インターからはタクシーを利用。
  営業 9:00-18:00(入園は17:00まで)
 沖縄に古来より伝わる風水を中心に構成されいるビオスの丘は沖縄の植物園。
「え? 何でここかって? 本当は中学の研修とかで、ここに来る予定だったの。でもお祖父様がピアノをやるなら東京にいい先生がいるって言って勝手に転校決めちゃってた。それも春休み中によ。行ったはいいけど、忙しすぎて、地元の友達と電話する間もなくて」
 綾乃はここへ来た目的をそう話した。
 透耶にも解る事だ。
 そうやって思い出の人達と切れて行く。遊んでいる暇があるならピアノを弾け。そういう世界を見てきた透耶には、綾乃が今何を思っているのかは解っている。
 会いたいのに、誰にも会えない。
「だから、ここにはあたしが好きな人達と来たかった。先生も鬼柳さんも大好きだから」
 綾乃がそう言って微笑むと、透耶も微笑んで綾乃を抱き締めた。
「せ、先生!?」
 こういうスキンシップは透耶には珍しい事だ。
  綾乃は抱き締められて狼狽した。
「俺も綾乃ちゃん、大好きだよ」
 透耶の言葉に綾乃は驚いた。
 もちろん、愛の告白なんかじゃない事は解っている。だけど面と向かってこういう事を言われたのは初めてだった。
「……嬉しい……」
 綾乃は泣きそうになっていた。
 自分が好きだと思っている相手から同等の言葉が返って来る。それは最上の言葉だからだ。
 だが、それを神聖に見ている事が出来ないのが鬼柳だった。
「ずるいぞ、てめーら」
 低い声で言って、二人を抱き締める。
「ひゃあー!」
 透耶と綾乃は完全に楽しんでいる。
「透耶、ずるいー。俺はー? 俺はー?」
「はいはい。鬼柳さんも大好きだよ」
 ケラケラ笑いながら透耶が答えると、鬼柳は驚いたような顔を一瞬して、特上の笑顔を見せた。
「透耶ー。俺も大好きー」
 鬼柳は言って、透耶の額にキスをする。
 それを見ていた綾乃が言った。
「ずるいー。鬼柳さん、あたしはー?」
 ジョークで言ったつもりだったが、鬼柳は何の躊躇いもなく綾乃の額にキスをした。
「……うそ?」
「綾乃にはservice」
 鬼柳はニヤッと笑って、透耶に抱きついている。
 透耶は少し困ったようにしていたが、仕方がないという風にされるがままになっている。
 さっきの透耶の言葉を異様に喜んでいる鬼柳が、何だか変だなあと綾乃は思っていた。
 もしかして、好きって言われた事ないって事?
 とにかく観光である。
 キス以上の事をしようとしたエロ魔人を透耶が殴り付けて、さっそく観光を開始した。
 もちろん、観光と言えば、あの企画が動いている事は当然の事である。
 必殺、透耶沖縄観光記録写真。
 綾乃が爆笑したのはいうまでもない。




 ビオスの丘は、人の感情を表現する5つの庭。で構成されている。
 遊御庭(あしびうなー)→遊び で感情を表現。揚御庭(あぎうなー) →楽器 で感情を表現。 踊御庭(うどぅいうな ー)→踊り で感情を表現。謡御庭(うたいうなー) →謡 で感情を表現。思御庭(うむいうなー)→思い を表す。
 園を構成する5つの庭には、その場所の持つイメージから人の感情を表現する名称がつけられ、 ビオスの丘は1年をとおして涸れる事のない森からの水に守られて、メダカをはじめとする様々な水棲小動物や水鳥たちが育まれている。
  大龍池(うふたちぐむい)上空から見たその形から懐けられ、ビオスの丘の風水を現すシンボル的な存在でもある。 東西方向に長さ約500m、深さは深い所で約5mの人口湖。 湖水鑑賞舟が運行し、湖畔の森や湖の生態系について船長がガイドをしてくれる。
  天染池(てぃんずみぐむい) 天を映し出す池という意味。
  毎年、5月中頃から9月にかけて水面覆うように蓮が茂る。薄桃色や純白のものなど様々な種類の可憐な蓮の花が咲く情景は「天上界」を連想する。7月の第1日曜日天染池(てぃんずみぐむい)畔で、琉球舞踊や蓮にちなんだ食べ物などが振舞われる風流で素朴な小宴が開かれる。「蓮の宴(はすのうたげ)」。
 残念ながら、今の時期には見られないモノだ。
  花染池(はなずみぐむい)水面に木々や花々を映し出す温かい女性的なイメージを込めて名付けられてる。入園するとまず目に入ってくる情景で、熱帯スイレンの鮮やかな色調が美しい。
 ビオスの丘を思いっきり楽しむなら、ビオスの丘スタンプラリー。
 園内に散らばった7つのクイズを探せ!入園口で受け付け用紙をもらい園内各所にある7つのクイズに正解すると、素敵なプレゼントがもらえる。スタンプ台にクイズがある。
 問題を解くのは綾乃で、場所を見つけるのは透耶で、そこまで迅速に案内するのは鬼柳だった。
 全問やり終えて貰ったプレゼント。それはやってみた人のお楽しみだ。
 きじむなー迷路もあるのでやってみる。
「ここまで単純なもんにどうしてそこまで迷うんだ?」
 そう言ったのは鬼柳。
「鬼柳さんが異常なコンパス持ってるんだ!」
 散々迷って、鬼柳に救出された透耶と綾乃が鬼柳を指差して怒鳴る。 
 
 ビオスの丘 湖水鑑賞舟。湖畔の植物やランの花、小動物などを船長がガイドする、25分間のジャングルクルーズ。
 所要時間は25分間。
 大龍池(うふたちぐむい)人口湖 【全長】 約500m  【水 深】 最深部約5m(綾舟場付近 約2m)
  湖水鑑賞舟はおよそ1kmの航路を25分かけて運行している。 大龍池(うふたちぐむい)は、上空から見ると龍の形に見えることから名付けられたらしい。
「ダイナミックな亜熱帯のジャングルを船上から楽しもう。ねえ……」
 そうした説明に鬼柳が呟いた。
 透耶が横を向いて鬼柳を見た。
「本物はもっと圧倒的?」
「ああ、恐ろしいくらいにな。このまま呑まれてしまうんじゃないかって思った」
 鬼柳の言葉に透耶は微笑んだ。
 鬼柳は報道カメラをしていた時代の話は無意識に避けている風な感じがある。もちろん透耶が聞けば答えるだろうが、それはしたくないと透耶は思っていた。
 だから、自然と鬼柳が話してくれるのを待っていた。
 一言でもいい。
 透耶にはそれは嬉しい事だった。
「こんなに綺麗に整備された所じゃないし、一歩中に入れば、自分で自分の命を守らないといけない。そんな場所だ。死ぬ 奴も沢山いる」
 そう言った鬼柳の横顔は、凄く寂しそうだった。
 この人は。……人が死ぬ。それも簡単に死んでしまう事をよく知っている。そしてそれがとても辛く悲しい事を。
 誰かの死が鬼柳を未だに捕らえている。
 透耶が未だに友人の死に捕われているように。
 鬼柳は透耶の事を、一つ一つ丁寧に解きほぐしていくのに、透耶は鬼柳の何にも役には立てないと思っていた。
 それは悔しく、寂しい事だった。



 沖縄県内最大規模の洋ラン専門店
 ガーデンセンター。同じ敷地内にある国内最大規模の洋ラン生産温室に直結したショップ。ギフト用から園芸・愛好家用まで、沖縄一番の品揃え。ガーデンセンターにドリンクやアイ
スクリームを用意した休憩所やお土産物コーナーもある。
 おもろ茶屋で、散策の後、広いガーデンを眺めながらのティータイム。
 アイスクリームを透耶と綾乃が食べている間に、鬼柳は洋ランの撮影をしていた。
「綾乃ちゃん」
 座って食べていた透耶が、視線を下に向けたままで綾乃を呼んだ。
「何、先生」
 さっきから透耶が何か考えるようにしているのは、綾乃にも解っていた。
 少し気を利かせて鬼柳と透耶を二人っきりにした後から、透耶は楽しそうにしているが、ふと何かを考えている風だった。
 何か聞きたい事がある。
 そういう風な感じだったので、綾乃は静かに透耶の言葉を待った。
 透耶は話そうか、やっぱり止めようか、少し悩んだが、他の誰にも相談は出来ないとでも思ったのか、ポツリと話し出した。
「最近一緒にいるようになって、でもその人には誰にも言いたくない過去があって……。聞けば答えてくれるけど、それを聞かなきゃ答えられないのが悔しいとか、寂しいとか思う?」
 そんな言葉が出てきて、綾乃はピンッときた。
「ははあ、なるほど。先生は、聞かなくても自然に話してくれるのを待ってるんだ。けど、待ってられないくらいに気になるわけか」
「うん」
「難しいなあ。その内容にもよるだろうけど。でもさ、先生にはそれを聞いて全て受け入れられる準備はあるの?」
 綾乃の返してきた言葉に透耶は少し驚いて顔を上げた。
「え? それは…」
 まさか、そう返ってくるとは思わなかったからだ。
 いい淀んだ透耶の言葉を待たずに綾乃は続けて話をする。
「人ってのはね、話したくても、これを話したら、人が去ってしまうかもしれないという恐怖があるの。その内容が深ければ深いだけ。その内容を話して聞かせる相手が、自分にとって大切であり過ぎると、不安になるの。それが自分にとってただの秘密でなく、罪であるなら、簡単には話せないし、恐怖だわ」
「あ……うん、そうだね」
 綾乃に言われて透耶は納得した。
 そう自分もそうだ。
 これを話したら、鬼柳は去ってしまうかもしれないと思った。だけど、それと反対にこの人は最後まで聞いてくれるとも思った。
 そう自分は信じたのだ。
 話しても大丈夫だと信じた。
 けれど、鬼柳は信じてない?
 だから、話さない?
 そういう自分もまだ肝心な事を話してない。それは怖くて言えない。話すと約束したのに。 
「先生さあ。鬼柳さんにちゃんと言葉で伝えてる?」
 綾乃も下を向いたままで言った。
「え? 何を?」
「今日、先生、あたしの事、大好きって言ってくれたじゃない。そしたら、その時の鬼柳さんの顔、寂しそうだったのよ。言わなくたって解るくらいに、先生に言われた事ないんだって解った。先生はその後、ついでみたいに大好きって言った時、鬼柳さん信じられないって顔してた。嬉しそうだったけど。きっと先生が思っている以上に、鬼柳さんは先生の事思ってる。……言わなくても先生解ってると思うけど」
 別に綾乃は批難めいた事を言っているのではなく、どうしてそうなっているのかが気になっているだけの言い方だった。
 透耶は、視線をまた下に落とした。
「……うん、解ってる。解ってるんだ。鬼柳さんはストレートだから、嘘は言わないから。でも、そうして向けられる事が怖いって事ない?」
「鬼柳さんは、まあ、ストレートだけどさ。たぶん、誰も好きになった事ないんじゃないの? 来る者は拒まず、去る者は追わずって感じだけど。先生に対してはさ、こう掴み所がないってのかなあ? やることやってるのに、肝心な所は怖くて触れない感じ。だから、自分がこう思ってるって伝えたいだけじゃないの? 先生はどうしてそれを怖いって思うの? 答えてあげようとは思わないの?」
「……解らない。いや、解ってる。答えなきゃと思ってるけど……」
 透耶が本当に真剣に考えているのを見て、綾乃は何をそんなに悩んでいるのか解らなかった。
 少し考えてから、答えてくれそうな質問をした。
「……んと。先生、それは男同士だからとか?」
 透耶は首を横に振った。
「他に誰か思ってる人がいるとか?」
 また首を横に振った。
「じゃあ、何が引っ掛かってるの?」
 どれも違うと言われて綾乃は確信を突いた質問をした。
 透耶は伏せていた目を閉じてそれに答えた。
「俺は人を好きになるのが怖いんだ」
 
 透耶のその言葉に、綾乃は納得したように言った。
「ははあー、なるほどねえ。でもさ、先生。人は誰でも人を好きになるのは怖いんだよ」
「え?」
 また綾乃の意外な言葉に透耶は顔を上げた。
 綾乃は前を向いたままで、話を続けた。
「だって、付き合ってさ、まだ好きなのに嫌われたらどうしようとか、表面 だけ見て好きとか言われているんじゃないか?とか、いろんな事が解ってくると捨てられるんじゃないかとか。そういう事は色々考えるよ。でもさ、それで逃げたら人を好きになった自分が可哀相だと思わない?」
「自分が可哀相?」
「うん、折角人を好きになってるのに、それを完全に否定しちゃうわけでしょ? それじゃいくら誰かを好きになったとしても、そこで完結しちゃってる。可哀相以外に何があるの?」 
 綾乃はそう言い放った。
 そう、誰かを好きになる、それ自体否定している。
 相手が誰にせよ、それ自体を否定して終わっている。
 だったら、何故、こうして俺は悩んでる?
 男だからとか、そんな事は考えた事はなかった。立場とか、そういうのは考えた。でもそれは鬼柳の言葉で否定された。
  そんなのは関係ない、透耶が好きなだけだ、の一言で。
 人を好きにならないと決めつけていた。あの事を思い出したくないから逃げてる。なのに、この思いは止められない。
「一生誰も好きにならないつもり? 鬼柳さん以上に先生の事大切に思ってくれる人なんて絶対現れないわ。一生に一度、最初で最後の愛している人にしてもいいじゃない。それくらい思ったっていいじゃない。鬼柳さんはそれくらいとっくに覚悟してると思うけど」
 綾乃はそう言って、ふと鬼柳が近付いてくるのを見付けた。
 まだ透耶は気が付いてない。
 咄嗟に綾乃は鬼柳に来るなとジェスチャーで報せた。鬼柳は奇妙な顔をしたが、透耶が何か真剣に考えているのを見て綾乃を見た。
 綾乃は、もう少し任せろとだけ報せて、鬼柳が納得出来ない顔をしながらも、頷いて少し離れた席に座るのを見届けた。
「先生の中にあるモヤモヤは何? どうして鬼柳さんの過去を知りたいの? それはある意味好奇心とも取れるけど、先生はそういう事で人の過去を知ろうなんて思わないのは知ってる。だから、それは独占欲でしょ。鬼柳さんを自分のモノにしたいんでしょ? 先生にはそれが出来るのよ。もっと欲しがりなさいよ。全部欲しいって言えばいのよ。何で話してくれないんだって言えばいいじゃない。先生が何か話したいなら、思い切って話せばいいわ。鬼柳さんにはそれを受け入れる許容量 は十分あると思う」
 綾乃が力を入れてそう言った。
 すると、透耶はぷっと吹き出して笑った。
「え? 先生?」
 透耶がクスクス笑っているから、綾乃は何か場違いな事でも言ったのか?と不安になった。
 透耶は笑うのは悪いと、一生懸命に笑いを治めた。
「い、いや、ごめん。笑うつもりは……。綾乃ちゃん、凄い事言うよねえ。びっくりしちゃった」
「先生、あたし真面目よ!」
「うん、解ってる。そんな考え方した事なかったよ。それでいいんだって思ったら、気が抜けちゃって」
 そう母親も、伯母も、皆そう思って人を好きになって子供を残した。自分達がどういう状況にあるのか理解していたからこそ、皆一生に一度の恋をした。
 ただそれだけなのだ。
 そう、彼女が何故約束を破って恋をしたのか、誰かを愛したのか。人は人を恋しく思うものなのだ。一人では生きて行けない。例え呪われていたとしても、思う相手が納得してくれるなら、それは最高の事なのだ。きっと死んでまでも一緒にいられる、一生、永遠を手に入れる事が出来るのだ。
 透耶は、ふと叔父の言葉を思い出した。
 「人を好きになる事は何も不幸な事じゃない。我々のような者でも、その権利はある。うちで不幸になった者がいたと思うか? 皆幸せで一生のものを手に入れた。ただそれだけなんだよ。それは普通 より凄い事じゃないか」。
 それを理解した時、透耶の中のモヤモヤは綺麗に消えてしまった。
「まったく、先生の周りには馬鹿な人しかいないのね。それか、大事にし過ぎてるのよ。人を好きになるのに理屈なんか必要ないのよ。そりゃ、不安だって怖い事だってあるわ。だけどそれを乗り越えるのが一人なのか二人なのかって事よ。だったら自分の好きな人と一緒のがいいに決まってる。馬鹿みたいに反論しやがる奴がいたら、こっちは目一杯幸せだって見せつけてやりゃいいのよ。文句あっか!? 僻んでんじゃねえ!ってくらいまで思っちゃえば、外野なんてどうでもよくなるよ」
 綾乃が力を込めてそういうと、透耶は笑いながら言った。
「はあ、まあ、鬼柳さんの場合は節度ってものが必要だと思うけど」
「言えてるー。で、告白はいつ頃?ってかー。あたしが帰るまではやめてー! 先生達に見送って貰いたいからー」
「あはははははは。やっぱ、怖いからやめようかなあ」
「エロ魔人、空港だってかまやしないって思うわよ」
 綾乃が笑って言うと、透耶は真剣に唸った。
「ううう、それが問題だ」
 えらい言われ様だ、エロ魔人。
「で、先生は告白する覚悟は出来たわね?」
 透耶がかなり気が楽になったような顔をしていたので、綾乃は最終確認をした。これを聞かないと、いや、約束させないと、またうだうだ悩んでしまいそうだと思ったからだ。
「うん。綾乃ちゃん、ありがとう。きっと俺、誰かに発破かけて欲しかったんだと思う。それが綾乃ちゃんで良かった」
 すっきりとした顔で透耶は言った。
 それがあまりに綺麗だったから、綾乃は照れてしまった。
「これは、授業料かな? 先生にはお世話になったし」
 テレながら綾乃がそういうと、透耶はクスクス笑いながら言う。
「でもさ。こういうのは、友達関係なら当たり前の協力じゃない?」
「あたしと先生が友達?」
 凄く意外な言葉が出たので、綾乃はキョトンとしてしまう。
「あ、嫌だったらいいんだ。なんか、そう思っちゃって。俺、友達少ないしさ」
 透耶は少し調子に乗り過ぎたかと思ったが、綾乃は首を横にブンブン振ってから凄く嬉しいと微笑んだ。
「ううん、嬉しい! じゃあ、電話番号交換して、お互いの家行ったりして、休みの日にはショッピングとか、遊園地、うーん、それからあー、あ、もちろん保護者同伴だからー車は確保したも同然ね」
「いいねえ、楽しそう。やろう、綾乃ちゃん!」
 透耶はそういう付き合いをした友達がいなかったので、本当にそうなったら楽しいだろうなあと想像して、実行したいと思った。
「うん、うん、先生、大好きー!」
「綾乃ちゃん、大好きー」
 などとやっていたら、不機嫌な声が上から降ってきた。
「てめーら。油断も隙もないな」
 二人が見上げると、鬼柳が不機嫌な顔で立っている。
「あら、やだ。あたしたちは友情を確かめ合ってるだけじゃなーい」
「レズってんじゃねえ」
 鬼柳は透耶と綾乃が抱き付き合っているので、それを無理矢理剥がして透耶を抱き締める。
「透耶は俺のだ。綾乃でもやらん」
 真面目な顔をして言うものだから、綾乃も透耶も吹き出して笑ってしまう。
「そんなの解ってるって」
 二人の声がハモッたものだから、鬼柳がまた不機嫌になった。



 ビオスの丘を満喫して、帰りに鬼柳が夕食にと店を選んだらしく、わざわざ綾乃の実家附近にある居酒屋へ行く事になった。
「別にそこじゃなくても、あたし鬼柳さんの手料理が食べたかったのにー」
 そういう綾乃だが、鬼柳はそれを無視していた。
 居酒屋について、鬼柳は綾乃の背中を押して中へ入った。
 いらっしゃいませー。という声と共に。
「きたー! 綾乃だよ!」
 という声が店中に響いた。
 綾乃が驚いて声のした方を見ると、そこには小学校まで一緒だったクラスメイトが大座敷を陣取っていた。
「え? 皆、どうしたの?」
 綾乃が驚いていると、一人が進み出てきた。
「何言ってるの。さあ、上がって。今日は同窓会よ」
「まあ、酒は飲めないけどなあ」
「雰囲気だけでもいいじゃんかー」
「今日は無礼講!」
 あちこちから声が上がる。
「あ、こちら、スポンサーさんね。皆、お礼言ってよ!」
 幹事をしていた女の子が声を上げた。
 皆、鬼柳を見て一瞬怯んだが、ここは子供らしく、綾乃の知り合いである叔父さんだと思い込み、頭を下げて礼を言った。
「ごちそうさまです!」
 鬼柳は無愛想なままで答えた。
「いや、別に礼はいい。これだけ集めてくれてありがとう。8時までだが、食べるだけ食べてくれ。酒は絶対に駄 目だ。俺達はカウンターにいる。綾乃、行ってこい」
 鬼柳はそれだけ言うと、透耶の腕を引っ張ってカウンターに向かった。
 一瞬、呆気に取られてた綾乃のクラスメイトだが、そこは現金。食べれるだけ食べてやれ!とばかりに注文が始まった。
「綾乃ー。久しぶりー。元気そうじゃない!」
「あ、うん。皆も相変わらずね」
「こっちは全然よ。でも、いきなり東京行っちゃうからびっくりしちゃったわよ」
「うん、ごめんね」
「いいって、綾乃が頑張ってるの知ってるし」
「大体さあ。帰ってきてるなら、一言声かけなさいよ!」
「そうそう、水臭い」
 散々文句を言われて、綾乃は頭を下げっぱなしだった。
「ねえ、何で皆集まる事になったの?」
 綾乃は当初の疑問を口にした。
 タダで食べれると、食らい付いていた幹事が振り返った。
「あ、んん。今日、電話があったのよ。電話は女の人だったけど。あんたが帰ってきてるけど、明日帰るから、同窓会やらないかって。しかも食費はロハ。今日は土曜日で休みだったから、クラスメイトに電話しまくって人数集めたのよ。これで殆ど来てるんじゃないかな? まあ、食事なくてもあんたが帰ってきてるって言っただけで、三分の二は簡単に集まったわよ」
 女の人?ふと綾乃は考え込んだ。だが、それは明白だった。屋敷の使用人知念が鬼柳に頼まれて電話をしたのだろう。
「そうそう、あたし、食事の事なんて聞いてなかったからびっくりしちゃった。現金なのは美代だよ」
「あー言うなあ。夜出るって言ったら、母さんが渋ったんだよ。でも夕食ロハって言ったら放り出されたんだから」
「真貴司(まきし)ー。カンパーイ!」
 近くまで寄ってきた男子が綾乃が持っているグラスにグラスを当ててそう言って通 り過ぎて行った。
 相変わらず、何も変わらない同級生に、綾乃はたまらなく嬉しかった。
 大丈夫、帰る場所がある。
 それは嬉しい事だった。


「鬼柳さん。綾乃ちゃんの為にセッティングしたんだ」
 泡盛を飲みながら、透耶が言った。
 今日は運転手付きなので、鬼柳も飲んでいる。
「まあ、な。こっちに来てから張り詰めてたし、友達の話とか一回も出なかったのが気になってな。母親に電話したら、友達とは連絡取ってないとか言ってて。綾乃が嫌がってるって。それで、どういう事か解らなかったら、知念が電話で確認してくれて、どうせなら同窓会とかいうのをやったらどうか?と言うから任せたんだ」
「へえ、そうなんだ。鬼柳さんが同窓会って言葉知ってるわけないしねえ」
 透耶はクスクス笑った。
「今、意味が解った」
「そうだと思った」
 透耶は振り返って綾乃を見ると、綾乃も楽しんでいるようで、綾乃の前にはひっきりなしに友達がジュースで乾杯をしにやってきている。
 あれがお酒になったら、恐ろしいものがあるのだが。
「透耶、ビオスで綾乃と何話してたんだ?」
 鬼柳はどうしても気になったので透耶に聞いた。
 透耶は、鬼柳の方を振り向いて、ニコリと笑った。
「まだ話せない。綾乃ちゃんと約束したから」
「は? 期限付きなのか?」
「そう。まあ、こっちの都合もあるしねえ」
 透耶はそう言って、またクスクス笑っている。
 透耶があまり笑うから、鬼柳はそれに見愡れてた。
「透耶、何か綺麗だ」
 少し酔った感じの透耶を見ながら鬼柳が呟いた。
 お酒を飲もうとしていた透耶は、吹き出しそうになった。
「な、何言ってんの?」
「ほら、そういう目」
「もう、酔ってるね」
「酔ってないよ。透耶で酔いたいから」
 いつものような冗談ではないマジな事を口にする鬼柳に、透耶は反論出来ずに顔を赤らめて視線を外した。
 こういう事、平気で言うよなあ……。
 それで動揺する俺も俺だけど……。
 ちらりと横を見ると、鬼柳は右肘を付いて、手に頭を乗せて透耶の方を覗き込んでいた。
「う……何?」
「ん、見愡れてる」
「何でこんなのがいいんだか……」
 透耶が呟くと、鬼柳の左手が伸びてきて、透耶の頬にふれる。愛おしそうに撫でられて、透耶はドキリとしてしまう。
 見つめ合っていると、鬼柳の方が先に手を下げ目を反らした。はあっと大きく溜息を吐いて煙草を取り出した。
 ライターを取り出した所で、透耶が声を上げた。
「あ、鬼柳さん。それやらせて」
 素早くライターに手を伸ばす。
「あ? ライター? どうするんだ」
 意味が解らずライターを透耶に渡すと、透耶は真剣にライターを睨んでいる。
「どうやって火をつけるの?」
 本気でライターを触った事がない子供の発言だった。
「ん? 付け方知らないのか?」
「うん、ライターなんて近くになかったし。両親も煙草吸わないから」
「ああ、そうか……。違う、こう持って、そう、親指で、striker wheel…えっと、この回転するやつを回す。回したと同時に、こっちの受け皿に指乗せたままにする。そう」
 鬼柳が手を添えて、一から付け方を教える。透耶は真剣そのもので、中々上手く付かないライターに挑んでいる。
「あ、付いた。鬼柳さん、付いたよ」
「ん、透耶、そのまま」
 ライターを握っている透耶の手に手を添えて、鬼柳は自分からライターの火に近付いて、ずっと銜えたままだった煙草に火を付けようとしている。
「ついた?」
「もうちょっと……」
 透耶がじっと見ていると、鬼柳が顔を上げて煙を吐いた。
「OK」
 その言葉で透耶は親指を離した。
「ライターって、英語でそのままライターなんだ」
「ああ。Gas Lighter。マッチも、Match」
「Cigarette. Ashtray. Butt. Ash」
 煙草、灰皿、吸い殻、灰。
 透耶は指を差しながら、単語を呟いていく。
「highball glass?」
 泡盛を飲んでいるグラスを持ち上げて透耶が言う。それに鬼柳が付け足す。
「or tall tumbler glass。」
「You smoke heavily though I don’t. Hey. can you blow a smoke ring?」(俺は煙草吸わないけど、鬼柳さんはいっぱい吸うよねえ。あ、煙りで輪っか作ってよ)
「As you please. your Highness.」(仰せのままに)
 いきなり目の前で始まった英会話に、店の主人は呆気に取られている。沖縄では珍しくない英会話でも、目の前で平然と始められたらびっくりしてしまう。
 しかも、煙草の煙でリングを作って、一人が喜んでいる光景だ。喜んでいる方は、声は少し高いが男だとは解る。しかし、見た目がはっきりと男と言えない。
 そうしていると、綾乃がカウンターにやってきた。
「What's the matter?」
 透耶がいきなりそう言ったので、綾乃は眉を潜める。
「先生、どうして外国人になってるの?」
「あ、ごめん。終わったの?」
 透耶が振り返ると、ぞろぞろと皆が靴を履いたりして出て行く所だった。
「綾乃ー。この二人は親戚か何か?」
 そう言われて綾乃がニヤリとする。
「だーめよ。紹介はしないから。秘密の人達なの」
「えー。何それー」
「秘密ー。だって紹介したら怒られるしねえ」
 綾乃はそう言って鬼柳を見上げる。
「It is necessary for you guys to have at least eight hours’ sleep. I guess it is time you went to bed. Good night.」
 鬼柳は、無茶苦茶な早口でそう立てしまくるとニコリと笑って問答無用にした。
「で、何?」
 綾乃がキョトンとして透耶を見る。透耶は溜息を吐いて答えた。
「つまり、遠回しに紹介されたくないって事らしいねえ」
 まさか、育ち盛りの子供は8時間以上寝なければならないとか、更に遠回しに子供は相手にしないとは、言えない……。
「あ、鬼柳さん。この事親に聞かれたら、綾乃ちゃんのせいには出来ないからさ。名前教えといた方がいいかも」
 そう透耶が言うと、鬼柳は英語で話を続ける。
「エドワードの名前出しとけばいいだろう」
「そんな簡単に出していいの?」
「どうせ、綾乃の母親が連絡先知ってるだろ? それにここの代金はエドワード持ちだからな」
「何だって!? そんなの駄目だよ、俺が払っておく」
「いいんだって、綾乃の為に使ってくれって置いていった金だ。レストランなんかで最高のフルコース食べるより綾乃は喜んだだろ」
「それはそうだろうけど……俺は知らないからね」。
 というわけで。
「スポンサーは、エドワードさん……ランカスター氏という事になりました」
 とほほとしながら透耶が答えると、綾乃は驚きながらも喜んでエドワードの人柄を説明した。
 それで全員が納得したようだった。
 居酒屋の前で散々話していた中学生が、鬼柳やら透耶に頭を下げて、綾乃に挨拶して帰るのにかなり時間を要した。
「先生、本当にランカスターさんなの?」
 綾乃が少し不安になっていたのか、聞いてきた。
 幹事の子に幾らかかったのか聞いてしまったのだろう。そりゃ、30人集まれば、相当な金額がいったはずだ。透耶もひっくり返りそうなものだった。
「うん、お金はエドワードさんから、鬼柳さんが預かってたみたいだよ。綾乃ちゃんが喜ぶようにって事だったらしいし。本当はフランス料理の最高フルコースだったらしいけどね。企画は鬼柳さんだったけど、楽しかった?」
「うん、ありがとう。どんな事より嬉しい」
「良かった」
 二人でニコリと微笑み合った。
「綾乃、荷物先に家に運んだそうだ」
 SPと話に行っていた鬼柳が帰ってきた。
「ありがとう。あたし、このままあの子達と一緒に帰るね。今日泊まるって言うから」
「あ、駄目だよ。ちゃんと家まで送るから」
 透耶が心配してそういうと、綾乃は笑って首を振った。
「いいの。まだ話したりない事あるから」
 そう言われて、透耶はああっと意味が解った。
 居酒屋では話せなかった事をまだ話したいのだ。それも家に着いてからでなく、何年も通 い慣れた帰り道でだ。
「うん、解った。明日、見送りに行くから」
「うん、待ってる。今日はありがとう、とても楽しかった。じゃ、おやすみなさい!」
 綾乃は元気いっぱいに手を振って、友達の方へ駆けて行った。友達もこっちに頭を下げてから、楽しそうに笑い声を上げて街並に消えて行った。
「さて、俺達はもう少し飲んで行こうか」
 鬼柳がさらりとそう言ったが、透耶には解っていた。
 綾乃が家に帰り着くまで、安全を保障するのが鬼柳が与えられた役目。しかし、着いて行く訳にはいかないから、SPにいかせたのだ。
 透耶はクスリと笑って鬼柳の腕を引っ張って、さっきの居酒屋に戻った。