spiralling-37

  植野千代は、晴れたその日、いつものように家の周りの雪かきをした。もう3月であるが雪はまだ降っては積もってを繰り返す。雪かきをしないと、家から出られなくなることもある。三ヶ月ここで暮らし、すっかり雪景色にも慣れた。重労働であるが楽しくて、逃亡生活をしているのを忘れてしまう。
 そんな日々を過ごせているのは、一緒に逃亡してくれて宿屋食事まで全て賄ってくれている久山鉄男のお陰だ。
 彼もまた嵯峨根会に追われている人間で、元ヤクザ。現在は一般人になったというがどう考えてもカタギには見えない。
 いつものように過ごしていると、その日車が二台ほどあがってきた。一台は久山に別荘を貸してくれたオーナーの車で、休暇を終えて帰ってきたようだった。ただもう一台は知らない車だった。
 千代は急いで部屋に戻ろうとしたら、久山が玄関から出てきた。
「大丈夫だよ。あれはわしの知り合いだ」
 久山はそう言うと入り口を開けて到着を待つ。
 車が到着すると、オーナーが元気に車から降りた。
「久山さん、あんたの言う通りにお客さん連れてきたよ」
 オーナーが戻ってくるのに合わせて、久山が呼んだ客人は、すっと車から降りて久山の前に立った。
 寒さからコートを着ているがどうみても小さな人だった。
 男性だから千代よりも背は高いのだが、コートを着ても細さは伝わる。その人はにこりと笑って千代を見た後、久山に挨拶をしようとした。
 だがその人物を見た久山が恐れ多いとばかりに頭を直角に下げたのである。まるでデパートの店員が朝にお客を迎える時にお辞儀をしている、あれくらいに頭を下げたものだった。
「あ、あなた様がわざわざお越しにならなくても! なんてことです、寧野様」
 寧野と呼ばれた人は苦笑してなんとか久山に頭を上げて貰おうとした。
「久山さん、頭を上げて。今日のオレは案内役なんだ。いきなり警察じゃ、怖いだろうと思って」
 軽い口調でそう言う若者は千代と年齢はそれほど変わらないはずだ。何処のお偉いさんの息子なんだと思っていると、部屋の中からもの凄い形相をした大矢浩行(おおや ひろゆき)がひっかき棒を持って飛び出してきたのである。
「この嵯峨根会の刺客がぁ!」
 棒を振り上げて寧野に襲いかかってしまった。
「だめ、大矢さん!」
 慌てて千代が止めようとしたが止まる大矢ではなかった。棒が寧野に当たると思っていると、寧野はとんと軽く飛んで後ろに下がり棒をよける。雪に棒がざくりと埋まり、それを大矢が引き抜こうとするのが、それより先に寧野がまた飛んだ。大矢の方に向かって飛んだので大矢がそれを避けようと後ろに下がったのだが、それ以上に寧野が飛んでいて、大矢が後ろに転ぶのに合わせて軽く足で大矢の身体を押して雪に埋めた。そしてその大矢の身体を踏まないように仁王立ちでトンと降り立つ。
 大して痛くもない攻撃をされ、雪に埋められた大矢は、驚いた顔をして自分を沈めた相手を見上げた。そこには自分ほどの若さの美青年が立っていて大矢の顔をのぞき込んで言った。
「で、説明していい?」
「……はい」
 こんなに簡単に攻撃を止められたら叶うわけもなく、大矢は素直に従った。むしろ、綺麗な攻撃をされたのは初めてで惚れるなというほうが無理だった。
「簡潔に言うと、信頼できる警察の人を麓に呼んでる。いきなりあがってきて驚かすのも悪いと思ってオレが先発で来た」
 寧野はそう言うと、大矢の上から退いて言う。
「植野千代さん、大矢浩行(おおや ひろゆき)さん。二人とも警察によって保護されます。警察は嵯峨根会への強制捜査を実行するためにあなたたちの証言が必要となります」
 寧野がそう言うと、千代はやっと自分が戦うべき時間が来たのだと思った。自分のために死んだ八木のために、やるべきことがある。


「いやぁ、まさか織部寧野が本部に来るとは思わなかったな……」
 杉浦警視は喫茶店に入ってからこの台詞を五回ほど言っていた。
 一緒に同行している阿部警部は杉浦警視に苦笑している。本当にその通りだったからだ。
 それは昨日のことだ。
  杉浦警視が警視庁から出てきたところを織部寧野が尋ねてきたのである。
「お久しぶりです」
 そう言われて、杉浦警視は何の冗談でこうなっているのか分からなかった。その場に座り込んでなんでだーと唸ったくらいだ。
 宝生耀が宝生組を破門され、ヤクザから一般人になったのは二ヶ月前だ。それからずっと宝生耀どころか織部寧野の行方も分からなくなっていた。その本人がいきなり目の前に現れたのだから驚くなというほうが無理だ。
「あの……?」
 座り込んだ杉浦警視をのぞき込んだ寧野が首を傾げている。二十歳を過ぎた男をかわいいと思ったことはないが、この自然な仕草はきっと宝生耀を虜にしているんだろうなとぼんやりと思った。
「で何のようで? まさか宝生耀から逃げてるなんていわないでくれよ」
「まさか」
 にっこりと笑って寧野が即否定すると、衝撃の一言を言った。
「植野千代さんたち、そろそろ入り用じゃないですか?」
「お前らか……くそう」
 織部寧野の言葉に悔しがる杉浦警視。逃げ出した植野千代が何処で生きているのか、それとも死んでいるのか謎だった。それを寧野がこう言いに来たのは宝生組が絡んでいたからであろう。
「仕方ないですよ、うちも巻き込まれていただけなので」
 寧野がそう言う。それは久山のことであろう。久山も命を狙われていたため一緒に逃げていたと言われたら、警察としては何も言えない。早めに出頭していても守れなかったし、警護をしても殺されていたかも知れないのだ。なにせ内部にスパイがいたから。
 スパイの問題は嵯峨根会への強制捜査でどうにかなりそうであるが、植野千代が今出てきてくれたらいいのにと思っていたら本当に出てきて悔しいのだ。
 宝生組の方が危機を理解していることや、警察内部の情報が漏れていることもだ。
「今から行きますけど、すぐ行けますか?」
「はいはい、北海道ですか行きますよ」
 千代が北海道から移動しているとは考えていなかった杉浦警視が嫌みのように言うと、寧野はにこりとして「はい」と答えた。嫌みが通じない。悔しい。
 そういうわけで緊急に阿部警部を呼び出し、車で空港まで行き千歳行きの最終便に飛び乗る。追われている身の人間を連れに行くのだから警戒をしなければならないと思っていたら、千歳行きが満員とある。
「切符買い占めましたので、キャンセルは出ませんから」
「あーはい」
 嵯峨根会に追われないように用心してのことらしい。警視庁からの応援は呼べないが、北海道警察にはすでに要人護送に必要な人材はそろえて貰った。後は杉浦警視と寧野が北海道へ行くだけだ。
 寧野は自分が見張られていることは理解しているようであるが大した緊張もなく飛行機に乗っている。
 海外にいる間に何があったのか知らないが、いつの間にか宝生耀の仕事に平然と手を貸すようになっているらしい。いくら宝生耀が宝生組の若頭から一般人になったと言われても、杉浦警視には納得ができない。
 当然黒社会から抜け出せやしないのだが、もう杉浦警視が管轄するべき人物ではなくなってしまっていた。織部寧野が平然と顔を出したのも杉浦警視が寧野を拘束する理由がないからだ。
 まして今回は協力者で案内人だ。本人曰く。
「久山さんを迎えに行くだけ」
 という任務で動いているらしい。
 北海道警察もまさか元ヤクザの情人に案内されるとは思ってなかったようで唖然としていた。まして宝生組の元若頭宝生耀の情人だ。名前や顔は知っていても目の前で見たことはない人の方が圧倒的だ。
 男の情人という立場の人間だからとバカにした態度でいる人間もいたが、堂々として平然と歩く姿にそうした目でしか見ない自分が恥ずかしくなる気分になるほど、織部寧野は何も恥じてすらいない。
(あんまり舐めてると痛い目みるタイプだな)
 杉浦警視は少しの時間一緒にいただけでそう感じた。
 数年前、織部寧野は一人では立ち上がれないほど、打ちのめされていた。そこからここまで立ち直るどころか強くなるのに必死で生きてきたに違いない。
 だからこそ惜しいと杉浦警視は思う。
 こんな青年を黒社会でしか生かせないなんてと。
 それでもこの先、杉浦警視とは交わることがないまま織部寧野が生きて行ければいいと思った。

 植野千代は織部寧野の手によって警察に保護され、大矢もまた同じく保護された。二日後に、北海道の一軒家の火事で死んだのが川原亜衣と発表され、嵯峨根会が関与していることが警察発表される。
 翌日、嵯峨根会への強制捜査が行われ、元会長の事故死も生き証人である植野千代から八木が脅されて行ったことが証明され、嵯峨根会理事長秋篠啓悟(あきしの けいご)以下、幹部が逮捕されるに至った。


  北海道で植野千代が見つかり、警察に保護されたのを嵯峨根会会長都寺冬哩(つうす とうり)が知ったのは、千代が保護されてから三日目のことだった。
 嵯峨根会に強制捜査が入り、秋篠啓悟(あきしの けいご)が逮捕され、連行されたという。その当の会長である冬哩のところには刑事はこなかった。
 愛人の亜矢子の部屋にいたが、誰も訪ねてこないところを見ると、今回の事件で冬哩を疑う人間はいないらしい。それもそのはずで冬哩はその事件に関わってすらいない。
 全て秋篠啓悟がしたことであり、真栄城俐皇(まえしろ りおう)が用意した舞台だ。その真栄城俐皇は海外に出ていないが日本国内で姿を見た報告すらされていない。事情を聞くために手配されているが見つからないだろう。
 冬哩をはめようとしたのだろうが、植野千代が生きている以上、冬哩が関係ないことだけが証明される。
 だが嵯峨根会は、理事が逮捕され、副会長が銃殺され、名誉顧問はおらず、最高顧問の一人も殺された。
 幹部が壊滅状態ではマズイので冬哩は残っている幹部を集めて会議をする羽目になった。だがいざ集めてみると、内部は混乱していた。
 それまで会議にすら興味を示さなかった会長が今更何をやるというのかというわけである。
 理事長の秋篠啓悟が取り仕切っていた場を、素人の会長に任せるわけにはいかないと言うわけだ。
 だが冬哩はそのものたちに会議をする気がないなら出て行けと言った。
「オレが会長である事実は変わらない。これから開いた幹部を埋める会議をするが、当然出て行った人間が幹部になれるなんて思うなよ。もちろん、協力をしなかったという名目で嵯峨根会からも追放する」
「なっ!」
 無茶苦茶な条件を付けた追放であるが、理にかなっていることは間違いない。こんな大変な時に協力しないと啖呵を切った以上、後で都合よくいくなんて道理が通らない。
 たとえ飾りの会長の言葉でも、会が完全に波状していない限り、一応は会長側に付くのが普通である。まして理事長は逮捕されたが、後に解放されることもあるかもしれない。その時、会を抜けましたと理事に知られれば当然報復はあるだろう。理事長の性格を知っていれば、これは予想できることだ。
「元会長の暗殺など誰もしていない。あれは事故だ。オレはそう信じている。だからこそ、今こそ嵯峨根会が踏ん張らなければ、大阪如罪組の進入を許すことになる」
 そう言われると全員がぐっと唸る。如罪組は今のところ大人しい。まるで嵯峨根会が勝手につぶれてくれるのを待っているかのような態度だ。
 それもそのはずで、如罪組は嵯峨根会が元会長を暗殺したと思っているからだ。だから警察が動くだろうと予想して、特に手出しはしなかった。
 それでも理事長逮捕を待っていたのか、それを機会に如罪組が動き出したという。
 ただでさえ嵯峨根は如罪組に喧嘩を売っている。
 如罪組が破門した九十九の名前を名誉顧問にして煽って見せた。あれで如罪組は宣戦布告されたと思っている。そこまでやっておいての失態。秋篠啓悟(あきしの けいご)がいかに見かけだけだったということか。
 だがほかにすがれるものはない。
 結果、ほぼ開いた部門に下位のものが繰り上がる形で埋めていくのが順当で、また繰り上がりで開いたところに、このところの成績がよかった組織を追加した。前回の配置で不満を漏らしていたものに一応の役職を与えてやったのだが、まだ革命は終わってはいない。
 これはとりあえずの配置であることを冬哩は念を押した。
 逮捕された秋篠啓悟が戻ってくるまでの応急処置であり、その後また配置換えがあるかもしれないと言った。
「まあ、これで一応の混乱は押さえられるかと」
 最高顧問に据え置きだった道伏(みちふし)が言う。
 基本ヤクザは役職持ちが逮捕されても役職は失わない。一般企業ではないのだから、責任を問うのは別の問題となる。
 こうして冬哩の采配で決められた中で、一人だけ役職を下げられたものがいた。都寺朋詩である。
 朋詩はこんなことになるだろうと予想はしていたようで、自分の役職が下っても何の反応もしなかった。
 冬哩としてはなるべく朋詩は遠ざけて置きたい存在である。下手に朋詩を理事や顧問にしておくと朋詩を会長になどという輩が増えるかもしれない。
 昔から危険だと思った人物は朋詩だけである。何をしても大して驚かず、納得したように道を譲って後方に下がる朋詩の冷静さが冬哩には理解出来ない上に、恐ろしさまで感じるのだ。
 何もしてこないことが分かっているのに、警戒しなければならないのは朋詩ただ一人だ。だから秋篠啓悟が優遇して最高顧問にしたことは冬哩からすれば冬哩の身代わりを啓悟が用意したように感じた。
 実際植野千代を生かしておいて、冬哩をはめる作戦を残していたことが、冬哩を見限る準備だったのではないかと冬哩を不安にさせた。
 ヤクザの世界に興味はない。生まれたときから会長になれと育てられただけだ。なのに今は与えられた環境が消えた時の恐怖が勝ってしまう。
 その後都寺冬哩は、会長として理事長の仕事をこなすようになった。それまで無能だと思っていた冬哩は、秋篠啓悟のやり方でも学んだかのようにきっちりとした対応をする。
 これに驚いたのは、飾りだと信じていた秋篠の信者だ。まさか冬哩がここまで出来るとは想像しておらず、これでは冬哩に嵯峨根会を乗っ取られると焦った。
 指示を仰ごうにも逮捕された秋篠啓悟と面会は出来ず、拘留された秋篠啓悟は犯行を否認しているが、到底逃げきれるものではないようだった。
 さらに調べ上げた冬哩は、証拠を警察に上手く流し、とうとう秋篠啓悟は犯行を否認したまま拘留期限が来て、検察が公判請求をした。
 秋篠啓悟が関わっている金の流れや、八木を脅迫した流れ、千代の監禁と金銭の受け取り等。変死した元山崎組組長十勝正己(とかち まさき)のパソコンから八木をボディガードにつけた流れや計画書が出てきたことが決定打だった。
 だが十勝のパソコンに計画書を仕込んだのは冬哩だった。当然秋篠啓悟はそんなものは始末していると思っていたらしく、それを知らされた時はあり得ないという顔をしていたという。
 弁護士は嵯峨根会からつけてあったが、犯行を認めてつとめを果たせという容赦ない言葉が伝えられていた。
 冬哩が会長として立派にやっていることを伝えた上でのことだったので啓悟も気づいたはずだ。
 自分が冬哩にハメられたのだと。
 都合よく警察に証拠が渡されていたことや山崎が計画書を後生大事に持っていたというのも冬哩がやったことだ。
 まさか飾りに徹していた冬哩が突然牙を向くとは思ってすらいなかった啓悟の見通しの甘さだろうか。飼い犬に手を噛まれたと思っているのか不明だ。
 だが秋篠啓悟を逮捕させたのは、冬哩だけの仕業ではない。確実に俐皇も関わっている。
 嵯峨根会と繋がりがある煌和会に喧嘩を売り、繋がりを消したことも嵯峨根が窮地に陥った原因だ。煌和会は何があったのか分からないが、全取引を中断し、荷を引き上げてしまった上に黙りを決め込んだままだ。次の取引があるのかどうかさえ分からない。
 たかだか俐皇一人ともめただけで、取引をやめるほどのことなのかと。
 とりあえずは東南アジアのマフィアで煌和会と繋がりがないマフィアとの取引は続いているが、そこにも邪魔が入ってきている。混乱は必至でどうにもならない。特に中古船を売っていたあたりのマフィアが抗争に入っていた。
 煌和会との繋がりが消えてしまったことで、ヨーロッパの取引も半分以上が止まっている。イタリアのマフィアが当局に逮捕され消えたことも関係して、マフィア自体が自粛ムードなのだ。
「何なんだいったい」
 海外のことを詳しかった俐皇が抜けた今、その情報筋はないと言っていい。啓悟は煌和会と繋がっていることで得られる情報だと代わりにしていたらしいが、それすら消えた。
 普段やらないことをやる羽目になって冬哩はイライラしていた。そもそも俐皇なんて使わなければよかったのだ。などと思ってしまうほどだ。
 だが、そうなのだ。俐皇を使った結果、煌和会と繋がり、嵯峨根は大きくなった。九十九の名前を使ったのは啓悟だが、俐皇がそれを臭わすことを言っていたという。
 今更だが、もしかしなくても嵯峨根は俐皇におもちゃにされていたのではないかと疑い始めた。
 俐皇には嵯峨根以上に力のある人間と繋がりがあり、煌和会に喧嘩を売れるほどの力も持っている。嵯峨根をあっさり捨てたことからも分かるように、俐皇には嵯峨根など眼中になかったことになる。
 てっきり高嶺会から寄せられた刺客かと思って用心をし汚い仕事をさせて決して表舞台にたてないようにしたつもりが、その方が俐皇自身には大いに都合のいいことだったのだ。
「そもそも日本にいない時、あいついつも何処にいたんだ?」
 俐皇が海外によく出ていることは知っている。秋篠の用事以上に何かをしていたのだろう。
「何をしていたって? そりゃこういうことだよ」
 いきなり俐皇の声がした。
 叫ぼうとした冬哩の口は息を吸った瞬間、口を何か布のようなモノで塞がれた。さらに叫ぼうとした時、腹の辺りが熱くなった。
「っ!」
 熱いと認識した後、激痛が襲ってくる。
「ふっ! ふっ!」
 暴れて逃げようとするも腹の中がぬるりと滑り出す感覚に下を向いた。
 腸が腹から出てきている。想像以上に深く切られていて、痛みで気絶出来ないのが不幸だった。
「そういや、お前、痛みをあまり感じないんだっけ?」
 俐皇が思い出したようにそう言った。
 そう都寺冬哩(つうす とうり)は人より痛覚が鈍い。だからいじめられたのもその痛覚が鈍いせいで面白がられたのだ。たったそれだけのことで冬哩はいじめられていた。だから反撃してすっきりしようとした時、簡単に骨を折ったら泣き出して暴れ出したいじめっ子のことが不思議でしょうがなかった。そこで初めて自分と人は違うのだと感じた。
 だがそれだけのことだ。気をつけていればそこまでの不都合はない。けれど今は大問題だった。切腹したような状態にされて苦しくて膝を突いて畳の上に倒れた。
 まともに息も出来ないし、騒げるほどの体力もない。
 冬哩が見上げると、全身真っ黒な服を着た俐皇が立っていた。
「……おう」
「うん、まあお前のことはどうでもいいかなと思ってたけど、どうやらオレを吉徳殺しの犯人に仕立てようとしていたみたいだから、一応報復しておく」
 確かに邪魔な吉徳を殺したのは冬哩だ。
 無理矢理九十九の名前を使ったのは、啓悟の犯行に見せかけたようにしようとしたからなのだが、結果は違った。警察に目を付けられた俐皇が自分を破門にした嵯峨根を恨んでしたという流れになってしまった。
 それでも俐皇も邪魔だったので都合がよかったと思っていたから、結果は俐皇の言い分であっている。
「あと、都寺会長を暗殺してくれって頼まれてたのもある」
 俐皇がそんなことを言い出した。
 汚い仕事をしていたらしいが、こんなことを平然と行えるほど俐皇は凶暴だったらしい。啓悟も冬哩も読み間違えていたわけだ。
 だが誰に殺してくれと頼まれたというのだ?
 わざわざ俐皇に、この都寺冬哩(つうす とうり)を。
 意識が遠くなり、血がどんどん失われていくのを感じる。このまま目を閉じたらきっと二度と日の光をみることはないのだろうということだけははっきりと分かった。
 だからこそ、聞きたかった。
「……れが……」
 誰かがそれを願ったのか。
 それに俐皇が答えた。
「依頼人は都寺冬基だ」
 その台詞は聞こえていたのだろうか。ハッと目を開いたまま身体が何度か痙攣して胸の上下が止まる。
 瞳孔が完全に開いて何処を見ているのか分からない瞳が光を失っていく。

  その日、嵯峨根会会長、都寺冬哩(つうす とうり)が暗殺された。
  同じ日、西野亜矢子のマンションの隣人から通報があり、部屋を開けると、中で女性が殺されていた。隣人の情報から嵯峨根会会長都寺冬哩の愛人であることがわかり、都寺冬哩の暗殺と何か関わりがあるのではないかと調べられるも、西野亜矢子という名前が偽名であり、本名は真境名弓弦(まじきな ゆづる)と判明するのに一週間ほどかかった。
  さらに弓弦も冬哩と同じ殺され方をしており、同じ犯人に殺されたのではないかと言われている。

  嵯峨根会会長都寺冬哩の暗殺事件は大きな話題となった。
 会長暗殺が嵯峨根会本部の中での出来事で、警察は暗殺事件として扱ったものの、犯人の痕跡が一切ないことに捜査の行き詰まりを感じた。とうとう現場の捜査官が「プロの犯行だから犯人は捕まらないな」とつぶやいていた。
 冬哩の死を知った秋篠啓悟(あきしの けいご)は、留置場で呆然とその訃報を聞いたという。冬哩に裏切られ、罪から逃がれられなくされたのに、その死を悲しいと感じたのか泣いていたという。
 望んでいた帝国はたった一人の思惑で簡単に崩壊の一途をたどった。
 だが秋篠啓悟には何が間違っていたのか、長い刑務所暮らしでずっと考えていくことになった。
 会長の都寺冬哩が暗殺され、理事長の秋篠啓悟が投獄されることが確実となった今、嵯峨根会は分裂しかけた。
 都寺の家の人間がいなくなったとばかりに会長になりたい人間が我先にと嵯峨根会の会長になろうとしたのだ。
「秋篠総長は、会長にならないんで?」
 話し合いが決裂し、一同一旦帰宅することになった時だった。朋詩の後ろを歩いていた、現在北エリア支部長となったばかりの山城卓也がそう言ってきたのだ。
  山城は朋詩の10歳以上年上であるが、最近山城一家の総長が亡くなったので一家を背負って立ったばかりだ。
 そんな人がこんなことを言い出して朋詩は迷惑だとばかりに言い返す。
「なぜ私が?」
「白々しい嘘はやめましょうよ。都寺家の次男がちゃんといるっていうのに、皆自分ばかりで信用できないんですよ」
「名が上がらないと言うことは、私の評価がそれだけってことなんですよ」
 朋詩はそう言い返す。
 この嵯峨根会に居て、朋詩に発言権があった試しは一度もないようなものだ。ただ秋篠の便利がいいというだけでなった最高顧問であったし、それ以上の評価はない。
「客観的な感想、いいね。オレはあんたが秋篠の下で埋もれて終わるのはもったいないと思っていた口なんですよ」
 そう山城は朋詩を評価する。だがそれでも朋詩はその口車に乗らない。きっと山城にも打算はある。朋詩を持ち上げれば幹部のいい位置になれることも計算しているはずだ。
 だが問題はそこではないのだ。
 朋詩はこの会の誰も信用していないということなのだ。
 そんなところの会長になって何をしろというのか。そういう気持ちなのだ。
 会長というものにあそこまで固執していた兄冬哩は、会長の座を見事奪い取り、君臨しかけた。だが何者かによって暗殺された。
 なぜ会長になってすぐに殺されなかったのか不思議だったが、もしかしなくても本気で会長座を秋篠啓悟から奪い返したから殺されたのかも知れないと思えたのだ。
 冬哩は啓悟がいなくなるまで飾りの会長だった。
 それが生かされていた理由ではないだろうかと思えた。
  誰が殺したのか分からないが、朋詩はあまり感謝はしていない。出来ればいなくなって欲しいとは願っていた。けれど、あんな殺され方をされるほど身の回りを油断するような人だったのかとがっかりしたのだ。 
 幼いころにされたトラウマがあっさりと消えてなくなると、戸惑うばかりだった。
 だが戸惑っていられない事態になるのにそれほどかからなかった。
  分裂しかけた嵯峨根会の縄張りに如罪組が入り込み始めたのだ。組はいつの間にか食われ、一家は解散に追い込まれる。そんな事態に会長のことでもめるのはバカバカしいことだ。
 そこで安易な考えであるが代理をとりあえず立てることにした。その時、理事の秋篠から朋詩を押す話が舞い込んでくる。
 そういえば都寺にはもう一人子供が居たなと全員が思い出し、朋詩に会長代理を押しつけた。秋篠の頼みだと断れない上に、一家の危機も迫っていた朋詩はその話を受けるしか道が残されていなかった。
  その時の采配にて嵯峨根会は持ち直し、如罪組とは遺恨が残ったままであったが、抗争までには至らなかった。
 元々喧嘩をふっかけた人間が死んだり投獄されたりとしている今となっては、如罪組も抗争するメリットがない。警察が嵯峨根会を捜査している関係もあり、今度こそ都寺会長暗殺の疑いを警察からもたれるのも困るだけであると気づいて早々に手を引いた。
 嵯峨根会は、京都の一部を如罪組にかすめ取られたが、それもいつの間にか嵯峨根会のエリアに戻っていた。
  如罪(あいの)組松比良渡里(まつひら わたり)にとって九十九が嵯峨根会からいなくなってくれればそれで上々の出来であると考えていたようで、エリアの取った取られたのことはさほど問題にはしてなかった。
  警察の介入で関西のヤクザは一同に静寂を求められ、しばしの休戦となった。