spiralling-18

 耀がドイツに再度渡ったのは、組長代理から話を受けた次の日。フランスでの用事を済ませそのまま列車でドイツ入りをした。長旅ではあるが、列車内でツァーリのボスであるキーマと久しぶりに会い、ロシアからの密輸品の取引について話し合った。
 そこは上手く提携出来、その書類を持って九猪が一足早くドイツを出国。折り返しで戻ってくるのに併せて首都ベルリンで待ち合わせする予定で、耀は黒川竜生(くろかわ たつき)がいるハンブルクまでアウトバーンを使う。九猪が離れて、億伎と大塚と佐倉、が同伴した。ハンブルクまでの同行で宝生組の組員数名を同行させたが、ハンブルクでは密かに耀が4名を連れて移動した。
 黒川竜生(たつき)は、70歳を越える。前はドイツで活動している宝生組の組員だ。宝生高(ほうしょうこう)の時代から活動していた重鎮。息子に後を継がせて隠遁生活を送っていたが、その息子がグライヒの人間に惨殺された。
 こういう商売をしていれば、いずれこういうこともあるだろうと心していたが、まさか自分ではなく息子だけとは思ってもいなかった。執念深く犯人を突き止めようとしたが、グライヒの見せしめの暗殺である可能性が高くなった。
 そうしたところで黒川には戦力がない。そこで宝生組に何とかして貰いたいと願い出た。だがグライヒである確たる証拠がなければ報復する条件を満たさない。
 そこで黒川は自分が持っている物の中で一番の重要な秘密を宝生組に差し出すことで息子の報復を願い出た。
 その取引に応じたのは組長代理だった。
 表向きは煌和会の情報を集める為のことであると念を押してある。どのみち報復はする予定であったことから、煌和会とグライヒの繋がりがはっきりすれば報復も組関係者かを納得させられる。
 耀に息子の事件の報復を黙っていたのは、組長代理の秘密主義のせいだ。もちろん黒川もそれは解っている。
 今回の資料提出で耀がどこかとの繋がりに気づいたら自ずと報復することになる。
 黒川はそのために出来うる限りの手を使って情報を集めた。


 耀が黒川の住まいに到着したのはその日の夜だった。
 都市部から離れた山沿いの民家がほぼない別荘地のような住み易さから選んだ場所だ。周辺には二三件大きな別荘がある。民家がない分、静かだが物騒でもある。日本人が移住して暮らすにしては裕福でないと無理な別荘地だ。
 黒川は隠居して10年前からここに住んでいる。息子が尋ねてくる以外、人は尋ねてこないことになっているが、人知れず訪れるものが後を絶たない。
 宝生組が定期的に見回っているのもあり、安全であったが、今回の騒動後に黒川から見張りを取り払うように言われた。息子のことで傷心しているのもあるが、自分を囮にして犯人を呼び込もうとしたのだろうが、犯人にとって老人は用がなかったらしい。
 しかしその日は酷く静かだった。
 玄関で出迎えたのはメイドの一人。名前は黒川美和(みわ)17歳。黒川の親戚の子供で学校で上手く行かずに引きこもっていたのを黒川が預かって自分の手伝いをさせていた。頭はよい子だったらしく資料整理には彼女の力が役に立っていると黒川は言っていた。 
 その案内で黒川の書斎に通される。
 黒川は現在70歳、隠居して10年と言われているがそれでもそこまでの年齢には見えなかった。よほど充実した人生を歩んでいたのだろう。ゆっくりと老いて死を迎えるだけだったのに、その前に息子を奪われた。
 かなり憔悴しているだろうと思っていた耀だったが、その反対に黒川の目は昔のように鋭く光り、獲物をじわりじわりと追いつめる蛇のように耀を睨みつけていた。
 そこに老いた老人は存在せず、耀は少しだけ驚いて気分を商談用に切り替えた。
 これはただの資料を渡すだけの優しい話ではない。
 道理で組長代理か耀でなければならないのか納得のいく姿を見せられた。彼が望んでいることがひしひしと伝わってくる。
 彼は復讐を望んでいる。全身全霊をかけて復讐をだ。
「申し訳ない、私が資料を送ればよかったのだろうが、これはそう易々人に渡せるものではなかったのでね」
 そう言って黒川が出したのはマトカの歴代幹部の氏名などが混ざった、デル・グロッソ家の放火事件の調査。
「もともとデル・グロッソ家の火災は放火の疑いがあった。しかし警察は放火ではなく、亡くなった料理長が火の始末を忘れたことによる出火として事件を解決した」
 デル・グロッソ家から警察の幹部に献金という名の賄賂が渡っていたことは数年後、マフィア撲滅をスローガンにした首相が警察内部にはびこる腐敗を一掃した時に解ってしまったことだ。
 デル・グロッソはその時の旧首相とも繋がっていたことが解り、ボスのロレンツォが指名手配され、インターポールから追われている。しかしボスがいなくてもデル・グロッソというマフィアは存在し続け、完全撲滅といかないのがシチリアマフィアの特徴だ。
 ボスが逃げている状態でもマフィアは機能する。ボスに対して指名手配をかけた首相は翌年暗殺されていた。しかし現在もイタリア政府はロレンツォの指名手配を解いてない。 
「確か、死んだのは次男のジョルジオ夫婦だったな」
 覚えがある事件だったので耀が言う。しかしそこにある名前を見て顔色が変わる。真栄城俐皇(まえしろ りおう)、その時唯一助かったのが俐皇(りおう)だったのだ。
「青良(せいら)とは二年前に結婚してイタリアで暮らしていた。たしかロシアンマフィアのマトカの幹部の娘と高嶺会(たかみねかい)の真栄城光藍(まえしろ こうらん)が結婚して生まれたのは、ご存じの通り」
 そこでロシアンマフィアのマトカが絡んでくる。
「実はこの報告書は、マトカのボスからの依頼中に仕上げた補足の報告書なんです」
「……なんだと?」
 まさか宝生の情報屋がマトカのボスに使われているとは誰も予想はしない。
「マトカのボスには、戦時中に父が世話になっていたことがありまして、そのご恩をお返ししたのです。ですが私は宝生組の情報屋。こうした情報も蓄積しておく義務があると思ったんです」
 そうやって何十年もそのままに蓄積しておいた。マトカのボスが何を考えたのかは知らないが、こうして黒川は生き残っている。
 仕上げられた用紙は最近の情報を足してあった。
 マトカのボスは、ユージンとだけ記されていて本名はない。黒川の話だとその時代、ユージンには本名と呼べるものは存在しなかったのではないかと言った。時代がソビエト連邦設立の動乱と重なった時代、政府に対抗した組織として作られたものだから本名など捨てたというのが、本名がない理由らしい。今現在は別の名前を手に入れて、しれっと暮らしているだろうが、その名前を知ることは黒川でも無理だったとされる。
 しかしそのメモの端に「アレンスキーが有力」と書かれていて、エヴゲーニー。イグナートヴィッチ・アレンスキーの名前がある。
 現在85歳の老人でその地元出身だが15歳から出兵しそのまま40歳になるまでどこで何をして暮らしていたのかが不明だった。
 エヴゲーニーことユージンには、子供が二人おり、一人はアナスタシア、もう一人は息子でグレゴリーという。そのアナスタシアが沖縄の高嶺会(たかみねかい)会長の真栄城光藍(まえしろ こうらん)と結婚して娘青良(せいら)が生まれているわけだ。
 高嶺会(たかみねかい)の前会長の光藍(こうらん)は、何を考えてロシアから妻を貰ったのか解らないが、もしかしたらマトカと繋がっていたからこそ、チャイニーズマフィアたちの餌食にならなかったのかもしれない。
 昨今こそロシアンマフィア、マトカの驚異は一切ないに等しいので気にすることはないのだが、それでも高嶺会(たかみねかい)が嵯峨根会の幹部一家から嫁を貰ったりと不穏な動きをしていることが気にはなる。
 そうした繋がりで青良(せいら)から生まれた、真栄城俐皇(まえしろ りおう)が青良(せいら)の再婚でイタリアに渡り2年で夫婦で殺された。放火は暗殺であったとされるのは、デル・グロッソの長男アレッシオがジョルジオに常に対抗心を持っていて、青良(せいら)を迎えたジョルジオがデル・グロッソのボスになるのではと不安になっていた時期でもある。
 また青良(せいら)が妊娠をしていたことも解っていて、兄弟が殺害をしたのではないかというのがこの調査の結論だ。
 火の不始末をした料理長だが、検視の結果、火事より前に死んでいたことが、遺体を掘り返し検視し直した黒川の調査ではっきりしている。
 だが明確な証拠はない。料理長が火災の前に死んでいたとしても誰が放火したのか、見た者がいないのだ。
 デル・グロッソの兄弟の誰がとなると、非常に困難だ。
 アレッシオは口では言う割に行動力がない。妹のダニエラは行動力はあるが殺害するほどの度胸はない。弟のライモンドに至っては誰がデル・グロッソのボスになろうが本人はどこまでも関係ないのでこの弟だけは容疑者からはずれるだろう。
 本人たちがしなくても部下が勝手に暴走した結果というのもあり得るが、決定打がどうしても足りない。
 俐皇(りおう)が助かったのは、メイドのサーラに連れられてトイレに行った後、庭をみたいという俐皇(りおう)を連れて庭に出ていたため。広い庭は夏の涼しさもあり快適で、湖まで足を延ばしてしまった。その小屋から抜け出したことを詫びようと電話をしたところ繋がらず、その小屋から屋敷が燃えて手がつけられなくなっているのを見た。
 戻っては危ないので消防を呼び、小屋で一晩明かして警察に保護された。
 サーラは火事を放火ではないかと疑っていて、俐皇(りおう)を警察以外に渡すと殺されるのではないかと不安がっていたが、日本から来た親戚が俐皇(りおう)を引き取ったのを見てホッとしたという。
 その後のサーラは別の屋敷にメイドとして移っていったが、そこで10年勤めた後、結婚をしてイギリスに渡ると言った後、消息を絶っている。イギリスにはサーラが渡航した事実はなく、イタリア国内にいることはわかっているが身よりがないサーラの行方を探した人間はおらず、サーラが居なくなってから6年経っているため、探しようがないだろうと結論づけていた。
 そのサーラが最初に勤めた屋敷、その屋敷の主人の名前がテオ・エルツェ。

 ここまで読んで耀は目眩がした。
 テオの名前は俐皇(りおう)が作り上げたものではなく、確実に俐皇(りおう)の師匠が作ったものだ。サーラがそこへ連れて行かれたのは、サーラが事件の真相を少なからず知っていたから。
 俐皇(りおう)がテオの名前を使って色々出来たのも、下地がすでに用意されていたからだ。
 テオの名前が取り沙汰されたのは寧野の事件があってからだ。それがなければテオなんて男のことは、マリアンヌの言葉通り受け取って終わっていた。
 それが誰かと言われたら、もう決定的なものしかない。
「俐皇(りおう)が犯人なのか……」
 イタリアで何があったのか解らないが、そこで俐皇(りおう)に何があった。そして俐皇(りおう)は両親を殺したのだ。
「耀様はそう思われますか、私は今の今までその可能性を一ミリも考慮しなかった。やはり老いました」
 黒川は報告書を読んだ耀が、すぐに俐皇(りおう)が犯人なのだと結論つけたことに驚きはしたが、散々見てきた報告書の至る所に俐皇(りおう)の怪しげな行動が報告されている。
 まさか警察も俐皇(りおう)が旅行先の宿泊した別荘で両親を焼き殺すとは思ってもみなかったのだろう。不審火も何もない。サーラはそのために屋敷で働き、俐皇(りおう)はそのサーラと共犯だった。
「何のために殺したのか理解は出来ない。ユージンは犯人だけを知りたがっていたが、よもやその子供が殺したとは考えすらしないだろう」
「だが青良(せいら)の兄の安里(あんり)は知っていたと俺は思う」
 耀がそう言うと黒川は意外な顔をする。
「どうして自分の妹を殺した子供を引き取るなど……」
「その妹が死んでくれてよかったと安里(あんり)が考えていた。光藍(こうらん)に口を出される前に自分の管理下において起きたい理由が出来た。そう考えると、高岸一家に預けたのにも理由があると考えるのが自然か」
 高岸一家から嵯峨根会へ繋がるわけだが、そこからどうするつもりで俐皇(りおう)を利用したのか。高岸一家が俐皇(りおう)を総長にしたにも関わらず、一切公に顔を出さないのをよしとしていることよりも、嵯峨根会すらそれでよしとしているのは、穿った考えが過ぎる。
 真栄城俐皇(まえしろ りおう)という人間を使って誰もが何かを狙っている。
テオと名乗らせているもの、真栄城安里の思惑と高岸一家の考え、そして嵯峨根会会長や理事長の思惑。
 何が引っかかりそうで引っかからない。
あと一つ何かある、そう考えそうになった時、黒川の自宅が停電した。
「な……」
 停電と同時に爆音を慣らすヘリが家の頭上を旋回している。ヘリの音がしていると思ったが、黒川が不審に思いもしなかったのでこの辺ではヘリがこの時間に飛ぶのかと思いこんだのが痛手だった。
 しかし停電と同時にやってきた爆音と共に射撃が始まり、一瞬で危機を感じて部屋から飛び出した耀は集中砲火を浴びることはなかった。
 しかし部屋で身動きが取れない黒川は座ったまま撃ち殺された。彼の復讐は遂げられることなく終わってしまった。
 部屋の中に催涙弾が打ち込まれた。煙を吐くそれを避けるように口を塞いだが、それが催涙弾ではないことに気づく。
「若頭!」
「億伎、くるな!」
 煙の向こうから億伎が走ってくるのが見えたが、その前方を走って逃げた大塚と佐倉が打たれて倒れた。ヘッドショットされたところを見ると相手は選んで殺している。
「億伎、これを持って隠れていろ。相手は俺を狙っている。それを組長代理に渡せ、絶対に無くすな!」
「しかし!」
「命令だ!」
 耀はそう叫んで億伎とは反対側に逃げる。だがその頃にはさっき撒かれた何かの薬が足に聴いてきていた。体を麻痺させる薬品が撒かれたらしく、耀の体が言うことをきかない。崩れて隣の部屋になだれ込むも目の前にいる人間を見て抵抗しようとしたが、持っていた銃を蹴り上げられて取り上げられた。
 懐に仕込ませたもう一つの銃を取り出そうとしたが、それも阻止された。足でその腕を胸ごと押しつけて体重をかけられ、ミシリと肋骨が悲鳴を上げる。そして腕に何かが刺さった。
 それは麻酔弾だ。しかし気づいた時には液体が体内に入り込んでしまった後だった。
 それに耀は少しパニックになった。
「真栄城俐皇(まえしろ りおう)……」
 なんでこいつが、榧(かや)流を使えるんだ。
 そう思ったのが読めたのか、相手がニヤリとしたのがみえた。
「榧(かや)の孫に習った」
 そう答えたのは、テオと名乗っていた時と同じ姿をした真栄城俐皇(まえしろ りおう)の姿だ。
「ここに来るのは組長代理だと思ったのに、若頭かぁ」
 がっかりしたように言う俐皇(りおう)を耀は睨みつける。
 どうやら黒川自体が囮だったらしい。
 寧野の一件で俐皇(りおう)は自分がテオであることを宝生組に突き止められるのを確信したのだ。だからそれに繋がる情報を黒川に突き止めさせ、さらに黒川がマトカやデル・グロッソの事件の情報を持っていることも知っていた。そこから罠を張ったのだ。
(寧野の言葉をちゃんと理解していれば、ここまで考えられたんだが)
 そう思って後悔する。寧野は言っていた、偽名を名乗りそれが失敗したのを隠そうとせずに開き直った。そうこの時点で俐皇(りおう)はその状況を利用する方法を考えたのだ。
(失態すぎるな。ドイツは鬼門か?)
 苦笑するしかない。
「黒川美和はもう殺したのか?」
 悲鳴すら聞こえないところを見ると、生きているとは思えないが、逃げた可能性もある。
 だが俐皇(りおう)の答えは簡単だった。
「だって邪魔だろ。メイドはたくさんいるから要らない」
 人の命をどうこう言いたい人はこれを酷いと言うだろうが、耀からすれば老人を平然と売った身内ほど扱いに困るものはなかった。黒川美和はあの文章を知っている。俐皇(りおう)に渡した情報がどこまでだったのか解らないが、最後の俐皇(りおう)が犯人だという結論を耀が出したことまでは知らないし、思ってもいないだろう。
 だからあの調書は絶対組長代理に届けなくてはいけない。この罠を張ったのが俐皇(りおう)である何よりもの情報だ。
 ただここまで大事にする理由は、この男の事情ではないはずだ。ならば思い当たるのは一つ。
「新垣組も思い切ったことをしたもんだな……」
 耀はそう呟いたところで意識が途切れた。体中に浴びた薬品は耀の体の自由を奪った。そこに俐皇(りおう)が撃った麻酔弾が刺さって気絶するように眠った。


 耀が気を失ってから、俐皇(りおう)は用心して他の兵を呼んで耀をまず拘束させた。その時、耀の靴のつま先に気づいた。そこから鋭い針が出ている。
「危ないな。痺れが効いてなかったら俺死んでたかも」
 痺れで足が動かなくなってからも、耀は俐皇(りおう)をしとめるためにつま先から針を出していた。あれくらいでと思うが一瞬でもひるませれば、耀の懐に入れていたもう一つの銃で俐皇(りおう)の脳天を一撃出来ていた。
「まさか」
 そう笑った兵に向かって、俐皇(りおう)が兵の足を軽く蹴り、ガクリと崩れた兵の頭に銃を突きつけた。
「ほら、死んだだろ?」
 銃口で額を小突かれて兵士はへなへなとその場に座り込む。
 たったこれだけのことで人は死ぬ。日本人のヤクザは大したことないと思いこんでいる兵は驚愕した。まさかあの状況で俐皇(りおう)をしとめる算段をしていたのが、こんな若い若頭だということに。
「引き上げよう。逃げたボディガードが増援連れてくるまえに」
 俐皇(りおう)はそう言って引き上げをさせるが、黒川の部屋で例の調書を探していた俐皇(りおう)自身の部下が耳打ちする。
「申し訳ありません、例の調書はボディガードが持ち去ったようです」
「逃げたのは追ったんじゃないのか?」
「一人は始末したのですが、持っていないそうです。なのでもう一人が持っていたかと」
「そいつは?」
「それが見あたらず、反対側の山の方へ入ったかと」
「山狩りとはいかないから、仕方ないか」
 俐皇(りおう)はマズイと思いながらも、山へ入り込んだボディガードを探す時間がないことは解っていたので引き上げることにした。
 宝生組の若頭が長時間何処とも連絡が取れなくなれば、当然異変に真っ先に気づいた街にいる組員がやってくる。
 ここでこれ以上騒ぎを起こすと警察やら大変なことになる。
 とりあえずの戦利品が宝生組若頭、宝生耀(ほうしょう あき)だが、これでも宝生組を揺るがすには十分だろう。
それに。
 宝生耀(ほうしょう あき)には個人的に興味がある。
 さらにこれを餌にしたら、いいものが釣れるかもしれない。
 今回のことでたくさんの手駒が手に入った。これを使えば大きな罠が仕掛けられる。
 調書が組長代理に手渡されることを予想して、次も行動すればいい。俐皇(りおう)はそう思い、その場から一斉に兵を引き上げさせた。

 

 バリバリとヘリが去っていく音がして、人の気配が一切しなくなる。
 風が割れたガラスを突き抜け、部屋の中まで吹き荒れる。書類が風に舞って音を立て、部屋中に散乱する。小さなチリがシャリシャリと音を立てているが、それを踏み荒らす者はいない。
 シーンとした闇が戻って、森の静寂が訪れる。森の奥で犬か狼の遠吠えが聞こえだした。
 そうなって30分ほどして、クローゼットが開いた。
 物置にしてあった部屋のクローゼットだが、その天井裏に上がれる場所をたまたま見つけて億伎正務(おき まさつか)は隠れた。
 クローゼットの中だとさすがに見つかっていただろうが、そこから天井裏に隠れたとは予想していなかったようだ。
 あの騒音の中で天井へ上がり込んだ音は聞こえなかっただろうし、ボディガードの一人が裏側から草むらを上手く使って逃げ出したのを見たのもあって、脱出したと思わせられると思ったのも上手くいった。
 天井裏で話は聞こえていたので、相手が欲しがっているモノがなんなのか解った。それが手の中にある。
 100枚ほどの紙の束。それを封筒に入れてしっかりと封をした。
 耀がとっさに億伎に渡したものだ。
 それがどんなものなのか、億伎には解らない。だが耀はそれを自分と引き替えにした。それは組にとって必要なものだと判断したからだ。
「真栄城俐皇(まえしろ りおう)……」
 耀が犯人の名前を口にしていた。億伎に聞こえるとは思っていなかっただろうから、想像外の相手に耀自身が驚いて口に出たものだろう。
 億伎は外で無事だった車に乗ると、まだ警察も来ない道を選んでゆっくりと黒川の屋敷を後にし、市内にいる組員は信用できないと判断してとんぼ返りで戻ってきているだろう九猪に連絡を付けた。
 耀が殺されずに誘拐されたことに九猪は一瞬だけ耀の死を覚悟しただろうが、怪我をさせずに誘拐したからには利用価値があると思われたと判断し、とりあえずの身の安全は保障されたと安堵する。


 翌朝に組員によって黒川邸の惨劇の様子が組長代理の耳に入る。
 いつの間にか集められていた幹部は耀がドイツで誘拐された事実を知らされていた。  
 わざわざ知らせてきたのは新垣組組長伊賀流里惺(いがりゅうさと せい)だ。神妙に伝えられた話で、耀は誘拐されたが拷問されて死んだかもしれないと伊賀流里組長が言う。
「若頭が宝生組の内情を事細かに話して死なれれば、宝生組が」
 そこまで伊賀流里組長が言うと、組長代理が初めてしっかりと伊賀流里組長を見据えて問う。
「黒川の居所は一ヶ月前に場所を変えた。つまり他の組員はその場所を知らない。黒川のところに黒川の姪を連れていったのは、伊賀流里組長だったね」
 そう言われて自分が真っ先に疑われたことに伊賀流里組長が食ってかかる。
「私が知っていたからってどうして私が!  現に私はドイツには行ってないのに!」
 言いがかりだと口にするも組長代理は朝一番に手にした書類を眺めながら言う。
「そうだな、お前はそこにいなくてもなんとでも出来る。だが黒川の居所を知っていたのは 私と君だけなんだ。耀に場所を教えたのは当日だ」
 確証でもあるかのような口調に一瞬伊賀流里組長が黙る。
 まさか黒川の居所が最近移動されたとは思ってもみなかったらしい。一ヶ月前に息子を殺された黒川は宝生組の監視を嫌い、組長代理と取引した時から、住まいを変えた。
 もちろん黒川と接触していた人間はいただろう。だが、黒川のところに耀もしくは組長代理が行く日を特定できるのは、宝生組の関係者でなければ出来ない。
 黙った伊賀流里組長に向かって組長代理が言い放った。それは伊賀流里組長にも想像だにしない言葉だった。
「一つ、確実なことを言うと、若頭である宝生耀(ほうしょう あき)が何をしゃべるかというと何も喋らない。そして組長代理として私が言うことは、一つ。宝生耀(ほうしょう あき)の身柄ともろもろの交渉は一切応じない、それだけだ」
 冷たく言い放ったところで、幹部がざわりとざわつく。
 さすがにそれはと言いたがっていたようだが、あの耀の性格からして組のことを喋るとは誰も思いもしなかった。
 あの人ほど組のことを思って行動している人はいない。
「確かにあの若頭が組に不利になると解っていることを喋るとは思えない」
 最高顧問の斉松組(さいまつ)組長斉松文也がそう言う。それに顧問舎弟全員が頷く。反論したかったであろう新垣組組長伊賀流里が、若頭補佐を見ると西塔組組長西塔静馬(さいとう しずま)が伊賀流里組長を睨みつけていた。
 西塔組は耀の情人、織部寧野に恩がある立場だ。あの萩野谷の暴走を止めてくれたのは寧野で、改心した萩野谷は西塔組にとっても頼もしくもなっていた。
 だからこそ、穏便に事を納めてくれた耀には感謝しきれない。その恩人をドイツで功績が立てられない腹いせに敵に売るなど言語道断。しかもその黒川のところに行くのは本来、組長代理だったというではないか。そうなると新垣組組長は、宝生組組長代理を売ろうとした反逆者。
 誰が宝生組の中で新垣組組長をかばうだろうか。同じく耀に不満を持っていた二代目佐山組組長ですら、あり得ないという顔をしていたくらいだ。
宝生組があってこその反乱だった。宝生組を無くそうとした新垣組の伊賀流里組長にはさすがに賛同出来ない。
 さらに組長代理にはもう犯人が誰なのか解っている。なのにその泥船に一緒に乗って沈められるのを覚悟が出来る人間がここにはいなかった。
(所詮程度の低い組長か。よく幹部まで)
 そう思ったのは新垣組組長を焚きつけた保津河路(ほづ かわじ)。保津組組長であるが、父親がこの役目を請け負ったとたん倒れ、保津(ほづ)が後を継いだが幹部のまま引継となった。
 保津(ほづ)が組長になれたのは、兄が駆け落ちをしていなくなってくれたからで、もし兄がいたら世襲制という理由で、父親を手伝っていたはずの保津(ほづ)は若頭程度にしかなれなかった。
 だから実力主義のヤクザの世界が羨ましく、実力で問答無用に君臨する妾の子だった組長代理はあこがれだった。しかし組長代理が代理以上になれないのは若頭である耀がいるからだ。
 組長代理は組長になれない。絶対に。
 それが不満だったのは言うまでもない。
 今の宝生組を作ったのは、組長代理だ。代理として立ってからもう20年近くだ。それなのに若頭への義理を忘れない。
(だから若頭に自分から消えて貰いたかったのに、まさか組自体への弱体化に繋がる行為に あのバカが及ぶとはおもわなかった)
 そこまで考えて保津(ほづ)は苦笑する。新垣組組長の実力を見誤っていたのは自分も同じだ。こんな愚考をするとは理解できない。
 しかし組長代理が若頭の救出を一切しないとは思わなかった。
 正直なところショックだといえる。あれだけ可愛がった甥っ子を組のためにならないなら切り捨てる。その非情さは時には必要だが、それでも唯一の肉親である甥っ子を殺されても致し方ないとする心がさすがの保津(ほづ)にも理解出来なかった。
 憧れてきた組長代理という人間が、思った以上に非情だ。組を存続することだけが組長代理の望みなのか。いやそれが組員にとっては正しいとさえ思えるが、かといってすべて捨てて若頭を助けるとは絶対に言えない立場でもある。
 二者択一の場面でどちらを選べるのか、それを瞬時に決められることが求められ、それを実行できるものこそ、宝生組の組長でなければならない。
 理屈で理解出来ても感情で理解出来ない。
 それは他の幹部も同じだ。若頭を助けるということは他の組員に死ねといっているようなもの。
 そこで思い出す。組長代理は過去にもそうした選択を迫られ、一旦情人で相棒の月時響の処遇を無視した。だがその時と状況が二つ違う。今回は敵が若頭の命を何とも思っていないこと。九十九と違い宝生組自体に害を為すつもりであること。
 だからこそすぐに判断しなければならなかったわけだ。
(こういう展開は予想してなかった……)
 保津(ほづ)は余計に混乱した新垣組組長が錯乱していくのを眺めていた。ああはなりたくないが、発端が自分だけに対岸の火事ではない。
 それは若頭に対して批判をしていた他の組長も同じ気持ちなのだろう。目が合うと気まずそうに視線を逸らした。出来れば新垣組とはまったく関係ないから関わりたくないと思っている。
 それでも組長代理の視線が一人一人の反応を見ているかの様に一周していたのを保津(ほづ)は見逃さなかった。
(まさか反応を見て、新垣組組長以外の共犯者を探してる……!?)
ぞっとするほど冷めた視線で幹部を一瞥し、冷静に人間を分析している。それを見て、保津(ほづ)は自分が組長代理を見誤っていたことに気づいた。
 この人は、本当のヤクザだ。
 人を人とも思わず、利用できるところを利用する。根本的にここにいる人間と種類が違う人間なのだ。自分の甥っ子の危機を利用して、平然と内部に巣くっている膿を見つけようとしている。
 そしてその視線が保津(ほづ)で止まる。びくりとしてしまうのは仕方ないだろう。今まで保津(ほづ)が組長代理からそうした冷めた視線で見られたことがなかったからだ。
 視線が合っていたのは5秒もなかったと思う。だが全身が一瞬で冷え、さらには握った拳の中が汗を掻いている。
 視線が外れたのはその場に珍妙な客が現れたからだった。
 視線が外れてほっとした保津(ほづ)は、はっと気づいた。
 この組長代理はあの九十九を持ってしても潰すことが出来なかった人なのだ。情人がどうとかそういうことではなく、九十九が本気でかかっても同等の力で反撃出来る人なのだ。
 そんな人に隠し事なんて出来るわけもない。
 保津(ほづ)は急に降って沸いた珍妙な客に呪縛を解いてもらいほっと息を継く。だがその珍妙な客は更なる嵐を持ってやってきた。
 宝生組若頭の情人、織部寧野その人だった。