spiralling-5

 ドイツにてツァーリと取引契約を結んだ耀が、役目を終えて即帰国をした後のことだった。
 ハンブルクで活動している宝生組関係者の人間で、地元に住み着いて手伝いをしている者がいる。日系として宝生高(ほうしょう こう)が派遣し、そのままドイツに移住したのだが、父親の代から引き継いで二代目となる。一代目若い時にドイツに渡ってドイツ人妻を貰い、日本の苗字を捨て、子供にはドイツ名しかつけなかった。
 だがまさか息子が自分の後継ぎになるとは思わず、ヤクザに利用されないようにドイツ名にしたのだが、息子は結局後を継いだ。何より給料がよかったし、後を継ぐことを決めたのは、宝生高を知って、更に息子である楸を知ったからだ。父を毛嫌いしながらも最終的に組に残された子供のために立ち上がり、父をも超えると言われるヤクザになり、父以上の感覚を持っているとされた楸に惚れるなという方が無理だった。
 そしてあれから20年近く経ったわけだが、その楸が育てた楸の兄榊(さかき)の子で、高(こう)の孫にあたる耀という人物と初めて顔を合わせた。
 アルノルト・イステルは、父親の黒川竜生(くろかわ たつき)から譲り受けた喫茶店を経営している。店は地域密着型であり、時々近くの観光地から流れてきた日本人と商社マンが美味いケーキを求めてやってくるくらいの規模で、細々と暮らしていける。だがアルノルトが日本のヤクザの手先であることは誰も知らない。
 もっとも海外でマフィアと呼ばれる存在と関わりがあると公に認めることは出来ない。ボスや幹部クラスになるとそうらしいという噂すら立てられないようにしている。
 日本のヤクザのように「犯罪者である」という印を看板付けて堂々と宣言して事務所を建てるようなことは一切無い。大抵どこそこの会社の社長がボスだったことや街角の靴屋の親父がボスだったという意外なことが多くあるそうだ。海外では目立たないことが重視されている。そうした背景があるため、ヤクザとの繋がりがあることは知られてはならない。
 だから街角の喫茶店の主人が海外マフィアの手先だったということはありふれていても気付くことはほとんどないし、そのまま気付かれずに知らないまま人生が終わる方が多い。
 だから多くの日本人客がやってくるアルノルトの店に日本人がふらっとやってきても大した問題にはならなかった。近くにビジネスホテルのような商社マンが泊まるホテルも沢山あるから、スーツ姿の外国人も多くやってくるからだ。回りには日本人は多くいた。
 父親が日本人だったということも手伝って、日本語も出来るアルノルトだが、大抵の人間はそれが解らないのでドイツ語で話しかけてくる。
 今日も日本人サラリーマンがカウンターに座り、マスターであるアルノルトにドイツ語で話しかけてきた。
『この場所へ行くのには、この道を通ればいいんですか?』
 アルノルトは聞き慣れたドイツ語がかなり上品であることに気付いた。
『ああ、この道は……』
 そう指で説明をしようとした時、その道を確認するように尋ね返してくる言葉は違った言葉だった。
『お前の店、連邦刑事局が目を付けている』
 いきなりの言葉に一瞬だけ手が止まる。けれど長年の経験からその場を上手く繋ぐ。ニコニコと観光案内をするように更に指を動かして道を案内するように訪ねる。
『どうして急にそんな情報が?』
『昨日密告があったらしい。まだ疑われている段階だが、用心するようにと上からのお達しだ』
 日本人はそう言い、地図を手に取り更に訪ねてきた。
『ああ、この道か。ちょっと入り組んでいて解らなかったなあ』
『そうでしょう。地元の人間じゃなければ、ちょっと迷うんですが、この角に果物屋があります。そこを曲がっていけば間違いませんよ』
 周りに聞こえるくらいに大きな声を出すと、他の客が近寄ってきて地図を覗き込む。
『ああ、山の上にある城に行きたいのか。あそこは入り口がわかりにくいからね』
 客がそう言って笑うと、日本人も笑う。
『観光とは行っても個人的趣味なので』
『おお、そうかそうか。しかし日本人の方、ドイツ語上手いね』
『教えてくれた人が貴族の出らしくて、それで』
世間話をするサラリーマン。世間にはそう見える、典型的な真面目な日本人と会話をしてるのだが、実際は違った。
 宝生組のドイツでの取引について、若頭から話があったという報告だ。城というのは権力者が住むところ、つまりマスターのアルノルトにとっては宝生組からの使いだ。そこからの重要な情報がもたらされたわけだ。
 組織の中には警察にも当然のように賄賂を渡しているが、情報が送れることもある。だが今回は連邦刑事局、アメリカで言えばFBI、日本で言えば警視庁のようなものだ。そこから目を付けられたということは、誰かが通報して捜査に乗り出したところであろう。まだ直接的な接触はないので、確証は得られていないと考えるのが妥当だ。
 そういうわけだから、アルノルトが直接動くのは危険だ。アルノルトの直接の部下にあたる地元のドイツ人が話しかけてきたのである。
 地図を持って情報を流す人間は、宝生の関係者である。警察の動きは常に入ってくるが、その警察から情報が流れてこなかったということは、誰かがヘマをしてしまったことになる。
 疑いをそらすためには他に取引を仲介する誰かが一時的に請け負う。そのための打ち合わせが行われたわけだ。
『ありがとうございます』
 日本人の客は道が解ったのでほっとしたように微笑んでからアルノルトに朝食を注文してきた。絡んできた客の方はコーヒーを飲み終わるとすぐに店を出て自宅へと向かう。
 その途中に明らかに刑事であろう人間が歩いて行くのが見えた。
 たぶん日本人客が宝生組の繋ぎだろうとバレてはいる。喫茶店でその二人が何か重要な話をしてアルノルトが動くのではないかと予想を立てたわけだ。その為の配置をしているのだろう。
 それに気付かないふりをして自宅近くにある駐車場へと入る。自分の車を運転してゆっくりと出る。さっき話していた城への道とは真逆の街中への道へと進み、西南に進路を取りブレーメンに向かった。
 ブレーメンまでは約百キロ、アウトバーンを使えば二時間ほどで到着出来る距離。到着すると車をホテルの駐車場に預けて街を歩く。狭い路地を縫うように歩き、陶器を扱っている店に入った。
 この男はハンブルクでも観光客用に陶器を卸している人間なので、ブレーメンにもよく行く。陶器店も顔見知りの親戚がやっていて、ドアを開けた時にも観光客がいたが、店長のライヒアルト・ゲルシュターはにこやかに彼に話しかけてきた。
『やあ、ヴェルター。ちょっと待ってくれ』
『ああ、商品を見てるよ。ごゆっくり』
そう言い合い、ヴェルターは奥に入る。暫くしてライヒアルトが客を送り出して店に休憩中の掛け看板を出して戻ってきた。
『どうした、急だったな』
 いつもなら朝早くに仕入れにくるのだが、朝は朝でもすでに10時を回っている段階だと何かあったとライヒアルトにも解る。
『取引をこっちの方に暫く移す。ハンブルクで連邦刑事局がアルノルトの店の近くで捜査をしてる。用心には用心をというのが向こうの要望だ』
 ヴェルターがそう言うと、ライヒアルトが眉を顰める。そして暫く前からあった噂を思い出す。
『そういや、つい最近なのだが、チャイニーズマフィア同士が抗争をしていて、かなりの物が押収されたな』
『ああ、鵺(イエ)と煌和会だったな。あれの影響なのか?』
 まさかという風にヴェルターが言うと、ライヒアルトは思案顔になる。
『あそこが抗争していたとしても、俺らの方に直接的な関係はないはずだが、どうもそれだけじゃないようなんだ』
『どういうことだ?』
 ヴェルターも状況が掴めずに尋ねるとライヒアルトが確証はないがと付け足してから言う。
『元々、ドイツ国内のチャイニーズってのは、華僑を上手くまとめた鵺(イエ)が飛び抜けてたわけなんだが、最近の若いのは自分がトップになりたいが為に仲間意識というのがなくなっているらしい。チャイニーズは仲間意識がかなり高くて、裏切り者には厳しいんだ。国より、組織より、出身地という風に、自分との接点が多いほど密接にしている。鵺(イエ)というのは華僑という環境を利用してるんだが、その反対勢力というのが煌和会で、そいつらは若い連中を仕来りというものを取り払って、利益を上げたものから上層部に取り上げるという制度で力をつけてきた。華僑とは違い、国内のマフィアは上納金が多ければ多いほど、上層部にもいけることがあるらしくて、それを基本としてるのが煌和会なんだ』
『つまり仲間を出し抜いても利益さえ上げれば、仲間を殺してもいいという考えなのか、煌和会ってのは?』
『まあ、それが通用するのは馬鹿な若いものと、国内くらいだってのが難点で、華僑という強固な組織と対抗は難しい。若いものは勢いだけは一人前だからな』
『で、それがどういう?』
『その若いやつらは、自分たちが有利になるにはどうすればいいのか考えたわけだ。自分たちには権力者に繋ぎがないし顔も広くはない。取引相手だって馬鹿な若者よりは権力や金が大きい方を信用するしな。そこでやつらは短絡的に考えたわけだ』
『短絡的に?』
『権力者が頭を下げてくるようにするには、まず権力者を脅して、それでも駄目なら鵺(イエ)の方の幹部を消せばいいと考えた』
 ライヒアルトがそう言い切るとさすがのヴェルターも顔を顰める。
『おいおい、それじゃ鵺(イエ)と全面戦争する気がない煌和会の上層部が困ることになるんじゃないか?』
 いくら煌和会とはいえ、チャイニーズマフィアの華僑集団とやり合うのは得策ではないはずだ。
『ところがだ。煌和会上層部は、今のところだんまりだ。なんでも龍頭(ルンタウ)ってのを決める重要な時期らしくて、国内の上層部は細部のことに構ってられないときている』
『それはいくらなんでもお粗末過ぎないか? 鵺(イエ)が本格的に煌和会に抗議した時、煌和会は逃げ切れないだろうが』
 当然付きまとうはずの責任だが、それについてライヒアルトが言った。
『しかし煌和会はそんなことをする輩が自分たちの中にいるはずがない。それは何処かの組織が煌和会を潰そうとしてやっていることだ。もしかしたら鵺(イエ)の自作自演じゃないか?と返したわけだ』
 この台詞にヴェルターが首を傾げた。
『それは酷くないか? 末端だから如何様にも始末出来るとは、困ったら切り捨てどころか相手に責任なすりつけるとは……』
 つまり鵺(イエ)が仕掛けてきたつまらない作戦だと煌和会は言ってきたのである。
『だがこれによって煌和会には、鵺(イエ)との戦争をする理由が出来たわけだ』
 ライヒアルトが言いたいことが解ってきてヴェルターは頷く。
『見えてきたな。それで、鵺(イエ)と煌和会どちらの味方をするか周りにいるマフィアに問うているわけか。それで宝生組は煌和会とは組まないことが最初から解っているから、ルート潰しに密告したわけだな?』
 やっと宝生組のルートのボスであるアルノルトがマフィアである可能性があるとして連邦刑事局が捜査を始めたわけだ。宝生組はいわば、他の組織への見せしめだ。煌和会は他にも他社のルートを潰しにくる。そのためにはヨーロッパやアメリカなどで上手く立ち回っている組織には打撃を与えたと考える。
 その見せしめに宝生組が選ばれたことは何を意味するか。
『鵺(イエ)を抗争というもので縛り付けて、隙が出来た宝生組の懐をどうにかしたい輩が日本国内にいるということなんだろうな』
 ライヒアルトが独自の考えを言うと、ヴェルターは首を傾げた。
『だが、それだけで宝生が潰れると思うのは、いささか甘くないか?』
 その言葉にライヒアルトも頷く。
 連邦刑事局が動いている確かな情報を持ってきた日本人サラリーマンは、明日にはドイツを出てしまうが、向かう先は中南米。ドイツから中南米まで追っていくだろうが、無駄足だ。サラリーマンは、そこで普通の商社に入り、一年間何もせず普通のサラリーマンをし、その後監視の目が外れるまで、後任の人間と接触はしない。
 刑事局の情報を貰ったアルノルトはヴェルターからライヒアルトに仕事を一任し、暫くは静かな生活を行うようになる。そしていくら調べようとアルノルトの自宅からは何も発見されないので彼を逮捕すら出来ない。
 アルノルトは自宅にメモ類などは一切置かず、パソコンを使っているが、こんなのは仕事中にHDDを初期化し、ついさっきまで使ってましたといわんばかりの保管していたダミーHDDを入れ変えれば、取引内容は全てなかったように見える。ノートパソコンの初期化したHDD一枚、自宅なら何処でも隠しようがあるし、初期化したという痕跡がある囮のHDDも解りやすいところに隠しておき、それを見つけさせて解析させ、なんの痕跡もないようにみせて容疑を逃れるという手もある。
 逃げ延びるための裁量の手段はいつも用意してある。そうして逃げ切ったとしてもアルノルトはその後三ヶ月くらいは裏の仕事には出ない。
 だがとヴェルターは考えた。それこそが狙いだったとしたらどうだろうか。完璧に仕事をこなしてきたアルノルトの動きを止めることこそが、煌和会でもなく、誰かの狙いだったとしたら?そんな大胆なことを考えるような人間が宝生と揉めていたとしたら?
 そう考えてヴェルターはライヒアルトがヴェルターへの仕事だといいながら渡してくるメモを見て思ったが口に出すことは出来なかった。
『まあ、宝生がこれだけのことで潰れるなんて考える方がどうかしているんだがな。まあ用心しておくにこしたことはない』 
 ライヒアルトがそう言い返してきたのに対してヴェルターはそうだなとだけ返し、今後の予定を調整していった。


 ライヒアルトの店を出た後ヴェルターはハンブルクに戻りながら一人で考えていた。
 ないと思いたいのだが、ライヒアルトの的確な予想に少しだけ不安を感じてしまったことだ。今までは頷いて納得できたのだが、今回だけは頷けなかった。
 悪い考えだと解っているのだが、ライヒアルトがいつになく的確過ぎるのだ。まるで裏を知っているかのような態度と言った方がいいだろうか。そういう気がしてならないのだ。
 ヴェルターは途中で親戚のマリアンネの家に寄り、一服をしている間も考えていた。あまりに真剣に考え込んでいた為、周りが心配するほどだった。
『どうしたんだ? ヴェルター。元気がないじゃないか』
 そう言って話しかけてきたのは、テオ・エルツェという友人だ。マリアンネは今食事の用意をしていて席を外していた。テオはマリアンネの恋人であったが、現在はただの友人らしく、よく夕食を食べに来ていた。
 彼はスラブ系ロシア人の血を引くイタリア人だそうで、現在は仕事先の日本とヨーロッパを行ったり来たりしているという。
 いつもヴェルターが困ったことがあると何でも相談をしてしまっていたということもあり、聞き上手なのだろうと予想された。それにテオは、美人で有名だったマリアンネと付き合っていてお似合いだと言われるような美男子だ。深い彫りのある顔つきや青っぽい灰色に近い瞳が印象的な人だ。よくマリアンネが笑いながら言っていた。テオは写真のモデルを頼まれていたが、本人がその気が無いため毎回断っていたらしい。なんでも家の人間がそういうのに厳しく、モデルという家業にもいい顔はしないらしい。
 そのおかげで彼は家の輸入業を手伝うようになり、日本とヨーロッパ各地を行ったり来たりしているのだという。そのせいでマリアンネとは別れてしまった。それでも彼が悪いわけではなかったし、マリアンネと円満に別れたことで今でもたまにドイツにくると彼女の食事を食べに来る仲に落ち着いたらしい。
 テオのことは18歳の頃から知っているので、今では家族みたいな感覚であった。
 それでも今回のことは相談できない。
『いや、なんでもないんだ』
 そうヴェルターが言うと、テオは名案でも浮かんだように言った。
『だったら例えでいいよ。困ってるんだろ、ヴェルター』
 にこりと笑って言われ、ヴェルターは少しだけ考えた。本当のことなど一度も相談はしたことはなかったが、何度か相談したことは実はあった。そういう時は的確に答えを貰った記憶がある。
 今回もただ、自分が不安だっただけだと思い、ヴェルターはじゃあとテオに相談していた。
『今までずっと仲良くやってきたはずの友人の言うことが、今回だけ妙に変だなって思うんだ』
『理由っていうのはないんだよね』
『明確にこれが変だというのはないんだ。ただ今回だけは、あれおかしいぞって頭の中でそう思ってしまって。今までそいつのことを信用していたし、今でも疑っている自分がおかしいんじゃないかって思ってる。だけど、おかしいぞって思ってる気持ちというか自分の直感を捨てるには、今は時期が悪くて』
『誰かに共通の友人とかには相談した?』
『しようとは思うが、その。なんだか言いにくくて』
 ヴェルターがそう言うと、テオは笑って言った。
『だったら相談しなよ。せずに後で後悔するくらいなら、相談してなんとかした方がいいって。それにその友人には、何もなかったら疑ってごめんって謝ればいいし、その時はヴェルターの方がおかしかったってことで決着付くと思うよ。友達だったらそれくらいなんともないって』
『だが……』
『その疑われているのが俺だったとしても、別に俺はヴェルターを憎んだりしない。そういうもんでしょ』
 テオがそういうのでヴェルターは安心して頷いた。もしヴェルターも自分に怪しいところがあったら、身の潔白を証明できるのであれば、調べてもらった方が楽ではあった。
『そうだよな。おれも恨んだりはしないと思う』
『じゃ、お互い様でいいね。それにそれくらいで怒り出す方がどうかしてると思うよ。少なくても俺はそう思う』
 テオはそう言ってにっこりとしている。彼の変わらない笑顔にヴェルターはなんとかなるかもしれないとほっとした。
 その日、ヴェルターは夕食をマリアンネに食べさせてもらって帰宅した。その日は緊急にことが動いたこともあり、しばらくは身を潜めることになる。通常の日常がやってきて、裏社会との関わりはなくなったように見える。
 だがそれは一時的なもので、やがて裏社会が混ざり合った日常が当たり前になる。そうしてヴェルターは生きてきた。
 ヴェルターの家はアルノルトの喫茶店と近い。夕方に店を閉めているのを見て、今日は無事だったなとほっとしてしまう。ずっと違和感がある状態のままは変わらず、テオに相談して一時的にはほっとしたのだけれど、それでも何か違うような気がしてきたのだ。
 連絡をしてはいけないとわかっているが、ヴェルターはしばらく考えた後、やはり気になることをアルノルトに連絡してしまっていた。
 今日感じたことで、今までライヒアルトから感じさえしなかった違和感の正体をどうしても知りたかった。
 しかしヴェルターがいくらアルノルトに電話をしても、アルノルトには繋がらなかった。その意味は、アルノルトは盗聴されるまでになったということなのだろう。そのため、携帯電話にすら出られない。もちろんパソコンを使ったネット電話すらも使えない。それだけ切羽詰まってしまっているのだ。
 そこでヴェルターははっとする。もしかしてライヒアルトがアルノルトから事業を任されたところでアルノルトを売ったのではないだろうかということだった。
 だがそれもすぐに勘違いだと気づく。
 深夜、2時を回った時に誰かが訪ねてきたのだ。
『こんな時間に……誰が』
 そう呟いて玄関から覗くと警察が手帳を翳して立っていた。どうして自分のところに警察が。一瞬だけ焦ったがすぐに対処する。
『ああ、すみません。ヴェルター・ライですね?』
『ああそうだが?』
 眠れずに起きていたとはいえ、そろそろ眠くなっていた時間。眠そうな態度でいるのが普通だったので、ヴェルターもそうしていた。すると警察は言った。
『昼間、アルノルト・イステルトの喫茶店に行っていたね?』
『ああ、確かにいった。毎日荷物の買い出しに行く前には寄るようにしてるんだ。あそこのコーヒーはおいしいからね』
 ヴェルターの答えに警察は顔を見合わせる。そして尋ねてきた。
『マスターとは、親しいつきあいをしていた?』
『いや、店で会うくらいしか。俺もよく仕入れで遠出しているし、店を開けている時は双方かまってられないしね』
 実際問題、近いといっても二ブロックも離れている上、店が一ブロックのところにあるという程度のことだ。たまたま喫茶店がそこにしかなかっただけのこと。店でもそれほど親しくしていたわけではなかった。ただどこそこの誰というくらいの認識はお互い持っている程度。それでもつきあいはうまくいっているのだから追求されるいわれはないようにしている。
『マスターがどうかしたのかい?』
 まさかアルノルトに何かあったのだろうか。さっきもまったく連絡がとれなかったところが気になっていたからそう尋ね返していた。
『それがよくわからないんだ』
 警察も答えに困っているようだったが、もう一人が隣の住人にもアルノルトのことを尋ねている。
『そんなことを言ったって、部屋中血まみれで、マスターの姿だけないなんておかしいじゃないか!』
 隣の住人に警察が怒鳴りつけてそう言っていた。
『部屋中血まみれ……? なんだよそりゃ……』
 さすがに夜中に変な話を突きつけられた隣人も、顔を真っ青にして警察を見てからこっちを見た。怖くて仕方がないのだろう。
 つい最近も、別の人間が同じようにして消えたばかりだったからだ。
『とにかく、マスターのこと、なんでもいいから分かったら連絡を』
 警察はそう言って別の部屋の人間を呼び出しては同じように質問していっていた。だがそんなことはヴェルターには関係ない。いやそれどころではなかった。
 これは連邦刑事局よりやっかいな人間が引き起こしたことなのだ。これは黒社会でいう見せしめな殺し方だ。アルノルトには妻が一人いて、父親も母親も健在だったはずだ。この場合、部屋中血まみれというのはアルノルト以外の家族が全員皆殺しにされていたということに他ならない。アルノルトがその状況で殺されていないということは事前に打ち合わせのために家を抜け出していたか、それとも殺しの犯人に連れ去られたかのどちらかだ。
 だがどんな真実でもアルノルトにとっては最悪の状況だ。
 アルノルトは裏社会では顔は知られている方であるが、従っている組織が日本の宝生という組という小規模なため、華僑マフィアである鵺(イエ)やチャイニーズマフィアの煌和会の餌食にはなりにくかった。だが今回のヴェルターの違和感やライヒアルトの様子から、何か違うことがおこりそうだった。その結果、アルノルトが狙われたとしたら、それはこのドイツ内にて騒動を起こしている煌和会ということになってしまうのだが、本当にそれだけなのだろうか。それが分からなくて不安になってきた。
 ライヒアルトのいう通り、煌和会だけならここまで事態は発展しなかったはずなのだ。だからこそおかしいと言えた。
 鵺(イエ)ならまだいざ知らず、ここ最近力を付けてきたと言われている煌和会ごときに取引内容どころか、宝生組内部の関係者まで知られた上に、連邦刑事局まで巻き込んで大げさに取り締まりをしてくるような人間が存在するだろうか。
 そこが問題だった。そこまで出来る人間が宝生組をどうにかしようとしているのなら、その目的にわざわざ海外の取引先のたった一つであるドイツを狙うのがよく解らないからだ。
 確かにハンブルクでの取引は昔から多かった。けれど、更に大きな港を求めて(その方が取り締まる方にも隙が出来やすいため)ハンブルクで卸すものは少なくなってきている。最近は極東の密輸も厳しくなっているので、わざわざ欧州からロシアなどへ密輸をしていることもある。
 そのルートを狙ったとしても、宝生組ほど上手く切り盛りさせるのは難しい。たまたま宝生組の組長が欧州の組織からも特別視されていたからこそ成り立っているところもあるのだ。
 宝生組の組長代理はさまざまな場面で黒社会と関わりがある。本人はそれほど商売たくましくはないのだが、そのことについては第一人者に近い者がある。彼の何気ない忠告やアドバイスで助かった人間が思いの外多かったという。それだからこそ、彼との雑談という名の会合を好む人間が多く、宝生組の組長代理は特別視されているのである。
 そしてその同じような素質をみせているのが宝生耀なのである。それ故、彼の動向も気になる人間は多い。組長代理と同じように大きすぎるものを望まない性格だとすれば、それを利用したい人間が多いということだ。
 その特別視は、ある種の人間からすれば余計な人間でもある。そういう意味で命を狙われることもあるのだろう。最近は完全に耀の方の行動範囲が広がったせいで、身の危険を感じている人間が存在するのかもしれない。
 しかしあの耀を組長代理と同格にして驚異だと感じるような人間が、海外にそうそういるはずもない。
 そうなると、長年宝生組と対立し、親子三代に渡って計画を邪魔され続けてきた九十九朱明という男しかいない。
 還暦を過ぎてもなお衰えない、完全犯罪への欲望なのか。彼の行動範囲は日本という平和すぎる場所では滅多に発揮されない。海外ではどうかというと水面下での行動が得意なのは変わりないようだった。
 とにかく、それらを無視した何かが起こっている。それは間違いない。
 ヴェルターは怪しまれないように部屋に篭もり、周りの情報通に話題を貰って情報収集をしたが、一家惨殺の現場から逃走したアルノルトが連邦刑事局に監視されていたらしいという噂まで出ていて、彼が何かしらの犯罪に関与していたという流れになっていた。
 だが、一家惨殺は酷いもので、首を切って床に並べて置いたというからきっとチャイニーズマフィアの仕業だろうと言われている。彼らは見せしめというやり方をする。だがそれには見せしめる相手が必要だ。
 それは一体誰なのか。アルノルト一人のためにここまではやらないだろうから、これは宝生組に宛てたものなのだろう。
 そしてそれらを受け取る相手は、きっと近くまで来ていたはずだ。彼がドイツに入ってから、何かが動き出したような気がする。
 だがそれは決してこちらから仕掛けたものではないということだ。
 色んなことが解っても、ヴェルターはライヒアルトには相談出来なかった。
 ただ一人、そこに篭もって隠れて見つからないようにと祈ることしか出来なかったのである。
 そうしているうちに、ライヒアルトが死んだという知らせがヴェルターの留守電に入っていたが、ヴェルターにはそれを聞く耳や、それに答える口が存在しなかった。
 彼は仲間を疑ったまま、ライヒアルトが殺された同日に自宅で拷問されて殺されていたからだ。