spiralling-3

 今日の耀は機嫌は悪くなかった。
 そう分析をするのは、耀と常に行動を共にしている九猪亘尾(くい あさお)だった。組内における出張扱いの今回のドイツ訪問に、組長代理の代理として赴くことになった瞬間、耀のその日の機嫌ははっきり言って悪かった。
 翌日に恋人である織部寧野が休みをやっと取ったことを知った耀は、あれこれと何かを計画していたようだった。しかしそれに被せるかのように組内の大事な用事を言いつけられたら、一瞬でも嫌だと言いたくなるのも仕方ない状況だった。
 恋人の織部寧野は、現在、組長代理が友人に任せている金融と不動産会社の手伝いに行っている。耀が会社を作ってという流れになるはずだったが、思った以上に若頭になってからの役割が増えすぎたせいで、そこまでたどり着けなかったのである。耀は一年待ってくれと寧野に頼むも、けんもほろろに断られて、組長代理に勧められた会社に就職をしてしまった。 耀としては面白くはない出来事であるが、それから一年経っても、耀の方の用件は増える一方で、今までの組長代理の裏で動いていただけの時とは用件の重要さや重さの違いに四苦八苦してしまっていた。
 外から見れば、耀は落ち着いてよくやっているように見えるし、その年の若造だということを考慮しても、十分の働きをしていた。世間一般の坊ちゃん跡取りとは何歩も先にいて、関東極道でも稀な才能だと言われる組長代理の代理としてなった若頭も十分だと言われていた。
 しかし宝生組では耀が組長になるシナリオが出来ている手前、組長代理以上のものを求める人間も多くいる。そのため耀はそれ以上の働きで構成員たちを納得させようとしていた。
 そんな耀の努力を知っている組長代理は、耀に自分の仕事をどんどん回している。重要な用件で、尚且つ宝生組の利益になるものは全て耀に任せようとしているようだった。その辺りは、幹部たちも了承したもので、耀のオーバーワークにならないように務めながらも耀に完璧な組長になって貰いたいからなのか、厳しくしている。
 通常の人間なら耐えられないようなことでも組長になるなら当然の重みとなる。昨今の警察や法律の規制からヤクザも昔以上に生き残るのに必死だ。その生き残るかそれとも喰われるかという瀬戸際にいる組を法律や警察の裏をついたものに変えていかなければならないという重要な役割を耀はしている。
 それが自分の役目であり、自分が選んだ道だから信じてやってきたことであるのだが、それ以前の問題として、人として安らぎを求めてもいいだろう。
 その安らぎを得られるのが、織部寧野(おりべしずの)という人間の側でだけなのだ。
 出逢った瞬間から感覚のみで選び、一度は諦めながらも影から助けるといういじらしい真似までして結局諦めきれずに側に置くことにした人間だ。
 一度諦めた段階で二度と出逢うことがなかったとしたら、初恋はそれで終わっただろう。綺麗に終わるはずだった恋は、運命という糸を断ち切ることなく鎖のように結びついていた。
 全部を解っていても耀の側にいてくれようとしている寧野を愛しいと思うと同時に誰にも渡せないと強く思うようになった。その思いはただの思いではなく執着と束縛という危険な領域に入ってもまだ納まることはない。
 それまで耀が好きだった育ての親になる月時響(とき ひびき)とは違うことを実感しているくらいに、酷い執着だった。
 その執着は寧野が大学を卒業し就職をして働くようになった時からだ。大学であれば、自由に行き来が出来たことが出来なくなったことで増した。寧野はそれに対して、大して困った様子はなかったので、耀は自分の執着が人の目にどのように映っているのか気付いていないようだった。
 側にいる九猪(くい)からすれば、聞き分けの良かった子供が、大人になって世間を知ってずる賢く巧妙に生きているけれど、唯一みせる我が儘と映っているくらいだ。
 耀が組のためにならないことをしているのは織部寧野(おりべしずの)を恋人として扱っているということくらいだからだ。
 執着が鬼気迫っているところが叔父であり育ての親である組長代理に似ているのは、血筋と言ってもいいだろうが、こうも組にとって問題があるような相手を選ぶのも血筋と言えるのだろうか。
 問題の織部寧野は、とても静かな人だ。自分の立場というものを理解し、耀の立場も理解している。ヤクザというのがどういうものなのかも知っていて、迷惑がかかるようなことは一切しない。
 組長代理の恋人である月時響(とき ひびき)も出来た人であるが、この人はとことん組とは関わらないように暮らしているため、生まれがどうであろうが一般人として扱われている。そしてそう扱われるように振る舞っている。
 全てを解っていて一般人の振りをする月時響(とき ひびき)と、一般人であることを否定し、普通の暮らしを望まない織部寧野(おりべしずの)は、同じ境遇でありながらも同じ結論は出していない。
 寧野が一般人に戻るということは、世の中から犯罪組織がなくならない限り無理であることを寧野が一番知っていて理解しているということだろう。
 月時響(とき ひびき)が一般人でいられるのは、本当に一般人だからだ。後から解ったことと最初から知っているのでは育ち方が違ってくる。しかし織部寧野(おりべ しずの)は、犯罪組織がそうは見てくれないことを自分の身に起こったことでたたき込まれた。
 元々、ロシアとモンゴルの山脈奥地に移り住んでいた一族。その能力があるが故に迫害を受けてそんな奥地までたどり着いた。恐れられた特殊能力に利用価値があると解るや否や監禁され奴隷として扱われてきた。
 その能力は金運を呼ぶ能力で、数字を見ただけでどういう流れで金運が来るのか読めるのである。その力はチャイニーズマフィア貉(ハオ)という組織に摂取され続けたが、問題行動を起こした寧野の祖母が妊娠したまま追放され、日本で子供を産んだ。
 その金運を呼ぶ能力を持つものを彼らは「金糸雀(ジンスーチュエ)」と呼んでいた。寧野はその最強の能力を持っていた一族の最大の能力者と言われた愛子(エジャ)の孫である。
 その子供寧野の父親が金糸雀の力を持って生まれたために、寧野は事件に巻き込まれた。能力を持っていた父親は、手違いで殺され、寧野も数年にも渡って拉致されそうになったり、逆に命を狙われたりしていたが、問題は貉(ハオ)という組織が壊滅した為、終わったかに見えた。
 しかしその秘密が少しだけ漏れ、寧野は宝生に匿われていなければ秘密を知っている組織にすぐさま拉致されるだろうと言われている。
 だが寧野にはその金糸雀の能力があるのかは解らない。
 寧野は一度無意識に能力を使ったことはあるが、それ以降一度も使ったことはないと言っている。実際、寧野の周りには不審な金の流れはなく、そうした動きもない。多少はその血筋からか数字に関して勘はいいが、それも一族の血を引いているとされる元貉(ハオ)の龍頭(ルンタウ)高黒(ガオヘイ)や新雪(シンシュエ)より弱いことは解っていた。
 それでも寧野には利用価値がある。子供を産ませれば、その子供が金糸雀(ジンスーチュエ)になる確率が一番高いからだ。
 寧野の血筋になる金(ジン)一族からしか金糸雀は生まれていない。金(ジン)一族や夏(シア)一族は近親相姦を繰り返した為なのか、貉(ハオ)が壊滅する時には寧野くらいの年齢の子供は一切いなかった。どの一族の人間も金糸雀になれる時期を等に越してしまっていた。子供も産めないし誰も金糸雀になれない。だから寧野が一番若い金(ジン)一族の子供で健康や遺伝子に問題が無く、確実に子供を残せる能力を持っているという理由だけで十分と考えるものもいる。
 それだけであれば宝生組が寧野を匿っておく必要はない。
 辛うじて寧野が宝生組にあって手が出せないのは、寧野の血筋が金(ジン)一族だけのものではないからだ。
 寧野の父親は、鵺(イエ)の元龍頭(ルンタウ)蔡(ツァイ)司空(シコーン)の隠し子という噂が流れているからだ。これに関して裏社会では迂闊に口に出せないとして見て見ぬ振りをするしかない。鵺(イエ)ほどの巨大なチャイニーズマフィアが内輪もめで壊滅するところは見てみたいが、喧嘩を売ったという流れになった方が面倒くさいと考える。しかも過去の出来事であり、幹部達が見て見ぬ振りをしているということは寧野が龍頭(ルンタウ)の器ではないと見なされていることになる。
 しかしその鵺(イエ)の現在の龍頭(ルンタウ)は宝生組の若頭である耀と懇意の間柄。関係が作られたのが貉(ハオ)の事件後であるが、明らかに蔡(ツァイ)龍頭(ルンタウ)が織部寧野(おりべ しずの)を守るために宝生組と繋がったと考える方が自然だった。
 だが噂に出して言えないが鵺が認めていないのだから寧野を自由にしていいと考えるのは素人だとされる。よもや手を出してやはりそうだったという実験台になりたがる変態はいない。よってこの関係が確立し続けているから周りが手出し出来ないでいるのだと認めるしかない。そういうスパイラルに陥ってしまう。
 それに宝生組と言えば、イタリアマフィア並の暴力性を持った九十九朱明(つくも しゅめい)を相手にしてもまったく引けを取らずに立ち向かった上に、実質貉(ハオ)と名乗りチャイニーズマフィアとして活躍していた組織を壊滅させたことは間違いない。
 報復という行為に関して宝生組は実に用意周到に周りから責め立て、本陣を孤立させた上で奇襲をかけてくるような武闘派である。それ故に手出しをするなら全面戦争をしかける気でなければ意味がない。
 日本のヤクザだからと高をくくるわけにもいかない事情もある。海外でも宝生組は活動しており、様々な組織とも関わりを持っている。宝生組に手を出すということは他の組織との取引を邪魔をするということにも繋がりかねない。相手が何処の組織のどういうところなのかという情報を知ろうとするのは簡単だが、知ったが最後、相手が大物だった場合消されるだけである。
 様々な事情から、自分で稼げばどうにかなる物を自分の組織を壊滅まで追い込む危険性を考慮してまで狙う意味があるのかという、根本的な問題が浮上し、どの組織も宝生組が関わっている限り寧野に手出しはしないという暗黙の了解が成立していた。
 だから、耀の気持ち以前に、宝生組は寧野から受けるメリットが急に出てきてしまっていたのである。
 特に全て事情を知っている者からすれば、寧野を手放すのはまったくもって得策とはいえないとはっきり言える。寧野に価値はないと放り出すのは簡単だ。しかし、それによって鵺(イエ)との関係は確実に一変する。鵺(イエ)が日本の限られた場所でしか仕事をしないことや、他のチャイニーズマフィアなどを押さえているのは、宝生組との関係性から必要に応じてやっているだけで、関係性がなくなれば他のチャイニーズが暴れようがなにしようが鵺(イエ)には関係ないと言ってしまえばやりたい放題に出来るというわけだ。
 そうした関係で争うのは無意味であり、双方にとっても秩序がないことは組織の統制がとれないと内外に知らしめることになり得策ではない。だからこそ、宝生と鵺(イエ)が繋がっている現在の関係が上手くいっている状態が好ましい。
 織部寧野という存在一つの取り扱いによって、宝生組が沈む沈まないという有り得ない状況が現実味を帯びてくる流れなのだ。
 下部ほど理解していないので、耀の側にいる情人と思っているだけだが、実際は重要すぎて扱いにも困るくらいである。
 その上で、耀が寧野に対して絶対的な王の象徴のように君臨している状況を好まない人間もいる。
 耀には当然のように女性と結婚して子供を残して欲しいのだが、本人のその気が一切無いのも困るところだ。寧野には、保護下で静かにしていて欲しいのに、耀が絡むと耀のしたいようにさせて状況を複雑化してしまう。寧野の態度にも問題がありと考える人も多いくらいだ。通常なら好まれる情人として十分な態度が問題になるとは寧野も思ってもみなかったことだろう。
 しかし寧野が従順過ぎる分、耀の不安はかき立てられるらしい。信頼している人間でも何かがきっかけで裏切り行為に出るか解らない。よほど強固な繋がりや目的がない限り、関係は脆く崩れやすい。その為、耀は寧野を試すような行動を取ったりする。
 そんな行動を取った時、寧野が最終的に仕方ないと笑っていたりすると耀は安心するようだった。
 今日機嫌がいいのは、休日を潰されたにもかかわらず、それ以上に嬉しい結果があったということだ。
 だが九猪(くい)は手元にある携帯でその耀の機嫌が一気に悪くなる情報を入手してしまった。当然寧野のことである。
 今回のドイツ訪問は、ハンブルクにある港でロシアマフィア「ツァーリ」との新しいルートでの取引だ。今までロシアマフィアと繋がっていた「マトカ」という組織は内部が混乱してきており、末端の情報機関すら麻痺していたことにより取引が行われなかった経緯がある。
 「マトカ」の一方的な取引ミスにより、宝生は他のロシアマフィアと取引する必要があった。幸いと言っていいのか解らないが、「マトカ」から抜け、新たに組織を作った人間と耀がまだ繋がりを持っていたため、「ツァーリ」との顔合わせが実現した。
 双方が顔合わせする為に耀がドイツまで赴いたわけだ。
「耀。相変わらず、きっちりしてるな」
 街中のカフェに座っている耀達の席にロシア人が近づいてきて、ドイツ語で話しかけてきた。
 耀は相手が来たことを確認すると九猪(くい)と億伎(おき)に下がるように指示を出す。
 九猪と億伎が席を離れると、ロシア人は耀の前に座った。
 ロシア人は身長は耀より10センチは高い190センチはある。体格は北の人間の特徴のように太い腕に四角い顔。灰色の瞳が爬虫類のように感情が見えない光をみせる。プラチナブロンドの髪の毛が太陽に光って真っ白に見える。外見からは取っ付きにくく、無口な方なのだが、気に入った人間の前ではよく喋る人間でもあった。
 アメリカで知り合ってから三年経っているが、彼の印象はさらに鋭くなった。けれど耀を見る目は柔らかいままである。
「キーマ、久しぶりだな」
 アキーム・ロベルトヴィチ・バクシンは「ツァーリ」のボスで通常は略称のキーマと呼ばれている。
 耀は三ヶ月ほどアメリカに留学をしていた時に知り合い、それ以来の付き合いだが、ある意味悪友と言えた。
「お前から連絡があるとは思ってもみなかったが、まあ仕方ない状況だな」
 大学時代の悪友だからと言って、仲良しこよしでいるわけではない。なので留学が終わってから実際に会うのはこれが初めてだった。当然連絡先なども知らない間柄で、留学時代の悪友だったという過去形にしかならない。 
 耀の部下である九猪からの連絡で会う算段が出来たわけだが、ただ取引が決まったわけではなく、これはただの顔合わせだった。
「マトカのことは広まっているのか?」
 耀が雑談をするように話を進めると、キーマは頷く。
「元々、あそこは問題を多く抱えているところでな。12年前に上層部がごっそり抜けたり入れ替わったりしてから、昔ほど強力でもなくなってたところに赤い雪(クラースヌィ・スニイェク)の出現だからな」
 キーマはふうと溜息を吐いてみるが、それがわざとらしいので耀は鼻で笑ってしまう。
「そのおかげでマトカが弱体化し、お前が独立出来たんだろう?」
 耀が突っ込むとキーマはニヤリと笑う。
 キーマはまだ若いマトカの末端組織にいた。自分の直属のボスが死亡し、内部抗争に発展した。マトカは末端組織の内部抗争に口出ししてくるような繋がりはなく、最終的にキーマが収めることになった。
 だがキーマがトップに立つとマトカからの摂取が急に厳しくなり、組織が立ちゆかなくなった。下手にマトカの末端にいることで虐げられた生活をするだけになると判断したキーマは留学を理由にして一旦ロシアを脱出し、体制を整えてからロシアに戻った。
 二年して戻ったところにアメリカで知り合った人達がマトカの末端組織から脱却し、キーマをトップに据えた新たな組織を立ち上げた。キーマがアメリカ時代に作りあげた人脈は、マトカの末端にいただけであれば築き上げることは出来なかったものだ。
 マトカから抜けた人間が新しい組織を使ってマトカと張り合うということは潰される覚悟でいなければならないが、幸いと言っていいのか、マトカは現在「赤い雪(クラースヌィ・スニイェク)」との抗争が続いている。
 赤い雪(クラースヌィ・スニイェク)は噂に寄れば、12年前に抜けたマトカの幹部たちが作った組織とされ、現在ではロシアマフィアはマトカより赤い雪と言われるような位置づけとなった。
 そのおかげでツァーリの活動はマトカからは重要視されておらず、間を縫ってマトカを削っている。マトカを削っている間は赤い雪からは問題視はされていない。
 そのマトカという組織は、どこを開けても結局この組織に繋がり「マトリョーシカみたいだ」と言われたことから、最終的にマトカと呼ばれることになった。しかし彼ら組織の正式な名称などは存在していない。だからマトカという名称は人々が勝手につけて他と区別するための認識名として呼ばれているものだ。
 ちょうど第二次世界大戦後に作られた組織だったが冷戦の間、政府とも深く関わっていたため、謎とされてきた。冷戦が終結したソビエト連邦崩壊後、それぞれに力を持った組織が乱立する中でもマトカは異質だった。
 しかし変わらぬ上層部と若い人間との間で時代への対応が問題となり、昔のように上手くは回らなくなり、ちょうど12年前の上層幹部の反乱と言われる内部抗争後、力を失っていくことになった。
 だが力を失ったと言われても、ロシア国内やヨーロッパでは絶大な力を誇っており、ロシアマフィアと言えば赤い雪と言われても油断をすればマトカに喰われるという位置づけにいることは間違いない。その原因がマトカと変わり続けた外部の組織がなかなかマトカと縁を切れないでいるからである。
 その中で、宝生組もまたそうであった。ナホトカからの小樽を経由して密輸されている物資をマトカがロシア側の窓口となっていた。しかしマトカ内部の混乱からナホトカ市内でもマトカ末端組織が他の組織に喰われてしまい、事実上ナホトカを拠点としたマトカとの取引はなくなった。
 極東におけるマトカの実権はなくなったとされ、その間を奪ったのがツァーリと赤い雪(クラースヌィ・スニイェク)だった。しかし赤い雪は、宝生組とは組まないことが解っている。赤い雪が京都に存在するヤクザ、嵯峨根会(さがねかい)という組織と繋がっているからだ。
 宝生組は嵯峨根会へ情報が流れることを危惧して、赤い雪とは取引をしていない。さらにドイツ国内で優位を誇るのは赤い雪ではなく、ツァーリの方であり、マトカと抗争中の赤い雪はドイツ国内を制覇している訳ではないという。
 ドイツには世界最大と言われた世界的な港があり、アジアにも繋がっている。その港を使った取引を円滑にするためにはドイツ国内に強いツァーリが取引相手としては適任だった。
 赤い雪と日本市場を奪い合う状態になるツァーリとしては、宝生組からの誘いは願ったり叶ったりであるはずだった。北のナホトカとドイツ経由で世界を回る宝生が所有している船は様々なところで使えるからだ。
 そう思っているからキーマは耀に会いに来たし、雑談にも応じている。
「お前のところと繋がるのは組織的には悪くないし、俺としてもお前と本気でやれることは嬉しく思っている。だがな、日本でのお前の組織は本当に寝首をかかれないのかどうか。それを聞いておきたい」
 率直に尋ねてくるキーマに耀は誤魔化せないだろうと溜息を吐いた。
 宝生組が潰れるということはないのだが、最近、関西での動きが怪しいのである。関西と言えば、如罪組(あいの)の九十九朱明(つくも しゅめい)という世界ではテロリスト認定されているような人間を飼っている組織だ。あれから14年近く経っても忘れられるような事件ではなかった。
 その九十九は60歳を越えていて如罪組では大人しくしているが、日本ごときに納まっているような器ではなく、世界に出て何かしているようなのだ。九十九の動きは様々な組織が気にしていて情報は回ってくる。その中で、九十九は如罪組とは別に海外に別働隊にあたる九十九直属の組織を持っていることは確認されている。そんな組織が存在する九十九が如罪組のために海外から呼び寄せて天下を取ろうと考えれば、当然簡単にできることだろうと誰もが考える。
 だがそれが間違いである。
「どうせ、九十九のことを気にしているだろうが、あれは如罪組という地盤を使って、日本のヤクザ統一なんて馬鹿な真似はしない」
 耀がそう言うとキーマは首を傾げた。出来るのにしない九十九に対してもそうだったが、九十九のことは十分知っているが本人ではない耀がはっきりと断言する理由がわからないからだ。
「九十九の本来の目的と言えば解りやすいんだが、あいつはちょっとだけ駒を動かしてみたら周りがどう反応するのかをよく知っている。ほんの一言、一行動でいいんだ。もし如罪組が動くとしてもそこに九十九は含まれない。九十九は一言、一行動如罪組(あいの)に示すだけでいいんだ」
「つまり?」
「如罪組が派手な動きを見せたとしたら、それは九十九がいない証拠だ」
 耀がはっきりと言うとまだキーマは首を傾げている。
「おまえには解らんだろうが、九十九には今宝生組を潰す理由がない。遊ぶ相手として選んだのに、簡単に潰れてもらっては困るんだ。それに、あいつの狙いは覇権だの天下統一だの、そんな大きなものじゃないからな」
 耀はそう言って苦笑した。
 九十九が恐れられる理由として、彼が影で全ての準備を終えてから攻撃に出るという特徴が挙げられる。対策を取っても後手後手に回り、最終的に取った行動までも九十九の予想通りという有様だ。
 その中で宝生だけが九十九の予想を超えていた。それもたった一人の存在にて九十九は予定を全て変え、不利な行動に出たくらいだ。
 遊ぶ相手に宝生楸を選び、日本国内では見えない攻防戦をやり、たった一人の存在を眺めるだけで満足している段階など長く続くわけがないと誰もが思うが、九十九はそこが常人と違った。彼は自分で殺した人間でもずっと思い続けられるような精神状態を保って生きていた。
 もちろん宝生組を潰して思い人を手に入れるのは時間をかければ出来ることであるが、それでは思い人、月時響を生かし切れないことを知っている。
 宝生組の組長代理の情人であるから、月時響は一般人でいられる上に誰にも狙われることなく生きている。だが、九十九が月時響を手に入れたとしたら常に九十九を脅かす目的として月時響は狙われ続け、99%の確率で惨殺される。それくらいに九十九は世間から恨まれているし憎まれている。
 九十九にとって今現在野望はあるだろうが、唯一望んでやまないことは、月時響の安全だけだ。彼が安全で、組長代理の宝生楸が生きていてこそ、たまに会いに行っても響は怒りながらも相手をしてくれている。
 だが宝生組がなくなったとして、響だけが生き残ったとしたら、その時の響は九十九が望まない響になっており、ただ生きているだけの人形となり得る。
 九十九にとってはそれは二度目の失敗となり、思い人はまた手の届かない存在になってしまうのだ。それが解っているからこそ、九十九は宝生組が組長代理によって動かされている間は手を出したりはしない。
 これは耀の勝手な予測であるが、楸と九十九の暗黙の了解というあやふやな決まりによって釣り合いが取れている状態が続いていると言えよう。
 その関係が崩れる時は、もちろん来る。それが今だと言われるとそれは違うと言えた。
 何かの動きに九十九が絡んでいることがあるのは当然だが、それが宝生組を潰す目的として立てられたのなら、月時響の安全が一番最初になる。つまり響が九十九によって誘拐されたと解った時こそが九十九との全面戦争への幕開けなのだ。
 それはまだ訪れてない。いくら九十九が色んなことを思いつき出来るといえど、一人の人間を確実に守れる要塞を用意出来ないのだ。それは九十九が人間というものを信用していないからに他ならない。要塞を守る人間が信用できるとは限らないと先の先まで人間を読みすぎてしまうのだろう。実際そうやって要塞を失っているのも関係しているだろう。そうして結局未だ実行に移せないでいる。
「そこまで読まれていると九十九が気がつかないとでも? それを逆手にとっての行動だとしたら、お前の組織はとっくに喰われてるんじゃないか?」
 キーマはそんな曖昧な話は信用しない。勝つか負けるかで生きてきた。温い関係を双方が解っていてそれが暗黙の了解として成立していたとしても、それを信用して胡座をかいているわけにはいかない。
「いや。この暗黙の了解を利用しているのは、九十九の方だと言っているんだ。宝生はこれには納得していないからな。そもそも最初に喧嘩を売られたのは宝生の方だ。その報復もまだ済んでいないのに、九十九が勝手に決めた暗黙の了解に納得して引き下がるとでも思うのか?」
 耀がそう言い、キーマを見据える。鋭い視線がキーマを貫き、背中がぞくりと震える。
「お前達はあの抗争を終わったものだと見ているようだが、終わってなんかいやしない。現在もまだ静かに攻防が続いている。九十九が力を付けるなら、宝生もそれ以上の力を付ける。九十九が世界で何かしているのなら、宝生も何かしている。そういう目にははっきり見えないようなことをずっとやってきている。それに」
「それに?」
「俺の報復は何も始まってないということだ」
 耀が言い切った時、やっとキーマにも解った。今までの話は宝生組組長代理と九十九朱明(つくも しゅめい)の間の話であることに。その蚊帳の外にありながらも間接的に面子を潰された耀は、響の時の報復はおろか、寧野の事件の時のことすらまだやり返していない。
 組長代理がしていることに口出しするわけにはいかないが、寧野のことが絡んでいた事件の報復は任せてはいない。これは耀の権利だからだ。
「いいことを教えてやろう」
 耀は驚いているキーマにニヤリとして言う。
「世間が九十九を恐れるのは仕方ないことだとは思う。若干二十二歳で日本国内を暗躍しヤクザの抗争を引き起こしたあげく、日本国中に広まった自分の一族を殺して回って、身代わりを立てた後人の人生を奪っておもしろおかしく生きてきた奴だ。それから30年経って爆破事件を起こし、証拠を一切残さずに表舞台に復活をしたような妖怪変化。だが、あれからすでに14年だ。還暦を過ぎた九十九が自身だけで動くのは体力的に難しくなっている。実際、九十九が精力的に動いていたのはかなり昔のことで、最近はその右腕的存在が表立って動いている。となれば、右腕は今は九十九の思った通りに動いてくれてはいるが、それが野心や九十九に対して不満を持ったらどうなると思う?」
 そう問われキーマは、やっと納得したように頷いた。
 何も先読みが出来るのは九十九だけではないということだ。耀はこんな時代が来るのを待っていたというのである。
「待ってたわけか。世代交代を。まさに俺らの時代だな」
 飼い犬が化けるか、飼い犬のままで終わるのかは耀やキーマの動き次第。耀達の世代が表立って動くようになれば、大抵の同世代は共感され動かざるを得ない。
 耀は九十九の右腕的飼い犬がそのままで終わるわけがないと思っている。九十九もそんなことはきっと見通しているはずだ。だが、そんな見通しを覆す何かがあるはずだ。そう九十九が選んだ人間がまともなわけがない。
 耀は九十九を牽制するつもりでツァーリのキーマと組むことを選んだ。
 キーマはツァーリのトップとしてならこの妙な提案に乗ることは少し考えさせて貰うと応えるべきだろう。だが、キーマは個人的に宝生耀という人間に興味を抱いていた。自分の予想を超えた力を見せつけ続けた相手に可能性を感じている。いつか仕事をしてみたいと思ったくらいだ。
 黒社会にて長く育ちながらその地位を驕ることなく、ただ組織のために己の存在価値を問うてきたと耀は言っていた。この世界でしか生きられないのなら、この世界で通用するような存在になりたい。今更引き返せない道だからと知識を詰め込んでいた。
 そんな耀にキーマは共感した。まさしく自分もそうだったからだ。
 それに耀は最初からキーマが断れるわけがないことも知っている。キーマが耀に興味を抱いていることを耀自身がよく知っていたし、ここにくるまでに耀はツァーリに有利になるように日本国内における反対勢力にあたるマトカとの取引を全て中断させた上で、赤い雪の動きも関西のみに縛ってきた。
 ここまで準備されて断れば、耀はすぐに思考を変え、ツァーリの排除を始める。
 そう宝生組にとってはマトカや赤い雪以外なら、どこでもいいわけだ。ツァーリくらいの規模の組織はいくつか存在したし、ナホトカにいるツァーリをその組織に喰わせることだってやってのける。そうした準備があるからこそ、耀がやってきたのだ。
 通常なら、耀が来る必要はなかった。宝生組の中には海外の交渉を担当する人間もいる。あえて耀を出してきたのは偏にそうした方がキーマには解りやすいという利点があったからだ。
 耀という人間を知っているものなら、耀がその後どういう対策に出るのか少しは予想できる。そしてその予想以上のことを宝生組はやるぞと脅してきてもいるわけだ。
 この場に座って話している段階で、耀の方が仲良しこよし気分で来ているように錯覚させてくれる。だがそういう気分できているのは実はキーマの方だったのだと気付かせる。
 ここに座った時点で、キーマには断るという選択肢は与えられていなかったのである。
「……相変わらずだな。俺に退路なしか?」
 キーマが乾いた笑いを浮かべると耀はその日初めて友人らしい笑いを浮かべて言った。
「お前相手に手ぶらでくるわけがないだろう?」
 相手を驚かすことに成功した時のいたずらっ子と変わらない笑顔。だがそれが余計に恐ろしく感じるのは、耀がこういう世界でずっと生きてきた、キーマよりも先輩にあたるからだろうか。
 結局、キーマはツァーリとして取引相手に宝生組を選ぶしかなかったのである。