Hello.Hello-1
「なんだって……」
五十嵐伸哉(いがらし しんや)は、生まれて初めて遭遇した目の前の出来事に呆然としたまま声を上げていた。
今日は、7月の晴れた日。それはとても晴れていて暑い夏が到来したのだなと誰もが実感出来る日だったであろう。
そんな中、五十嵐は病院の一室にいた。
別に入院していたわけではないし、重い病というわけでもない。
思い起こせば、ただ気を失ってそのまま運ばれて起きたらここだったというだけのことだ。
だが、気を失ったのは、ちゃんと原因がある。
それが今は目の前にいた。
目の前の人物は少年だ。少し幼い感じはあるのだが、高校生くらいであろう。
その顔には不安の色はない。きょとんとして五十嵐を見ている。まるで最初に見た雛鳥が親だと認識したかのような目で、である。
ここが問題だ。
まず、五十嵐はこの少年が何者なのかも知らない。出会ったのは、この病院に来る前、駅のホームへの上がり口だったか。急いでいた五十嵐にこの少年は、目が合った瞬間に縺れる様にしてそのまま階段を落ちてしまったのである。
これが五十嵐が気を失ったという部分である。
最初に気づいたのは、少年の方で、駅ですでに意識を取り戻していたらしい。
そのまま運ばれてくる五十嵐についてきて、そのまま付き添ってくれたようなのだ。
付き添ったのは、誤って落ちてしまったことへの謝罪が含まれているのだと思っていたのだが、それは五十嵐の勘違いだったというところだ。その少年は爆弾を持っていたのである。
「すみません、ここ何処ですか? 病院っていうのは解ってます。この街が何処なのかってことで……」
少年はまずそう言ってきた。
そして。
「俺、誰ですかね?」
そう言ってきたのである。
これを聞いた瞬間、五十嵐は悪い冗談を聞かされているのだと思って寝てしまおうとしてしまった。目が覚めれば、きっとすみませんとか言って冗談でしたと言ってくれるに違いないと思ったのだ。
だが、そうやって寝ようとする五十嵐を必死に止めて、少年はポケットに入っていたらしい封筒を取り出して言った。
「ここに、有栖川史也(ありすがわ ふみや)へって入っているんです」
だが、これでは少年がこの手紙を出そうとしていたのか、それとも出されたものなのかは解らない。だが、すぐに五十嵐は気づいた。
その封筒には切手が貼ってあって消印があるということだ。つまり、この少年、もしくは関係者が有栖川史也ということになる。
「ああ、そういうことですか……なるほど」
五十嵐がそう指摘したことで、納得した有栖川だが、自分が有栖川史也であるという事実を受け入れることができないようである。
「記憶喪失とか、素晴らしい体験が出来てるかもしれんが。とにかくここの医者に記憶が無いことを言い、警察に保護してもらうんだな」
とにかく、有栖川史也という人物を探し出せば、自ずとこの少年に繋がるということになる。
だから、五十嵐は気になることがあるにせよ、面倒ごとに今巻き込まれるわけにはいなかった。
なので面倒ごとは医者か警察に任せてしまいたかった。だが、そうは問屋が卸さないようだった。
「俺、気づいた時に聞いたんですけど」
記憶のないアリス少年は、そう切り出してきた。
「何をだ?」
面倒くさそうに五十嵐は答えた。
「どうもね、周りの人が言うのには、貴方が僕の腕を引っ張った結果、転落になったようなんですよ」
その言葉に五十嵐はギョッとした。それはそれが事実だったからだ。目が合ってそして思わずアリス少年の腕を引っ張ってしまったのだ。
階段でしかもバランスが取れない状態で人を引っ張るという自殺行為をしたのは、五十嵐の方だったのだった。
「う……」
思わず五十嵐は唸ってしまう。
「貴方が俺を引っ張ったから俺は落ちて記憶喪失なわけなんですよね」
「う……」
「貴方は、ここの医者や警察に任せてしまえばいいやって思ってるようですけど。これでも俺不安なんですよ。そんな俺を一人でこういうところに置いて行くんですね……」
つらつらと告げられた言葉が一々的を得ているのだから、五十嵐もたまったものではない。
「冷静に話しているように見えるかもしれないですけど……俺、怖いんですとっても」
そう言うアリス少年は、少し涙ぐんでいるようだった。そりゃいきなり一人で放り出されてしまっては怖いに決まっている。
五十嵐でも、自分が記憶喪失になったりしたら、不安でたまらないだろうとは思う。ただ泣いたりなんかはしないだろうが。
「悪い……」
五十嵐はそう言うと、アリス少年を引き寄せた。胸に抱え込むようにしてやると、アリス少年は抑えていたものを吐き出すように泣き出してしまった。
暫く泣いたアリス少年はそのまま眠ってしまった。泣いて疲れると寝てしまう性格のようだ。
仕方が無いので、今度は五十嵐が起き上がって、空いたベッドにアリス少年を寝かせてみた。
そこへ医者がやってきた。
「おや、五十嵐さん。やっと起きましたね」
「あーすみません」
「打ち所が悪いのかと思うほど、起きなかったもので。彼も相当心配していたようですよ。寝ずの番ですから」
医者にそう言われて、五十嵐はギョッとして医者に尋ねた。
「何日経ってるんですか?」
寝ずの番をしたからには、事故の日じゃないということになってしまう。
「二日ですよ。二日。まったくそれだけ、どんなことをしても起きないなんて、どんな徹夜してたんですか?」
どうやら、医者には五十嵐が打ち所が悪いのではなく、単なる寝不足で寝てしまっているだけだと解っていたらしい。
「いや、法事と締め切りが重なってしまって。徹夜が続いたもので。ご迷惑をおかけしました」
五十嵐はそう謝った。
「それは、そこのアリス君に言ってあげてくださいね」
「アリス君?」
いきなりそこのアリス君と言われて、五十嵐はきょとんとする。
確かにこの少年は有栖川史也という名前の可能性が高いのだが、まさか本人がそう名乗ったのだろうか。
しかし医者はこの少年が記憶喪失なのは知らないようだ。
「有栖川君だから、アリス君。なんというか健気でねえ。それに自分のことはいいからと、貴方のことを心配して付きっ切りで離れない。ちゃんと親御さんには、貴方の看病をしていたと報告してあげてくださいね」
「あ、はい」
五十嵐は狸に化かされたみたいに思っていた。もしかしたら、記憶喪失というのは嘘で、かつがれてしまったのかもしれない。
しかし、さっきの涙は嘘だと言えるのだろうか?
高校生くらいの少年が人目をはばからずに泣き続けて寝てしまうなんてあるだろうか?
そんな詐欺でも流行っているのだろうか?
五十嵐は暫くアリス少年を見て考え込んでいたが、何も解決策は浮かんでこなかった。
それに。
「マズイな……」
外の真っ青な空を見上げて、五十嵐はそう呟いていた。
「アリス。アリース」
その声を安心できると思うのは何故だろうか。
記憶を無くして、一番最初に見た人というだけなのに、何も覚えてない自分がこうして安心して、割合冷静に居られるのが不思議だった。
病院でちゃんと真実を告げたときは本当に怖かったし、自分が何処の誰で何をしてきたのかということすら覚えてない。典型的な記憶喪失なのだと理解出来たのは、日常生活という部分が綺麗に記憶に残っていたからに過ぎない。
目が覚めた時見た人が安心出来る人であるなら、自分もこの人にとってそうでありたいと思った。
だから付きっ切りで傍を離れなかったのだ
そして、聞いた声に安堵したのも不思議だった。
たぶん、今まで聴いたことも無いような声だったはずと体が何故か覚えていた。
「アリス、アリーッス」
そう呼ぶ声はあの人の声だ。
さっき聞いた声。
そういえば、泣いた後どうしたっけ?
そんなことをふっと思い出したアリス少年はふっと目を覚ました。
「……あ……」
アリスが目を覚ますと、辺りは暗く、一所の照明が眩しく感じる。一瞬目を閉じ、それから光に慣れるように目を開けた。
「やーっと起きたか。悪い、寝てたところだろうけど、そろそろ起きてもらわないと困ることになるんで、おきてもらった」
そういう声に惹かれて目をしっかり開けると、自分はまだ寝かされているのだと解った
だが、そこが病院と違うことは、外から入ってくる光の洪水で解ってしまった。そして振動に気づいた。
「あれ……?」
病院じゃないなら、いったい何処なのだ?
そうアリス少年が思っていると、手短に五十嵐が説明してくれた。
「俺が起きた時点で、病院にいることが出来なくなった。かといって、無責任にお前をおいてくることも出来なかったし、悪い気がした」
「……ごめんなさい」
「いや、いいんだ。俺がやったことの決着はつけたいとは思っている。お前の親御さんにもちゃんと説明しなきゃいけないだろうしな。だが、時間がないんだ」
五十嵐は切羽詰ったような声でそう言ったのである。
「……はい?」
アリス少年はどういうことだと首をかしげる。
時間が無いとはこれ如何に?
五十嵐は続けて言う。
「俺の仕事の締め切りが、後二週間で来る。それだけは絶対に落とすわけにはいかない仕事で。だから、二週間時間をくれ。今、世間は夏休みに入っているらしいし、もしお前が学校へ通っていたとしても問題はないと思う。ただ親御さんがすごく心配するかもしれないが。だが、すぐに取り掛からないといけない仕事なんだ。お前のことは後回しになってしまうが、絶対、有栖川史也の関係者のところに連れて行くから、暫く俺のところにいてくれ。頼む」
いきなり、五十嵐の事情を説明されてアリス少年は度肝を抜かれた。
普通、まず最初にするのが、アリス少年のことだろうに、まずは自分の仕事が先で、更にアリス少年のことでも一応は自分でなんとかしなければと思っているらしい。
確かにアリス少年も警察や病院に取り残されるのは嫌だったからそう言って五十嵐を脅したのだから、この展開は望むべきところなのかもしれない。
「俺のことは後回しでもいいですよ……」
どうせ自分の年齢は学生辺りだろうし、もし行方不明者が出たとなってそれが有栖川史也だと解ったら、まず病院に問い合わせが行くだろうし、そうなればこっちから難しく探さなくても、向こうから接触があるはずだとアリス少年も気軽に考えていた。
何故か後回しにされてもいいと思ってしまったのもあった。
「それじゃ、俺は五十嵐伸哉だ。これから二週間、そんなに構ってはやれないが、よろしく」
五十嵐はそう名乗ってにっこり笑い、初めてアリス少年に笑顔を見せた。
「お前のことは、まだ誰だか解らないから、なんと呼べばと考えたが。医者がアリス君と呼んでいたのにあやかって、便宜上、アリスと呼ばせてもらうことにする。いいな、アリス」
アリス。探していたウサギはきっと五十嵐に違いない。
その名前は何故か懐かしい感じがするものだったし、違和感がなかった。
それにアリスも頷いた。
「アリス……それが俺の名前……」
そうして、記憶をなくした少年は、アリスと呼ばれることになったのだった。