everyhome-7
次の日、那央(なお)は一人で氷室の本社に向かった。
摩鈴(まりん)には散々どうしたのだと聞かれたが、バイトの話をしてくるだけだと言ったのに、何か重大な秘密があるかのように何度もやめておけと言われた。
それを聞こうとすると、たぶん本人が言うと思うと言うだけで、自分の口から言うのはいやだという感じで逃げられた。
何がそんなに問題なのかと思って大雅を見ると、大雅(たいが)は「経済誌読んどけよ」と言われたのだが、今更読むのもなんなのでもう本人に聞こうと思ってそのまま来た。
受付で名前を告げると、即座に副社長に通じたらしい。
受付嬢がびっくりしたような顔をしていたが何でだろうと思っていると、副社長が降りてくるというのだ。
「え、そんな、俺はただのバイトで……」
「そうなのですけれど、副社長が……そうおっしゃるのでどうしようも……」
そう返されて那央は目眩がした。
どうしてそんな待遇されるのかと思っていると、さっそく副社長、氷室侑(ひむろ ゆう)が現れた。
颯爽とした姿に思わず見惚れてしまう。
「よく来たね」
にっこりと笑って侑が対応するものだから周りが驚愕の顔をしていた。
副社長が鉄仮面であるのはよく知られているので、そうして会社で笑うことはあまりないし、見た人はほとんどいないとされている。
それが惜しげもなくさらされているのだから、びっくりして立ち止まる人がいるくらいなので、余程の事態だろう。
「わざわざすみません」
「いや、こっちが来てもらったのだから迎えるのは当然」
侑はそう言って、那央の肩を抱いて引き寄せる。
なんだろうこれは?
那央は抱き寄せられながら不思議に思った。バイトの見学にきたのに、何故か大歓迎の様子だ。
そんなにバイトが必要なのだろうか?
那央はそう思うことにした。周りがどういう反応をしているのかは、あまり気にならない。驚いている人がいるみたいだが、出迎えに驚くのは普通だろうと。自分が特別扱いされているだけで、普段はこういうことはないのだから。
「それで、あの」
「うん、上に行こうか。説明するよ」
そう言って侑は肩を抱いたままエレベーターに乗る。
「ああ、もしこれから私に何か用事や仕事関係で乗る時は、このエレベーターに乗るように」
そう言われて頷いたが、ふと尋ねる。
「これは専用機というのですか?」
「ああ、社長や会長、そういうものが使うものだよ。普段は動いてないから、これから使ってくれるといい。向こうのエレベーターは混むからね」
「……はあ」
そういうのは使ってはいけないものなのだろうが、使えというから使わないといけないのだろう。しかし専用機は、そういう特別な人が使う為に用意したモノだからバイトの那央が使っていいわけがない。いろいろ考えているとこの人の些細な行動はいろいろあり得ないところがある。
そのまま肩を抱かれたままなのもなんだろうと思っていたが、これがこの人の人に対する態度で、外国人並にフレンドリーなのかと思って無視することにした。
那央が案内された場所は、副社長室の隣にある、秘書室だった。
そこに伊達隼人という室長を紹介された。この人が基本的に侑の側にいる秘書である。
「初めまして、伊達です」
「初めまして、藍沢です。よろしくお願いします」
感じよく挨拶は出来たと那央はほっとしていた。
伊達は厳しそうではあるが、しゃべり方は丁寧で柔らかい。
「……あの、副社長、すみませんが下がっててくれませんか?」
挨拶したところで、伊達が眉をしかめて言う。
副社長である侑は、ずっと那央の隣にいて肩を抱いているからだ。はっきり言って邪魔以外なにものでもない。
那央の方はとっくにこの状況を考えることはやめてしまっていたから、伊達が突っ込んでくれないとずっとこのままだった可能性もあった。
「いや、なんだか、可愛くて離せないな」
「惚気るのは後にしてください。自分から誘っといてバイトさせたくないんですか?」
伊達がびしっというと、侑は仕方ないといわんばかりの態度でやっと那央の肩から手を離した。
「話した通りに頼む」
「了解してます。だから仕事に戻ってください」
どうやら仕事を抜けて来たらしい。それに驚いて那央が困った顔をすると、侑は諦めて副社長室に戻っていった。
「すみませんね。うちの副社長。今まで気に入った者を側に置いたことがないので、はしゃいでしまって」
「いえ、そういう方なのかなと思ってました」
そう那央が言うと、ぶっと伊達が吹き出す。まさかあの副社長がそんな愉快な性格だと思われているとは思わなかったのだ。
「貴方だけにはそういう方なのだと思いますよ」
伊達はそう笑って言うと、仕事の説明を始めた。
秘書室は昨日入れ替えが行われたところで、秘書自体は3人ほどしかいない。通常は8人ほどいたのだが、仕事をしてないものが多かったので解雇したばかりだという。解雇通告を出したとたん、全員が来なくなったらしい。それで閑散としているようだ。
仕事をしていたものだけが残され、うち二名がここで雑用している。表だって動く秘書は伊達のみらしく、それほど秘書は必要ない状況だ。
副社長である侑は、社長が不在時に表立って動く人で、普段は裏方に徹している。
今はその社長がいないので、忙しいのだが、その辺の事情は那央にはよく分からない。
他の秘書に紹介されて、雑用を任される。
主に書類をまとめて伊達に渡したりするくらいで、後はパソコンにデータを入れる仕事を回してもらう。
そうした簡単な仕事ではあるがバイトでも重要な位置なので結構なバイト料が出るらしい。これを蹴るバイト募集の人がいたら見てみたいと那央は思った。
「一応見てもらいましたが、この階以外の移動はほどんとなくて、買い出しくらいですから」
伊達がそう説明すると那央は仕事のことではなく、別の気になることを質問した。
「あの、エレベーターの専用機の方を使うように言われたのですが、本当にいいんですか? 重要な時に使っていたなんてことになりそうで」
そうなのだ。そこが問題だ。
自分が乗っていたから侑が乗れなかったなどということがあるかもしれない。そうなったら困るのは那央の方なのだ。
「そんなに気になるならエレベーターに乗る前に私に確認していただければいいですよ。そもそも副社長が使っていいと言ったのですから、文句など出ません」
伊達はそう言ったが、秘書の人たちは驚いている。どうやらこういうのは今まで無かったらしい。それを確認して那央は通常は使うのをやめようと思った。
特例過ぎて自分がバイトに来る雰囲気ではないような気がするからだ。ただでさえ変な目立ち方をしたのだ。当分大人しく行動した方がいいような気がする。
「そうだ。その服装だけれど」
「はい。これでは駄目ですか?」
那央は自分の服装を見直して駄目出しをされたと思った。一応は持っている背広を着てきたのだが、会社ではもっと違うのがいいのだろうか?と首を傾げた時、伊達はいえいえと首を振った。
「いや、そういうのを着てもらえるとありがたいと言おうと思ったんですよ。バイトでもそれなりの格好といいますかね。副社長が構うから人目にも付きやすいかと思って」
この背広は高須賀の家に居た時に買って貰ったものの一部で、他にもバージョン違いであるが、似たような色のものはいくつか持っていたから、そう言われると着ないと思っていた背広が役に立つのでありがたい。
「分かりました」
那央はそう返事して、いつの間にか自分はここでバイトするのは当たり前の考えをしていたことに気づいた。ここまでしてもらって断ることは出来ないだろう。
何か気になることはあるが、まあ些細なことだろうと那央は自分を納得させた。
その帰りに副社長室に顔を出すように言われて、顔を出すと、さっきとは違う顔をした侑が仕事をしていた。
綺麗な英語を喋っていたので、海外への指示なのだろう。那央はそう思って大人しくドアのところにいたが、侑が笑って指をソファに向けたので、これは座れという指示なのだなと把握してソファに腰をかけた。
すぐに電話が終わると侑が来て聞く。
「時間が空いた時にバイトをお願いしたいが、どうする? 気に入ってはくれなかったか?」
そう言われて那央は素直に答えた。
「バイトとしては十分過ぎる待遇でした。これでいいのかなって少し迷ってます。あ、でも今必要であるなら来ます」
必要とされたいという気持ちが言わせていたのだが、こんな条件でいいのだろうかと不安にはなる。
しかし秘書室内にいた秘書を一斉に解雇した状態で、秘書室には那央が見ただけでも二人しかいなかった。そんな状態でこの大きな組織である氷室グループが回るとは思えなかった。
緊急に人手が必要なのは、さっき見ていて解った。
「君にして欲しいからお願いしているんだ。じゃ、明日からバイトでいいかな? 夜は9時くらいまで私は仕事をしているので、伊達しか出社してない状態で雑用が出来なくてね」
秘書室の人間を酷使してきたので、なるべく終了時間は早めにしているらしい。伊達はずっと側にいるから何時でも構わないが、他の人はそうもいかない。用事がある人だっているし、抜けてしまうことだってある。
その補強を那央でしたいのが目的らしい。
「あ、勤務は五時までなんですね。分かりました講義が無い時は五時出勤でいいですか?」
そういえばバイトに入ってくれとは言われたが出勤時間を聞いてなかったなと、ふと思って那央が言うと、侑は笑ってそうかと言った。
「ああ、時間を決めてなかったね。その時間でいいよ。五時からお願いしよう」
あまりに慌ててバイトだけは決めてしまおうと躍起になっていた侑は、そういう最初にする約束事すら忘れていた。那央に言われて苦笑して、自分が嬉しいのと焦っているので混乱しているのだと初めて把握した。
「はい、分かりました」
「何か分からないことがあったら伊達に聞くといい。伊達がいなかったらここに来るといい。ちゃんと覚えてもらうからにはちゃんとした指示を出さないとね」
侑はそう言って隣に座ると、那央の髪をさらっと撫でた。
これは何か意味があるのだろうか?
そう那央は考えたが、不快ではなかったので何も言わなかった。
「髪は何故伸ばしている? 似合っているが不思議だな」
侑がそう言うので、男でここまで伸ばしているのは、おしゃれをしている人くらいか伸ばしっぱなしの人くらいなのだろう。
「母が、長い方がいろいろと遊べていいからと、昔から伸ばしていたので、切るタイミングが分からなくて。最近は摩鈴が美容室に連れて行ってくれて揃えてもらうくらいです」
本当の理由は顔を隠すためだったけれど。母親はもう居ないし、言っても意味はない。前髪をこういう風に切ったのは、大学生になってからということも言う必要はない。
その前は目が悪くないのに眼鏡をかけていたし、服装もこんなにおしゃれではなかった。そういうことを言わなくもいい。
思わず口が滑りそうになり、那央はハッとして口を閉じる。
「何か、言葉を飲み込んだ? 髪にはどんな意味があったんだい?」
そう耳元で言われて、那央はこの声には逆らえないなと思った。
低くて響いて、それでいて甘くて、優しい響き。卑怯だと思った。