ROLLIN'1-1

 月時響(とき ひびき)は、会社の仕事の打ち合わせで、あるホテルのロビーにいた。

「企画としては、このように進めていくことになりますが、宜しいでしょうか?」
「ええ、宜しくお願い致します」

「それでは、このコピーをお持ち下さい。段取りの変更がありましたら、こちらまで連絡してください」
 響はホッと胸を撫で下ろした。これで無事仕事が終わった。

 響は大学を出た後、イベント企画をする会社に入社した。そこでは仕事も順調であった。
 人当たりのいい響には打ち合わせという仕事は順調だったのである。にこにこしていれば愛想がいいといわれ、姉に似た顔は十分相手を安心させるものでもあった。
 コンプレックスだった顔が役に立つとは、この仕事に就くまで解らなかった事でもある。

「月時(とき)さん、このまま飲みにいかれませんか?」
 仕事先の谷にそう言われた。

 打ち合わせも上手くいったので谷も気を良くしたのだろう。
 だが響はその誘いを受ける訳にはいかなかった。

「すみません、まだ仕事が残ってまして」
 そう言って響は谷の誘いを断わった。

 仕事はこの打ち合わせで終わり、そのまま帰宅できるようにはなっていたが、何せ酒に弱い響は酒をさけるようにしてきた。
 それには苦い思い出もあったから。
 思い出すには辛すぎる。だから、酒は嫌いだった。昔は酒を作っていたというのにだ。それでも酒からは離れていたかった。

 あの出来事以来、酒は一滴も飲んでいなかった。

「そうですか、それは残念。もっと月時さんとお知り合いになれると良かったのですけどね」
 谷は非常に残念そうな顔をしたが、仕事があると言われれば、無理に誘う事は出来なかった。

「本当にすみません」
 響は何とか谷の誘いを断わり切れた。
 さっさと荷造りをして、響は席を立った。
 とにかく谷の側から逃げ出したかったので相当急いでいた。

 どうも、最近付き合うようになった谷は、どうも一緒にいてイイ気分にはなれなかったのだ。何が引っ掛かってるのかは解らないが、一緒に酒を飲む事や、食事さえも一緒にはしたくない雰囲気があったのである。
 だから、谷から逃げるように、響はその場を後にした。

 その時、ホテルを出ようとした時、小さな子供とぶつかってしまった。まったく前を見ていなかったのである。
 子供は響に吹っ飛ばされるようにして転がってしまう。

「わ! ご、ごめんね。大丈夫?」
 すぐに駆け寄って、子供を抱き起こした。
 怪我をしてないといいけど……。響はそう思って子供の顔を覗き込んだ。

「怪我してない?」
 響がそう言うと、 子供は泣きはしなかったが、響の顔をじっと眺めた後、いきなり抱きついてきたのである。

「な、何?」
 不思議なことに子供は喜んでいるのである。
 どういう事?響は少し変だと思った。
 頭でも打ったのだろうか? とにかく子供の反応が変であるのは確かだ。

「お父さんやお母さんは?」

 響は慌てて子供の両親を探した。
 周りを見回してみた。ここはビジネスホテルなので、周りに子供連れの人がいるには不思議な場所だ。
 何処を見回しても、いるのはサラリーマンらしき背広を着た人達ばかりである。
 それらしき人は見えなかった。

「ねえ、お父さんとお母さんは何処なのかな?」
 響が再度子供に尋ねる。

 でも子供も喋ろうとはしない。
 響にしがみついたままで、 ただ喜んでいるだけなのだ。
 これはどういうことなのだろう。
 響はさっぱり訳が解らなかった。

「ねえ、何処にいるのかな?」
 子供に聞くが子供は首を振っている。
 一人なのかな? 響は首を傾げた。

「お父さんとかと一緒じゃないのか……。じゃあ、一緒にきた人は何処かな?」

 それにも少年は首を振った。
 え?
 それはおかしい。

 この少年、ちょうど六歳くらいに見える。そんな子供が一人でここにいるはずないからだ。
 ふと、響は考え込んだ。

 まさか誘拐されて……?

 いやな事が頭を過る。
 でもそれでも変である。
 それならそれで、こんなに自由になっているのも変だ。

 誘拐じゃないとすれば、親とはぐれたか、それともこの子供は過去にここに来た事があったのか? それとも、ここに父親なり母親がいるとでも思っていたのか。

 しかし、どれもしっくりこない。

 ハッキリ言ってさっぱり予想も出来なかった。

「落ち着こう。とりあえず、お兄さんの名前は月時響というんだ。君は?」
 落ち着こうと思ったのは自分の方だった。
 深呼吸して、子供を見つめた。子供はにこりとして響を見つめていた。
 でも、パニックってる響に対して、 子供の方がもっと冷静だったのである。

「耀」(あき)
 子供は耀と名乗った。
 はっきりした口調だったので、この耀という子が喋れない訳でも、自分を怖がっているわけでもない事が確認出来た。
 もし喋れなかったらどうしようと、一瞬思った響は、少しほっとして耀を見つめた。

「耀君か。耀君は何故ここにいるの?」
 とりあえず、その辺から情報を聞き出して、本当の責任者に返した方がよさそうだ。ビジネスホテルに、サラリーマンはいいとしても子供がいるのはおかしいからだ。

 へたすれば、響の方が変質者としてホテル側に思われてしまう。
 
 響の何故?という質問に子供は少し真剣な顔をして、意外な事を言ったのである。

「追いかけっこなの」
 その言葉に、響はキョトンとしてしまった。

「追いかけっこ?」
 なんだそれ?というところである。
 それなのに、耀は更に恐ろしい事を言ったのである。

「悪い人が追い掛けてくるから逃げてるの」
 耀の言葉に、響は、顔を引きつらせた。

 悪い人? どんな?

 でも、再度響が質問しても、耀は悪い人から逃げ出してきたというのだ。
 そんな馬鹿なと響が思って周りを見回すと、ホテルの奥の柱に黒服の男が数人立っているのを見付けてしまった。

 それはまるで、響から耀が離れるのを待っているかのようだった。サングラスをかけているので、はっきりとこっちを見ているとは言えなかったが、響の勘では、確かにあの黒服の男達は明らかにおかしいし、耀の言っている事と重なる様な気がした。

 それを感じると、響は耀の手を取った。

「どこまで逃げるのかな?」
 子供が自分の自宅の住所がいえるなら、そこまで送っていくという方法もあるから響はそう聞いた。
 その方が安全で、危険は避けられると瞬時に判断した事だった。

 しかし、である。
 耀はまた恐ろしい言葉を口にしたのである。

「宝生(ほうしょう)組まで。パパが待ってるから」
 子供は衝撃的な言葉を口にした。

 ほうしょうぐみ……。
 一瞬、頭が真っ白になる。
 今日は思い出したくない事を思い出す日だと思った。

「宝生組?」
「そう、宝生組」

 あの宝生組なのか。
 響は一呼吸置いて、呟いた。
「宝生か……」

 ヤクザの世界ではかなり大きな組織。ヤクザという認識よりも、起業家としての宝生は良く知っている。ヤクザの世界でも、関東では随一であるし、その資金源である宝生会は、更に有名だ。もちろん裏でヤクザの関係者が居ることは解っている団体であるが、それでも仕切ってるのはヤクザの組長だ。

 そして宝生組は、ヤクザの世界においての規模は二番目と言われている。真正面から抗争して勝てるのは関西にあるヤクザくらいだそうだ。

 警察でなくても、それはこの業界では知られている。
 だが、それだけではなかった。

 その頂点に立つ人物は、響が良く知っていた人物なのだ。
 本当に思い出したくない事に今日は出会う日である。

 なんとか、頭を振って、思い出したくない事を封じ込めた。

 宝生組。
 そこへこの子を連れて行くのか?
 一瞬、響は躊躇した。
 出来れば行きたくない。

 でも、と考えた。
 耀が宝生組と関係しているとはいえ、響が恐れている事が起こるとは偶然でも考えられない事なのだ。

 相手は、組の中では頂点に立つ人物だ。
 そんな人物に自分が面通しされるとは思えない。

 耀が宝生組のどんな関係者なのかは、もうこの際脇に置いておくとしよう。このまま放っておけば、もしかしたらもっといけない気がしたのだ。

 響は、はあっと溜息を吐いて、耀に向かって言った。

「解った、お兄ちゃんが送ってあげる」
 とにかく、トラブルに巻き込まれる前に、耀を送り届ける方が先決かもしれない。そう思ったからだ。

「ほんと?」
 耀は、目を大きく開けて、響を見上げていた。

「恐いお兄さんもいるからね。じゃ行こうか」
 響はそう言って、ビジネスホテルを後にした。
 
 耀を引き連れて歩いていても、あの黒服の男達はまったく動こうとはしなかった。その気配だけは読めた。
 もしかして、関係ない人だったのかな?
 響はそう思いながらも、後ろを振り向く事はなかった。

 ビジネスホテルの前に出ると、すぐに走って来たタクシーを捕まえた。耀を先に乗せて、自分も乗り込む。

 ここで、はたと気が付いた。
 響は宝生組の住所を知らなかったのである。

「住所って解る?」
 響が耀にそう言うと、耀は頷いた。

 住所は耀が言って、車は出発した。
 響は最初は気になって後ろを振り返ったが、後を付いてくるような車は見当たらなかった。

 ホッと息を吐いてシートに身体を収めた。
 だが、なんだか気になった。
 耀はビジネスホテルで、何をしてたのだろうかという事である。
 あの場所は子供が一人でいるような場所ではないし、訪ねてくるような人がいるとは思えなかった。

 それでも、耀は何も言わない。
 悪い人に追い掛けられたとは言っているが、怖がっている様子はないし、第一、そんな人物に気が付いているなら、ビジネスホテルではなく、警察に駆け込むか、宝生組に電話して誰か、親か知り合いかに迎えに来てもらった方が遥かに安全だ。

 そこまで、子供では考えつかないのだろうか?
 首をひねって考えてみるが、やっぱり解らない。
 まあ、送り届ければ、自分はこのタクシーで駅まで行けばいい。はっきり言って、宝生組には関わりたくないのだ。

 タクシーは順調に進んで、宝生組の近くで止まった。
 住所では場所は解らなかったが、響はこの近所に見覚えがあった。
 確か、この辺に宝生組のヤクザの先代の屋敷があったはずである。それを思い出したのだ。

 響は運賃を払って、「ここで待ってて下さい」と言ってタクシーを降りた。すると、耀がタクシーの運転手に何か言って降りると、タクシーはドアを閉めたとたん、走り去ってしまったのである。

「え? ちょっと!」
 響は慌ててタクシーを追い掛けた。だが、すぐ側にある幹線道路出たタクシーは左折して目の前から消えてしまったのだった。

「どういう事?」
 響が首を傾げていると、耀がにっこりして言った。

「もうちょっとだから」
 そう言われて、響は耀がタクシーの運転手に何か言っていた事を思い出した。

「まさか、タクシー返したの、耀なのか?」
 まさか、と思っていたら、耀はうん!と頷いたのである。

「なんで?」
 響は少し口調を強めて、耀を睨みつけた。それでも耀はにこりとして手を差し出してきたのである。

 はあ、子供の考える事は解らないよ……。
 響は溜息を吐いて、耀の手を取った。

 どういう事か解らないけど、耀さえ届ければそれで終わると思ったからだ。

 先代の宝生組があった屋敷の場所には、ここら辺では珍しい大きなマンションが建っていた。5階建てのデザインのいいマンションで、入り口はオートロック、指紋照合などハイテクづくしである。
 部屋数を見てみると、1~4階は3部屋づつあって、5階だけが一つの部屋になっているようだった。

 そこには、宝生の名はなく、「山崎」となっていた。
 
 宝生組のマンションじゃないのか……。
 響はほっとした。

 耀は指紋照合をして、オートロックの鍵を回し、響を連れて中に入った。
 エレベーターに乗って、耀が5階のボタンを押すと、響はうーんと考えた。 

 耀の名字を聞いてなかった事を思い出して、なるほどと頷いた。
 一応、宝生組とは関係があるだろうが、耀は、山崎という名の宝生組関係者の子供であると分かったからだ。

 しかし、自分が玄関まで送っていかなくても、エレベーターに乗る前に耀とは別れていれば良かったのではないかと思い立ってしまったが、無情にもエレベーターのドアが閉まってしまった。

「俺、玄関まで送らなきゃ駄目なのか?」
 響が耀を見つめてそう言うと、耀は頷いた。

「僕のパパに会って、事情を説明してほしいんだ」
 耀はそう言った。

 もしかして、勝手に出歩いた事を怒られるとでも思っているのだろうか?
 そう考えると、耀の少し慌てている様子からではあるが、そうとしか思えなくなった。

「解ったよ。変な人と追いかけっこしてたって事、言えばいいんだな?」
「うん、そう」

 耀がそう答えた時に、ゆっくりとしたエレベーターが最上階に到着した。  だが、そこでは意外な事が起こってしまったのである。

 その最上階で止まったエレベーターを降りると、広い廊下があった。ここには一部屋しかないわけだから、廊下も広かった。その廊下には黒服の男達が数名立っていたのである。

 そして、 慌てて駆け寄ってきた。

「耀様!」
「耀様だ!」

 耀を見るなに安堵の顔を浮かべた部下達のようだった。
 耀はニコリと笑って響の手を引いて歩いて行く。

 ここでは、響の方が不審人物である。
 何者か、という顔をして、黒服の男達に睨まれた。

 瞬時に響は悟った。
 この男達、何か武術でもやっているかのように隙がなかったのである。ここで暴れたら自分がここから出られるかどうかさえ、今の響の実力では、判断出来なかった。

 でも、これ以上、不審人物とは思われたくなくて、響は耀に言った。

「耀、もう大丈夫でしょ。俺、帰るから」
 響はここで逃げ出そうとした。

 なんだか嫌な予感がする。
 この先を行くなという危険信号が久々に頭の中で響いていたのだ。こういう時は、その勘に従った方がいつも正解なのだ。

 でも耀が手を離してくれない。

「あ、耀!」
「駄目だよ」
 初めて耀が強い声で言い放った。

「響のお陰だもん。パパに言わなきゃ」
「え? いやいいって、何もなかったんだから」
 そうは言っても耀は手を弛めてはくれない。
 しかも、周りは囲まれている。逃げるのは容易ではなさそうだ。

 ここで、耀がこの男達に自分を止める様に命令をしたら、自分は逃げ道がなくなってしまう。
 無闇な戦闘はしたくない。

 仕方ないと溜息を吐いた響をそのまま引っ張って、耀は男達が開けてくれた部屋に上がった。
 玄関は広く、響のあの狭いアパートの風呂場より広いかもしれない。そんな溜息が出てしまう程広くて、呆れてしまう。

  響は耀に連れられて、ある部屋に通された。

 そこは広い部屋で、リビングでも40畳はあるのではないかと思われる部屋だった。窓も広く周囲の建物が低いお陰か、景色はかなりいい方だった。
 でも、その景観を述べるより先に、響はあの懐かしい波動を感じてしまったのである。
 これは、もう2年前の事。
 あり得ないと、自分の勘に訴えた。
 
 だが、神様は意地悪だった。
 奥の部屋のドアが開いたと思った。耀が何か話している。

 ちらりと響が振り返ると、そこには2年前に忘れてしまったはずの、思い出したくないと思っていた、会いたくないと何度も思った相手が立っていたのである。

 ああ……楸(ひさぎ)……。

 絶望にも似た思いで響は楸を見上げていた。
 2年前のあの幼い感じが完全に抜けた、目美しい青年。背丈は変わっていないが、相変わらずの体型は昔より大きく感じた。
 シャープでいて、鋭い瞳、そしてすっと伸びた鼻梁。
 そこにあるは、完全な男である。

 楸も久々に会った響に驚いているようだった。
 2年前と変わってない容貌。体型さえも一部の狂いもなく、ただ2年が過ぎたというだけの時間だけしか存在してなかった。

 見つめ合った二人。
 最初に動いたのは、楸の方だった。
 静かに口が開いて、にやりとした。

 そして口が動いた。
 やっと見付けた。

 そんなふうに。


 響はただ楸を見上げることしかできない。

「パパ」
 耀が楸に向かってそう言った。
 響にはすぐにパパというのが、楸の事だと解った。

 楸がパパ?

 なんだか笑いたくなるような言葉だった。
 そっか結婚したんだな?と思ったが、ふと考え込んだ。
 ちょっと待てである。
 
 計算が合わないからだ。
 まったく事情が解らない響を置いて、話はどんどん進んでしまう。

「何やってたんだ、耀。皆心配してたんだぞ」
 楸は響から目を離す事をせず、耀にそう言っていた。
 まるで、目を背けたら響が幻のように消えてしまうとでも思っているかのようだ。
 響はその瞳に捕まったままだった。

「でもね、やっと見付けたんだ。響を見付けたんだよ!」
 耀は興奮したようにそう言うのである。

 え?
 思わず響は耀を見てしまった。

 見付けたってどういう意味?
 それが解らない。

 見付けたってことは、耀は響を探していた事になってしまう。
 その為に家を抜け出したのかと。

 するとその部屋に、あのホテルで見かけた黒服の男達が入ってきたのである。

「ご苦労様」
 耀がそう言った事によって、響はやっと状況が掴めてきた。

 耀が語った事は嘘だったということ。
 あのホテルには、響を探す為に部下もちゃんと連れてきてたという事。あの部下は、耀の証言を響が疑わないようにする為だった事。全部が全部、耀の策略だったという事なのだ。

 その罠に響ははまってしまったのである。
 耀の狙いは初めから響だけだったのだ。

「何故、響を探したんだ」
 楸は驚いていたらしいが顔は冷静そのものだった。
 それには響も何故と問いたいところだった。

「だって、パパも探してた。僕も響に会ってみたかったんだ」
 楸の話で、響の事を知っていた耀は、楸の為に響を探していたという事になる。

 なんてこった……。
 響は頭を抱えてしまった。

 そう楸の別れ際の言葉を思い出したからだ。
 次に会った時の言葉。

 その時は離さないと言った。

 このままここにいては駄目だ。
 瞬時に響の中の危険信号が鳴り響いた。

「あの、俺、仕事があるんでもう帰らないと……」
 響はそう言って立ち上がったのだが、すぐに腕を取られた。
 腕をとったのは楸だった。

「お前は耀からの贈り物だ。帰す訳にはいかない」
 真剣な楸の言葉に、響は目の前が真っ暗になった。

 冗談じゃない!
 なんとか楸の握った手を離そうとしたのだが、昔同様、楸には力では叶わない。

「全員、部屋から出ろ」
 楸は黒服の部下に命じて、耀と共に部屋から人を追い出した。
 向かいのドアの向こうに全員が消えた。

 それと同時に響は全開で暴れまくった。

「楸!」
 響は必死に抵抗をした。

 喧嘩には慣れているから、すぐに行動に移した。
 まず腕を取り戻そうとして蹴りをくり出したのだが、腕で軽く流されて体勢が崩れてしまう。昔より強くなっていた楸には通用しなかった。

 取られた腕を捻り上げられて、それだけで響は身動きが出来なくなってしまったのである。こうなると逃げだせない。

「楸!」
 響はまさか昔の事を思い出しているのか!と思いながら、必死に無駄な抵抗を続けた。

「条件をやろう」
 楸の言葉に、響は耳を傾けた。

「何?」
 と、問い返したとたん、グッと腕に力が込められた。それは激痛を伴うものだったのだ。

「逃げないか?」
 耳元で低く言われ、痛さのあまり響は頷いてしまった。
 頷くと同時に腕が離され、ソファに投げ出されてしまったのである。

「ちくしょー。お前、腕上げたな」
 倒れこんだ響は自分の腕を摩りながら、楸を睨み付けた。
 そういう自分は最近の仕事の忙しさで、腕が落ちているのだと悟った。

「何考えようとお前の勝手だが、今の状況で言うセリフじゃないな」
 楸はネクタイを弛めて響の隣に座った。
 響は少し距離を置いて、楸と向き合った。

 楸は煙草を取り出して吸い始める。
 響と目をあわせると、楸はニヤリとして煙草を響に差し出した。

「いらない。煙草は吸ったことはないんだ」
 そう言って断わった。

「そうだったな。健康管理だっけ?」
 楸は昔を思い出す様に呟いて、タバコをテーブルに投げた。

「お前って、パパなのか。あの子六つくらいだろ? 俺と知り合った時にはもう結婚してたのか?」
 関係ない話であるのは解っていたが、何か話していないと落ち着かない響は、そう切り出していた。

 昔にそんな話は聞いた事はなかったと思い出したからだ。
 楸はなんだそんな事かと言わんばかりに答えた。

「あれは兄の子だ。便宜上、そう呼んでいるにすぎない」
 楸に兄がいたのは、響も知っている。

 楸と出会った時も、楸は微妙な立場に立っていた。楸の腹違いの兄は体が弱くて、組のトップには向かないという噂があった。その噂を確信付けたのは、兄幹部による楸襲撃だったのだ。

 その内情は、響がバイトをしていた辺りでも有名な話であるし、一部は楸から聞いていた。

 でも、楸と別れたあの二年前に兄の方は亡くなっていて、楸がトップになったのである。ということは、その時耀はまだ四才くらいだったはずだ。ということは、楸が引き取って育ててるのか。
 その便宜上というのは、耀の為なのだろう。
 だから、耀は楸をパパと呼んでいるのだろう。
 まあ、それはあり得そうな事だった。

 話を聞いて黙りこくってしまった響を見て、楸はタバコを吸い終えてそれを消してから、響に問うた。

「他に聞きたい事はないのか?」
 ゆっくり視線を上げた響は、楸はタバコを吸い終えていた事に気が付いた。

 他に何か聞きたい事?
 そう考えても何も浮かばない。

 とにかく、さっさとこの場を逃げ出したかった。

「え? えっと。俺、もう帰りたいんだけど。本当に仕事があるから」
 響はそう断って、さっと立ち上がろうとした。
 しかし、立ち上がると同時に、腕を掴まれてしまった。

「駄目だ」
 楸は真剣に響を見つめて、そう言った。

「何でだよ!」
 響は楸を睨み付けた。
 何故、そんな事をお前が決める!
 響は怒りの頂点に達していた。

「ふざけるな!」
 掴まれた腕を引き離そうとしたが、逆に元通りに座らされてしまう。

「忘れたのか。お前は俺の懐に入ってきたんだぞ。やっと見付けたのに何もせずに帰すとでも思っているのか?」
 楸は響の目を見つめてそう言ったのである。
 その目は真剣で、見つめているとそのまま食われてしまいそうだった。鋭い視線が響を捕らえようとしている。

「俺は礼こそ言われても、何かされるつもりはないぞ!」
 響は怒鳴り付けて、楸の腕を振り解いた。

 響は立ち上がって逃げようとする。
 だが、その足を楸に掴まれて引き戻されてしまう。

 楸は、余裕で倒れている響の上にのしかかった。
 楸は響が仕掛けようとしている技を体を使って全て封じたのである。

 響の逃げた顔を顎を掴んで、楸は響の瞳を覗き込んでいた。
 それは飢えた獣、そのものだった。

「見付けたらどうなるか……」

 そう楸は呟いた後、響にキスをしてきた。
 それも激しく。

「んんっ!」
 抵抗しようにも、そのキスだけで全身の力が抜けてしまう。

 き、キス上手い……。
 こんな強烈なキスなんて、あの時の楸以上だった。

 頭の中が何も考えられなくなるようなキスをしてきたのである。
 舌が口の中に入り込み、響は抵抗出来ない。

 楸はやっと見つけた響に夢中になっていた。
 キスが出来る距離に響がいる事がその行為を助長させる。

「は……あ……っ!」
 唇の向きを返る度に響は甘い声を洩した。
 響は自分が甘い声を出した事に気が付いて、ハッとした。

 くそーされるがままじゃないか……!

 抵抗する気をなくしてしまう、上手い楸のキス。
 それが離れると、二三度軽いキスを楸はして響を離した。

「……はぁ……はぁ……」
 響は全身で息をしなければない程の荒い息遣い。
 ぐったりとして動けなくなってしまった。

 キス、上達してやがる……。
 自分はキスする方だからされる方に回ると弱い。

 楸と別れてから女の人とも付き合ったが、つい先日別れを告げられたばかりだった。
 友達としてしか思えないと言われてしまったのだ。
 そんな関係のない事を思い出してしまう。

 空しい……。

 男にキスされて感じるだなんて。
 キスの味は、当然タバコの味がした。
 それが余計に感じさせてしまったのだった。

「気が済んだのか」
 口を拭いながら、響がそう言うと、楸はにやりとして言い放った。

「まだだ」

「まだってなんだ!」
 響はキッとなって、楸を睨み付けた。
 押し付けられた躯が熱くなってくる。その熱を逃がそうと、響は楸の下から逃れようとするが、案外簡単に楸は響を解放した。

 だが、次に言った言葉が響を怒鳴らせることになる。

「抱きたくなってきたって事だ」

「そんなの御免だぞ!」
 そう叫んで響は立ち上がろうとするが、身体に力が入って来ないで、転がってしまう。
 腰に力が入らないのである。

 あのキスでやられてしまったというところだろう。

「腰がくだけるようなキスしてやったから立てないだろう」
 勝ち誇ったように楸が言った。
 通りで、楸が簡単に響を解放したはずだ。腰砕け状態にされてしまったのだ。

 くそー!

 なんとか起き上がろうとするのだが、響の力ではそれは無理だった。
 楸が手を貸して、やっとソファに収まる事が出来たのである。

「お前に抱かれるなんて、一回で十分だ」

「何を言ってやがる。その一回で感じまくってたやつが」

「言うな!!」
 2年も前の出来事だというのに、昨日のように鮮明に覚えている感覚だ。
 それを言われると響も弱い。

 確かに初めてにしては感じまくっていたのは事実だからだ。
 その一回で終わるはずだったのに、響は楸に出会ってしまった。

 それもヤクザのトップになった楸にである。

「とにかく俺はごめんだ」

「お前の意志は関係ない、俺が抱くと言ったら抱くんだ」
 楸はそう言い放った。

 くそー!こいつこんなに傲慢だったか?

 昔の楸は何処にもなかった。
 話し易さは変わらないが、ただ響に執着する楸の行動は異常である。その異常さが2年の月日を経て、更に強硬になったというところであろう。

 響はこれから自分がどうなるか、そう考えると恐ろしくなってしまったのだった。