Howling-8

 高校三年の1月だった。
 寧野は二年をやり直し、順調に三年になり、受験を目前にしていた。
 第一志望はこの町からそう遠くない、隣の大きな街にある大学にしていて、第二志望は東京の大学になっていた。その受験に向けてスパートをかけている大事な時期に、寧野の周りに異変が起き始めた。

「おお、織部居た居た」
 階段を上がって教室に向かってきたらしい櫂谷智史(かいたに さとし)が寧野を見つけて手を振っていた。その時寧野は三年で同じクラスになった香椎北斗(かしい ほくと)と一緒に歩いていた。ちょうど移動教室だったので廊下を歩いて移動中だった。

 櫂谷は去年同じクラスだった。気が合うのか今でも顔を合わせれば会話をする友人だ。気さくで明るいが190センチ近い大きな体をしているのでちょっとだけ近寄りがたい雰囲気を醸し出している。寧野が転入して隣の席だったから話していただけだったのだが、意外に面倒がいい櫂谷はそのまま訳ありな寧野の事情を聞いても、普通に付き合ってくれる友人の一人になっていた。

「どうした?」
 どうやら寧野を探していたような言い方で呼び止められたので寧野が首を傾げると、櫂谷が用事を言った。

「それがさ、担任がなんか慌てて織部のこと呼んでこいって。ちょうど職員室の前通ったら呼び止められてよ」
「呼んでこいって……家で何かあったのか? ちょっと行ってくる。香椎は先行ってて」
 寧野はハッとして職員室がある一階に向かって歩き出した。付いてこなくていいと言ったのに櫂谷が付いてくる。

「櫂谷はこなくても」
「いや、なんかどんな用事か気になって気になって」
 櫂谷は笑いながらついてくるが、どうせただ単に寧野をネタにして香椎と笑いたいだけなのだ。

 香椎は普段無口ではあるが、なぜか騒がしい櫂谷と仲がよかった。寧野を通じて知り合った二人は、自然とそばにいることになる寧野をネタに遊ぶことが日課だ。
 しかし用事が気になってという櫂谷が付いてくるのは、寧野の過去に問題があること、特に家族などを使った寧野への脅しは、今でも寧野を不安に陥れることを櫂谷は知っていた。

 櫂谷が心配しているのは解るが、寧野はあれから三年も経っているのだから今更何かが狙ってくるなんてことはないと思っていた。
 寧野が宝生の庇護から外れてから、この街に引っ越してきた時など寧野を本当に狙っている人間がいるならとっくに自分はどうにかなっていたはずだ。

 けれどそれらしい影は一切見えなかったし、周りも気をつけてくれていたがまったく問題はなかった。何か問題があれば訪ねてくると言った山浦弁護士もその後はほとんど連絡をしていない。
 とりあえず職員室に行くと担任が寧野を手招いて、職員室用の応接間に呼んだ。

「榧さんから電話があってな。自宅に親戚だと名乗る人間がきているとかで、お前を学校から出さないようにしてくれと言われてな。ほら、お前はいろいろあるから」
 担任はそう言い出した。 
 寧野はそれを聞いてポカンとした。

「それって、前は助けてくれなかった親戚が今更現れたってことですか?」
 寧野が怒るよりも先に櫂谷が怒り出してしまい、担任も慌てた。

「お前が怒っても仕方ないだろう……実際対処しているのは、榧さんなんだし」
「だってよ先生、今更過ぎないか?」

「その辺は榧さんがやってくれているんだろう。けど、なんだか榧さんの話も聞かないような困った人たちらしくてね。それで織部の方も気をつけてくれという話だった。織部、頼むから気をつけてくれよ」
 寧野はその話を聞きながら、ずいぶんと落ち着いていた。

 寧野の母親の親戚が寧野を引き取るということは一切ないことは最近知った。離婚した後に事故死したらしい母親の両親は寧野を孫だなんて思っていない。一応、身元関係のことで弁護士が連絡を取ったが門前払いで終わっていた。
 寧野の父親の親族の方も、散々迷惑をかけてきたらしい父親の面倒をみてやったのに、さらにその子供までみなければならないのかと皆が拒否したそうだ。

 なので今更ではあるが寧野の親族を名乗る人間が現れる理由が一切ないのだ。
 だから何が起こっているのかはっきりとは解ってないが解ってきたような気がしたのだ。だから落ち着いていられた。

「解りました。先生、ご迷惑をおかけしました」
 寧野は榧からの連絡を取り次いでくれた担任に礼を言って応接室を出た。怒っていた櫂谷も慌てて応接室を出てくる。

「なあなあ、織部」
「何?」

「今更過ぎて怪しくないか?」
「むしろ今更だからかもしれない」
 寧野が意味深げにそう呟くと、櫂谷はキョトンとした顔をした。

 ずっと柔らかな時間が流れていたから、殺伐とした空気を忘れていた。
 ピリピリとする緊張感と現実だと思えない出来事。
 周りが皆敵だったこと。それが三年前にあったこと。

 あの時のことを思い出すと、いつも一緒に浮かぶ、静かに笑っていた人。二度と会うことはないだろうと後になって気付いて、少しだけ残念な気持ちになる。だから怖かった思い出は、少しだけ懐かしいものになっていた。

 父親が居なくなって沢山変わったことはあったが、寧野が見た物の中で変わるどころか、美化されてしまった思い出の一つがそれだった。
 住む世界が違うのだと、あの事件後に自分なりに調べてみてわかった。あの時確かにあの人は周りの望む寧野の未来を言った。けれど、あの人の住む世界で、寧野が生きていけるわけがないことが今ははっきりとしている。

 恐怖が支配する世界。
 父親を殺した吉村という男が、裏には沢山いる世界だ。寧野に親切にしてくれたあの人だって、いずれはそうした世界のトップになる。そうした運命を背負っている人がいる。
 理解しようとは思わない。けれどあの人がしてくれたことは全てが親切であったことだけは確かだ。

 「あんたに惚れた」そう言った彼の好意だから。

 だが、現実ではあの人みたいに親切なヤクザはいない。特に何かをやらかしたと噂された寧野の父親に対しての評価は低いらしい。それが解っていたから寧野はあの世界に関わらないように暮らしてきた。
 3年も終わりに近づいて、大学生になる。

 また自分の環境がいい方に変わろうとしていた矢先に持ち込まれた出来事。これは偶然なのだろうか。
 寧野はこの出来事をただの偶然と片付けるのは少し怖かった。
 こういう時、唱える魔法がある。絶対に使わない11桁の番号。それを頭の中で唱える。

「織部、まーた、お経みたいにブツブツ言っている」
 櫂谷が隣にいるのを忘れていた。

「あ、ごめん。とりあえず授業を受けてこないとね」
 榧が対応しているのなら寧野が出て行くまでもないことだろう。ただ学校へ来たところで学校側は取り次がないので、相手が怪しく忍び込んでこない限り大丈夫だった。

「んじゃ、俺教室に戻るな」
「うん、ありがと」

 寧野と櫂谷は教室がある棟と特別棟がある廊下で別れた。寧野の移動教室は特別棟の方である化学で、教室は三階だった。そこへ移動をして階段を三階まで上がりきったところで、下の方が騒がしくなった。

「ここにいるのは解っているんですよ、さあ、早く本人を出してください!」
「困ります! 関係者以外は立ち入り禁止なんです! あなたが何であろうと出て行ってもらいます! 田島先生、警察を呼んでください」
 なんだかおかしいと下を覗こうとするとその頭を後ろからがっしりと捕まれて下を覗けなくなった。

「……香椎……頭をつかまなくても」
 まるでバスケットボールを片手で掴んで見せる人みたいになっていた。

「馬鹿、お前のこと探して乗り込んできてるのに、その目的であるお前が顔晒して場所教えてどうする。注意されたんだろうが」
 こうやって寧野の背後に気配を消してくるのは櫂谷か香椎のどちらかだ。二人とも寧野より気配を消すのが上手くて、寧野はまだその領域に達していないのだなと実感する。特にこういう時、攻撃されるわけでもないが肝が冷える瞬間を与えるような存在が味方であることにほっとする。

「うん、でも相手の顔を見ておかないと警戒しようがないんだけど」
「ああいうのは、お前の姿を見た瞬間にああやって大きな声を出してくるからすぐ解る」
「あー……確かに」
 容易に下で行われている行動が想像できるだけに、自分を見つけたらテンションが上がりきってしまいそうなのは解った。

「榧さんのところに行ったんじゃなかったのか?」
 確かさっき聞いた話では榧のところに親族がいると聞いていたが、どうもこれも同じ親族候補らしい。しかし、ああいうのが家に来ているからとさっき担任に言われて気をつけるように言われたばかりなのに、すでにその人物が学校に忍び込んでいるのが変だった。

「何が?」
 香椎が鋭く尋ねる。

「いや、俺の親戚だと立候補してきた人たち」

「榧さんのところに乗り込んだのか。大した勇気の持ち主だ。けれど、それがあってそのまま学校へ来るとは思えないから、これは別口か。親族は普通多いものだが、お前に会わせろと熱心になるような親族は信用ならないな」
 香椎がそう酷烈に言うのも仕方ないことだった。

 香椎も寧野の過去を知っている一人で、こういう親族が軒並み門前払いをした経緯も詳しく櫂谷から聞いて知っていた。なので寧野の親族だと名乗って現れる人間を最初から信用していないらしい。

 普段も無表情で怖い印象だが、櫂谷と同じく顔に似合わず世話焼きな性格だ。身長も櫂谷と香椎は同じくらいで香椎の方が細く見えるという違いくらいだ。

 三年の時に転校してきた香椎は紹介された時に教室中の生徒が気後れしたくらいに兇猛な人相をしていたから、たまたま隣だった寧野が面倒を見ているうちに、香椎も見た目通りではないと解った。

 ただ転校してきた理由が生徒同士の喧嘩というところだったので、父親から根性をたたき直して来いと言われて、寧野が身を寄せている榧師範の道場に通っている。そんな繋がりがあったので、いつの間にか放課後まで一緒に居る同級生になってしまった。

 櫂谷と香椎は榧からも事情を聞いているようで、寧野の周りに怪しい人間がいないか警戒をしてくれていたらしい。

「榧さんを飛ばしてきたってことは、親族ってのは何人いるんだ? 榧さんが相手してるので一組か二組だろうけど」
「うん、その状況が解らなくて……香椎の携帯借りていい?」

 寧野は携帯電話を持っていないので香椎に借りると、すぐに榧に連絡を取った。下ではまだ教師と警備員を間に寧野の親族だという人間を学校内から追い出すのに必死になっている。

 榧に電話をすると、電話の向こうでは二組の織部家の人間と寧野の取り合いになっていてもめていた。学校からも連絡が入って、学校の外に一組、中に入ったのが強行組の一組、計四組の親族が急に現れたらしい。

 なんとか学校側には警察に連れて行かせてもいいと言って対処してもらうことにしたらしいが、家に帰れば、この四組と向き合うことになるのは寧野になる。
 本物の親族かどうかは、弁護士に尋ねれば解ることだったが、どうして彼らがこの時期に一斉に寧野を訪ねてきたのかが不明だった。
 榧からは寧野に用事があるなら榧を通せということで話をつけておくと言ってくれたので、学校の教師もそうしてくれたらしく、電話をしている間に下で騒いでいた人も連れ出されていった。どうやら警察を呼ばれるのはいやだったらしい。

「帰り、一緒に行くからな」
 電話を香椎に返すと、香椎は無表情でそう言った。

「うん、助かる」
 さすがに四組の親族が暴れ出したら面倒なので寧野はそれに甘えることにした。下手な遠慮をするよりは頼った方がいいことだと解っていたし、内容を聞かれても困ることはないと思ったからだ。

 学校内が収まってから寧野は絶対に付いてくると言った香椎と心配した櫂谷までもついてきて家に戻ると、道場の方へ通された。
 来客で4組も居たら家に居る場所がないらしいのと、学校で暴れていた人間もいたのでそうしたらしい。寒い道場の中にストーブ二台を入れてやって座らせて待たせていた。
 寧野が入ってきたのだが、そこに同じ制服を着ている人間が三人居たためか、どれが寧野なのか親類には解らなかったらしい。

「今、帰りました」
 親類たちの側に座って彼らが動かないように見張っていた榧に寧野がそう声をかけると、やっとそれが織部寧野だと彼らに解ったようだ。

「ああ、やっと帰ってきたのか」
「この家の人間は、親類を警察に売り渡すような家なのか」

「大変だったでしょう?」
 寧野を目視しただけでは寧野だと解らなかったのに自分たちは寧野を心配してきたのだと言わんばかりだが、寧野はそれを無視して榧の隣に座ると、事情を聞いた。

「どういうことなんです?」

「よくわからん。あの時に織部の親戚中にお前を引き取る意志があるかは弁護士が確認していた。もちろんここにいる人間は「断る」と門前払いした人間だ。しかし今になって我先にお前を引き取ると言い出した。理由は……あの時はちゃんと事情を聞いてなかった、今更事情を聞いてお前のことが心配だからだそうだ」

 榧が嘘くさいとばかりに四組の親族が寧野に会わせろという理由を言った。もちろん寧野もそれを信じられない。

「もちろんうちが引き取るんだからな」
「いいえうちです」
 二組の夫婦が言い合いになりかけたが、寧野は静かに尋ねていた。

「本当はどうして俺を引き取ろうと思ったんですか?」
 寧野ははっきりと尋ねていた。
 今更嘘で塗り固められた話など聞いている暇はないし、そんな怪しいところに行く気がない。

「何を言って……」

「今更、俺のことを引き取ろうなんて考えるなら、それなりにそちらにメリットがあるんでしょう? そうでなければ、ヤクザに追われたままの俺に用があるとは思えない」
 ヤクザに追われたままというのははっきりした訳ではないが、寧野を引き取る引き取らないと親類中に持ちかけた時、この人たちは真っ先に門前払いをしたからだ。

 今更理由を知ったからというなら、ヤクザのもめ事に巻き込まれた寧野の事情も分かっていることになる。その上で自分を引き取るならそれなりのこともありえると言ったつもりだった。
 だが、彼らはそんなことかと言わんばかりに、薄く笑ってから言った。

「大丈夫だよ、そんな危険はもうないんだから」
 そう言うのである。

「遠海会も無くなったというし、他のヤクザが来たってそんなの問題にはならないさ」
 こう返って来てしまい、寧野は目を見開いて考え直した。
 ヤクザの構成員をしていた父親の子供すらも見捨てた彼らが、こうも強気に出る理由を寧野は一つしか思いつかない。

 遠海会は確かにいなくなったし、組長は死んで吉村は捕まったままだ。内情を知っている人間はたぶんいないのだろうが、宝生組が絡んでいるかもしれないという憶測はまだあるはずだ。
 その宝生から今更寧野に接触する理由はないし、他が絡んでいるならこういう話にはなっていない。
 そうなると彼らが強気に出る理由はただ一つだ。
 貉が絡んでいる。

「その遠海会と裏で組んでいた組織とあなたたちが接触しているなら、それは怖くないでしょうね」
 寧野がそうはっきりと言うと四組の夫婦は言い淀んだ。

 自分たちの意志よりもメリットの方が大きかったのだろう。そんな印象だ。寧野を引き取るくらいだから、よほどの見返りがあるのは確かだ。
 その寧野は貉に渡してしまえばいいし、寧野が受け継いだ財産は、使いたい放題になるのだろう。

「悪いですが、そんな組織と繋がっている可能性があるあなたたちに俺が保護を頼むと思ってるんですか?」
 静かにそう問い詰めると、四組の夫婦は黙り込んだが、まだ何かあるのか、学校で暴れていた夫婦がそれでも寧野に言う。

「何を言ってるの? あなた未成年なのよ、未成年を保護するのは親族の役目よ」

「その未成年が保護を求めた時、真っ先に切り捨てた人たちが何を言っているんですか? 俺は絶対に誰のところにもいかない」
 寧野は行先を決める権利がある。それに寧野は来年には二十歳になる。保証人は必要であるが、保護者は必要ではない年になる。しかも榧は3年寧野を保護してきて問題がなかったから、榧から急に寧野の保護が移されることはない。

 それらを考慮して、寧野が榧の保護を二十歳まで願ったなら問題はない。榧は断らないし、そうしたいと寧野が前に言ったことがあり、榧から寧野にどこかへ行けというようなことは言わない。

 それにそんなところへ行っている暇はない。だって現実は、目の前ですでに動き出している。ゆっくりとした時間は終わったのだと言っているようなそんな気がしてくるくらいだ。

「榧さん、貴方から寧野に言ってやってください」
「そうですよ、それが保護者代わりの貴方の役目でしょ」
 寧野がまったく行く意思を見せないので、彼らは榧の方に食ってかかった。だが榧は最初から言っていることを言う。

「寧野が決めることだろうが。寧野が行かないというのを無理矢理行かせる気はない。悪いがあんたらが言っていた法的処置でもなんでもとってくれ。ただし、寧野は今年二十歳になる。後見人など必要としなくなるのもすぐだ」

 そう榧が言うと、全員が焦ったような顔をしていた。どうやら高校三年生である現在のことは知っているようだが、寧野が一年留年していることなどはまったく知らなかったらしい。今19歳で、今年の誕生日が来たら未成年では無くなるということは、寧野の後見人に成り代わって、財産を利用することができるように軽く考えてたようだが、寧野と後見人である榧と裁判をしている間に過ぎてしまうことかもしれない。

 寧野は親権を有するものが存在していない時から、後見人として榧希が頼んだ弁護士が管理している。その全ての手続きをするには時間がないことや、寧野が嫌がっている事情から、裁判所は親権を親族にとはなかなかしないだろう。しかも彼らは後見人のことで話が行った時、門前払いをしているので、今更主張しても無駄である。

「そんなことも知らずに、後見人になろうとしていたことが笑える」
 榧は寧野のことをただの子供だと思い込んでいる親族にそれを説明していなかったが、まさか知らないとは思わなかったようだ。
 だがそれだからこそ聞けることがある。榧もそれを待っていてくれた。

「あんたたちにこうして揃って残ってもらったのは、何も寧野に会わせることではなく、あんたたちが誰に何をどう吹き込まれたのかを確認するため」
 榧がこの四組の夫婦を残していた訳を言うと、四組の夫婦は寧野の後見人になるのはとっくに諦めたような顔をしていた。与えられた情報が嘘だったからだ。

  
「たく、なんだろうね。そいつらはお前をどうしても欲しいのは解った。だが、無理をして連れて行く輩とこっそりと誘拐しようとする輩の二種類がいるような気がする」
 榧は四組の夫婦の話を聞いてそんな感想を漏らした。
 四組の夫婦は、寧野の後見人になるように話を持ちかけた人間のことを知ってるだけ話していた。それも彼らが後見人になるつもりはあっても、寧野を擁護するつもりはないのが解ってしまい、もし寧野が殺されるような出来事があったら四組の夫婦も共犯であるということを榧が強調すると、弱気だった一人が喋り出してしまった。
 
「……寧野君を引き取ったら、寧樹が残した遺産を自由に管理できる。寧野君を引き取っても、彼らが用があるのは寧野君本人だから引き取った後も遺産問題はないと……」
 そう一人が言うと、そんなことだろうと思っていたとばかりに榧がため息を盛大に吐いた。信じられないことにそんな話に乗った人たちがここにいることが呆れかえることになった。
 
「あんたらは、ほんと困った人たちだよ。人をなんだと思ってるんだ。訳も分からない人間に平然と預かった子供を渡して、平気でその子の財産を貪ることしか考えてないとは。宝くじじゃないんだよ、この子の親がこの子のために残したものなんだ。それを無償で貰おうなんてことが通用するとでも思ってるのかい?」
 
「いやしかし……」
「あんたたちのしようとしたことは、寧樹氏を殺したヤクザとなんの代わりもないことだよ。それを自覚しておいてくれ」
 榧がはっきりと言うと、四組の夫婦はその通りだったので黙り込んでしまった。
 こんな騒動を起こすようなことを吹き込んだのは、彼らの前に現れた、一人の紳士だったという。
 
「織部寧野の後見人になれば、織部寧樹が残した多額の財産を管理でき、それを利用することもできますよ」
 そういう話だったという。
 寧樹に財産があることは親族は知らないことだった。誰も関わり合いになりたくなくて、寧樹の話をしたがらないからだ。それに寧樹が暴力団の構成員の下っ端であることは有名であったし、財産なんてあるわけがないと高をくくっていた。
 
 しかし寧野が相続した遺産は、意外なほど残っていた。
 寧野が大学へ行ったり、その後社会に出て一人で暮らしていくのにも十分すぎた。しかし寧野は相続すべきものにはサインはしたが、実質どれくらいなのかは知らない。それを榧が後見人になってから増えたものもあるからだ。
 そんなことまで調べ上げて、わざわざ親族を呼ぶ理由は、寧野を誰にも知られずに誘拐する為だろうと榧は言う。
 
 最初はヤクザを使って強引に連れて行こうとした輩がいて、その後慎重になったのかそれとも寧野を狙っている人間が方法を変えたのか、親族から接触をしてきた。しかし、親族を使うにしてもどうも詰めが甘いような気がするのが不思議なところだ。
接触してきた紳士は、その話をした後、上手く寧野の後見人になったらまた伺いますよと言って去っていったらしい。だからどこの誰とは解らない。ただ弁護士の名義を使っていて、名前が宇都木(うつぎ)というだけだった。
 
 それを受けて榧に調べてもらったところ、弁護士連合会に問い合わせてみるとそんな弁護士は存在しないことが解った。
 さすがに弁護士も偽物と分かってしまったら、四組の夫婦も寧野の後見人になってもそんな都合のいい話があるわけないと分かったようで、決まりが悪そうに引き下がっていった。
 
 控えていた櫂谷と香椎は特に暴れ出す人間もいなくて助かったとばかりに安堵したが、寧野が完全に安全になったわけではないことは解っていた。だが榧や寧野が理解出来ていないことを突っ込んで聞くのも失礼だと思い、二人は後で説明して貰うと言って帰って行った。
 
 榧の孫の周(あまね)や語(かたる)がその入れ違いでやってきたので任せた形になったが、寧野だけはその場から動けなかった。
どうして彼らが急激に動き出したのか理解出来ないのだ。
 
 自分は怪しい行動などしていないし、寧樹がやっていたような金策のおかしさを見せたこともない。寧樹を欲しがった人間は、寧樹がやったような能力があることが確定してから狙っていたように思う。だからその力を微塵も見せていない寧野には用がないはずだ。
 
 そう思ったから寧野は今まで安全だったし、父親の二の舞になるものかとずっと賭け事などには近寄っていない。19歳だが高校生という身分もあるので、そうした施設にも近寄っていない。
 
 どうして、どうして彼らは寧野に力があると決めつけているのか。父親がそうであったから息子もそうだというだけではやることが大きすぎる。
だからといって、このまま放置しておけば、同じ事が繰り返されるだけだ。
 
「榧さん、俺、逃げなくてもいいですか?」
 寧野は正座したまま榧に尋ねていた。榧も座ったままだったが、客が去ってしまった今、正座はしておらず胡座を組んでいた。その手が仕方がないように頭を掻いている。
 
 寧野はずっとこのままで済むわけないと心の底では思っていた。
 次逃げても何も解決しないことは嫌というほど解った。
 寧野を追ってくる人間は、寧野のことは何でも知っているらしい。
 どこまで逃げても、きっとずっと蛇のように絡みついたままなのだろう。
 そうやって寧野が安心して暮らせるようになると姿を見せて不安を沢山煽っていく。どうしても根本的に何かを変えないと、寧野はずっとこうした不安を抱えていくことになる。
 逃げてばかりじゃ勝てない。
 
「このまま俺が逃げても向こうは放っておいてくれないって解ったから」
 寧野がそう覚悟を決めると、榧は背中を押してやった。
 
「お前がそう決めたんなら、好きにするといい」
 榧はそう言って寧野の前に分厚い封筒を差し出した。
 
「お前が必要になるかもしれないからと、ずっと情報を集めて貰っていたものだ。このまま終わってくれればこれも必要じゃなかっただろうが、そうはいってくれないんだな」
 榧が投げて寄越した封筒を持って寧野は自分の部屋に戻った。
 中を開いて一枚一枚丹念に情報を頭に入れた。
 
 相手が大きい組織なのは解っていたし、中華系のマフィアであることも知っていた。けれど、怖さだけが勝って、相手を知ることをしてこなかった。だから今ならそれらを知ることが出来る。
 
 中国系マフィアの貉(ハオ)と呼ばれる一族で出来た組織。
 
 中国山中に特殊な街を作り、謎に包まれている。街に入るのは簡単だが出てくるのが難しいとされる要塞都市を作り上げ、情報の一切を遮断しているので、マフィアと言われているが、実質マフィアとはいえないとされている。
 各地のマフィアが経営するカジノを荒らしている様子から、他のマフィアには嫌われているらしいが、彼らがイカサマをしているわけではないので、完全に追い出すことは出来ない。
 
 カジノを潰すこともあり、恨みを買って、報復されるところから返り討ちにするために様々なことをしたことから、マフィア認定を受けている。
 しかし中国国内では金で全てを解決することから、謎の資金源を持つとされるも他のマフィアとの関係は一切無いことから彼らが存在する目的も解らないとされる。
 貉(ハオ)一族は、かなり昔から存在していたらしいが、マフィアのような様相を見せるようになったのは、ここ1世紀くらいとされる。それまでは深い山奥の村で暮らしていたらしい。
 
 日本の暴力団との繋がりが突如出来たのは、遠海会とが初めてであり、日本の強大な組織である宝生や如罪(あいの)との接触を嫌っている。しかし特にルートを作るわけでもなく、貉は事件を起こしてしまった遠海会と切れ、すぐに本国へ帰っている。
その後は貉の行動は大人しくなっていた。一族の街に閉じこもり、カジノを荒らすこともなく三年が過ぎようとしていた。
 
 榧の知り合いが調べたものでは、貉の日本での表面的な動きはないとされていた。だが彼らは誰にも解らないところで動いていて寧野に接触を図ってきた。
面と向かってくるのではなく、榧が言うように何か違うモノが動いているような気がするのだ。前回の強引な手ではなく、寧野を信用させようとしているところがあるやり方だったことが気にかかった。
 
 榧が言ったようにやり方が変わったのか、それとも貉とは違う組織なのか、それは探ってみないことには解らない。
逃げるわけにはいかないと決めた瞬間から、寧野は自分は普通には生きていけないのかもしれないと思った。
 
 こんなことは父親は望んではいなかっただろう。けれど寧野を追ってくる相手がいる以上、逃げても無駄だと今回のことで言われた気がしたのだ。
 
 寧野に繋がる何かが存在する限り、彼らはそれすら利用するのだ。
 どんなに細い繋がりでも彼らは利用して寧野に近づいてくる。 
 何処まで逃げてもどんなに隠れても完全には逃げ切れないのだ。
 
「だったら、こっちから攻めるしかない」
 追い詰められるような組織ではないけれど、寧野をターゲットにしていることは間違っているのだと解らせたい。
 寧野はあの力を使う気はないし、脅されても使うつもりはない。
 
 使ったら最後だと思うし、使ったら相手の望むままになる。それだけは絶対にしてはいけないと思えた。実際今まで使うつもりなんてなかったから使っていないので、困ることなんて何もなかった。
 
 使うことで困ることしか出ない力なんていらない。寧野は自分で実験してみることすらしてみなかった。自分に力があるなしに関わらず、そういうことはしない人間でいたかったのだ。
 だがそれでは先にも進めないことを知った。
 
「今度こそ、俺が親父とは違うこと、知って貰わないと」
 今度こそ、自分を狙うのは意味がないことを知って貰わないといけない。
 そうしないと寧野には安住の地はないのだ。