Dolls-兔(てう)-2
兔を連れ帰る羽目になり、嘉藤はもう最後の方は諦めていた。
兔の荷物をトランクに積み込み、何か違うなと首を傾げるも、かといって置いていく訳にはいかなかった。
明日には、楪が入院するのに家を空ける。そうなると政府の人間がここを捜索に来るかもしれない。そんなところに兔を置いておいたら誘拐されるのがオチで、しかもさっきのDollが言っていた話が本当なら、生きたまま解剖されることになる。
妻の遺伝子を持つ子をそうした機関に渡すことはできない。だからなのか、妻とは似ても似つかない子を子供として迎える羽目になった。だが、妻の卵子を使ったとはいえ、容姿に関するものはほぼ操作されているため、妻や精子提供者に似ているわけではないそうだ。だから正確には妻の遺伝子を持っている生き物で、妻の子ではない。
「さあ、お別れだ。兔、元気で」
楪がそう言うと、兔はにっこりと笑っていた。悲しい別れではなさそうで、双方微笑んでいた。
初期Dollは倭(やまと)という名で、兔とは色が違うだけのような容姿をしている。白人種の黒髪で、年齢は十五歳くらいだという。
その点、兔は外見は十五だが中身は十七歳なのだという。
カプセルにて急速成長するDollは、育成に十年ほどかかるのがネックなだけらしい。闇で販売されていたDollに似た偽Dollは、四年ほどで十歳ほどの外見になるらしい。
世の中の常識を壊したこの育成の方法がさらなるDoll虐待へと繋がったと言われている。だが政府はその育成方法や新人類を使った戦争が楽になる方法が知りたいという。
アルビノでありながら、遺伝的な情報に問題がない兔はまさに強化されたDollである。だから楪はひた隠しに育ててきた。
兔は楪と別れを済ませると、さっと嘉藤が開いたドアから車に乗り込んだ。
嘉藤はドアを閉めて運転席に乗り、車を発進させた。
楪と初期Dollの倭はそれを車が見えなくなるまで見送り、兔も見えなくなるまで、それを振り返ってみていた。
「寂しいか?」
嘉藤がそう言うと、兔が嘉藤の腕に触れる。
『さみしいけど、しかたないです。でもごしゅじんさまといっしょのほうが、うれしい』
どうやら寂しさと嬉しさが混ざっているのは本当のようだ。
やっと自分の主人が現れ、そしてそのために別れがあることは仕方ないと思うようだ。
兔に関しては、問題は一つ二つしかない。
まず、声が出せないことで、コミュニケーションが細かなことが不可能なこと。筆談はできるらしいが、楪やDollたちとはそうしたことをしなくても、なんとなく意味が通じていたため、ほぼ筆談はしたことはない。そこでスマートフォンを使ったコミュニケーションで細かなことを伝える教育をしていたようだ。
それでも嘉藤とのコミュニケーションは、嘉藤に触れることで行える。兔が常に側にいないとできないコミュニケーションなので、スマートフォンを使った教育は有効である。最近は文字を書いたものを読ませることができるのもあり、言葉はちゃんと伝わる。
嘉藤の場合はそれら以上のコミュニケーションが取れるのだが、プライバシーは一切ないのが問題だ。
『車、はじめて。ゆれるね』
「屋敷や研究所以外に出たことはないのか?」
『ないです、エレベータだけ』
一時間以上、車で暗闇を走り続け、やっと目の前に街の明かりが見えてきた。
『きれい、ひかり、きれい』
山の頂上から見える景色は、兔が自分の目で見る、初めての人のいる世界だ。写真やさまざなネットを使って、見たりはしたことはあるようだが、自分で体験するのはやはり違うようだ。
山を下り、街中に入ると光の渦だ。行き交う車を眺め、マンションを見上げと忙しい兔。それを横目に嘉藤は車を走らせた。そこから更に一時間をかけて、やっと空港近くのホテルに到着した。
『ごしゅじんさま、家ですか?』
「いや、ここから家までは十時間かかる。さすがに色々あって疲れたから休む。兔、外へ出るが大丈夫か?」
『だいじょうぶです、ごしゅじんさま』
そう言う感情が震えている。
「緊張するな。誰にも会わないで部屋までいけるから」
そう言うと、嘉藤は駐車場からホテルの内部に入ることができるエレベーターでカードキィを使ってあけて乗り込んだ。兔はその後をとことこと付いてくる。百八十センチはある嘉藤と百六十センチほどの兔では身長差で親子と間違えられても仕方ない。外見も十五歳ほどと三十五歳だ。完璧に若い頃に作った子供と言われても違和感はない。
そのままエレベーターは最上階まで行き、ドアを出ても数個ほどドアがある中の奥まで歩いて行き、そこの部屋へ入った。
『お部屋、きれい……』
部屋のドアを開けると自動で電気が付くのだが、それによって無駄に広いスイートルームが煌々と光っている。それを見て兔は嬉しそうにしている。
研究施設や、もうボロになっていくだけの屋敷しか世界を知らない兔には、綺麗で清潔なものが珍しいのだ。
「ホテルだからな。ほら、部屋から出ないなら、どこに行っても自由だ」
嘉藤がそう言って、スーツの上着を脱ぎ、テーブルの椅子にかけると、兔はわっと微笑んで、まず全面ガラスの窓へと向かった。
暗い海を見下ろすのだが、海岸の向こう側に工業地帯があり、それが深夜稼働をしていて、景色は幻想的である。
【あれはなんですか】
急に機械音が聞こえた。
どうやら離れていると聞こえないことは兔にも理解できていたらしく、離れた場所から話しかけるのに、スマートフォンのアプリで打ち込んだ文字を音声で読むものを使っているようだ。
兔の声とは似ても似つかないが、楪が作ったアプリなのだろうか、人間味がある声の抑揚がある。
「あれは工場だ。昔に朽ちたんだが、最近になって掘っていた岩に含まれる微量の鉱石が次代のコンピュータの素材として加工して使えることが分かって、年中掘っているらしい。二十四時間稼働するから、ああなるんだ」
外国人どころか日本人の労働者が殺到し、仕事は人手がかなりあるらしい。それで二十四時間営業になっている。
【でもきれい】
「そこの椅子に座って見なさい。立ちっぱなしは疲れるだろう」
そう言うと兔は椅子を持って行き、窓側において座って見ている。
どうやら夜景はお気に入りらしいと分かった。
「兔。夕飯は食べたか?」
時間は九時を回っている。二時間はかかる山奥への移動と話し合いで、四時間以上たっていることを知って、嘉藤は空腹を覚えた。
そう言うと兔が走ってよってくる。すぐに嘉藤の手を取ってから言う。
『ごはんはたべました。でも……ケーキをたべたい』
兔が少し照れたように言う。どうやら食後のデザートが欲しかったらしい。
「うーん、じゃあどのケーキにする? ショートケーキ、チーズケーキ、モンブラン」
『あーあー、んー、チーズケーキ!』
「飲み物は何にする? 冷蔵庫にはコーラなんか入っているが」
『紅茶、ミルクティー』
「分かった、届くまで好きにしてなさい」
嘉藤がそう言うと、兔はまた窓側の椅子に座って外を眺めている。
嘉藤はルームサービスを取ってから、さっと風呂に入った。スーツから簡単な普段着に着替えてホッと息を吐く。
仕事を辞めてから、スーツは着ていない。たった五年で、スーツを窮屈なものだと思うようになったのには驚きだった。
髪型を崩し、前髪も作る。オールバックにしていたのも久々のことだ。
最初は抵抗があった兔との会話を不自由なく行えていることに、嘉藤は少し戸惑った。
人に触って不快に思わなかったのは二人目だ。
一人は、親友の西室(にしむろ)。裏表がない人間で、口に出したことと思っていることに誤差がない人間だ。
その一方、兔は思っていることが歪んでいない。言葉として出ることは思っていることと誤差どころか、全く変わりない。
歪んでなくて綺麗な自然と会話が可能なのが、初めてだった。
言葉を出さないことで、兔はその誤差はないのだろうか。
だがそれは妻が犯した罪の証(あか)しだ。あの喉を潰した。
彼女は最後には研究者ではなく、妻でもなく女でもなく、ただの愛人だった。
唯一作り出したという兔を可愛がる楪の関心を引きたくて、嫉妬のあまり兔を殺そうとした。
いや殺したのだ。
楪が言っていた。心肺停止をし蘇生をさせたと。妻イリヤは殺したと思い、してしまった事実に気付いて、責任を取って自殺した。
いや、きっと楪がそれでもなお兔にしか関心を示さなかったからだろう。
イリヤの死の真相を知りたいと思っていたが、こんなに辛いなら知らない方が良かったとさえ思った。だが、それによって残された妻の忘れ形見が、こうして生きている。
兔を愛してやれるかどうかは分からない。けれど、彼を最後まで生かせるのは、嘉藤の持つ財力だけだろう。
まず兔は初期Dollとして登録されている。楪がすり替えたデータで誤魔化し、死んだDollの記録を改ざんしている。
調整や修理をする段階で、初期Dollの名前を変えたがる人間もいるので、名前を変えたことにし、嘉藤が引受人になるように仕上げたという。
元々楪がDollを所有しているための改ざんに、受取人を指名しただけなのだが、それでも政府の記録には改ざんデータが載る。
死んだDollは、楪が墓を建ててやり、人間の名前にして葬っている。きっとその方がこのDollには幸せだったはずだと楪は言っていた。
初期Dollの遺体は見世物か研究材料のどちらかにしかならない。だから名前を変えたとしてもちゃんと葬られている方が、きっと幸せだと嘉藤も思う。
できればと嘉藤もちゃんと兔をそうやってやれるといいのだが思えた。
髪を乾かしたところでルームサービスが届く。
すると兔が風呂場に走り込んできた。
「どうした?」
『人はまだこわいです……』
本気で震える兔に、嘉藤は言った。
「風呂に入ってなさい。着替えは持ってるね?」
『……はい』
嘉藤は兔の頭を撫でた後、部屋を出てルームサービスを招き入れた。用意を見守って部屋からボーイが出ていくのを確認してから、バスルームのドアから離れた。
一応であるが、開けられては困るからだ。
正式に兔を引き受けることになるのは、明日のことだ。今はまだ自分のDollではないので、見せびらかすわけにはいかない。
兔が風呂に入っている間に、嘉藤は食事を済ませる。簡単に焼き魚定食にしたので、それを一気に食べ終える。
残っているのは、兔のデザートのチーズケーキと、そのついでに自分も頼んだショートケーキである。食べたいと思ったわけではないが、何故か頼んだ。
兔が風呂から出てきた。
着替えとして荷物から持たせたパジャマを着ている。
テクテクと歩いてきて嘉藤に触れた。
『おふろに入りました……チーズケーキ……』
一生懸命早く入ってきたのか、髪がまだ乾いていない。
「髪を乾かしてやろう」
何故か乾かしてこいではなく、そう言ってしまった。
首に掛かっていたタオルを取り、頭を拭いてやると兔は気持ちよさそうにして体を預けてくるが、視線はすっかりチーズケーキに向かっている。
「食べていいよ」
そう言うと、にこりと微笑みを嘉藤に見せてから皿を取り、フォークを取って食べ始める。
なんとなく兔の声が聞きたくなって、嘉藤はすっと兔の肩に手を置いていた。
『うーーーうーーーおいしいぃーーーチーズケーキ、おいしいいぃ』
どうやら感激しているらしい。
「美味しいか?」
『はい! いつもはショートケーキなので、ひさしぶりに食べたので!」
「そうか、ならそっちのケーキも食べていいよ」
『でも、それはごしゅじんさまのでしょ?』
「私は食事を終えたら食べられそうにないから、いいよ。多分、メーカーが違うから、いつものとは違うかもしれないが」
『食べます。たべます!』
そう言ってチーズケーキを堪能してミルクティを飲んで、ショートケーキも平らげる。どうやら夕食から時間が経っていて腹は減っていたらしい。
それ以上声は聞かずに、嘉藤は髪を乾かし、ドライヤーをもってきて綺麗に乾かした。
「さあ、できた」
そう言って肩に触れると兔は。
『ありがとうございます! ごしゅじんさま』
そう言うのである。
「兔、少し提案なのだが」
『はい』
「ごしゅじんさま、というのはやめないか?」
『……え……だめなんですか……』
シュンとする兔だが、それに嘉藤は言う。
「私にも兔と同じように名前がある。高和(たかかず)と呼んでみて」
『た、たかかずさま?』
「うーん、兔、思考でも漢字を使ってみなさい。こう書くから」
そう言って嘉藤は、紙に漢字を書いて見せた。
『高和様、高和様』
「そう、いい感じだ。本当は様もいらないんだけどね」
『……高和?』
困惑したような声が聞こえて、嘉藤は苦笑する。どうやらDollには主人を呼び捨てにする感覚はないらしい。
『高和、高和、漢字こんな感じでいいですか?』
そう言われて嘉藤はハッとする。
嘉藤がテレパシーで感じるものの感覚を兔が知っているわけがないのだ。これは盲点だったと嘉藤は兔に謝った。
「すまない兔。君には私が聞いている声が見えないんだったね。説明しよう」
そう言って嘉藤は兔の隣に座った。
「まず、私には聞こえるのだが、それが文字となって入っているようなのだ。例えば、さっきの兔の喋りは、ほとんどがひらがなに聞こえていた。舌っ足らずな感じと言えば分かってもらえるかな。だから、酷く幼く聞こえていた」
『漢字を使えば、大人に見えてくる?』
「そう、上手いよ。ほら、あの機械に打ち込んでいくときは、漢字を使っているだろう?」
『はい、使ってます』
「そんな感じで頭に浮かべてもらえるとありがたい。なるべく君にプライベートな声を聞かないようにしたいから、話しかけたい時は話しかけているというように喋りたいことを頭に入れてくれると、それだけが読み取れるので」
なるべくプライベートなことまで知るわけにはいかないと、制御をしていくと、小さな声は聞こえなくなる。
人の声を聞くのは怖いので、動物で何度も試して制御をした。
なんでも人の声として聞こえてしまう能力は、きっと特殊なのだろうが、それを生かすような生き方を嘉藤はできていない。
『……わかんない……漢字は分かるけど。高和なら、全部知ってもいいです。高和は僕の声は知りたくない?』
困惑したような声がして、さすがにその分別はまだ理解できないようだった。
「そのうち、分かるよ。どうしても思っていることが知られたくないなら、私に触れられることも拒否していい。その権利は兔にあるから」
そう言って嘉藤が離れようとすると、その手を兔が握った。
『分からないです。僕は、ご、高和には全部知ってほしい。僕が何を考えているのか、全部。僕は裏切ったりしてない。僕は……裏切ったりなんか』
兔の精神が一気に歪んだ。
どうやら何かに接触して嫌な記憶をよみがえらせたらしいのだが、それを放置できずに嘉藤は聞いていた。
「裏切ったって誰か言った?」
『イリヤ……裏切り者って、泥棒猫って』
そう言われて、嘉藤はハッとした。
それはイリヤが自殺した事件の発端だろう。楪が関係を切ったと言った後にイリヤは兔を殺そうとした。その時に発した言葉だ。
その日まで研究者として接してきた人間が、自分を殺そうとするなんて思いもしなかったようだった。何より、触っている間にイリヤに関する嫌な感情が見えないのだ。
あるのは困惑だけだ。
『僕のご主人さまは、博士じゃないのに、どうして』
そう言って混乱している兔を嘉藤は抱きしめた。
「兔は何も悪くはなかったんだ。だから泣かなくていいよ。これからは私が守るから」
そう言うと兔はハッとしたように驚いてから、嘉藤をギュッと抱きしめ返した。
『高和っ! 大好きっ! だから絶対に捨てないで!』
そう叫ぶ兔を嘉藤はしっかりと抱きしめた。
そうしないと兔が壊れてしまいそうだと思えたからだ。
兔は妻によって傷を負わされた。
信頼していた人に殺されかけた事実は、一生消えない。
けれど、どうしてその旦那にあたる人間を主人だと信じて疑わないのか、それはしばらくは分からないことだった。