Distance 9round Losing a distance 2
「景……犬が」
浩紀が目の前に座っている景に張り付いているお荷物を見て、さすがに口を出すことになってしまった。
「なんだ?」
景は平気な顔で肩に顔を乗せていた下水流(しもつる)を手で追い払ってから、テーブルにある皿から唐揚げを箸で取り口に運んだ。
「……さすがに平気っていうのはどうかなと」
下水流はまた景に張り付いて景の肩に顔を乗せている。その犬に景は平気で耐え、更に餌を与えている。
「景、唐揚げー」
こう下水流が言うと景は言われた通りに隣に置いてある定食から唐揚げを取り、それを下水流の口に運んでいる。
周りも景の変化には少し驚いているが、景はその視線を全て受け止めて平然としている。
こうなったのには原因があった。
浩紀にも言えない、下水流との秘密だ。
説明する気にはなれないので景はそのままにしているが、下水流の行動は助長している。だがそれを怒鳴ることは出来ない。
それは昨日の帰りの時だった。
校門を出たところで浩紀と別れ、駅とは反対側に歩き始めた景に下水流が駆け寄ってきたのだ。
「景!」
「お前……声が大きいよ」
さすがに学校外で大きな声で名前を呼ばれると色々と恥ずかしいことになる。案の定、近くの女子校の生徒がクスクス笑いながら駅に向かって行っている。
「ああ、ごめん」
下水流は悪いとは思ってないような顔で笑ってから景の隣に並んで歩き出した。
並んで歩き出しはいいが、下水流は何か言うでもなし、景も改めて何か言うわけでもないので黙ったまま街中を抜けて、小山がある方でマンションが建ち並んでいるところまで来た。
景は今年に入ってから家を出て一人暮らしをしている。父親は海外に単身赴任をしていたが、今年に入ってから母親も向こうへ行くことになり、景は日本の大学へ行くので残ったのだ。
だが、本当は居なくなった景の兄、朝の帰ってくる場所を残しておきたいと思っていたからだ。
景の兄朝は、一年前に大学を出ると全ての人たちとの連絡を絶ち、そのまま行方不明になったのだ。
当時、誰も朝が消える理由も分からなかったし、朝が消える経済的理由もなかった。初めは失踪かと思われたが、本人が当時住んでいたアパートを自分で引き払っていることや、荷物も必要最低限は持って行っていることから覚悟の家出で、警察は自殺の線はないだろうと、家出人捜索で行方を捜してくれているが、見つかるどころか、あまりに綺麗に消えていることから、手がかりは一切無いので捜査は進展しないまま、一年が過ぎた。
一年前に朝と景は一緒に住み、母親は父親の赴任先であるアメリカに着いていくことにしていたが、朝の失踪から母親はアメリカ行きを一年置き、景が一人暮らしが出来る場所を確保すると、とうとう諦めて父親の赴任先へ行ってしまった。
何も小学生や高校生ではない。覚悟を決めて消えたのならそれなりの理由があったのだろうし、自殺の線はまったくないと周りが言っているから、何かやりたいがことがあったのかもしれないと思ったのだ。父親は独立してもおかしくない年なので、そのうち落ち着いたら帰ってくるだろうと暢気にしている。
朝の行方は分からないままだが、いつか連絡はくると景は信じている。
あれだけ仲が良かった兄弟なのだ。景がこっちに一人で残っていると知れば、様子を見に姿を見せるかもしれないと父親はいい、景もそれはあるかもしれないと期待はしていた。
マンションの前まで来ると、下水流はピタリと止まって言った。
「俺のマンション、二軒隣のマンションだ。景の家と近い」
どうりで帰り道を着いてくるはずだ。二軒隣となれば景のマンションより高級なマンションだ。
「お前、いいところの坊ちゃん?」
思わず景が聞いてしまうと下水流はニコリと笑って答えた。
「いいところじゃないけど、親父の作業用マンションだったのを借りているんだ」
「作業用?」
作業用に高級マンションとは驚きである。それを平気で口にする下水流の感覚もおかしいのだろうか。
「ああ、俺の親父、カメラマンなんだ。下水流孝彦(しもつる たかひこ)っていうの、知らない?」
「あ、有名女優の写真や海外の俳優の写真も撮ってる凄いカメラマンだって浩紀が言っていた……あれ、お前の親父さんなのか」
その父親の名前に景は食いついた。
まさかそんな遠くの存在の人間であるはずの人に近い人が側にいるとは思わなかったのだ。
「うん、それそれ」
「じゃ、じゃあ、俺の兄の写真を撮ったのもお前の親父なのか!?」
景は思い当たることがあり、それを聞くと、下水流はにっこりとして言った。
「上和野朝(うわの あさ)。景のお兄さんだったんだ。似てたからやっぱりそうだったんだ。名字も同じだしねえ」
下水流がそう言うので景はハッとして下水流を見た。
「お前、知っていたから俺に近づいたのか?」
景がやっと自分に下水流が最初から狙いを定めたかのようにカメラを向けてきたのは兄のことを知っていたからかと納得できたところだった。
「知ってたというか。俺的に景を撮ってみたいと思っただけで、その後名前知って、なるほどなって思っただけだよ」
だが景はその下水流の服を掴んで必死に尋ねた。
「朝の! 兄の行方を知ってるのか!?」
居なくなった朝のバイトでやっていたという写真が出てきたのは、約二ヶ月前のことだ。下水流孝彦が撮ったという写真で、あるブランドものの写真だった。化粧もしていたし、髪型なども違っていたから普通の人はなかなか気がつかないが家族なら気がつくレベルの写真だった。
顔は半分も映ってない。ブランドの時計を映したそれを見て、景は間違いなく朝だと確信付けられた。だって朝の時計をはめていた左のちょうど時計の側に黒子があるのだ。
だから間違えるわけがない。顔が半分というのだって景が見間違えるわけもない。
「知ってるけど、誰にも教えるなって言われてるから、家族でも景でもお兄さんの許可無くは駄目」
下水流はニコリとして残酷な言葉を吐いた。
景は信じられない物を見るように目を見開いたが、あの兄があれだけ家族にも行方を悟られないように失踪したなら、下水流の言うことも一理ある。
ここで強引に聞き出したところで、下水流が兄にバレたと言ったらまた兄が逃げてしまう。
だけど、兄が無事で健康で、何も問題ないように暮らしていることが少しだけ分かって、景は内心ではホッとしていた。
自殺はないと言われていたが、もしそれがあったとしたら、遺体が見つかるまで朝のことを忘れることだって出来なかっただろう。だが朝は生きて、ちゃんと生活をしている。
「……すまない……焦ってしまって。兄が無事で居るならそれでいいんだ……」
強く掴んでいた下水流の腕を放す。
その手を下水流がゆっくりと掴み返してきた。
「景が、どうしても知りたいって言うなら、お兄さんに話しつけてもいいよ。あっちにも心の準備は必要だろうし。でも確実に会える保証はないけど」
「ほ、本当に? そうしてくれるのか?」
景がハッと顔を上げると下水流は最高に優しい顔で笑って言った。
「うん、景がこんなに心配しているなんて、俺は聞いてなかったし。これじゃお兄さん、酷いなって思うから。逃げるなら逃げるなりに理由を言って、最低限の連絡くらい残さないとね。景の話を聞いているといきなり失踪したみたいだし」
どうやら下水流は景たち家族が朝がいきなり失踪したことになっていることを知らなかったようだ。
兄は上手いこと言って下水流の周辺にいるのだろう。
とにかく下水流が話をつけてくれるなら、景が焦っても仕方ない。あんな消え方をした兄にも覚悟というものがあるだろう。問い詰めたところで兄は黙るだけになってしまう。
「……あ、ありがとう……下水流……」
泣き笑いになって景が下水流に礼を言うと、下水流は少しだけ困った顔をしたが、すぐに笑って言った。
「孝晃(たかあき)でいいよ。俺も景って呼び捨てにしてるし。一応これから知り合い同士だしね」
「……分かった、孝晃。ありがとう」
完全に気が緩んできた景は、笑ったり泣いたり怒ったりと下水流の前で散々してしまい、どうやら下水流に完全に気に入られたらしい。
それが分かったのは、連絡を付けるように携帯や家の電話を教えたりした後だ。
豆に入る連絡や、それこそ教えたその日に何度もメールをしてきたことからだ。
だが、兄朝の行方が人伝いではあるが無事が分かってホッとしていた景は全然気にしていなかった。
寧ろ、景は下水流は親切な人という位置に置いてしまっていた為に、こんな事態になっているのである。
それが食堂で景にべったりの下水流を景が昨日とは違い気にもしていないという結果だ。
「孝晃、座って食べてくれ。肩辺りにお前の涎が付きそうで怖い」
景がそう言うと、抱きついていた下水流は素直に景の隣にある椅子に座っている。
「い、犬だ……しつけのいい犬か」
周りも浩紀が言っているように犬がいると思っている。しかも大きな犬。
「なんかあっちゃったりします?」
浩紀が景の機嫌を気にしながら尋ねるが景は理由を口にはしない。
「別に何もない」
無いわけがあるかー!と周り一同が思うのも当然の答えだが、別段普段と変わったわけではなく、ただ景の邪険さが無くなっただけで、邪魔になれば景は文句を言うし、下水流はいつも通りにしているので何か深い意味があるとは思えないのだ。
深い意味はないが、何かあったと思うのが普通であろう。その理由を浩紀にも喋らないとなると景と下水流の間に何か秘密があり、だが景もそれで困っているわけでもないようだからおかしいのだ。
「景、唐揚げもう一個頂戴」
「たくっ、お前は自分の分を平らげてから言えよ」
箸で狙ってくる下水流だが、下水流の皿にはまだ唐揚げは残っている。それでも下水流が欲しがると仕方ないとばかり景はそれを渡した。
元々ここの唐揚げは多くて、景はすでに腹は一杯だったから困ったことでもなかった。もしかしたら下水流はそれを見抜いてくれといったのかもしれないが、そんな真相は景にはどうでもいいことだった。とにかく下水流が唐揚げを片付けてくれたので景の昼食は綺麗に片付いてしまった。
「あ、職員室にノート取りにいかないといけなかった」
食堂も空いてきたところで景がそう言って立ち上がった。浩紀はまだデザートにプリンを食べていたし、下水流はまだ食事中だから景は二人を置いてさっさと食堂を後にした。
残された二人はじっとデザートとご飯を食べていたがふっと下水流が聞いてきた。
「そういえば、浩紀さんって景といつからの知り合いですか?」
唐揚げを食べてから下水流がやっと浩紀の存在を気にしだした。
「知りたいか?」
「まあ、噂で色々知ってますけど」
ニヤッとして返した浩紀に暢気に下水流は返す。本当は浩紀と景が幼稚舎からの友人であることは知っているのだ。だが、それだけで景と長く付き合っていくのは難しい状態だったと誰もが知っている。
景には兄の朝がおり、朝は景を可愛がるあまり、景の知り合いや友達をどんどん景から切り離していた。景は友人より朝を優先する。そうすると自然と友人はただの知り合いに変わってしまうものだ。
景に浩紀しか友人がいないというのはそういうことなのだ。
浩紀がどう上手く遣ったのかは知らないが、浩紀だけが認められた理由というのを下水流は知りたがっているようだった。
景も自覚があるだけに、何故浩紀だけなのかは謎であった。
「あの人と上手く渡り合うにはな。俺は色々知りすぎていたってことだろうな」
浩紀が珍しく真剣にそう言っていた。
「元々こういう風にべったり景と居るわけじゃなかったんだが、俺があの人の秘密を知ったからかな」
浩紀は景にも言ったことはないことを口にしていた。
「ふーん。朝さんが、景のこと恋愛感情で好きになっていたってこと?」
ぼそっとかなり重要なことを下水流が口にすると、浩紀は驚いた顔になって下水流に言っていた。
「お前、まさか朝さんと知り合いなのか? え?じゃ今居場所知ってる? え、あ! それで景がああなってるのか?」
一気に何がどうなっているのか分かってきて、混乱しながらも浩紀は的確に現状を当てて見せた。
「うん、居場所は知ってる。景にも昨日そう言った。でも朝さんの事情もあるし、無断で居場所言うわけにもいかないって景に言ったらさ。ホッとしてて、でも泣きそうになってて。可哀想だから、朝さんに一応取りなしてはみるって言った」
下水流がスラスラと昨日のことを口にするので浩紀は一体何のつもりだと不安になった。あまりにこうも手の内を明かされると逆に何かあるのではないかと不安になってくるのだ。
「お前……本当に朝さんと?」
「知り合いだよ。朝さんが失踪とかする前から」
「だから知っているのか。だが景には?」
恋愛感情で景のことを、実の弟を好きだという朝が消えたのは浩紀の中では納得できることだっただけに今またその二の舞になりそうな状況にしてもいいのかと不安になったのだ。
「景は知らないよ。朝さんがどんな事情で消えたのかとか。でも俺、朝さんに連絡取ってみたよ。俺がこの学校に転入になったのは向こうも知っていたし、こうなるのも予想していただろうから」
下水流はそう答えてその先の答えは景に伝えると言った。
浩紀は一気に秘密を知らされて、驚いたり心配したり不安になったりとしたが、下水流が景のことを考えて行動していることに気付いた。
朝と知り合いなら普通は朝の為に黙っているべきことなのだろうが、下水流はいつでも景の側に居るように立ち回っているようだ。
「だから、邪魔しないでくださいね」
「へ?」
秘密を打ち明けた下水流は低い声でそう付け足した。
「俺と景の仲、邪魔しないで下さいね。俺本気で景のこと好きだから」
下水流はさっきまでの人なつっこい顔をかなぐり捨てて真剣に浩紀を睨み付けて言っていた。
下水流と景の間を邪魔するのは浩紀しか存在しないからだ。
それに浩紀が気付くと、ふうっと溜息を吐いた。
過去同じ経験をしたことを思い出したのだ。
「待て待て、俺はそういう意味で景と友達やってるわけじゃない。俺も朝さんに頼まれたんだ。居なくなった後を頼むってそれだけだって」
浩紀は初めて朝との約束を口にしていた。
「……というと?」
このことはどうやら下水流も朝からは聞いていないようだった。不思議そうな顔がそれを物語っている。
「俺には生まれた時から年上の婚約者がいるんだよ。だから完全な安全パイなので景のことを頼まれたんだ。元々仲が良かったし、朝さんが消えるのは事前に知っていたから学校くらいで支えになってやってくれってな」
浩紀は仕方ないとばかりにその事情を話した。朝を知っていて、消えた理由まで知っている相手に隠し事をしても無駄である。
「朝さんが消えるのを知ってた?」
これはさすがに下水流も予想外だったらしい。
「ああ、知ってたよ。本人がペラペラ喋っていったからな。でも景の前では知らないふりをした。消えるってのがあんまりピンとこなくて、だが本格的な失踪になるのは知らなかったがな」
消える準備をした朝は、一定の人には自分が消えることを言っていた。ただ覚悟の失踪になるから口が堅い人や理由を言える人にだけに止めていたようだ。
だから朝の行方は言えないが、自殺だけは絶対にないと言い張る人が何人も存在した。理由を知っているだけに、消える理由は理解出来て、でも死ぬ理由はないと。
「あんな消え方するくらいだから、朝さんは景のこと本気だったってことかって思った。だが今は違うんだろう?」
浩紀がそう言うと下水流は頷いただけでそれ以上は語らなかった。
朝が消えた理由が理由だったから景には言えないことだったが今なら言える理由が出来たということなのだろう。浩紀はそう納得して、朝や景のことは下水流に任せることにした。
当事者でない自分が口を挟むことではないと分かっていたからだ。
「んじゃ、朝さんに宜しく」
浩紀はそう言い残して食堂を後にした。
「うん」
下水流は軽く答えてメールを打った。
宛名は、上和野朝(うわの あさ)。
そろそろ結論を。それが内容だった。